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第3章 現実の世界 ~カミナギ ひとつ~
第66話 追憶の社で1
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敷き詰められた白い石畳の静謐な境内に竹箒のザッ、ザッという音が響く。
木枯らしの冷たい風に吐く息は白い。
掃き掃除の手を止めては、かじかんだ小さい手にほぅ、とゆっくり息を掛ける。
まだ日が昇って間もない時刻は午前八時半を回ったところである。
朝日の眩しい陽光が、広い境内で落ち葉を掃除する少女の下に届いていた。
「寒ぅ……。まだかなぁ……」
冷えた両手をこすり合わせ、脇に抱えた竹箒をまた手に取り、掃除を再開する。
少女の歳の頃は10歳程度で、白い着物の白衣に緋色の袴、足元は足袋と草履という絵に描いたような巫女の装い。
装束の下に腰帯で結んだ肌襦袢を着ているものの、季節は11月も末の立冬で、寒さは一層と身に染みる時期になっている。
今も昔も変わらない黒く長い美しい髪が日光に照らされ、きらきらしていた。
あどけない歳の割りに品のある顔立ちは凜々しい。
少女の身ながら、神に選ばれし特別な巫女。
神水流夕緋の幼き日の姿であった。
「あっ!」
夕緋は声をあげた。
見ている視線の先には、豪奢な外観の二階建ての楼門がある。
それをくぐり、境内に足を踏み入れる三人の姿が見えた。
夕緋は嬉しそうな笑顔ですぐに駆け寄っていく。
そして、礼儀正しく愛想よく背筋をぴんと伸ばし、頭を下げておじぎした。
「おはようございますっ、佐倉のおじ様とおば様」
夕緋が挨拶をする相手は、見るからに大人な風貌の男性と女性。
男性はグレーのフォーマルスーツに白いワイシャツを着こなし、青いネクタイを締め、自然な感じのざんぎり頭。
女性は黒いワンピースとノーカラージャケットのアンサンブルの礼服を身に付けていて、耳より少し上の後ろで一つ結いのお団子ヘアにしている。
夕緋は次に、二人の大人の横に立つ、小さなもう一人に視線を向けた。
「おはようっ。──三月っ!」
夕緋はひときわ元気な挨拶の声を掛けた。
その相手は、大人し目な色のセーターに中綿のコートを羽織ったデニムパンツ姿の少年だった。
照れた風のくしゃっとした笑顔を浮かべ、赤い毛糸の手袋をはめた手で頭をぽりぽり掻いている。
それは小学生の時分の三月である。
「おはよう、夕緋ちゃんっ」
声変わり前の少年声で、少年三月は少女夕緋と挨拶を交わした。
すぐに三月と共に訪れた大人の男女も夕緋におじぎして挨拶を返す。
「おはようございます、夕緋さん。今日もお勤めお疲れ様です」
「おはようございます。……三月、いつも言ってるけど、その呼び方は夕緋さんに失礼よ」
温和な笑顔で返す男性と、三月の夕緋への呼び方についてたしなめる女性。
「夕緋さんは神水流の巫女様なんだから、いくらお友達だからって敬いの心を忘れては駄目ですからね」
「えー? 学校じゃ、みんな普通に呼んでるよー?」
口を尖らせて言い返す三月と、ため息混じりに弱った顔をする女性を見て、夕緋は落ち着いた物腰でやんわりと言った。
「あっ、おば様、いいんです。私は神水流の巫女を務めさせて頂いておりますが、三月には普段から仲良くしてもらっていますし、大人の皆さんの前では他と変わらない同じ子供ですから。それに、個人的にもお友達にはさん付けより、ちゃん付けで呼ばれるほうが好きです」
穏やかな微笑みの夕緋は朝の日差しにきらきら照らされ、巫女の装束も相まって何とも神々しく見える。
