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第4章 迷宮の異世界 ~パンドラエクスプローラーⅡ~
第116話 雛月の途中批評
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目が覚めると身体が鉛みたいに重く、うまく動かすことができない。
本当に瞼を開けているか疑わしいほど視界は真っ暗に近くて、妙に息苦しい。
声を出そうにも口が開かず、くぐもった唸り声をあげるのが精いっぱいだ。
すぐにこれが金縛りだということに気づく。
睡眠麻痺とも言われ、一種の睡眠障害であるそれは心霊現象ではなく、不規則な生活や睡眠、精神的ストレスや過労が原因である。
そのいずれの原因にも心当たりがあり過ぎる境遇には呆れて気が重たくなった。
段々と暗闇に目が慣れてくる。
仰向けに寝転んで見える光景は、別世界の自分が世話になっている宿、冒険者と山猫亭のものではない。
見上げる天井にあるのは、電気の点いていない丸形蛍光灯の室内照明。
カチ、カチ、と規則正しい秒針の音をやけにはっきり響かせる壁掛け時計。
身体が感触を覚えているのは、柔らかな枕と布団の温もり。
見慣れた部屋の風景は、現実世界のアパートの一室だ。
異世界での一日を終え、また元の世界に戻ってきてしまったのだろうか。
いや、この微妙に違和感を感じる空気──。
この薄い現実味には覚えがあった。
「ふっふっふ……」
だから、寝床の枕元にはそいつが立っている。
ここはそいつの支配する心象空間で、決して現実の世界などではない。
力を振り絞り、首だけを動かして真上を見上げる。
「やぁ、ぼくに会いたくて恋しがるなんて可愛い奴だな。お人好しの三月はさ」
視界に肩まで伸ばした、ボブカットの揺れる黒い髪が見えた。
紺色のブレザーに赤いネクタイリボン、同色のプリーツスカート姿は、学生の頃に通っていた高校の女生徒用の制服のもので、顔はかつての恋人と同じなのにその中身はまったく似て非なる者。
地平の加護の疑似人格こと、三月の物語の案内人、雛月である。
胸の前で両腕を組み、三月の頭上で両脚を広げ、仁王立ちして見下ろしている。
仰向けに寝転ぶ三月からスカートの中が丸見えの位置だが、部屋が暗いので見えそうで見えない。
健康的な両の太腿を見せつけられている格好だ。
動けないのをいいことに性懲りも無く挑発的な態度をとる雛月。
また会えたのには安堵を感じる一方、微妙な苛つきも感じた。
「次の情報整理の場を設けようと思っていたのはもう少し先の予定だったんだけど、三月のたっての面会希望とあっちゃ、たとえ地平の加護を酷使されてぼくがすごーくお疲れだろうとも、その切実なお願いには応えてあげない訳にはいかないな。途中批評といこうか。これも三月のためだ」
やれやれ、しょうがないな、といった呆れる風の雛月。
部屋の暗さで表情は見えないが、きっと愉快そうに笑っているに違いない。
三月がどう思っていようがお構いなしに雛月は勝手に話を始める。
金縛りで動けず、言葉を発するのが困難であることもお見通しのようだ。
「まずは、アイアノアとエルトゥリンと仲直りできて良かったね。彼女たちの協力は必要不可欠だ。三月がパンドラの踏破は別々にやろうなんて言い出したときは、どうなることかとぼくもはらはらしたよ」
それを聞いて抗議の声をあげようとするものの、言葉にならない唸り声が漏れ出るだけだ。
何かを喋ろうとしても、んーんー、という唸り声しか出ない。
一時の仲違いの発端は、アイアノアのお気の毒発言から始まったことだった。
しかし、タイミングよく幼少時の父の記憶を頭に差し込んできた雛月にも原因の一端があったと言えなくもない。
「言い掛かりはよしてくれよ。三月が円滑に記憶を辿れるように、わかりやすく補正を掛けたってだけじゃないか。お陰で当時のことをよく思い出せたろう?」
言ってくすくすと笑う雛月。
言葉にしていないのに、どんな文句を言おうとしたのかがわかっているようだ。
今回はこんな感じで一方的に雛月にあれこれ話をされるのかと思い、早くもげんなりとしてしまう。
三月が静かになったのを満足そうに見下ろすと雛月は先を続ける。
