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第3章 現実の世界 ~カミナギ ひとつ~
第68話 追憶の社で3
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「……ありがとう、三月。あぁ、あったかぁい……」
木枯らし舞う朝の寒さは、三月がはかせてくれた手袋のおかげで吹き飛んだ。
夕緋がそんな温かみを噛み締めていると、先ほど放り投げた竹箒をいつの間にか三月が拾い上げている。
「ぼくも手伝うよ、神社の掃除。お父さんたちをただ待ってるのも退屈だしね」
「あっ、さすがにそれは悪いよ。掃除は私のお勤めの一つなんだから、三月は見ててくれるだけでいいよ」
慌てて箒に手を伸ばす夕緋だったが、三月はひょいっと身をかわしてしまう。
「いいからいいから。皆でやればすぐに終わるって言ったのは夕緋ちゃんでしょ」
三月はいたずらっぽい顔をした後、それに、と清楽が向かった客殿を見やった。
「お父さんからの教えなんだ。いつも口を酸っぱくして言われてることだからね」
尊敬する父親から伝えられている言葉がある。
三月が人助けや誰かのために何かをするといった、善行のきっかけなっている指針であり、モットーとしている教えだった。
『困っている人がいたら、手の届く範囲でいいから全力で助けてあげなさい。三月の思う通り、力になりたいと思う人たちのために後悔が無いよう動きなさい。それはきっと、最後には三月のためにもなる大事なことだ』
その教えはもちろん夕緋も知っている。
清楽は政治家だ。
すべての人を救う完璧な方法は無く、誰かを助ければ誰かの妨げになるようなことがままあるのが世の常だとよくわかっている。
だからこそ、その教えになったのだろう。
自分の正義の心に従い、自分が良しとする範囲で可能な限りの全力をもって、助けたい誰かのためになるよう行動する。
幼くもその理念は三月のアイデンティティとしてすでに確立されている。
三月が誇りにしている父の教義を持ち出されては、もう夕緋は自分が何を言っても無駄だろうと諦めのため息をついた。
「……わかった。ありがとう、三月。じゃあ、お手伝いお願いするね。私、新しい箒とちりとり取ってくるから待ってて」
夕緋は赤い手袋の手を振って、新しい箒をもう一本用意しようと駆けていく。
小躍りするみたいな夕緋の背姿を見送ると、三月は父の教えと自分の信念に従って落ち葉清掃を始めるのだった。
「うふふっ、三月、本当に助かるよー。実は今日の掃除はちょっと骨が折れそうだなって思ってたんだ」
手袋と同様に温かい厚意に表情ほころばせる夕緋と、乙女心がいまいちわかっていない三月は掃き掃除をはかどらせていた。
いつもは大変なお勤めも、夕緋にとって今日はご褒美だったに違いない。
「なんだかご機嫌だね、夕緋ちゃん」
「そ、そんなことないよー。いつも通りだってば」
嬉しい気持ちを隠し切れず、夕緋はうわずった声で慌てて背中を向けた。
照れて赤らんだ顔が少し振り向き、ちらりと三月を見る。
「……三月、ほんとにありがとうね。手袋貸してもらったり、掃除手伝ってくれたり……。ごめんね、嫌だったりしない?」
「大丈夫、ぼくも好きでやってることだからさ。役に立てて良かったよ」
他意なく笑う三月だが、何故だかふっと遠い目をしてぼやき始める。
特別な家の事情を抱えているのは何も夕緋だけではなかったから。
「夕緋ちゃんのお祈りのお勤めほどじゃないけどさぁ。剣の鍛錬に比べたらこっちの掃除は全然楽ちんだよ。今日もお父さんと爺ちゃんにしごかれちゃって……」
「ああ、そういえば、三月も朝の修行があるんだったね。私とおんなじだぁ」
三月はげんなりした表情で大きなため息をついた。
夕緋も三月の家の事情を知っているから、自分と似ている境遇に親近感を感じてにこにこ喜んでいる。
三月の父親、清楽の職業が政治家なのは前述の通りで、佐倉の家も普通の家庭に比べると少々変わっているところがある。