小学生の少女にしては随分と大人びている佇まいに、やり取りを見ていた男性は感心したように笑っていた。
「ははは……。当代の巫女様は気さくな御方だなぁ。三月、これからも夕緋さんや朝陽さんと仲良くして、色々とお手伝いをしながらしっかりと巫女様をお助けするようにな。この町の未来は神水流の家と、三月たち若い世代が守っていくんだ」
素直な感じで、はーい、と返事する三月を柔和な笑顔で見るスーツの男性。
佐倉清楽、36歳、三月の父親である。
子供らしからぬ夕緋の受け答えに恐縮した風の笑顔の女性は三月の母親。
佐倉祥子、32歳、礼服の良く似合う上品な女性だ。
「日増しに寒くなってきますね、佐倉のおじ様。父がいつもお世話になってます。奥の客殿でおじ様とおば様をお待ちしておりますよ」
大人びた挨拶で夕緋はにこやかに清楽にそう促した。
白い参道の先、拝殿のさらに向こうに接待のために設けられた客殿がある。
そこで夕緋の父親が佐倉夫妻を待っているという。
「本日もようこそおいで下さいましたっ。神水流の神社、女神社はいつでも皆様の参拝を歓迎致しますっ!」
もう一度深くお辞儀をして、夕緋は元気いっぱいに言ったのだった。
某県天之市神巫女町に所在し、神水流の家が取り仕切る神社、──女神社。
おめがみさん、おみなさんの通称で親しまれていて、町を古くから見下ろす雄大な山、御神那山を御神体とした神社である。
神巫女町だけでなく、広く天之市全体を信仰圏とし、大勢の氏子を擁している。
神は人の敬いによりて威を増し、人は神の徳によりて運を添う。
その言葉の通り、多くの人々の崇敬を受けて神は威光を輝かせ、神威を高める。
女神社に勧請された神にはありがたい御利益があると評判で、方々から訪れる参拝客が後を絶たず、地元のみならず多大なる信仰を集めていた。
それでなくとも、女神社は由緒正しき別表神社の一つであった。
詳細は割愛するが、別表神社とは神社本庁が定め、包括している限られた一部の神社のことである。
社格を別格扱いするものではなく、あくまでも神職の人事に関わる区分分けではあるが、別表に名を連ねる神社はそれだけ有名で人気がある。
一般的には通常の神社に比べて格上として捉えられ、社殿や神職の数など規模は大きくなっている。
女神社も多分に漏れず、境内の面積は広大で社殿の数が多い。
拝殿、幣殿、神楽殿、社務所、授与所といった一通りが揃っており、それぞれの建物の程度も大きく、その装飾は厳かながら華美の極みでもあった。
「ありがとう、夕緋さん。お伺いさせて頂くよ。──三月、父さんたちは夕緋さんのお父様と仕事の大事な話があるから、いつもの通り、夕緋さんと一緒に過ごして待っててもらえるか? 父さんたちに同席してもらっても構わないが」
清楽は息子に目をやってそう問い掛けるが、返ってくる返事はいつも同じだ。
「夕緋ちゃんと一緒にいるよ。ぼくは待ってるから父さんたちはいってらっしゃい」
「そうか。では夕緋さん、三月を宜しくお願いします」
清楽は三月の頭をぽんぽんと撫でると、妻の祥子と共に会釈をして、客殿のあるほうへと境内を歩いていく。
夕緋もそれを深々と会釈して見送る。
「三月ー、くれぐれも夕緋さんに粗相があっては駄目よー!」
「もう、わかってるよ、母さんー!」
と、最後に母から釘刺しをされ、三月は抗議の声をあげるのであった。
「夕緋ちゃん、今日も巫女さんの格好、よく似合ってるね」
「えへへ、どうもありがとう、三月」
改めて二人きりになり、早速と普段とは違う夕緋の服装を褒める三月。