「この世界に蔓延するハーフの問題と、長らく昔から続いてる人間と亜人の対立について、三月にはなるべく早い段階で周知をしておいて欲しかったんだ。いつまでも忘れられることなく根強く残るこの遺恨は、これから臨むパンドラの地下迷宮踏破にも大きく関係するだろうね」
変わらずの超然とした雛月にため息もつきたくなる。
重要な事実に辿り着くまでの手助けはしてくれるが、結局のところはいいように行動を操られているのではないか、と不安に駆られてしまう。
何とも言えず、見上げる先のスカートの中の闇のように、三月が不安な気持ちになっていると、やはり雛月は心を見透かして言った。
「大丈夫だよ、三月。そんなに心配そうな顔をしないでくれ。ぼくの意思は三月の意思でもあるんだから、ハーフ問題に端を発した仲間との諍いは三月自身による正義の感情の発露に他ならない。三月は温厚で落ち着いた性格である反面、信念に抵触する事柄に直面するとあんな風に怒るんだね。あんまりな剣幕だったから少し驚いたよ。自分のことならともかく、身内を悪く言われるのは確かに腹が立つよね。思いがけず理不尽に怒られるアイアノアがちょっと可哀想ではあったけど」
からかうみたいにおどけているが、雛月は満足そうな笑みを浮かべている。
暗くて見えないはずなのに、三月にはどんな顔で笑っているのかがわかった。
「だけどそれでいい、忘れないでくれ。この先も信念を曲げず、三月の思う正義に従った行動を心掛けて欲しい。そうすればきっと三月の物語は正しい流れに沿って紡がれていく。それはぼくが保証するよ」
うんうんと一人納得して頷くと、頭上でプリーツスカートの裾を揺らす。
そのゆらゆらが収まる程度の間の後。
「さて、色々ぼくと話したいとは思うけれど、今回は特に重要なことについてだけをかいつまんで話そうか」
目だけはしっかり開いている三月と、暗闇に浮かび上がる雛月の目が合う。
特に重要だと指すのは、当然加護の力のことだ。
「神々の世界の力の再現、上出来だったよ。初となる太陽の加護との同期もうまくいった。これで三月の肉体にシキを降ろして強化できるし、瞬転の鳥居を活用すればパンドラの攻略が大いにはかどること請け合いだ。太極天を降臨させた文字通りの神の力は、必殺の一撃として三月の切り札となるだろう」
この異世界とは異なる、さらなる異世界の神々の世界。
地平の加護は次元の壁を越え、三月に文字通りの神の力を与えた。
それを実行するためには、エルフの彼女の協力が必須であった。
「そして、アイアノアに与えられた役目はここからが本番だ。覚醒を果たした太極の太陽の加護の制御手として、もっともっと頑張ってもらわなければならない」
地平の加護の力を増幅し、あらゆる付与魔法の成功率を引き上げる太陽の加護。
神々の力をミヅキが行使する際、黒と白、陰と陽の勾玉巴の真の姿を現す。
加護の担い手であるアイアノアの魔力を大量に消費するのを引き換えにして。
「三月も気づいただろうけど、太陽の加護は地平の加護の単なる付属アクセサリーじゃない。天の神々の世界へとつながる次元の扉なのさ。上位の世界である神々の世界への経路を開き、額面通りの神の力を呼び込むための特別な加護。これを問題なく使いこなせるようになることこそがアイアノアの試練でもあるんだ」
三月は黙ったまま、じっと雛月の顔を見上げて思い出していた。
神々の世界の力を使い過ぎたため、魔力切れで倒れたアイアノアのことを。
それは太陽の加護に秘められた、神降ろしの能力が原因に他ならない。
今回のアクシデントは彼女にとっても予想外の出来事だったろう。
「アイアノアの魔力キャパシティは大したものだけど、太陽の加護の真の力を扱うにはまだちょっと心許ないね。常人の魔力総量を100とするなら、太陽の加護で増幅されたアイアノアのそれは10倍にあたる1000程度。でも、神の力を行使するにはたった1回の使用で100単位の魔力が必要となり、多用すればたちまち魔力が底をついてしまう」
それは、おおよそのざっくりした魔力使用量の計算概念なのだろう。
アイアノアの魔力は質も量も目を見張るほどのものだ。
しかし、桁違いな神の力を扱うには不足感はいなめない。
太陽の加護の増幅効果があったとしても、まだまだ魔力が足りないのである。
