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第5章 神々の異世界 ~天神回戦 其の弐~

第162話 女神と心を通わせて

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「みづき、私の眼をよく見るのじゃ。じっと、じぃーっと……」

「お、おう……」

 みづきと日和は瞬転の鳥居を介して、太極天の社から自分たちの拠点である合歓木ねむのき神社へと戻ってきていた。

 参拝の殿舎の前で、参道の石畳の上で二人は真正面に向かい合って立っている。
 お互いの両肩に手を掛け、顔同士を間近に寄せてしっかりと見つめ合っていた。
 元の姿の日和とシキのみづきの身長は同じくらいで目線の高さもぴったりだ。

「め、めちゃくちゃ顔近いな……。俺、口臭くないか……?」

「なんじゃ、つくづく要らぬ心配をするものじゃな。別段、不愉快な匂いなどせぬから雑念は捨てよ」

 息が掛かるほどの距離でみづきが弱り顔を見せると、何を取るに足らず下らないことを言うのかと日和は表情を曇らせる。

 雛月はともかく、もう一方の迷宮の異世界に居るアイアノアたち女性陣といい、この女神の日和といい、容姿が美しい魅力溢れる登場人物が多い。
 本当は三十路みそじ近いみづきには大変に居心地が悪く、何とも気を遣ってしまう。

 そんなことはお構いなしに、日和は無遠慮に両目の奥を至近距離で見つめてきて、同じことをするよう押し迫ってくる。

 どうしてこんなことをする羽目になったかというと──。
 極秘中の極秘であるとして朝陽との関係をおいそれと語るのは難しい、と日和が言い出したのが始まりだ。

「互いの心と心、いわば魂を突き合わせて氣を循環させれば私とみづきは一心同体に限りなく近しい間柄となれる。さすれば、私が胸の内に秘めたる真実に触れ得ることも容易にできるじゃろう。……えぇ? そんな面倒をせずとも誰にも言ったりしないから口頭で話せじゃと? えぇいっ、ぐちぐち言うでないっ。気が変わらぬ内に、さっさと私の言う通りにせぬかっ!」

 少々なし崩しの感はあったものの、みづきはそうして日和と心を通わせる。
 かくして、相当な気恥ずかしさを抱えたまま、漆黒の真珠の如くキラキラ輝く日和の瞳を凝視するに至るのであった。

 と、間もなくしてみづきは異変を感じ始める。

「そう、その調子じゃ。私の奥深くを覗き込むように、もっと、もっと深く……。光の届かぬ水底みなそこまで沈み込むよう、心静かに意識を差し向けよ……」

 日和の静かな低い声が、まるで催眠の術中にいざなう暗示のように聞こえた。
 とろりとろりと混濁こんだくする意識の中、みづきは日和の顔を直視する。

 先ほど不意に見せた厳しい一面が脳裏によぎり、少しだけ日和を怖く感じる。
 真に眼前の距離にある、余計な感情を一切排した真剣な面様おもようの女神のかんばせ

──うーん、何か怖いな……。元の姿に戻った日和は凄い迫力だ……。やっぱり、神様は神様なんだなぁ……。

 改めて、目の前の少女が人間ではない超存在であることを思い知らされる。
 その瞳の中には宇宙があった。

 無限に広がっている茫漠ぼうばくの暗黒空間の深奥に、女神の魂の輝きを確かに感じる。
 こちらが覗き込めば、向こう側もこちらを見返していて、何もかもすべてを見透かされそうな気になり背筋が寒くなった。

「案ずるでない。互いに何を思い描いているかまで筒抜けになることはないのじゃ。心のありようを理解し合うだけに過ぎん。そう固くなるでないのじゃ」

 みづきの不安はどうやらお見通しのようだ。
 日和の考えはみづきからは読めない。
 それは日和からしても同じことらしい。

 なのに、互いの心は重なって溶け合い、やがて一つになっていく。
 ただ、不思議とそれほどに嫌な感じはしなかった。

「──うむ、よし、みづきの魂の在処ありかを突き止めたのじゃ」

 精神の中枢、魂魄こんぱくとも言える心の核に女神の意識が触れる。
 みづきが日和の深奥に輝く魂を見たように、日和もみづきの中の魂を見つけた。

 宇宙さながらの広大な暗闇に灯る星と星が出会い、光を結んで線となる。
 眼前の女神の真剣な顔の目の中にぼんやりとした円環えんかんの光がある。
 そして、魂と魂が交流できる権限を解放するかどうか、日和はげんに問い掛けた。

