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第3章 現実の世界 ~カミナギ ひとつ~

第55話 第三の目覚め

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「……ん、はっ?」

 それは眠りというには浅く、うたた寝と言って差し支えない短い睡眠だった。
 今しがた、神々の世界の日和の母屋で恐る恐る眠ったばかり。

 目覚めた後、自分はいったいどうなっているのか期待を膨らませ、同時に不安を募らせていたところだった。

 起きた先の世界が、引き続き神々の世界のままなのか、現実に引き戻されているのか、果たしてそれとも。

「うぅ……」

 思わず呻いた。

 額に両手を枕代わりに当てて机に突っ伏し、座って足を伸ばして眠っていた。
 腕に伝わる机の硬さと感触、下半身を覆う毛布には何だか馴染みを感じる。

 ゆっくりと覚醒して、だるそうに顔を上げた。
 そして、唖然となった。

「マジかよ……」

 三月はまた呻いて言った。

 目の前にあるのは、何の変哲へんてつも無いありふれた光景だった。
 寒気にも似たひどい脱力感を感じて愕然とする。

「戻って、きちまったのか……?」

 三月のか細い声はカチ、カチ、と規則正しく時を刻む壁時計の秒針の音にかき消される。
 それほど時計の音はやたらに大きく聞こえた。

 身体を預けて眠っていた机は、長年愛用している炬燵テーブルとその毛布。
 部屋の照明は点きっ放しで、じんわりと赤外線の熱で体が火照っている。

 所謂いわゆる、いつの間にやらうとうと炬燵で眠りこけてしまったシチュエーションのようだった。
 いや、まさにそれそのものであったのだ。

「……」

 無言のまま、目だけを動かして空間を眺め回してみるものの。
 その場所はもう説明のしようも無いほどに住み慣れた場所だった。

 三月のアパートの一室である。

「なんだよっ! パンドラのダンジョン世界も、天の神様の世界も、結局やっぱり夢だったんじゃねーか! ほんとになんなんだよもうっ! ちっくしょう!」

 見飽きた天井に向かって悪態を叫び、仰向けに身体を投げ出した。
 背中と後頭部が壁と床にぶつかり、鈍い痛みが走るが知ったことではない。

 力の入らないげっそりとした表情で、天井の蛍光灯の明かりをぼんやり眺める。
 アンティークなランタンや、昔時代な油皿あぶらざらの火の薄暗い明かりに比べて、蛍光灯の白い明かりが何と眩しく感じることか。

「あーぁぁ……」

 漏れる自分の声のがっかり感が本気で身に染みる。

 戻ってきてしまった。
 パンドラのダンジョン世界、天神回戦の神々の世界を経て、結局は元の現実世界に戻ってきてしまった。

 やっぱり夢だったのだ。
 美人のエルフ姉妹とのダンジョン探索も、落ちぶれた女神のために戦う武芸大会も、朝露あさつゆのようにすぐ消えてしまう儚い夢だったのだ。

「やる気になったと思ったら無かったことにされて、それを繰り返されて……。勘弁してくれ、今までのはなんだったんだよ、まったく……」

 理不尽に気持ちを弄ばれただけであった。
 緊張感と使命感を感じていたところだったのに。

 ひどいがっかり感に、何とも悔しくて情けない気持ちになってしまう。

「……特に、神様の世界のほうは朝陽あさひの何かの話が聞けそうで、あの頃の懐かしい気持ちに浸れそうだったのになぁ。結局のところ夢だったなんてなぁ……」

 神々の世界に出てきた日和という女神が、思い出の中の少女、朝陽のことを何故だか知っていた。

 天神回戦の試合を頑張っていくことでその秘密が聞けるという話だったのに。
 やはり、すべて夢で片付けられてしまったことが空しく感じた。

「いや、夢でも良かったのになぁ……。朝陽……」

 夢でも幻だろうとも三月は構わなかった。

 忘れることは絶対に無いとはいえ、遠い昔の思い出にしか存在しない大切な少女を思い続けるのは限界がある。

 夢物語の中ででも、再びあの子に関する事柄に触れられるのならそれでいい。
 女々しいと思われようとも三月は決して少女のことを忘れられなかった。

「朝陽ぃ……」

 もう一度、感慨深くその名を呟く。

 すると、そのときである。
 三月以外誰もいないはずの部屋の空気が動いた。

「──ん、なぁに? 呼んだ?」

 唐突に応えるはずのない声が応えて、三月は瞬間的に電気が走ったように身体中が総毛立つのを感じた。

 記憶は無論のこと、心が、神経が憶えている。
 懐かしくも愛しいその声。

「……ッ!!」

 両目を見開いて無言で驚き、がばっと派手に跳ね起きると荒々しく炬燵にばんと両手を付いた。

 声がした方向、出入り口の玄関ドアの横のキッチンに目を見開いたままゆっくりと顔を向ける。

 ぶれる視界の先に、口許に微笑みを浮かべてこちらに振り向き見ている少女の姿があった。

 何の不自然さも無い。
 初めからそこに、当然として存在していたと感じられる。

 少女はコーヒーを淹れた湯気立つマグカップを二つ、両手で持って運んでくる。

 黒髪のふわっとしたボブカットで、濃紺のブレザーに赤いネクタイを締め、紺色と同系色の膝丈プリーツスカートに白のハイソックスという、そのまま学生の制服を思わせる服装。