「不足部分は三月が何とかしてあげなよ。三月はパンドラの魔素を取り入れて循環させられるからいいけど、アイアノアはそうはいかない。自分は楽をして女の子にだけ苦労をさせるなんて、三月なら我慢ができないよね」
雛月はくすくす笑いつつ、三月にアイアノアの魔力運用の改善を促している。
また一つこなさくてはいけない課題が増えたが、雛月に言われたことはまったくの図星で、このままにしておくつもりは毛頭ない。
魔力不足が今後の使命を進めるうえでネックになるのはもちろんだが、何よりも三月が心配しているのはアイアノアの身体へのダメージだ。
魔力切れが原因で、血圧低下やショック症状を引き起こす恐れがある。
使命のためとはいえ、加護を酷使した結果、誰かが傷つくのはもちろん、犠牲を出してしまうなど以ての外である。
三月は言葉にならない声で、うー、と短く唸った。
そうまでして、何者かの作為的な目的を遂行しなくてはいけないとなると、どうしても胡散臭いものを感じて二の足を踏みそうになる。
三月の不安を察したようで、雛月はやれやれとため息をついた。
「そんなことを心配しなくても大丈夫だよ。このことにはぼくだって関与してる。誰かを犠牲にするようなやり方は、きっと三月は嫌いだろう? 三月にへそを曲げられちゃ、物語を進めること自体が頓挫し兼ねない」
雛月が三月の人間性を心得ているのは本当なのだろう。
嫌がる言動を強要して、必達である使命に支障が出ては元も子もない。
それは言い換えれば、体よく操られている、と言えなくもなかった。
「──だからじゃないけれど、その点は安心してくれていい。すべてはいずれ果たさなければならない使命のため、三月とアイアノアの加護の力を合わせて、神々の力をこの世界に降ろすことが絶対に必要なんだ。誰かに何かをやらされてるなんてつまらないことは考えなくていい。どうかぼくを信じて」
ようやく目が慣れてきた暗がりの中、朝陽と同じ顔が笑うのが見えた。
やっぱり何度見ても、輝かしいばかりの可愛らしく懐かしい笑顔。
それを見て、うー、とまた唸る三月は毒気が抜かれてそのまま黙ってしまう。
気分は晴れないが、そんな顔で言われては何も言い返せなくなる。
「ふふ、三月はいい子だね」
素直に納得してしまったのを読み取られ、雛月は小悪魔風に笑っていた。
また頭上でスカートがひらひら揺れている。
話はそのまま、エルフの姉妹のことに及ぶ。
「それにしても神託の時期の違和感、よく気づいたね。地平の加護で感覚を補助してるとはいえ三月は鋭いなぁ、偉い偉い。アイアノアとエルトゥリンは三月に何か隠し事をしているね。言っておくけれど、ぼくはエルフの彼女たちのことは何も知らないよ。三月のことなら、なんでもわかるんだけどね。ふふふっ」
愉快そうな雛月だが、三月以外のことには詳しくないようだ。
エルフたちの隠し事は知らないし、洞察を進めたところで秘められた胸の内まで見通すことはできはしないのだろう。
但し、知っていたとしても教えてはもらえないだろうが。
「それが何故なのか何のためなのかは直接聞くのが早いだろうけど、言えない秘密なら無理強いして聞き出すのは難しいかもね。仲直りはできたけれど、まだまだお互い繊細な間柄だ。いつどうやって隠された情報を得るのかは三月に任せるよ」
相変わらずの指示に、何も言わずに三月は渋い顔をしていた。
キッキの父、アシュレイのことを調査する時と同じだ。
相手を気遣おうとするくせに、初めから選択肢を用意する気は無く、隠し事を暴く気満々の雛月には呆れる。
「人間と亜人の対立。その原因となった過去の出来事。そして、エルフの隠し事……。これらはいずれ一つに繋がる重要な因子だよ。さあさあ、物語を進める方向性が見えてきたね。頑張っていこうじゃないか」
雛月にそう言われると、真相が気になってくるのも始末が悪い。
やっぱり操られているんじゃないだろうか。
「それはそうと──」
三月の心配はよそに、雛月の独壇場は続いている。
「アイアノアは太陽の加護を通して、神々の世界とそこにいた三月を感じ取ったようだね。異世界体験は何も三月に限ったことじゃない。アイアノアからしてみれば、神々の世界だって見たことのない異世界さ」