白と朱色の巫女装束が清く聖なるものを感じさせてくれて、何とも言えずほっぺが緩んで締まりのない顔になってしまう。
夕緋も早起きは楽ではないのだろうが、こうして三月に褒められるのは顔を赤くするくらい嬉しそうであった。
「……はぁーあ、夕緋ちゃん家に遊びにこれるのはいいけど、たまの日曜日だっていうのに、父さんも母さんもお仕事忙しそうだなぁ」
両手を頭の後ろで組んで、両親の背中を遠くに見やる三月のぼやき。
父の仕事の多忙さに不満がある訳ではなく、邪魔をしようとも思ってはいないが、やはり子供心に休みの日くらい自分と遊んで欲しいと思う気持ちはある。
三月に兄弟はなく、一人っ子ということもその思いに拍車を掛けていた。
「三月のお父さん、選挙が近いんでしょう? うちのお父さん、神社界の偉いひとたちと関わりがあるし、天之市の政治のことで何か話し合いがあるからこの時期は凄く忙しいんだよね」
「うん、そうみたい」
三月は見えなくなった両親から視線を切り、夕緋の言葉に何となくわかっているようなわかっていないような曖昧な返事をした。
三月の父親、佐倉清楽の職業は政治家である。
天之市の市議会議員に若くして当選し、その敏腕を振るって活躍を続け、現在は二期目の選挙に望む最中にあった。
清楽は神社界を中心に構成されている政治団体、神威政治協会に所属しており、この国の歴史、受け継がれる伝統、正しい文化を伝えていく活動をしている。
そのため天之市のみならず、県下でも有数の規模を誇り、地域の住民との繋がりが深く、信心深い信奉者を多く擁する女神社との親交が厚い。
選挙が近く、今日も宮司である夕緋の父親に挨拶がてら会いに来たのである。
「……でも、お父さんたちの仕事が忙しいと、こうして休みの日にも三月が遊びに来てくれるから私は嬉しいな、っと」
もういなくなった両親をぼーっと見ている三月の横顔を見つめ、夕緋は小さい声でぼそりと本音を呟く。
「ん? 何か言った?」
「んーん、何でもないよー」
三月に聞こえないくらいの声で言うと、夕緋はいたずらっぽく笑ってわざとらしく竹箒を大きく掃き鳴らすのだった。
こうして二人が休日の朝を過ごすのは、もう習慣のようなものである。
「それにしたって、いつ来ても夕緋ちゃん家は大っきいなぁ。境内はだだっ広いし、神社の建物もたくさん建ってて、自分ちで迷ったりしない?」
三月は辺りをぐるりと見回し、広大な敷地と建ち並ぶ数々の社殿を眺める。
「女神社が全部私の家って訳じゃないよ、三月。神社は公共の施設だから、私の家は神社の隣にあるあっちの家だけだよ」
そう言う夕緋の指差す先、女神社の塀を隔てて、少し離れた山すそに大きめの住宅家屋が見える。
黒の無彩色な瓦屋根の、昔ながらの和風邸宅が夕緋の住む家だ。
神社や寺といった境内地は概ね宗教法人の持分となっており、非営利団体であることから非課税の対象である。
神社を管理する宮司の住居も同様の対象とする場合もあるが、神水流家の自宅は宗教法人の持分ではなく、個人所有としているそうだ。
プライバシーの面から、自宅と神社を切り分けているという訳である。
「うちのお父さん、三月のお父さんのこと、とっても褒めてたよ。神巫女町のことだけじゃなくて、天之市全体の未来のことを考えてる立派な議員さんだってね」
額に手を当てて神水流の本宅を見ている三月に夕緋は言った。
「お父さん、自分はこの町出身じゃない余所者だから肩身の狭い思いをしたこともあったみたいだけど、三月のお父さんと政治の話をするようになってからは何だか生き生きしてるよ」
女神社と懇意に付き合っている佐倉の家を夕緋は好意的に思っている。