三月の祖父に当たる、佐倉剣藤は所謂地元の名士で、天之市の地域では旧家として名の通った家柄の人物である。
神社界隈や市議会にも顔が利き、今は引退して趣味で収集した刀剣を愛でているが、昔は市の政に携わる仕事をしていたようだ。
そして、趣味で片付けるには随分と本格的な我流の剣士でもあった。
「三月のお爺さん、剣の達人なんでしょ。それで、そのお爺さんに鍛えられた三月のお父さんの剣の腕も凄いんだよね。だから、三月も修行したら将来凄い剣術家になるのかな?」
「それはわかんないけど、これもお父さんと爺ちゃんの教えなんだ」
佐倉家の朝も早く、自宅敷地内に建てられている道場にて、三月は父と祖父から剣を学んでいる。
剣といっても当然鋼の刃ではなく、竹刀や木刀による鍛錬ではあるが、気を抜けば大怪我に繋がるため、子供ながらに三月も毎日真剣勝負だ。
ただ、剣の修行は剣士になるため、というよりは心の鍛錬の意味が大きい。
それは佐倉の家の教えにも代々と伝わっていることだ。
「男たるもの強くなければ守りたいものも守れないし、自分の正義と信念を貫くのにも力が必要だっていうのは佐倉家の家訓でさ……。あんまり乱暴なのは好きじゃないんだけど、お父さんの言うことは聞かないと駄目だし、爺ちゃんは怒るととんでもなく怖いし……」
「あはは……。三月も大変だねぇ」
箒を動かす手はそのままに、三月はまたため息をついて愚痴をこぼす。
お互いの家の事情に同種の共感を覚える夕緋は嬉しそうに同情する。
「でも、剣の修行は大変だけど、刀剣のことを教えてくれる爺ちゃんとの時間は好きなんだ。すっごい刀を眺めてると心が落ち着くんだよね」
三月は子供らしい笑顔でにかっと笑った。
唯一の孫である三月に、剣藤は喜々として刀剣の知識を語ったものである。
その祖父が所蔵していたあの刀剣の数々は、さぞや由緒正しく立派なものだったに違いない。
敢えて値段を付けるなら、と祖父の口から語られた価値には目玉が飛び出るくらい驚いたのをよく覚えている。
「へぇ、流石は三月のお爺様ね。でも、危なくないの? 凄い刀なんでしょ?」
「正しく扱えば大丈夫だよ。本当に何かを斬る訳じゃないからね」
「怪我しないように気をつけてね。あと、刀なんて持ってて警察に捕まらない?」
「捕まんないって。ちゃんと登録されてる刀だから心配いらないよっ」
心配そうに眉をひそめる夕緋に、三月は得意そうな笑顔で答えた。
銃砲刀剣類登録がされている美術品、骨董品に相当する刀は銃刀法には触れず、所持に当たっても特に資格や警察の許可は必要としない。
その辺りの事情を含めて刀剣の取り扱いや知識に明るかったり、実際の扱い方が相当に様になっていたりするのはこの時の経験が生きているからである。
政治家の父の教えに、旧家の祖父譲りの剣術、そうした環境と教育が未来の三月という人間を象っていったことは言うまでもない。
「皆さん、おはようございまーす。今日もお世話になりまーす」
ややあって。
夕緋がにこやかな笑顔と大きな声で挨拶をする相手は、境内の清掃活動に日ごろ集まってきてくれている敬老会のお年寄りの面々だ。
本格的な作業着を着て来たり自前の掃除道具を持参してきていたりと、地元の神社への奉仕精神は敬虔で、氏神を祀る信仰が正しく息づいている。
「巫女様、おはようございます。ありがたやありがたや……」
「今日も土地を守ってくれて、神水流の巫女様には大変感謝しております」
「夕緋さん、本日もお日柄良く……。あら、朝陽ちゃんはまたお寝坊さんかい?」
清掃を手伝いに来たお年寄りたちは男女を問わず、一様に夕緋に挨拶をしたり、手を合わせて拝んでいったりしている。
年配の老人に囲まれてありがたがられる夕緋は一見して異様にも見える。
但し、その光景も天之市、特に神巫女町では当たり前で、それだけ神水流の巫女への信奉は本物であるということを物語っていた。
「それにしても、朝陽はまだ出てこないのか……。本当に何やってんだ……?」
「うーん、よっぽど起きてくるのが遅かったのかも……。ほんとにもうお姉ちゃんたらしょうがないんだからぁ」
大勢で賑やかに落ち葉掃除をするなか、もう一人の巫女は未だに姿を現さない。