「……みづき、魂の一部を私に明け渡しても良いか? そうしてくれれば、みづきに私の魂に寄り添うことを許そうなのじゃ。……返答せよ、か、いなか」

 鬼気迫る女神の問いに、みづきは息を呑み、ゆっくりとため息をついた。
 これを受ければどうなるだろう。
 これを断ればどうなるだろう。

 当然ながら日和との問答は、また新たな約束を結ぶに同じだ。
 返答次第で一つの結果を生み、何らかの運命を決定付けることになるだろう。

「やれやれだ。まるで悪魔に魂を売る契約みたいじゃないか。それを許した途端、いきなり取って食われるなんてのは勘弁だぞ」

 半ば冗談めいてみづきは日和を見返すが言葉は返ってこない。

 無言の真剣な表情からの重圧が変わらずに眼前にあった。
 承諾か拒否か、みづきの答えは二つに一つしか認められない。

 だから、何度でも思った。
 こんなところで二の足を踏んで留まるつもりはない。
 信念に従い、宿願を果たすため、突き進むのみ。

「ああ、いいさ。逃げも隠れもしやしねえよ。俺の魂、好きに使ってくれ」

「本当に良いのじゃな? 後悔はすまいな? 後戻りはできぬぞ?」

「しつこいなぁ。日和を裏切らないって約束したろ。今更水を差すなっての」

「みづき……。そうか、わかった。どうか私を、信じさせておくれ」

 真剣な面持ちで引き結んでいた日和の口許に笑みが浮かんだ。
 ゆっくりと日和はみづきに顔を近づけ、額と額とをそっと合わせた。

 その瞬間、目の前に真っ白な閃光がほとばしる。
 眉間から頭の中へ、頭の中から四肢の隅々にまで一気に熱いものが走った。

 みづきと日和の間に確かな精神の経路が確立され、魂と魂が相まみえる。
 心底より満足した風に、歓喜の女神は感極まった声をあげた。

「──うむ、よし、これで良い! 私とみづきは魂の深いところでしかと繋がった! おお、これがみづきの魂の在り様か! 心身の随までみづきを感じるぞ……! 交わりはこれで成ったのじゃ! 心に思い念ずれば離れていても双方の存在を感じられるうえ、神通力の巡りを共にして良質なを練ることも可能なのじゃ!」

 みづきが何かを言う間もなく、矢継ぎ早に状況が変わっていく。
 日和の目の奥に明滅する円環の光がじわりと現れる。

 合わせて、その身体全体も眩い光を一層強く放った。
 視界は真っ白な輝きに満たされ、日和の柔らかな声が神経に直に聞こえる。
 みづきもまた、女神の心へと招き入れられた。

「ふふふ……。ようこそ、私の精神の中へ」

 瞬間、景色が一変していた。

 もうそこは神社の風景ではなく、澄んだ水底の薄暗い空間に変わっていて、足下の白い砂の絨毯じゅうたんの上に、両肩に手を掛け合ったまま二人は浮かんでいる。

 ふわりとした心地よい浮遊感が全身を包んでいて、微少な流れる動きを感じる。
 眼前の日和は虚ろに漂い、その輪郭には淡い光をたたえていた。

「こ、ここは、日和の意識の中か……?」

 ようやく声を絞り出すみづきの意識は、日和の心の中へ吸い込まれていた。

 辺りに緩やかな水の流れがある。
 遙か頭上、水面より日の光の帯がぼんやりと射し込んでいて、川底を思わせる空間に水脈が形成されている。

「……これは水の中? うぅ、溺れてるみたいで、どうにも落ち着かないな……」

 嫌なことでも思い出しているのか、みづきはため息代わりに泡を吐いた。

 神々の異世界で目覚める際は、いつも水の中の心象風景が意識に浮かぶ。
 無性にいたたまれない思いに駆られて、逃げ出したくもなる。
 何故だか、そんな陰鬱いんうつなイメージを日和の心の内に感じた。