今頃、いそいそと佐倉夫妻をもてなしているだろう父の様子を想像し、くすくすと朗らかに笑っていた。
夕緋の父親の名は、神水流宗佑。
女神社は代々神水流の家が受け継いできており、前代の宮司を通じて神社庁より宮司の資格を持つ男性を婿養子として家に迎えている。
明階宮司二級上の資格を持ち、ゆくゆく将来は一級以上の宮司になれると期待をされている宗佑氏もその例の通りであった。
夕緋の母親であり、前代の神水流の巫女、怜と結婚し、神水流の家に婿の宮司として入ってきたのである。
「ふーん、よくわからないけど、父さんのことを良く言ってもらえるのは、やっぱりちょっと嬉しいな。ぼくも将来父さんみたいな議員さんになるのかなぁ」
「あっ、ねえねえ、それなんだけどさ。三月も神社のお仕事やろうよ。私が巫女さんをやるから、三月は神主さんになって、一緒に女神様をお祀りしていこうっ。ねえ、そうしようよー!」
将来を思って遠い目をする三月の顔に、自分の顔をずいっと寄せる夕緋。
仲の良い気になる男の子と、共に神職をやろうと熱烈な勧誘をする。
「あっ、でもそうしたら、私と三月は結婚しなくちゃいけないねぇ……。私と三月の子供が、次の時代を担う神水流の巫女になるんだからねっ」
と、思わず気恥ずかしいことを言ってしまったと、夕緋は照れ笑いをする。
女神社の将来を担う使命感か単なる子供の描く夢なのか、無邪気にそれをせがむ夕緋からは未来の慎ましさを想像するのは難しい。
そんな無垢な心の少女は父親の姿を三月に重ねて見ていた。
気になる男の子に将来を共に歩んで欲しいという淡い恋心を、この頃から抱いていたのかもしれない。
しかし、肝心の三月はというと。
「えぇー、嫌だなー。ぼく、夕緋ちゃんと一緒に神社の仕事はできないよー」
何だか弱りきった情けない表情でおどおど辺りを見渡し、申し訳無さそうに夕緋の申し出を断ってしまうのであった。
木枯らしの冷たい風に吐く息は白い。
掃き掃除の手を止めては、かじかんだ小さい手にほぅ、とゆっくり息を掛ける。
まだ日が昇って間もない時刻は午前八時半を回ったところである。
朝日の眩しい陽光が、広い境内で落ち葉を掃除する少女の下に届いていた。
「寒ぅ……。まだかなぁ……」
冷えた両手をこすり合わせ、脇に抱えた竹箒をまた手に取り、掃除を再開する。
少女の歳の頃は10歳程度で、白い着物の白衣に緋色の袴、足元は足袋と草履という絵に描いたような巫女の装い。
装束の下に腰帯で結んだ肌襦袢を着ているものの、季節は11月も末の立冬で、寒さは一層と身に染みる時期になっている。
今も昔も変わらない黒く長い美しい髪が日光に照らされ、きらきらしていた。
あどけない歳の割りに品のある顔立ちは凜々しい。
少女の身ながら、神に選ばれし特別な巫女。
神水流夕緋の幼き日の姿であった。
「あっ!」
夕緋は声をあげた。
見ている視線の先には、豪奢な外観の二階建ての楼門がある。
それをくぐり、境内に足を踏み入れる三人の姿が見えた。
夕緋は嬉しそうな笑顔ですぐに駆け寄っていく。
そして、礼儀正しく愛想よく背筋をぴんと伸ばし、頭を下げておじぎした。
「おはようございますっ、佐倉のおじ様とおば様」
夕緋が挨拶をする相手は、見るからに大人な風貌の男性と女性。
男性はグレーのフォーマルスーツに白いワイシャツを着こなし、青いネクタイを締め、自然な感じのざんぎり頭。
女性は黒いワンピースとノーカラージャケットのアンサンブルの礼服を身に付けていて、耳より少し上の後ろで一つ結いのお団子ヘアにしている。
