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第5章 神々の異世界 ~天神回戦 其の弐~

第166話 頭の中が桃源郷

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「み、みづき……。ちぃとばかし断っておきたいことがあるのじゃが……」

「んん? 何だ、日和」

 夕餉ゆうげの後、食器の洗い物をしているみづきの背中越しに日和が声を掛けた。
 振り返らず返事だけを返すが、おずおずとした様子がうかがえる。

「あのな、そのな……」

「ちょっと待ってくれ。先にぱぱっと洗い物終わらせるわ」

 妙に思ったが、みづきは二人分の水仕事を片付けていく。

 日和の母家おもやの台所は、立ち流しの四角い石造りの流し台で、いくら使っても水がれないかめから手桶と柄杓ひしゃくで水を移して使用する。
 排水口が流し台の隅にあるにはあるが、台の下の配水管は見当たらず、どこに水が流れていくのかはわからない。

 そのうえ、排水口の中は真っ黒で不気味な空間が奥深くまで続いていて、覗き込むのはよしておくことにした。
 神様の世界の不思議設備なのだから、みづきの常識で考えてみても仕方がない。

「よし、洗い物終わり。それでどうしたんだ……って、日和、何だその格好は?」

 手早く洗い物を終えて振り返るみづきは、日和を見て少し驚いた。

 食事を済ませた日和はいつの間にか白い長襦袢ながじゅばんのような寝間着に着替えていて、その服装自体はおかしくないのだが、問題なのは身体の大きさだった。
 囲炉裏いろりの残り火と、油行灯あぶらあんどんのほのかな明かりが日和の姿を照らし出す。

「……今宵こよいは、その、この小さな身体で居ても、構わんじゃろうか……?」

 人差し指同士をくっつけたり離したり。
 もじもじしながら上目遣いにみづきを見上げている日和は、力を失っていたとき同様に幼女体型へと縮んでいた。
 肉付きの良い魅惑的な大人の肢体は嘘のようで、美しさと凄みを併せ持っていた女神の姿はどこへやらである。

「その小っちゃい姿にも自由に戻れるんだな。まぁそりゃ、日和がどんな姿でいても俺は構わないけど、何でそんなこと聞くんだ?」

「いやだって……。みづき、おぬしが……。んん……」

 だぶだぶな丈余りの襦袢姿の日和は、顔を赤く染めるとごにょごにょ口ごもる。
 何を思っているのか明らかに様子がおかしい。
 そう思って眉をひそめていると。

 日和はみづきがシキとして生まれた日の晩のことを不意に持ち出してきた。
 とっくに忘れていた冗談を真に受けて覚えていて、その調子のままとんでもないことを口走り出す。
 みづきはたまげる思いにひっくり返りそうだった。

「みづきが言ったのではないかぁっ。元の女神の姿に戻った私になら劣情を抱き、色欲に狂って過ちを犯してしまうとっ! わ、忘れてはおらぬからなっ!」

「は、はぁっ!?」

「今夜にでもみづきに夜這よばいを掛けられる……。そう思うと気が気でなくて、そのような破廉恥はれんちな心の用意はまだできてはおらんのじゃよ……」

「なっ……!? 日和、ちょっと待て……!」

 驚きにみづきが絶句している隙にも日和の妄想は暴走を始めた。
 赤い両頬を手の平で覆い、くねくねと身体を揺すって身悶えている。
 良からぬことを考えているのは一目瞭然で、恍惚こうこつにうっとりとした顔は見る見る内に緩んでいった。

「しかし、元よりみづきに頼るしかない私にはその色情を拒むことなどできぬ……。抵抗しようと今の非力な私では詮無きこと……。力で敵わず無理やりに組み敷かれ、ついには快楽の海に溺れさせられ堕とされて……。ふはッ、たまらんのじゃっ!」

