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第3章 現実の世界 ~カミナギ ひとつ~

第71話 深遠を覗く時……

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「三月、嬉しい……。嬉しいな……」

 三月からの求婚は本当に嬉しかった。
 念願がようやく叶った、歓喜に打ち震えるほどに。

 ただ、夕緋にはわかっていた。

 俯いた顔を赤らめて、口許には小さく笑みをつくっているが、その声色のトーンは下がっている。
 夕緋は自分の掌の中で小刻みに震える三月の手を感じていた。

「──手、震えてるね」

 夕緋は前を向いたまま、ぽつりと言った。

 三月の手の震えは声にせずとも雄弁に語っている。
 求愛に際して緊張しているのとは違う。
 気持ちのわだかまりが整理し切れておらず、心の深い傷が癒えていない。

「ごめん……」

「謝らなくてもいいってば」

 夕緋に思っていることが伝わり、三月は謝罪の言葉を口にした。
 心の傷が癒えていないのは夕緋も同じだったが、三月を気遣い言うのだ。

「大丈夫、そんなに心配しなくていいよ……。無理して急に気持ちを切り替えなくたっていいから、ゆっくりと少しずつ進んでいこう? 心の整理をする時間が必要なんだよね? 前にも言ったけど、三月がちゃんと私を見てくれるまで待ってるから」

 視線だけを横目に三月に向けて優しく微笑む夕緋。
 過去を引きずり、トラウマに引きずられ、三月は思い悩んでいる。

 朝陽を失ったあの出来事を思い出そうとすると心身が萎縮する。
 三月は何も言えなかったが、夕緋はもう少しだけ続けた。

「三月の傷は私の傷よ。あなただけを苦しませはしない。私にも分かち合わせて。だって、これから私たち、夫婦になるんだものねっ」

 夕緋は健気に三月を支えようとする。
 これからの長い夫婦生活を通じ、未だ消えない心痛を克服していこうと誓う。
 そして──。

「三月が私との結婚を望んでくれるのなら覚悟する。できることならずっと忘れていたかったけれど、私も向き合うことにする。──10年前のあの出来事に」

「うっ……!」

 10年前、その言葉に三月は呻き、瞬間的に顔を青ざめさせた。
 視界がぐらぐら揺れ始め、耐えがたい目眩めまいを覚える。
 夕緋はさらに続けた。

「あれだけのことがあったんだもの……。ただ単に姉さんがいなくなったってだけじゃない。私だって三月と同じよ……。あのときのことを思い出すと今でも震えが止まらなくなるの……。どうしようもないくらい辛くて悲しくて悔しくって……。本当に、怖かった……」

 顔を震わせて振り向くと、夕緋とまた目が合った。
 くすんだ黒色の水晶のような目と。

「……三月だって、そうでしょう?」

 握り合っている手から何かが伝わってくる。
 三月の中に在る、地平の加護が作用しているのか夕緋の記憶が伝わってくる。

 夕緋が思い出しているのはどす黒い恐ろしい過去。
 二度と思い出したくないと何度思っても、絶対に消えてくれない辛い思い出。
 まざまざと再生される禁忌きんきの映像が、二人の頭に怒濤どとうの勢いで氾濫はんらんしている。