夕緋は次に、二人の大人の横に立つ、小さなもう一人に視線を向けた。
「おはようっ。──三月っ!」
夕緋はひときわ元気な挨拶の声を掛けた。
その相手は、大人し目な色のセーターに中綿のコートを羽織ったデニムパンツ姿の少年だった。
照れた風のくしゃっとした笑顔を浮かべ、赤い毛糸の手袋をはめた手で頭をぽりぽり掻いている。
それは小学生の時分の三月である。
「おはよう、夕緋ちゃんっ」
声変わり前の少年声で、少年三月は少女夕緋と挨拶を交わした。
すぐに三月と共に訪れた大人の男女も夕緋におじぎして挨拶を返す。
「おはようございます、夕緋さん。今日もお勤めお疲れ様です」
「おはようございます。……三月、いつも言ってるけど、その呼び方は夕緋さんに失礼よ」
温和な笑顔で返す男性と、三月の夕緋への呼び方についてたしなめる女性。
「夕緋さんは神水流の巫女様なんだから、いくらお友達だからって敬いの心を忘れては駄目ですからね」
「えー? 学校じゃ、みんな普通に呼んでるよー?」
口を尖らせて言い返す三月と、ため息混じりに弱った顔をする女性を見て、夕緋は落ち着いた物腰でやんわりと言った。
「あっ、おば様、いいんです。私は神水流の巫女を務めさせて頂いておりますが、三月には普段から仲良くしてもらっていますし、大人の皆さんの前では他と変わらない同じ子供ですから。それに、個人的にもお友達にはさん付けより、ちゃん付けで呼ばれるほうが好きです」
穏やかな微笑みの夕緋は朝の日差しにきらきら照らされ、巫女の装束も相まって何とも神々しく見える。
小学生の少女にしては随分と大人びている佇まいに、やり取りを見ていた男性は感心したように笑っていた。
「ははは……。当代の巫女様は気さくな御方だなぁ。三月、これからも夕緋さんや朝陽さんと仲良くして、色々とお手伝いをしながらしっかりと巫女様をお助けするようにな。この町の未来は神水流の家と、三月たち若い世代が守っていくんだ」
素直な感じで、はーい、と返事する三月を柔和な笑顔で見るスーツの男性。
佐倉清楽、36歳、三月の父親である。
子供らしからぬ夕緋の受け答えに恐縮した風の笑顔の女性は三月の母親。
佐倉祥子、32歳、礼服の良く似合う上品な女性だ。
「日増しに寒くなってきますね、佐倉のおじ様。父がいつもお世話になってます。奥の客殿でおじ様とおば様をお待ちしておりますよ」
大人びた挨拶で夕緋はにこやかに清楽にそう促した。
白い参道の先、拝殿のさらに向こうに接待のために設けられた客殿がある。
そこで夕緋の父親が佐倉夫妻を待っているという。
「本日もようこそおいで下さいましたっ。神水流の神社、女神社はいつでも皆様の参拝を歓迎致しますっ!」
もう一度深くお辞儀をして、夕緋は元気いっぱいに言ったのだった。
某県天之市神巫女町に所在し、神水流の家が取り仕切る神社、──女神社。
おめがみさん、おみなさんの通称で親しまれていて、町を古くから見下ろす雄大な山、御神那山を御神体とした神社である。
神巫女町だけでなく、広く天之市全体を信仰圏とし、大勢の氏子を擁している。
神は人の敬いによりて威を増し、人は神の徳によりて運を添う。
その言葉の通り、多くの人々の崇敬を受けて神は威光を輝かせ、神威を高める。
女神社に勧請された神にはありがたい御利益があると評判で、方々から訪れる参拝客が後を絶たず、地元のみならず多大なる信仰を集めていた。
それでなくとも、女神社は由緒正しき別表神社の一つであった。
詳細は割愛するが、別表神社とは神社本庁が定め、包括している限られた一部の神社のことである。