まだかまだかと朝陽の姿をきょろきょろと探し回る三月と、さすがにもうそろそろ姉にも掃除に参加して欲しいと気にし始める夕緋。
と、何かを思い出したように夕緋はあっと声をあげた。
「──そうだ! お姉ちゃん、昨日宿題の算数のプリントができなくて、夜遅くまでわからないーってべそかいてたんだった。私はすぐに終わって先に寝ちゃったからわかんないけど、もしかしてそれで結構夜更かししてたんじゃないかなぁ。まだ宿題も終わってないのかもしれないね……。三月はもうやった?」
「ああ、うん、ぼくはもう終わったけど。はぁ、そっかぁ……。朝陽は本当に世話が焼けるなぁ。しょうがない、ちょっと後で宿題見てやるかぁ」
夕緋は言うまでもなく、三月だって勉強にはそこそこ自信がある。
立派な家柄と、清楽ら両親の教育に恵まれた賜物でもあった。
だから、勉強が苦手な朝陽の世話を焼くのは三月の日課みたいになっていた。
ただ、それを聞いた夕緋は途端にお冠である。
「えぇーっ、駄目駄目っ! ちゃんとお姉ちゃんが自分でやらないと勉強にならないじゃないっ!」
「同じ姉妹なのに夕緋ちゃんは朝陽に厳しいなぁ……。だけど、朝陽は誰かが見てやらないと何もできないしさ。なんか放っとけないんだよね」
「三月はお姉ちゃんに甘いーっ! ずるいよー、私だって三月と一緒に勉強したいのにーっ!」
「あはは、夕緋ちゃんはぼくより勉強も運動も断然できるからなぁ。ぼくの唯一の取り得の剣術も、夕緋ちゃんが習い始めたらすぐに抜かされそうだよ……」
「そんなことないのに、三月の馬鹿……」
口を尖らせ、不機嫌そうにそっぽをぷいっと向く夕緋に、三月は苦笑い。
同じ双子の姉妹だというのに、夕緋と朝陽の様々な出来の良し悪しは何ともわかりやすく正反対であった。
夕緋は勉強や運動の面で、朝陽どころか三月のみならず小学生の同じクラス全員の中でも抜きん出た成績や結果を修めており、大変優秀であることこの上ない。
加えて勤勉で努力を惜しまない性格で、毎日の巫女のお勤めを欠かさずこなし、ストイックに己に課された使命を全うしようとする姿は現代の聖女を思わせた。
反面、双子の姉の朝陽はそこまで不出来というわけではないにしろ、勉強も運動も並みの下といったところで、特筆すべきの無いどこにでもいる普通の女の子だった。
巫女の使命に対しても夕緋ほど積極的ではなく、どちらかといえば面倒だと感じていて、自覚なく今日のように寝坊してしまうのもしばしばだ。
「お姉ちゃんは得だなぁ……。色々できなくてもにこにこしてるだけで、みんなが優しくしてくれるんだもん。お姉ちゃんも私と同じ神水流の巫女なのに……」
不満の独り言だったが、それでも姉を嫌いにならず、むしろさっきの三月と同様に仕方なく許してしまう理由が色々とあったりもした。
姉の朝陽はとにかく嫌味が無かった。
自分が不出来であるのを気にする様子を見せず、他の誰かが自分より優れていれば、それを素直に褒め称え、否定的なことは一切口にせず、ひたすら屈託無い笑顔で認めて肯定をする。
そんな朝陽だから周りもよく彼女を助け、そして彼女もそれに惜しみの無いお礼の気持ちを送り、できる範囲でみんなの厚意に応えようとしてきた。
夕緋に対しても例外は無く、優秀な双子の妹を心底から凄いと思っており、本当に信頼を寄せている心持ちに嘘は無かった。
そのうえ夕緋とよく似て、少女ながらに容姿端麗で文句無く可愛らしいのだから優しくされるのもある意味無理はないことなのかもしれなかった。
だからきっと──。
あのときの夕緋はこんなことを思っていたに違いなかった。
「むぅ……」
夕緋はほっぺを膨らませてむくれ、三月をじとっと見つめる。
当の三月は朝陽がいつ現れるのかと、敬老会のお年寄りの人垣からせわしなく首を振って探し出そうとしている。
単純に不出来な姉というだけのことなら、夕緋はそこまで面白くない気持ちにはならなかっただろう。
早熟な心の持ち主の夕緋には、気が気ではないことが一つだけあったから。
──三月は、お姉ちゃんのこと、どう思ってるんだろう……?