 途端、鼻やら口やら耳やらと、日和の穴という穴からまるで蒸気機関か何かみたいに熱く白い湯気がぷしゅーっと勢いよく噴き出した。

 さらに不可思議なことが起こる。
 日和から発生した白い蒸気は固まって、妄想を具象化していく。

 日和の頭の中の出来事のはずなのに、漫画の吹き出しめいた白い気体にみづきの目にも見えるとんでもない映像が映し出されていた。

『い、イヤ……。駄目なのじゃ、みづきっ……。私とおぬしは神とシキの関係ゆえ、このようなばち当たりなことをしてはいけないのじゃっ……』

『日和が綺麗過ぎるのがいけないんだぞ……。大丈夫、優しくするからさ……』

『私の美貌が一人のシキを狂わせてしまったのじゃ……。主従の間柄を越え、禁断の乱れた愛の地獄へと落ちていく……。罪な私を許しておくれなのじゃ……』

『許すよ……。日和と一緒なら、俺は地獄の底に落ちたって構わない』

 妄想の中の日和は、何故かお団子の髪型をほどいた色っぽい半裸姿で布団の上に横たわっていて、必要以上に美化されたハンサム顔のみづきに手を取られて紳士的に迫られている。
 口では駄目駄目と言いながら、日和ときたら潤んだ瞳のとろけた表情で、すっかりと出来上がってしまっている有様なのであった。

「あぁッ、このままでは、このままでは私っ、みづきにわからせられるぅっ!」

 感極まり、両肩を抱いた格好でひときわ大きな声で悶えたかと思うと、ぐふふッ、という下品な笑い方をし始めた。
 口の端からよだれを垂らし、だらしのない顔を晒す日和。

 本当に嫌がっているのか甚だ怪しい日和の様子は、長年の性欲を持て余した手に負えない好色家といって差し支えはない。

『対象選択・《シキみづき》・効験付与・《レッドドラゴン・ファイアーブレス》』

 妄想をするのは勝手だが、そこに自分を出演させられ、あまつさえそれを見せつけられたとなればみづきも心中穏やかではいられなかった。
 無言で地平の加護を起動させると、弱火にしぼった竜の火炎を吐き出して、日和の具象化された妄想を容赦無く雑に焼き払う。

 妄想の中の日和の痴態とハンサムみづきが真っ赤な炎にごうごうと包まれた。
 この程度が可能なくらいの神通力はみづきの内に残っていたようだ。

「ぎゃああああぁぁっ、何をするのじゃあー!? わっ、私の浪漫ろまんを返せぇー!」

 立ち込める焦げ臭い匂いのなか、絵に描いたみたいな煩悩を炎で散らされ、日和は悲鳴をあげながら両手をばたつかせて空を掻く。
 しょうもないその様子に、苛々とした顔のみづきは盛大なため息をついた。

「なぁにが浪漫だっ、女神の純潔が聞いて呆れるわっ! とんだむっつりすけべも居たもんだ! まるっきり頭の中桃源郷とうげんきょうじゃねーかっ!」

「な、何ぃっ!? 頭の中が桃源郷じゃとっ!? っかぁーッ、物凄い言い草ッ! そのような物言いは流石の私でも生まれて初めて聞いたものじゃーっ!」

 みづきの思ってもみなかった態度と反撃に、日和は信じられないものを見るような目をして愕然となっていた。

 てっきり今宵は欲情を催したみづきに寝所に押し入られて、仕方なく同衾どうきんするに至ることを楽しみに、いや、覚悟していたというのに。
 ちょっとばかし、子供の姿に戻ってどういう返しがあるのかと確かめたところ、予想に反して猛反発を食らう憂き目に遭ってしまっていた。

「子供の姿でも大人の姿でも同じだよ。そんな要らん心配せんでも、夜這いなんてしないから安心して寝てくれっての!」

 この苦しい状況に何を言い出しやがるのかと、みづきはぶっきらぼうに言い放つと手をぷらぷらと振って日和を寝所へと追いやろうとする。

 神々の世界に来たときの初の夜のこと。
 日和の元通りの麗しい姿に興味を示す素振りを見せたら助平すけべえ呼ばわりされてからかわれた覚えがあるが、それすら冗談とは思っていなかったようである。