 と、視界の外側に何か光るものがちらついた。
 みづきと日和を中心にして金色の細長い光輝こうきうごめいているのが見える。
 思わず目を見張って驚いた。

「金色の龍、黄龍こうりゅうだ……!」

 それは黄金色の鱗をきらきらと反射させる長い胴の神獣、龍であった。
 胴と同じ煌びやかな色の角とたてがみを生やし、心象の水中を悠々と泳いでいる。

 たおやかな動きでまとわり付くみたいに近寄ってくると、日和の背後に回り込み、鎌首をもたげて静かにみづきを見下ろした。

 黄龍は四神の聖獣の中央に位置し、五行説ごぎょうせつでは土を司り、大地の龍脈りゅうみゃく擬獣化ぎじゅうかとも言われている伝説の神の精である。

 金色の龍は日和の力の顕現そのものであり、小さく痩せ細ったそのおとなしげな姿は今の落ちぶれている現状をまざまざと表すものに相違なかった。

「待たせたのじゃ。──では、私の秘した心中をとくと垣間見るがよい」

 黄龍の下、日和がそう言うと、仄暗ほのぐらい水底はさらに底無しに奈落の口を広げた。
 長くも短くも感じた足の浮く落下感の後、二人の意識は深遠へと下りていく。

 いよいよ待ちに待った日和の秘した真実、朝陽と女神の関連を知ることができる。
 と、どこまでも続く漆黒の底へと赴く最中、みづきの脳裏に声が響いた。

気魂接続きこんせつぞく・対象選択・《女神日和》・性霊同期せいれいどうき完了』

 それは地平の加護たる雛月の声だった。
 またぞろ日和との契約めいたやり取りが、何らかの条件を満たしたようである。

 新たに交わした約束のは、今後どのような影響を地平の加護に与えるのやら。
 それを考えるのはまた今度の機会にするとしよう。

 みづきを取り巻く状況は矢継ぎ早に驚きの事実を展開しようとしている。
 真っ暗だった空間に、不意に眩しい光が溢れて何も見えなくなった。
 また神経に響くほどの近しい距離で日和の声が聞こえる。

「朝陽のことを知りたいのじゃったな。会わせてやろう、私の可愛い巫女に」

 徐々に光が収まり、視界に景色が浮かび上がってきた。
 目が慣れてきて、みづきは広がる光景を目の当たりにする。

 そして、再び目を剥いて驚愕した。

「──あっ! あぁぁっ! こ、これは……!?」

 激しい衝撃を受けて焦燥を隠せず、大声をあげてしまった。
 みづきと日和の二人は空中に浮かんでいて、俯瞰的ふかんてきにそれらを眺めている格好だ。
 それは当然のようにそこにあった。

 鉄筋コンクリートで出来ていて、白いモルタルで壁塗りされた四角く大きな建物が目の前に建っていた。
 建物には一本の長い廊下に面し、均等に区画された教室という部屋が整然と並んでおり、窓には等しく透過性の高いガラスがびっしりはめられている。
 部屋の中には多くの簡素な机と椅子が配置され、規律正しく揃えられた制服に身を包んだ少年少女たちがそれぞれに着席していた。

 子供たち全員が向いている方向の壁には黒い板が取り付けられており、所狭しと学問に関する記述が白粉を擦りつける筆記用具のチョークで記されている。
 黒板の前に教員の大人が一人立って教鞭を振るう様子があり、大勢の少年少女はその教育を受ける学生なのであろう。

 夏服であるその制服は男子は白のワイシャツで、女子は丸襟の白いブラウスだ。
 有り体に言って、そこは学校であった。
 異世界のものではなく、現実世界のありふれたどこにでもある学校施設である。