幼馴染みの三人は共に過ごす時間が多かった。
保育園、幼稚園に入園してから、三月、夕緋、朝陽は仲良しに育ってきた。
何でもよくできて手の掛からない夕緋に比べて、愛嬌だけが取り得の出来の良くない朝陽を、何でもそつなくこなせる三月がそれはもう世話を焼いたものだ。
だから当然の結果、朝陽は三月によく懐いて、三月も朝陽をよく可愛がった。
──私のほうが凄いのに。私のほうが頑張ってるのに。何か面白くないなぁ。
夕緋の不満、朝陽の未熟さは神水流の巫女の事情にも影響を及ぼしていた。
言われるがまま物心ついた頃から、当たり前に毎日のお勤めを欠かさず行い、女神様をお祀りすることに熱心だった夕緋。
それに対し、過酷で辛かったのを除いても、朝陽はお勤めに前向きではなかった。
──私、知ってるんだから。お勤めがあんまりにも辛くて、お姉ちゃんが泣いたり叫んだりするもんだから、お父さんもお母さんも、他の大人の人たちも甘やかして途中そこそこで許しちゃう。私は最後までちゃんとやってるのに……。
今日だってそうである。
前代の巫女たる母に連れられ、半ば強制的にお勤めを強いられるものの、取りかかるのが遅くて時間が押すうえ、辛そうに涙する様子は見ていられない。
だから、両親や他の大人たちも朝陽には甘く、お勤めがおざなりになっている。
日々の課業を完璧にこなし、文句一つ言わない夕緋とは大違いな訳である。
夕緋がいるのだから、朝陽は頑張らなくてもいい。
神水流の巫女の将来はもうすでに安泰である。
そう言うばかりに、当代の巫女姉妹の扱いには格差があった。
──でも、いいもん! 私には真面目にお勤めを果たして、女神様から授かった力があるんだから!
同じ巫女ながら、マスコット的な扱いの朝陽とは違う。
神巫女町の人々が夕緋を特別視するのを裏打ちする、夕緋が備えるとある異能。
正統たる神水流の巫女として、神より与えられた確かな力。
それは、まだ母の怜にしか話していない、神懸かった神通力である。
自分こそが本当の神水流の巫女になるのだという信念と自負の象徴でもあった。
木枯らし舞う朝の寒さは、三月がはかせてくれた手袋のおかげで吹き飛んだ。
夕緋がそんな温かみを噛み締めていると、先ほど放り投げた竹箒をいつの間にか三月が拾い上げている。
「ぼくも手伝うよ、神社の掃除。お父さんたちをただ待ってるのも退屈だしね」
「あっ、さすがにそれは悪いよ。掃除は私のお勤めの一つなんだから、三月は見ててくれるだけでいいよ」
慌てて箒に手を伸ばす夕緋だったが、三月はひょいっと身をかわしてしまう。
「いいからいいから。皆でやればすぐに終わるって言ったのは夕緋ちゃんでしょ」
三月はいたずらっぽい顔をした後、それに、と清楽が向かった客殿を見やった。
「お父さんからの教えなんだ。いつも口を酸っぱくして言われてることだからね」
尊敬する父親から伝えられている言葉がある。
三月が人助けや誰かのために何かをするといった、善行のきっかけなっている指針であり、モットーとしている教えだった。
『困っている人がいたら、手の届く範囲でいいから全力で助けてあげなさい。三月の思う通り、力になりたいと思う人たちのために後悔が無いよう動きなさい。それはきっと、最後には三月のためにもなる大事なことだ』
その教えはもちろん夕緋も知っている。
清楽は政治家だ。
すべての人を救う完璧な方法は無く、誰かを助ければ誰かの妨げになるようなことがままあるのが世の常だとよくわかっている。
だからこそ、その教えになったのだろう。
自分の正義の心に従い、自分が良しとする範囲で可能な限りの全力をもって、助けたい誰かのためになるよう行動する。
幼くもその理念は三月のアイデンティティとしてすでに確立されている。
三月が誇りにしている父の教義を持ち出されては、もう夕緋は自分が何を言っても無駄だろうと諦めのため息をついた。
「……わかった。ありがとう、三月。じゃあ、お手伝いお願いするね。私、新しい箒とちりとり取ってくるから待ってて」