と、饒舌な雛月の話の続きを聞きながら三月は表情を曇らせる。
ややもすれば、またも心の内を読まれ、抱いた心配を笑い飛ばされた。
三月の心に湧いたのは漠然とした不安。
「うん? 知られると何かまずいんじゃないかって顔をしているね? あははっ、平気さ。アイアノアにとってあっちの世界は存在しない世界と同じだよ。ほとんど知覚できない世界なんて想像や妄想と何ら変わりはしない。適当に話を合わせて、白昼夢を見たとでも思ってもらえばいいさ」
雛月はアイアノアに他の異世界のこと、引いては三月が住む元の現実世界のことを知られても問題は無いと高を括っているようだ。
いつかそうした真実を話す時が来るのか、と葛藤して心苦しい思いをしていたというのに、その不誠実な態度には胸がもやもやとする。
ただ、雛月は三月に聞こえるかどうかの小声でぼそりと言った。
「……とりあえず、今のところはの話だよ」
んんー、と聞き返したい三月の唸り声を無視し、雛月は胸の前で組んでいた両手を背中に回して、覗き込むように背を丸めた。
目の前の視界を上下逆さまの雛月の顔が埋める。
その顔の周りを、粒子化した黄龍氣の光が漂っていた。
雛月はひときわ大きな声をあげて言った。
「さて! 今回の逢瀬は短いけれどここまでだ。地平の加護は、太陽の加護の力を借りて神々の世界と同期できるようになってからが本領発揮なんだ。やり取りに要する黄龍氣の量も莫大となり、制御は複雑化する。問題なく加護を稼働させるためにはぼくも休まないといけない」
化身体を維持し、三月と対話するには活動源である黄龍氣が残り少ない。
ぱちんぱちんと光の粒子を弾けさせる朝陽と同じ姿は仮想のもので、雛月は地平の加護が生み出した疑似人格、システムであることを改めて思い出す。
エネルギーが切れれば、それを正常に維持できない。
そんな様子を儚く感じる三月の複雑な感情とは裏腹、雛月の声は明るかった。
「三月が集積してくれてる情報は、要望通りにちゃんとまとめておくよ。次にまたぼくと会えるときを待ち遠しく思いながら、三月も物語を正しく進められるようしっかりと因子を集めてきてほしい。ぼくも加護の制御を頑張るからさ。何ならアイアノアにしてたみたいに頭をなでなでして、苦労をねぎらってくれてもいいんだよ。ぼくにもそのくらいのご褒美があっても罰は当たらないと思うな」
本気なのか冗談なのか、無邪気そうにいたずらっぽく笑う。
かと思うとその笑顔はいやらしく変貌し、口角をにやりとつり上げた。
「……それにしても、いつまでぼくのスカートの中を覗いてるんだい? 三月ったら本当にエッチな奴だなぁ。これじゃ、エルトゥリンにヘンタイ呼ばわりされても仕方がないよ」
雛月が勝手にそこに立ってるからだろ、と声にならない抗議の声を、んーんー、という必死な呻きで訴えた。
そんな三月を満足げに見下ろし、雛月はわざとらしく顔を赤く上気させ、ぺろりと舌なめずりをした。
「……ほーら、だからこれはお仕置きだ」
そして、右の片足を上げたかと思うと、白色のハイソックスの足裏でむぎゅ、と身動きの取れない三月の顔面を踏み付けてきた。
つま先と足の裏側で、ぐりぐりと鼻の上を屈辱的に足蹴にされる。
むぐぐー、と三月は悲鳴をあげた。
思わずローアングルに見上げてしまう悲しい男の性の先には、両手を腰に当てて片足を上げる、雛月のインモラルな女子高生なる制服姿が見下ろしていた。
但し、部屋は相変わらず暗いので、スカートの中の肝心な秘部は深遠の闇に包まれて見えることはない。
「そんな風に、物欲しそうな目をしちゃって……。ふふふっ……」
雛月の艶めかしい声が耳の中に滑り込んでくる。
鼻先に押し付けられた靴下と足裏の感触には、やけにリアル感があった。
おまけに何だかいい匂いがする気がして無性に悔しく、情けない気持ちになる。
「あぁっ、もう……。こんなはしたない真似をぼくにさせないでくれよ。どうやら、次の目覚めが近いみたいだ。三月の本体は今どんな目に遭ってるんだろうね。まだまだこの迷宮の異世界での物語は道半ばだよ」
自分でやっておきながら、恍惚な表情をして明らかに楽しそうな雛月。
いたずら好きな精神世界の主に見送られ、三月は新たな性癖に目覚めそうになるすんでのところで本当に目を覚ます。