社格を別格扱いするものではなく、あくまでも神職の人事に関わる区分分けではあるが、別表に名を連ねる神社はそれだけ有名で人気がある。
一般的には通常の神社に比べて格上として捉えられ、社殿や神職の数など規模は大きくなっている。
女神社も多分に漏れず、境内の面積は広大で社殿の数が多い。
拝殿、幣殿、神楽殿、社務所、授与所といった一通りが揃っており、それぞれの建物の程度も大きく、その装飾は厳かながら華美の極みでもあった。
「ありがとう、夕緋さん。お伺いさせて頂くよ。──三月、父さんたちは夕緋さんのお父様と仕事の大事な話があるから、いつもの通り、夕緋さんと一緒に過ごして待っててもらえるか? 父さんたちに同席してもらっても構わないが」
清楽は息子に目をやってそう問い掛けるが、返ってくる返事はいつも同じだ。
「夕緋ちゃんと一緒にいるよ。ぼくは待ってるから父さんたちはいってらっしゃい」
「そうか。では夕緋さん、三月を宜しくお願いします」
清楽は三月の頭をぽんぽんと撫でると、妻の祥子と共に会釈をして、客殿のあるほうへと境内を歩いていく。
夕緋もそれを深々と会釈して見送る。
「三月ー、くれぐれも夕緋さんに粗相があっては駄目よー!」
「もう、わかってるよ、母さんー!」
と、最後に母から釘刺しをされ、三月は抗議の声をあげるのであった。
「夕緋ちゃん、今日も巫女さんの格好、よく似合ってるね」
「えへへ、どうもありがとう、三月」
改めて二人きりになり、早速と普段とは違う夕緋の服装を褒める三月。
白と朱色の巫女装束が清く聖なるものを感じさせてくれて、何とも言えずほっぺが緩んで締まりのない顔になってしまう。
夕緋も早起きは楽ではないのだろうが、こうして三月に褒められるのは顔を赤くするくらい嬉しそうであった。
「……はぁーあ、夕緋ちゃん家に遊びにこれるのはいいけど、たまの日曜日だっていうのに、父さんも母さんもお仕事忙しそうだなぁ」
両手を頭の後ろで組んで、両親の背中を遠くに見やる三月のぼやき。
父の仕事の多忙さに不満がある訳ではなく、邪魔をしようとも思ってはいないが、やはり子供心に休みの日くらい自分と遊んで欲しいと思う気持ちはある。
三月に兄弟はなく、一人っ子ということもその思いに拍車を掛けていた。
「三月のお父さん、選挙が近いんでしょう? うちのお父さん、神社界の偉いひとたちと関わりがあるし、天之市の政治のことで何か話し合いがあるからこの時期は凄く忙しいんだよね」
「うん、そうみたい」
三月は見えなくなった両親から視線を切り、夕緋の言葉に何となくわかっているようなわかっていないような曖昧な返事をした。
三月の父親、佐倉清楽の職業は政治家である。
天之市の市議会議員に若くして当選し、その敏腕を振るって活躍を続け、現在は二期目の選挙に望む最中にあった。
清楽は神社界を中心に構成されている政治団体、神威政治協会に所属しており、この国の歴史、受け継がれる伝統、正しい文化を伝えていく活動をしている。
そのため天之市のみならず、県下でも有数の規模を誇り、地域の住民との繋がりが深く、信心深い信奉者を多く擁する女神社との親交が厚い。
選挙が近く、今日も宮司である夕緋の父親に挨拶がてら会いに来たのである。
「……でも、お父さんたちの仕事が忙しいと、こうして休みの日にも三月が遊びに来てくれるから私は嬉しいな、っと」
もういなくなった両親をぼーっと見ている三月の横顔を見つめ、夕緋は小さい声でぼそりと本音を呟く。
「ん? 何か言った?」
「んーん、何でもないよー」
三月に聞こえないくらいの声で言うと、夕緋はいたずらっぽく笑ってわざとらしく竹箒を大きく掃き鳴らすのだった。