夕緋は赤い手袋の手を振って、新しい箒をもう一本用意しようと駆けていく。
小躍りするみたいな夕緋の背姿を見送ると、三月は父の教えと自分の信念に従って落ち葉清掃を始めるのだった。
「うふふっ、三月、本当に助かるよー。実は今日の掃除はちょっと骨が折れそうだなって思ってたんだ」
手袋と同様に温かい厚意に表情ほころばせる夕緋と、乙女心がいまいちわかっていない三月は掃き掃除をはかどらせていた。
いつもは大変なお勤めも、夕緋にとって今日はご褒美だったに違いない。
「なんだかご機嫌だね、夕緋ちゃん」
「そ、そんなことないよー。いつも通りだってば」
嬉しい気持ちを隠し切れず、夕緋はうわずった声で慌てて背中を向けた。
照れて赤らんだ顔が少し振り向き、ちらりと三月を見る。
「……三月、ほんとにありがとうね。手袋貸してもらったり、掃除手伝ってくれたり……。ごめんね、嫌だったりしない?」
「大丈夫、ぼくも好きでやってることだからさ。役に立てて良かったよ」
他意なく笑う三月だが、何故だかふっと遠い目をしてぼやき始める。
特別な家の事情を抱えているのは何も夕緋だけではなかったから。
「夕緋ちゃんのお祈りのお勤めほどじゃないけどさぁ。剣の鍛錬に比べたらこっちの掃除は全然楽ちんだよ。今日もお父さんと爺ちゃんにしごかれちゃって……」
「ああ、そういえば、三月も朝の修行があるんだったね。私とおんなじだぁ」
三月はげんなりした表情で大きなため息をついた。
夕緋も三月の家の事情を知っているから、自分と似ている境遇に親近感を感じてにこにこ喜んでいる。
三月の父親、清楽の職業が政治家なのは前述の通りで、佐倉の家も普通の家庭に比べると少々変わっているところがある。
三月の祖父に当たる、佐倉剣藤は所謂地元の名士で、天之市の地域では旧家として名の通った家柄の人物である。
神社界隈や市議会にも顔が利き、今は引退して趣味で収集した刀剣を愛でているが、昔は市の政に携わる仕事をしていたようだ。
そして、趣味で片付けるには随分と本格的な我流の剣士でもあった。
「三月のお爺さん、剣の達人なんでしょ。それで、そのお爺さんに鍛えられた三月のお父さんの剣の腕も凄いんだよね。だから、三月も修行したら将来凄い剣術家になるのかな?」
「それはわかんないけど、これもお父さんと爺ちゃんの教えなんだ」
佐倉家の朝も早く、自宅敷地内に建てられている道場にて、三月は父と祖父から剣を学んでいる。
剣といっても当然鋼の刃ではなく、竹刀や木刀による鍛錬ではあるが、気を抜けば大怪我に繋がるため、子供ながらに三月も毎日真剣勝負だ。
ただ、剣の修行は剣士になるため、というよりは心の鍛錬の意味が大きい。
それは佐倉の家の教えにも代々と伝わっていることだ。
「男たるもの強くなければ守りたいものも守れないし、自分の正義と信念を貫くのにも力が必要だっていうのは佐倉家の家訓でさ……。あんまり乱暴なのは好きじゃないんだけど、お父さんの言うことは聞かないと駄目だし、爺ちゃんは怒るととんでもなく怖いし……」
「あはは……。三月も大変だねぇ」
箒を動かす手はそのままに、三月はまたため息をついて愚痴をこぼす。
お互いの家の事情に同種の共感を覚える夕緋は嬉しそうに同情する。
「でも、剣の修行は大変だけど、刀剣のことを教えてくれる爺ちゃんとの時間は好きなんだ。すっごい刀を眺めてると心が落ち着くんだよね」
三月は子供らしい笑顔でにかっと笑った。
唯一の孫である三月に、剣藤は喜々として刀剣の知識を語ったものである。
その祖父が所蔵していたあの刀剣の数々は、さぞや由緒正しく立派なものだったに違いない。
敢えて値段を付けるなら、と祖父の口から語られた価値には目玉が飛び出るくらい驚いたのをよく覚えている。
「へぇ、流石は三月のお爺様ね。でも、危なくないの? 凄い刀なんでしょ?」
「正しく扱えば大丈夫だよ。本当に何かを斬る訳じゃないからね」
「怪我しないように気をつけてね。あと、刀なんて持ってて警察に捕まらない?」
「捕まんないって。ちゃんと登録されてる刀だから心配いらないよっ」