目覚める前も目覚めた後も、近頃で指折りの最悪な寝覚めとなるのであった。
「──それじゃ、また行ってらっしゃい」
本当に瞼を開けているか疑わしいほど視界は真っ暗に近くて、妙に息苦しい。
声を出そうにも口が開かず、くぐもった唸り声をあげるのが精いっぱいだ。
すぐにこれが金縛りだということに気づく。
睡眠麻痺とも言われ、一種の睡眠障害であるそれは心霊現象ではなく、不規則な生活や睡眠、精神的ストレスや過労が原因である。
そのいずれの原因にも心当たりがあり過ぎる境遇には呆れて気が重たくなった。
段々と暗闇に目が慣れてくる。
仰向けに寝転んで見える光景は、別世界の自分が世話になっている宿、冒険者と山猫亭のものではない。
見上げる天井にあるのは、電気の点いていない丸形蛍光灯の室内照明。
カチ、カチ、と規則正しい秒針の音をやけにはっきり響かせる壁掛け時計。
身体が感触を覚えているのは、柔らかな枕と布団の温もり。
見慣れた部屋の風景は、現実世界のアパートの一室だ。
異世界での一日を終え、また元の世界に戻ってきてしまったのだろうか。
いや、この微妙に違和感を感じる空気──。
この薄い現実味には覚えがあった。
「ふっふっふ……」
だから、寝床の枕元にはそいつが立っている。
ここはそいつの支配する心象空間で、決して現実の世界などではない。
力を振り絞り、首だけを動かして真上を見上げる。
「やぁ、ぼくに会いたくて恋しがるなんて可愛い奴だな。お人好しの三月はさ」
視界に肩まで伸ばした、ボブカットの揺れる黒い髪が見えた。
紺色のブレザーに赤いネクタイリボン、同色のプリーツスカート姿は、学生の頃に通っていた高校の女生徒用の制服のもので、顔はかつての恋人と同じなのにその中身はまったく似て非なる者。
地平の加護の疑似人格こと、三月の物語の案内人、雛月である。
胸の前で両腕を組み、三月の頭上で両脚を広げ、仁王立ちして見下ろしている。
仰向けに寝転ぶ三月からスカートの中が丸見えの位置だが、部屋が暗いので見えそうで見えない。
健康的な両の太腿を見せつけられている格好だ。
動けないのをいいことに性懲りも無く挑発的な態度をとる雛月。
また会えたのには安堵を感じる一方、微妙な苛つきも感じた。
「次の情報整理の場を設けようと思っていたのはもう少し先の予定だったんだけど、三月のたっての面会希望とあっちゃ、たとえ地平の加護を酷使されてぼくがすごーくお疲れだろうとも、その切実なお願いには応えてあげない訳にはいかないな。途中批評といこうか。これも三月のためだ」
やれやれ、しょうがないな、といった呆れる風の雛月。
部屋の暗さで表情は見えないが、きっと愉快そうに笑っているに違いない。
三月がどう思っていようがお構いなしに雛月は勝手に話を始める。
金縛りで動けず、言葉を発するのが困難であることもお見通しのようだ。
「まずは、アイアノアとエルトゥリンと仲直りできて良かったね。彼女たちの協力は必要不可欠だ。三月がパンドラの踏破は別々にやろうなんて言い出したときは、どうなることかとぼくもはらはらしたよ」
それを聞いて抗議の声をあげようとするものの、言葉にならない唸り声が漏れ出るだけだ。
何かを喋ろうとしても、んーんー、という唸り声しか出ない。
一時の仲違いの発端は、アイアノアのお気の毒発言から始まったことだった。
しかし、タイミングよく幼少時の父の記憶を頭に差し込んできた雛月にも原因の一端があったと言えなくもない。
「言い掛かりはよしてくれよ。三月が円滑に記憶を辿れるように、わかりやすく補正を掛けたってだけじゃないか。お陰で当時のことをよく思い出せたろう?」
言ってくすくすと笑う雛月。
言葉にしていないのに、どんな文句を言おうとしたのかがわかっているようだ。
今回はこんな感じで一方的に雛月にあれこれ話をされるのかと思い、早くもげんなりとしてしまう。
三月が静かになったのを満足そうに見下ろすと雛月は先を続ける。
「この世界に蔓延するハーフの問題と、長らく昔から続いてる人間と亜人の対立について、三月にはなるべく早い段階で周知をしておいて欲しかったんだ。いつまでも忘れられることなく根強く残るこの遺恨は、これから臨むパンドラの地下迷宮踏破にも大きく関係するだろうね」