こうして二人が休日の朝を過ごすのは、もう習慣のようなものである。
「それにしたって、いつ来ても夕緋ちゃん家は大っきいなぁ。境内はだだっ広いし、神社の建物もたくさん建ってて、自分ちで迷ったりしない?」
三月は辺りをぐるりと見回し、広大な敷地と建ち並ぶ数々の社殿を眺める。
「女神社が全部私の家って訳じゃないよ、三月。神社は公共の施設だから、私の家は神社の隣にあるあっちの家だけだよ」
そう言う夕緋の指差す先、女神社の塀を隔てて、少し離れた山すそに大きめの住宅家屋が見える。
黒の無彩色な瓦屋根の、昔ながらの和風邸宅が夕緋の住む家だ。
神社や寺といった境内地は概ね宗教法人の持分となっており、非営利団体であることから非課税の対象である。
神社を管理する宮司の住居も同様の対象とする場合もあるが、神水流家の自宅は宗教法人の持分ではなく、個人所有としているそうだ。
プライバシーの面から、自宅と神社を切り分けているという訳である。
「うちのお父さん、三月のお父さんのこと、とっても褒めてたよ。神巫女町のことだけじゃなくて、天之市全体の未来のことを考えてる立派な議員さんだってね」
額に手を当てて神水流の本宅を見ている三月に夕緋は言った。
「お父さん、自分はこの町出身じゃない余所者だから肩身の狭い思いをしたこともあったみたいだけど、三月のお父さんと政治の話をするようになってからは何だか生き生きしてるよ」
女神社と懇意に付き合っている佐倉の家を夕緋は好意的に思っている。
今頃、いそいそと佐倉夫妻をもてなしているだろう父の様子を想像し、くすくすと朗らかに笑っていた。
夕緋の父親の名は、神水流宗佑。
女神社は代々神水流の家が受け継いできており、前代の宮司を通じて神社庁より宮司の資格を持つ男性を婿養子として家に迎えている。
明階宮司二級上の資格を持ち、ゆくゆく将来は一級以上の宮司になれると期待をされている宗佑氏もその例の通りであった。
夕緋の母親であり、前代の神水流の巫女、怜と結婚し、神水流の家に婿の宮司として入ってきたのである。
「ふーん、よくわからないけど、父さんのことを良く言ってもらえるのは、やっぱりちょっと嬉しいな。ぼくも将来父さんみたいな議員さんになるのかなぁ」
「あっ、ねえねえ、それなんだけどさ。三月も神社のお仕事やろうよ。私が巫女さんをやるから、三月は神主さんになって、一緒に女神様をお祀りしていこうっ。ねえ、そうしようよー!」
将来を思って遠い目をする三月の顔に、自分の顔をずいっと寄せる夕緋。
仲の良い気になる男の子と、共に神職をやろうと熱烈な勧誘をする。
「あっ、でもそうしたら、私と三月は結婚しなくちゃいけないねぇ……。私と三月の子供が、次の時代を担う神水流の巫女になるんだからねっ」
と、思わず気恥ずかしいことを言ってしまったと、夕緋は照れ笑いをする。
女神社の将来を担う使命感か単なる子供の描く夢なのか、無邪気にそれをせがむ夕緋からは未来の慎ましさを想像するのは難しい。
そんな無垢な心の少女は父親の姿を三月に重ねて見ていた。
気になる男の子に将来を共に歩んで欲しいという淡い恋心を、この頃から抱いていたのかもしれない。
しかし、肝心の三月はというと。
「えぇー、嫌だなー。ぼく、夕緋ちゃんと一緒に神社の仕事はできないよー」
何だか弱りきった情けない表情でおどおど辺りを見渡し、申し訳無さそうに夕緋の申し出を断ってしまうのであった。
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