心配そうに眉をひそめる夕緋に、三月は得意そうな笑顔で答えた。
銃砲刀剣類登録がされている美術品、骨董品に相当する刀は銃刀法には触れず、所持に当たっても特に資格や警察の許可は必要としない。
その辺りの事情を含めて刀剣の取り扱いや知識に明るかったり、実際の扱い方が相当に様になっていたりするのはこの時の経験が生きているからである。
政治家の父の教えに、旧家の祖父譲りの剣術、そうした環境と教育が未来の三月という人間を象っていったことは言うまでもない。
「皆さん、おはようございまーす。今日もお世話になりまーす」
ややあって。
夕緋がにこやかな笑顔と大きな声で挨拶をする相手は、境内の清掃活動に日ごろ集まってきてくれている敬老会のお年寄りの面々だ。
本格的な作業着を着て来たり自前の掃除道具を持参してきていたりと、地元の神社への奉仕精神は敬虔で、氏神を祀る信仰が正しく息づいている。
「巫女様、おはようございます。ありがたやありがたや……」
「今日も土地を守ってくれて、神水流の巫女様には大変感謝しております」
「夕緋さん、本日もお日柄良く……。あら、朝陽ちゃんはまたお寝坊さんかい?」
清掃を手伝いに来たお年寄りたちは男女を問わず、一様に夕緋に挨拶をしたり、手を合わせて拝んでいったりしている。
年配の老人に囲まれてありがたがられる夕緋は一見して異様にも見える。
但し、その光景も天之市、特に神巫女町では当たり前で、それだけ神水流の巫女への信奉は本物であるということを物語っていた。
「それにしても、朝陽はまだ出てこないのか……。本当に何やってんだ……?」
「うーん、よっぽど起きてくるのが遅かったのかも……。ほんとにもうお姉ちゃんたらしょうがないんだからぁ」
大勢で賑やかに落ち葉掃除をするなか、もう一人の巫女は未だに姿を現さない。
まだかまだかと朝陽の姿をきょろきょろと探し回る三月と、さすがにもうそろそろ姉にも掃除に参加して欲しいと気にし始める夕緋。
と、何かを思い出したように夕緋はあっと声をあげた。
「──そうだ! お姉ちゃん、昨日宿題の算数のプリントができなくて、夜遅くまでわからないーってべそかいてたんだった。私はすぐに終わって先に寝ちゃったからわかんないけど、もしかしてそれで結構夜更かししてたんじゃないかなぁ。まだ宿題も終わってないのかもしれないね……。三月はもうやった?」
「ああ、うん、ぼくはもう終わったけど。はぁ、そっかぁ……。朝陽は本当に世話が焼けるなぁ。しょうがない、ちょっと後で宿題見てやるかぁ」
夕緋は言うまでもなく、三月だって勉強にはそこそこ自信がある。
立派な家柄と、清楽ら両親の教育に恵まれた賜物でもあった。
だから、勉強が苦手な朝陽の世話を焼くのは三月の日課みたいになっていた。
ただ、それを聞いた夕緋は途端にお冠である。
「えぇーっ、駄目駄目っ! ちゃんとお姉ちゃんが自分でやらないと勉強にならないじゃないっ!」
「同じ姉妹なのに夕緋ちゃんは朝陽に厳しいなぁ……。だけど、朝陽は誰かが見てやらないと何もできないしさ。なんか放っとけないんだよね」
「三月はお姉ちゃんに甘いーっ! ずるいよー、私だって三月と一緒に勉強したいのにーっ!」
「あはは、夕緋ちゃんはぼくより勉強も運動も断然できるからなぁ。ぼくの唯一の取り得の剣術も、夕緋ちゃんが習い始めたらすぐに抜かされそうだよ……」
「そんなことないのに、三月の馬鹿……」
口を尖らせ、不機嫌そうにそっぽをぷいっと向く夕緋に、三月は苦笑い。
同じ双子の姉妹だというのに、夕緋と朝陽の様々な出来の良し悪しは何ともわかりやすく正反対であった。
夕緋は勉強や運動の面で、朝陽どころか三月のみならず小学生の同じクラス全員の中でも抜きん出た成績や結果を修めており、大変優秀であることこの上ない。
加えて勤勉で努力を惜しまない性格で、毎日の巫女のお勤めを欠かさずこなし、ストイックに己に課された使命を全うしようとする姿は現代の聖女を思わせた。
反面、双子の姉の朝陽はそこまで不出来というわけではないにしろ、勉強も運動も並みの下といったところで、特筆すべきの無いどこにでもいる普通の女の子だった。