変わらずの超然とした雛月にため息もつきたくなる。
重要な事実に辿り着くまでの手助けはしてくれるが、結局のところはいいように行動を操られているのではないか、と不安に駆られてしまう。
何とも言えず、見上げる先のスカートの中の闇のように、三月が不安な気持ちになっていると、やはり雛月は心を見透かして言った。
「大丈夫だよ、三月。そんなに心配そうな顔をしないでくれ。ぼくの意思は三月の意思でもあるんだから、ハーフ問題に端を発した仲間との諍いは三月自身による正義の感情の発露に他ならない。三月は温厚で落ち着いた性格である反面、信念に抵触する事柄に直面するとあんな風に怒るんだね。あんまりな剣幕だったから少し驚いたよ。自分のことならともかく、身内を悪く言われるのは確かに腹が立つよね。思いがけず理不尽に怒られるアイアノアがちょっと可哀想ではあったけど」
からかうみたいにおどけているが、雛月は満足そうな笑みを浮かべている。
暗くて見えないはずなのに、三月にはどんな顔で笑っているのかがわかった。
「だけどそれでいい、忘れないでくれ。この先も信念を曲げず、三月の思う正義に従った行動を心掛けて欲しい。そうすればきっと三月の物語は正しい流れに沿って紡がれていく。それはぼくが保証するよ」
うんうんと一人納得して頷くと、頭上でプリーツスカートの裾を揺らす。
そのゆらゆらが収まる程度の間の後。
「さて、色々ぼくと話したいとは思うけれど、今回は特に重要なことについてだけをかいつまんで話そうか」
目だけはしっかり開いている三月と、暗闇に浮かび上がる雛月の目が合う。
特に重要だと指すのは、当然加護の力のことだ。
「神々の世界の力の再現、上出来だったよ。初となる太陽の加護との同期もうまくいった。これで三月の肉体にシキを降ろして強化できるし、瞬転の鳥居を活用すればパンドラの攻略が大いにはかどること請け合いだ。太極天を降臨させた文字通りの神の力は、必殺の一撃として三月の切り札となるだろう」
この異世界とは異なる、さらなる異世界の神々の世界。
地平の加護は次元の壁を越え、三月に文字通りの神の力を与えた。
それを実行するためには、エルフの彼女の協力が必須であった。
「そして、アイアノアに与えられた役目はここからが本番だ。覚醒を果たした太極の太陽の加護の制御手として、もっともっと頑張ってもらわなければならない」
地平の加護の力を増幅し、あらゆる付与魔法の成功率を引き上げる太陽の加護。
神々の力をミヅキが行使する際、黒と白、陰と陽の勾玉巴の真の姿を現す。
加護の担い手であるアイアノアの魔力を大量に消費するのを引き換えにして。
「三月も気づいただろうけど、太陽の加護は地平の加護の単なる付属アクセサリーじゃない。天の神々の世界へとつながる次元の扉なのさ。上位の世界である神々の世界への経路を開き、額面通りの神の力を呼び込むための特別な加護。これを問題なく使いこなせるようになることこそがアイアノアの試練でもあるんだ」
三月は黙ったまま、じっと雛月の顔を見上げて思い出していた。
神々の世界の力を使い過ぎたため、魔力切れで倒れたアイアノアのことを。
それは太陽の加護に秘められた、神降ろしの能力が原因に他ならない。
今回のアクシデントは彼女にとっても予想外の出来事だったろう。
「アイアノアの魔力キャパシティは大したものだけど、太陽の加護の真の力を扱うにはまだちょっと心許ないね。常人の魔力総量を100とするなら、太陽の加護で増幅されたアイアノアのそれは10倍にあたる1000程度。でも、神の力を行使するにはたった1回の使用で100単位の魔力が必要となり、多用すればたちまち魔力が底をついてしまう」
それは、おおよそのざっくりした魔力使用量の計算概念なのだろう。
アイアノアの魔力は質も量も目を見張るほどのものだ。
しかし、桁違いな神の力を扱うには不足感はいなめない。
太陽の加護の増幅効果があったとしても、まだまだ魔力が足りないのである。
「不足部分は三月が何とかしてあげなよ。三月はパンドラの魔素を取り入れて循環させられるからいいけど、アイアノアはそうはいかない。自分は楽をして女の子にだけ苦労をさせるなんて、三月なら我慢ができないよね」