「な、なんてこった! こ、ここは……!」

 みづきは目の前にある光景を我が目で確かめながら、信じられない気持ちを抑えられずに、表情を失って握りしめた拳をぶるぶる震わせていた。

 そんな様子を横目に見た日和は、みづきのあまりの驚きように少々面食らうものの、初めて「こちら」の世界を垣間見たと思っているシキに伝えるのであった。

「みづきが見聞きするのはこれが初めてじゃろう。ここは多くの人間たちが住まう、いわゆるところの下界げかいじゃ。随分と驚いたようじゃのう」

 この場所こそが、日和が大地の女神として祀られている現世である。
 下界である人間の世界を女神は見守り、加護を与え続けている。

 但し、みづきの驚く理由はそれだけではなかった。
 日和がいずこかの世界の女神であるのは、現実味の薄い異世界のことながらとっくにわかっていたことだ。

 そうではない。
 問題なのはこの場所が特定のどこであるか、ということなのだ。

 みづきは抑えた気持ちが爆発しそうになるのを必死にこらえていた。
 動揺は隠しきれないが、衝撃の事態を言葉にするのは心の中だけに留めた。
 本当なら、大声で興奮の雄叫びをあげたかった。

──この校舎の形っ、校庭に運動場、間違える訳がないっ! ここは、俺の通っていた高校、天之あめの高等学校じゃないかっ! そ、それじゃあ、こ、この場所は、俺の故郷の神巫女町かみみこちょうだっていうのか?! あ、あり得ないッ……!

 この世界はただの現実世界ではない。
 見間違えるはずもなく、これは夢や幻では決してない。
 長く求めて止まなかった念願の光景の復活であった。

 人間のみづき、佐倉三月が住んでいた故郷、天之市神巫女町あめのしかみみこちょうなのだ。
 そして、目の前に建っているのは子供の時分に通っていた天之高等学校である。

 日和はここに自分の巫女、朝陽が居て、会わせてくれるのだと言う。
 そんなことはある訳がないとみづきは理解していたというのに。

 こんなものを見せられては諦めて空っぽだったがらんどうの心が、期待の気持ちで容量目一杯まで満たされてしまう。

 そのとき学校のチャイムが鳴った。
 授業の終わりを告げる、あの頃に何度となく聞いた懐かしい音色だ。

「おぉ、丁度いい。学問を習う時間が一区切りしたようじゃ。ほれ、みづき、そこな部屋の窓際の一番後ろに座しておる、肩口まで髪を伸ばしたおなごを見よ」

 日和はそう言って、一つの教室の後ろ側の窓際の席を指した。
 校舎はひと棟3階建てで、建物の真ん中あたりにある2階の一室である。
 ただ、言われるまでもなく、みづきはもうすでに食い入って見ていた。

 チャイムが鳴り終わり、授業の合間にある休憩時間が訪れると、静かだった教室内は生徒たちが口々に私語を始め、がやがやと騒々しくなっていた。

 複数の男女が混在した生徒たちに囲まれて、和気藹々わきあいあいする雰囲気で着席している一人の少女の姿がある。

「あ、あ、あぁ……!」

 小さい呻き声みたいに、みづきの震える声音が漏れ出ている。

 そこに、確かにその子は居たのだから。
 心身を電流が走り抜け、反射反応のように声は喉から飛び出してしまった。

「──あっ、朝陽あさひっ! 朝陽あさひぃぃーッ……!!」

 もし聞こえていたのなら、周囲の視線を一斉に集めてしまうほどの大声で叫んだ。
 普段、比較的落ち着いたみづきの性格から考えられない取り乱しようだった。

 彼女の姿を見た瞬間、抑えよう堪えようとしていたのに、胸中で堰き止めていた積年の思いはいとも容易く決壊してしまった。

 そこに居たのは間違いようもない思い出の中だけの少女。
 もうすでにこの世にはいないはずの、──神水流朝陽かみづるあさひであったのだ。

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