「何じゃもうっ! どういうことなんじゃ、みづきぃーっ!」

「うわっ! よせっ、日和っ!」

 小さい身体だった日和は、目の前で元の大人な女神の身体にするするっと戻る。
 だぶだぶの丈余りだった長襦袢は適正な寸法どころか、ぱつぱつの丈足らずになり、扇情的せんじょうてきなことこのうえない。
 胸元からこぼれ落ちそうになる豊満な両胸を派手に揺らし、大股で詰め寄ってくる白肌の美脚は付け根まで裾からはみ出していた。

 怒っているのか悲しんでいるのかわからない真っ赤な顔の日和は、両手でみづきの片腕に抱き付いて抗議の声をわんわんあげた。
 たわわに実る白桃のような豊かな乳房をぎゅうぎゅうと押しつけられ、内心はドキドキする思いだが、みづきも自らの貞操を守るために必死に言い返す。

「約束が違うではないかっ! 私が元の姿を取り戻したあかつきには妙な気を起こしても良いと言うてくれたじゃろっ! 神との約束は守らないと駄目なのじゃぞっ!」

「そんな約束はしてねえっ! 何を変な期待してやがるんだよ! まみおのことをえろ狸とか言ってたくせに、全然ひとのこと言えないじゃないかっ!」

「みづきのいけずっ! 意気地なしっ! 男女の交媾こうこう房中術ぼうちゅうじゅつの基本じゃぞっ! 心と心の交わりはすでに済ませたのじゃから四の五の言うでないわ! 互いに肌を重ねることなぞほんに今更のことじゃろうがっ!」

「うるせえっ! 房中術とか肌を重ねるとか、てっきり嫌がってるのかと思ったらやる気まんまんじゃねえかよっ! 俺は絶対に付き合わんからなっ! 早く寝ちまえってんだ、このえろ女神っ!」

「うぅ、うぐぐぅっ! うぁーんっ! みづきの大馬鹿者ぉー! 女心のわからぬ甲斐性無しは一人で寂しく地獄に落ちるがいいのじゃーっ!」

 思わぬ恥を掻かされ、日和はみづきを突き飛ばすとやかましく喚きながら奥の寝所へ飛び込んでいった。

 ふすま竪框たてがまちが柱とぶつかってぴしゃりと音を鳴らし、怒りの女神があま岩戸いわとに引きこもるが如くに激しく閉じられる。

 本物の女神による堕獄宣告だごくせんげんを受け、土間にひっくり返され取り残されたみづきは仏頂面でむくりと起き上がり、何とも言えず大きなため息をついた。

「まったく、禁欲の修行明けかっての……。元の姿に戻るなり、節操が無さ過ぎるだろうがよ。聖なる神様だってのに、性の事情にはふしだらなもんなんだね」

 閉じた襖の向こうから言い知れぬ気配と刺すような視線をずっと感じていたが、みづきは完全に無視を決め込んだ。
 土間と囲炉裏のある板間に布団を敷き、ごろんと横になる。

 蛍光灯けいこうとうなど気の利いた明かりが無い以上、特に娯楽がある訳でもなく起きていても仕方がない。

「ううううっ! がるるるぅぅ……!」

 しばらく犬が唸るような恨みがましい声が聞こえていた気がするが、放っておくとやがて静かになった。
 ようやく諦めてくれたのだろうか。

 暗い天井を大きく横切るはりを仰向けに眺めながら、みづきは女神との閨事ねやごとよりもせっかくの思いで手に入れた情報の精査を頭の中の相棒に望んだ。

 今は性欲の発散など考えている場合ではない。
 一刻も早くタイムリープ現象の詳細を詰め、今後の方針を決めておきたいところであった。

「雛月、今晩もよろしく頼む。俺、結構頑張ったぞ……。ふぁ……」

 思って言ったが早いか早速と大きなあくびが出た。

 要望に応えたかのように、急な眠気が込み上げてくる。
 みづきはそれに身を委ねて目を閉じるのであった。

 今回の収穫は殊更ことさらに大きい。
 今まで何のためなのかはっきりしなかった異世界渡りの旅の目的が、明々白々に判明したのだから。

 あとは、唯一経緯を理解していると信を置いている案内人に間違いなしの太鼓判たいこばんを押してもらいたかった。
 みづきは、雛月との邂逅かいこうを楽しみに眠りに落ちる。

「──雛月、……朝、陽……」

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