雛月はくすくす笑いつつ、三月にアイアノアの魔力運用の改善を促している。
また一つこなさくてはいけない課題が増えたが、雛月に言われたことはまったくの図星で、このままにしておくつもりは毛頭ない。
魔力不足が今後の使命を進めるうえでネックになるのはもちろんだが、何よりも三月が心配しているのはアイアノアの身体へのダメージだ。
魔力切れが原因で、血圧低下やショック症状を引き起こす恐れがある。
使命のためとはいえ、加護を酷使した結果、誰かが傷つくのはもちろん、犠牲を出してしまうなど以ての外である。
三月は言葉にならない声で、うー、と短く唸った。
そうまでして、何者かの作為的な目的を遂行しなくてはいけないとなると、どうしても胡散臭いものを感じて二の足を踏みそうになる。
三月の不安を察したようで、雛月はやれやれとため息をついた。
「そんなことを心配しなくても大丈夫だよ。このことにはぼくだって関与してる。誰かを犠牲にするようなやり方は、きっと三月は嫌いだろう? 三月にへそを曲げられちゃ、物語を進めること自体が頓挫し兼ねない」
雛月が三月の人間性を心得ているのは本当なのだろう。
嫌がる言動を強要して、必達である使命に支障が出ては元も子もない。
それは言い換えれば、体よく操られている、と言えなくもなかった。
「──だからじゃないけれど、その点は安心してくれていい。すべてはいずれ果たさなければならない使命のため、三月とアイアノアの加護の力を合わせて、神々の力をこの世界に降ろすことが絶対に必要なんだ。誰かに何かをやらされてるなんてつまらないことは考えなくていい。どうかぼくを信じて」
ようやく目が慣れてきた暗がりの中、朝陽と同じ顔が笑うのが見えた。
やっぱり何度見ても、輝かしいばかりの可愛らしく懐かしい笑顔。
それを見て、うー、とまた唸る三月は毒気が抜かれてそのまま黙ってしまう。
気分は晴れないが、そんな顔で言われては何も言い返せなくなる。
「ふふ、三月はいい子だね」
素直に納得してしまったのを読み取られ、雛月は小悪魔風に笑っていた。
また頭上でスカートがひらひら揺れている。
話はそのまま、エルフの姉妹のことに及ぶ。
「それにしても神託の時期の違和感、よく気づいたね。地平の加護で感覚を補助してるとはいえ三月は鋭いなぁ、偉い偉い。アイアノアとエルトゥリンは三月に何か隠し事をしているね。言っておくけれど、ぼくはエルフの彼女たちのことは何も知らないよ。三月のことなら、なんでもわかるんだけどね。ふふふっ」
愉快そうな雛月だが、三月以外のことには詳しくないようだ。
エルフたちの隠し事は知らないし、洞察を進めたところで秘められた胸の内まで見通すことはできはしないのだろう。
但し、知っていたとしても教えてはもらえないだろうが。
「それが何故なのか何のためなのかは直接聞くのが早いだろうけど、言えない秘密なら無理強いして聞き出すのは難しいかもね。仲直りはできたけれど、まだまだお互い繊細な間柄だ。いつどうやって隠された情報を得るのかは三月に任せるよ」
相変わらずの指示に、何も言わずに三月は渋い顔をしていた。
キッキの父、アシュレイのことを調査する時と同じだ。
相手を気遣おうとするくせに、初めから選択肢を用意する気は無く、隠し事を暴く気満々の雛月には呆れる。
「人間と亜人の対立。その原因となった過去の出来事。そして、エルフの隠し事……。これらはいずれ一つに繋がる重要な因子だよ。さあさあ、物語を進める方向性が見えてきたね。頑張っていこうじゃないか」
雛月にそう言われると、真相が気になってくるのも始末が悪い。
やっぱり操られているんじゃないだろうか。
「それはそうと──」
三月の心配はよそに、雛月の独壇場は続いている。
「アイアノアは太陽の加護を通して、神々の世界とそこにいた三月を感じ取ったようだね。異世界体験は何も三月に限ったことじゃない。アイアノアからしてみれば、神々の世界だって見たことのない異世界さ」
と、饒舌な雛月の話の続きを聞きながら三月は表情を曇らせる。
ややもすれば、またも心の内を読まれ、抱いた心配を笑い飛ばされた。
三月の心に湧いたのは漠然とした不安。