 苛烈かれつで、凄惨せいさんで──。
 押し寄せてくる濁流の洪水さながら、荒れ狂う記憶のフラッシュバック。


『三月ぃ……! お父さんが、お母さんが、姉さんがぁ……! どうしよう……! 私は神水流かみづる巫女みこだったのにぃ……! うあぁぁぁぁあぁぁぁ……!』

『朝陽ぃ……! ちくしょう、親父もお袋も、みんなみんな……。どうしてこんなことに……! ちくしょう、ちくしょう……! うぐぅぅぅううう……!!』


 泥だらけの顔と服装で抱き合い、恥も外聞も無く泣き叫ぶのは、かつての三月と夕緋のぼろぼろな悲惨な姿。

 大気を震わし、地の底から唸りをあげる轟音が響き渡っていた。
 空は真っ黒な闇に包まれ、空から断続的に降り注ぐ無数の破壊と衝撃が何もかもを無慈悲に壊していく。

 おびただしく広がる炎に取り囲まれ、見知ったすべてが燃え尽きていく。
 異常な量の粉塵ふんじんが視界を奪い、あちこちから得体の知れない異臭がしていた。

 破壊の限りが尽くされた光景を見渡し、三月と夕緋の二人はただただ絶望の渦中にあった。

「やめてくれっ! やめようその話はっ……! お願いだ……!」

 三月は大声をあげ、弾かれたみたいに握っていた夕緋の手を離した。

 その様子は端から見れば、喧嘩でもして拒絶し合った男女にも見えた。
 夕緋は気にせず、立ち止まって前を向いたまま。

「ごめんね……。無神経に、三月に辛い記憶を思い出させたね……。もうしないよ、この話は……」

 肩で大きく息をする三月は全身に大量の脂汗あぶらあせを浮かべて取り乱していた。

 自分でも驚くほどに過去の傷を忘れられていない。
 夕緋はそれを淡々とした口調と態度で見ている。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

「……」

 どうしてだか、いつの間にかその変化は起きていた。
 さっきまでの睦まじい男女のやり取りはどこかへ消えていた。

 依然、夕緋は三月に視線を向けずにいる。
 そして、不意に言った。

「──三月、聞きたいことがあるの」

 丁寧な言葉遣いのままだったら、或いは少しは穏やかに聞こえたかもしれない。
 妙に冷えた声で夕緋は言った。

「別に怖がらせたい訳じゃないよ。三月も知ってる通り、今でも私には特別な力があるのだけれど、三月の心まで読むことはできない。だから何でもお見通しって訳じゃないの」

 それは妙な感じのする前置きだった。
 夕緋の笑みはとうに消えている。

 急に彼女は何を言い出すのだろうか。
 何とも言えない無感情の目が三月をじろっと見た。

「おかしなことを言っていると思わないで真面目に答えてほしいのだけれど──」

 空気がぴんと張り詰めていた。
 艶のある唇が開き、夕緋は三月に問い掛ける。

「三月、この何日かの間、どこかへ行ってた?」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 突然の、思いも寄らなかった問いである。

 夕緋はなおも続けた。
 二言目を言われ、ようやく何を問われているのかを理解する。

「お仕事やお買い物とかじゃなくて、普通では説明できないようなどこか不思議な場所へ行ってたりしない?」

「えっ……!?」

 心臓が跳ね上がるくらい驚き、三月はその場に立ち止まった。
 顔は青ざめ、全身に浮かんだ汗を冷えた空気がぞくりと撫でた。

 何故、夕緋にそんなことを言われて凍りつく気持ちになったのだろう。
 歩道の少し先で立ち止まり、三月を静かに見つめる夕緋は返答を待っていた。

「い、行ってないよ……。仕事と買い物と、今日の新しい住処すみか探ししか……」

「そう? おかしいなぁ」

 小首を傾げる夕緋はどうしておかしいと感じるのだろうか。
 三月は確かにこの数日の間、言った通りの場所にしか行き来していない。
 それ以外で思い当たることといえば、まさか。

「……ッ!?」

 三月は息を呑んだ。

 夕緋は三月を見ておらず、その奥の魂を覗き込むような空虚な目をしていた。
 それは、人ならざる良くないものを見る時の夕緋の眼そのものだった。

「三月の魂に何かが憑いてるわ。詳しくはわからないけど、強力な何かが三月の魂に刻み込まれてる。悪いものじゃないみたいだけど、あまりに深いところに繋がってるから迂闊うかつに手が出せなくてね」

 夕緋は淡々と語り始めた。
 どうやら、見鬼けんきの才を秘めたる夕緋にいつの間にか霊視を受けていたようだ。
 この分野における彼女の識見しきけんに間違いはない。

「……体外離脱たいがいりだつ、に近いのかな? 三月の意識か幽体だけが、その何かに引っ張られてここじゃない別の何処どこかに行っていたのかもしれない」

 有無を言わせぬ迫力に尻込みする三月は何も言えない。
 独り言めいて一方的に話す夕緋の独壇場どくだんじょうである。
 しかして、その炯眼けいがんが見抜いている見解はほぼ的を射ている。