巫女の使命に対しても夕緋ほど積極的ではなく、どちらかといえば面倒だと感じていて、自覚なく今日のように寝坊してしまうのもしばしばだ。
「お姉ちゃんは得だなぁ……。色々できなくてもにこにこしてるだけで、みんなが優しくしてくれるんだもん。お姉ちゃんも私と同じ神水流の巫女なのに……」
不満の独り言だったが、それでも姉を嫌いにならず、むしろさっきの三月と同様に仕方なく許してしまう理由が色々とあったりもした。
姉の朝陽はとにかく嫌味が無かった。
自分が不出来であるのを気にする様子を見せず、他の誰かが自分より優れていれば、それを素直に褒め称え、否定的なことは一切口にせず、ひたすら屈託無い笑顔で認めて肯定をする。
そんな朝陽だから周りもよく彼女を助け、そして彼女もそれに惜しみの無いお礼の気持ちを送り、できる範囲でみんなの厚意に応えようとしてきた。
夕緋に対しても例外は無く、優秀な双子の妹を心底から凄いと思っており、本当に信頼を寄せている心持ちに嘘は無かった。
そのうえ夕緋とよく似て、少女ながらに容姿端麗で文句無く可愛らしいのだから優しくされるのもある意味無理はないことなのかもしれなかった。
だからきっと──。
あのときの夕緋はこんなことを思っていたに違いなかった。
「むぅ……」
夕緋はほっぺを膨らませてむくれ、三月をじとっと見つめる。
当の三月は朝陽がいつ現れるのかと、敬老会のお年寄りの人垣からせわしなく首を振って探し出そうとしている。
単純に不出来な姉というだけのことなら、夕緋はそこまで面白くない気持ちにはならなかっただろう。
早熟な心の持ち主の夕緋には、気が気ではないことが一つだけあったから。
──三月は、お姉ちゃんのこと、どう思ってるんだろう……?
幼馴染みの三人は共に過ごす時間が多かった。
保育園、幼稚園に入園してから、三月、夕緋、朝陽は仲良しに育ってきた。
何でもよくできて手の掛からない夕緋に比べて、愛嬌だけが取り得の出来の良くない朝陽を、何でもそつなくこなせる三月がそれはもう世話を焼いたものだ。
だから当然の結果、朝陽は三月によく懐いて、三月も朝陽をよく可愛がった。
──私のほうが凄いのに。私のほうが頑張ってるのに。何か面白くないなぁ。
夕緋の不満、朝陽の未熟さは神水流の巫女の事情にも影響を及ぼしていた。
言われるがまま物心ついた頃から、当たり前に毎日のお勤めを欠かさず行い、女神様をお祀りすることに熱心だった夕緋。
それに対し、過酷で辛かったのを除いても、朝陽はお勤めに前向きではなかった。
──私、知ってるんだから。お勤めがあんまりにも辛くて、お姉ちゃんが泣いたり叫んだりするもんだから、お父さんもお母さんも、他の大人の人たちも甘やかして途中そこそこで許しちゃう。私は最後までちゃんとやってるのに……。
今日だってそうである。
前代の巫女たる母に連れられ、半ば強制的にお勤めを強いられるものの、取りかかるのが遅くて時間が押すうえ、辛そうに涙する様子は見ていられない。
だから、両親や他の大人たちも朝陽には甘く、お勤めがおざなりになっている。
日々の課業を完璧にこなし、文句一つ言わない夕緋とは大違いな訳である。
夕緋がいるのだから、朝陽は頑張らなくてもいい。
神水流の巫女の将来はもうすでに安泰である。
そう言うばかりに、当代の巫女姉妹の扱いには格差があった。
──でも、いいもん! 私には真面目にお勤めを果たして、女神様から授かった力があるんだから!
同じ巫女ながら、マスコット的な扱いの朝陽とは違う。
神巫女町の人々が夕緋を特別視するのを裏打ちする、夕緋が備えるとある異能。
正統たる神水流の巫女として、神より与えられた確かな力。
それは、まだ母の怜にしか話していない、神懸かった神通力である。
自分こそが本当の神水流の巫女になるのだという信念と自負の象徴でもあった。
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