「うん? 知られると何かまずいんじゃないかって顔をしているね? あははっ、平気さ。アイアノアにとってあっちの世界は存在しない世界と同じだよ。ほとんど知覚できない世界なんて想像や妄想と何ら変わりはしない。適当に話を合わせて、白昼夢を見たとでも思ってもらえばいいさ」
雛月はアイアノアに他の異世界のこと、引いては三月が住む元の現実世界のことを知られても問題は無いと高を括っているようだ。
いつかそうした真実を話す時が来るのか、と葛藤して心苦しい思いをしていたというのに、その不誠実な態度には胸がもやもやとする。
ただ、雛月は三月に聞こえるかどうかの小声でぼそりと言った。
「……とりあえず、今のところはの話だよ」
んんー、と聞き返したい三月の唸り声を無視し、雛月は胸の前で組んでいた両手を背中に回して、覗き込むように背を丸めた。
目の前の視界を上下逆さまの雛月の顔が埋める。
その顔の周りを、粒子化した黄龍氣の光が漂っていた。
雛月はひときわ大きな声をあげて言った。
「さて! 今回の逢瀬は短いけれどここまでだ。地平の加護は、太陽の加護の力を借りて神々の世界と同期できるようになってからが本領発揮なんだ。やり取りに要する黄龍氣の量も莫大となり、制御は複雑化する。問題なく加護を稼働させるためにはぼくも休まないといけない」
化身体を維持し、三月と対話するには活動源である黄龍氣が残り少ない。
ぱちんぱちんと光の粒子を弾けさせる朝陽と同じ姿は仮想のもので、雛月は地平の加護が生み出した疑似人格、システムであることを改めて思い出す。
エネルギーが切れれば、それを正常に維持できない。
そんな様子を儚く感じる三月の複雑な感情とは裏腹、雛月の声は明るかった。
「三月が集積してくれてる情報は、要望通りにちゃんとまとめておくよ。次にまたぼくと会えるときを待ち遠しく思いながら、三月も物語を正しく進められるようしっかりと因子を集めてきてほしい。ぼくも加護の制御を頑張るからさ。何ならアイアノアにしてたみたいに頭をなでなでして、苦労をねぎらってくれてもいいんだよ。ぼくにもそのくらいのご褒美があっても罰は当たらないと思うな」
本気なのか冗談なのか、無邪気そうにいたずらっぽく笑う。
かと思うとその笑顔はいやらしく変貌し、口角をにやりとつり上げた。
「……それにしても、いつまでぼくのスカートの中を覗いてるんだい? 三月ったら本当にエッチな奴だなぁ。これじゃ、エルトゥリンにヘンタイ呼ばわりされても仕方がないよ」
雛月が勝手にそこに立ってるからだろ、と声にならない抗議の声を、んーんー、という必死な呻きで訴えた。
そんな三月を満足げに見下ろし、雛月はわざとらしく顔を赤く上気させ、ぺろりと舌なめずりをした。
「……ほーら、だからこれはお仕置きだ」
そして、右の片足を上げたかと思うと、白色のハイソックスの足裏でむぎゅ、と身動きの取れない三月の顔面を踏み付けてきた。
つま先と足の裏側で、ぐりぐりと鼻の上を屈辱的に足蹴にされる。
むぐぐー、と三月は悲鳴をあげた。
思わずローアングルに見上げてしまう悲しい男の性の先には、両手を腰に当てて片足を上げる、雛月のインモラルな女子高生なる制服姿が見下ろしていた。
但し、部屋は相変わらず暗いので、スカートの中の肝心な秘部は深遠の闇に包まれて見えることはない。
「そんな風に、物欲しそうな目をしちゃって……。ふふふっ……」
雛月の艶めかしい声が耳の中に滑り込んでくる。
鼻先に押し付けられた靴下と足裏の感触には、やけにリアル感があった。
おまけに何だかいい匂いがする気がして無性に悔しく、情けない気持ちになる。
「あぁっ、もう……。こんなはしたない真似をぼくにさせないでくれよ。どうやら、次の目覚めが近いみたいだ。三月の本体は今どんな目に遭ってるんだろうね。まだまだこの迷宮の異世界での物語は道半ばだよ」
自分でやっておきながら、恍惚な表情をして明らかに楽しそうな雛月。
いたずら好きな精神世界の主に見送られ、三月は新たな性癖に目覚めそうになるすんでのところで本当に目を覚ます。
目覚める前も目覚めた後も、近頃で指折りの最悪な寝覚めとなるのであった。
「──それじゃ、また行ってらっしゃい」
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