「怖がるといけないから今まで黙っていたんだけど、さっき三月が気になることをしてたから、私もちょっと引っ掛かっちゃって」

 三月は夕緋の深遠の一端を見てしまう。
 いつもは端から見ているだけだが、いざ自分が射竦いすくめられるとなると訳が違う。

 吸い込まれそうになる綺麗な黒い目は、この時ばかりはすべてを重圧で押し潰すブラックホールのあなに見えた。

「心は読めないって言ったけれど、女神様のことを考えてるとね……。私にはわかっちゃうんだ。三月、さっき女神社おみながみしゃの女神様や、私たちの過去を思い出してたよね。──どうして? 三月に憑いてる何かと関係ある?」

「……う」

 思わず呻いた三月は背筋が凍り付くのを感じた。

 どうして女神に関わることや、自分たちの過去を思い出すと夕緋が察してしまうのかはわからない。
 しかし、事実として何を思っていたのかを看破された。

 心の中を見透かされているのがはっきりとわかり、夕緋の目に見られているのが恐ろしくなってしまう。
 人外に向ける厳しい視線が、今は自分に向けられている。

「なんで、そんなこと……」

 動揺した三月は、昔を思い出していたのを正直に話すかどうか迷った。
 はぐらかそうかとも思ったが、あまりに鋭い夕緋の視線に捕らえられ、へびに睨まれたかえるの如く、それは断念せざるを得なかった。

「……そ、そりゃっ、俺だって何気なく子供の頃を思い出すこともあるよ……。今日は久しぶりに夕緋のあの除霊見ちゃったし、きっとそれでだと思うけど……」

 最もらしいことを言ったつもりだったが、夕緋はふっと鼻で笑う。

 先ほどまでの少女みたいなはにかんだ笑顔とは遠くかけ離れた不敵な笑み。
 おそらく今のは三月がどう答えるのかを試した問いだったから。

「そう? 三月の魂におかしな因果が刻まれたのって、私がストールを部屋に忘れたあの夜のことだよ? 私が帰ろうとした時にはそんなの無かったのに、部屋から三月が飛び出してきたらもうそれがあった。……どうして私の除霊を見たから、だなんて嘘を言うの?」

「うぐ……! そ、それは……」

 三月は言葉を詰まらせる。

 完全に口を滑らせたと思った。
 夕緋を相手に下手な嘘は通らない。

「お、俺にはよくわからんのだけど、その因果ってのと、昔のことを思い出すのと何の関係があるっていうんだ……? 別に、嘘を言っていることにはならんのじゃないかな……? ははっ、夕緋の言うことは難しいなぁ……」

 じぃっと見つめてくる夕緋に気圧けおされながら、苦し紛れに言い逃れようとする。
 思えば、どうして嘘をついたり、誤魔化そうとしたりしようと考えたのだろう。

 本当のことを話してしまっても良かったのではないだろうか。
 普通の女性とは違う他でもない夕緋なのだから、いっそ異世界絡みの事柄を相談したほうがいいかもしれない。
 しかし──。

『言っては駄目だ』

 頭の奥から声が響いている気がする。
 異世界の秘密を打ち明けてはならないと、強く反発を促している。
 強制意思が三月の言動を封じ、操ろうとしているかのようだった。

「そんな風に誤魔化したって駄目よ」

 但し、それで追求を諦めてくれるほど夕緋は甘くない。
 乾いた笑いでやり過ごそうとする三月に核心を突く言葉を投げ掛けた。

「三月に結びついた因果の中に、姉さんと私の運命に繋がっているものがあったの。それもただの運命じゃない。神水流の巫女に紐づいた久遠くおんの絆……。私や女神様のことを考えていたときに、その因果が三月の中で共鳴するみたいに響いていたよ? だからわかっちゃったの、三月が何か隠し事をしてるのが、ね」

 ずいっと一歩踏み寄って、上目遣いに三月を見上げる。
 夕緋はにこりと笑い、言った。

「ねぇ、三月──。何を隠してるの? 私に教えてちょうだい」

 全てを見透かす目で、三月の心の奥まで覗き込もうとする。
 口許は笑っているが、目までは笑っておらず、真剣な光を灯している。

 常世とこよ幽世かくりよの境界を越えられる夕緋の干渉は、三月に閉ざした胸の内を曝け出すよう強く迫った。

 三月は地平の加護なる権能で、夕緋の深いところを知ろうとした。
 しかし、それは逆に三月の心を暴かれるきっかけを夕緋に与えてしまった。

 深遠を覗く時、深遠もまたこちらを覗いている、とはこのことであった。

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