「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」

 三月の前にマグカップをことりと置くと、揺れる髪の毛のいい匂いがした。
 炬燵テーブルに着いて見上げる三月の顔を、憂いのある表情で見下ろしている。

 あどけなさの残る整った顔立ちの少女は、ぱっちりとした円らな瞳が印象的で朗らかな笑顔がよく似合う。
 健康的な血色の顔肌はつやつやで張りがあり、くたびれた自分の顔とは大違いだ。

 崩れ落ちるように座り直す三月は涙が出そうになる気持ちをぐっと抑える。
 緩む頬はそのままに、少女の名を驚きと歓喜を噛み締めて呼んだ。

「朝陽……!」

 呼ばれて自然に微笑む、思い出の中の少女。

 神水流朝陽かみづるあさひ
 夕緋ゆうひの双子の姉であり、三月が今も想い続ける大切な人物である。

 その顔を見て、三月は思った。
 間違いなく、確信した。

──ああ、そうか。俺はまた何か違う夢を見てるんだな……。

 どこか寂しげな表情を浮かべ直し、三月はため息混じりにこの状況を次第に理解していった。

 朝陽がここにいるはずがない。
 だから、これは夢に違いなかった。
 朝陽が昔の姿のまま、目の前に立っていることが何よりの証拠だった。

 三月は声に出して言った。

「……ようやく、10年振りに夢枕ゆめまくらに立ってくれたのか、朝陽……」

 夢枕に立つ、その言葉の意味するところを理解しているのか、朝陽は何も言わずに柔らかく微笑んでいた。

 そして、しかし──。

「──ふふふっ」

 突然、唇の両端が大きくつり上がり、その口元は鋭く弧を描く。
 それが三月のよく知る朝陽だったなら、絶対にしそうにない表情だった。
 学生服の少女は気味の悪い笑みを浮かべたまま言った。

「あさひ? それは俺の名前かい? 残念だけど人違いだよ」

 三月はぎょっとして目を見開いて驚いた。
 顔も声も三月の記憶と何一つ違わない、忘れるはずもないそれそのものなのに。

 見たことのない大げさな笑顔、急に悪くなった目つき、言葉の遣い方も声の発音も三月の思い出の中の朝陽とはまるで違う。
 驚く三月を無視して、目の前のそいつは話し始めた。

「ともあれ、お疲れ様、三月。どうだった、二つの世界を巡ってみてさ? 俺の力は役に立っただろう?」

 両手を腰に当てて、三月を得意そうに見下ろす朝陽のような少女には最早、奇異な違和感しか感じない。
 三月は口をぱくぱくさせ目を白黒させていたが、ようやくの声を絞り出した。

「……だ、だだっ、誰だっ、お前はっ!? あ、あ、朝陽じゃないなっ……?!」

 激しくうろたえる三月を愉快そうに見下ろす少女は不気味に含み笑う。
 くっくっくっ、とおおよそ普通の女の子はしない笑い方で笑っている。

「誰だ、か。まあ、この姿じゃあ神水流朝陽に見えたって仕方ないかな。化身の見た目はこちらでは選択できないからなぁ」

 自分の着ている服装をあちこちと見やり、ブレザーのネクタイに触れたり、プリーツスカートの裾を掴んだり、両手でボブカットの髪を撫で付けたりしている。

「この格好……。三月と朝陽が当時通っていた高等学校の女子の冬服か。ちょっと地味だけど、ワンポイントの赤いネクタイが可愛いって地元じゃ評判だったっけ。化身の姿があの時の朝陽のもので、服装がこの制服になったのは多分、そこにある思い出の写真の影響が大きいんだろうね」

 視線で指すテレビ台の写真立てには、目の前の朝陽のような少女と寸分違わない格好をした高校生のときの朝陽が朗らかに写っている。

 しかし、姿や声は同じなのに挙動や喋り方が全然違うせいで、まったくの別人だと感じてしまう。
 きょろきょろとアパートの室内を見回しては。

「この場所だってそうだ。三月の心象しんしょうが安息の空間に選んだのは、故郷のいずこかではなく、現在の住居たるこのアパートの部屋なんだね」

「な、なんだ……? 何を言ってるんだ? どういうことなんだ……?」

「誰からも傷つけられたり、否定されたりしない自分だけの安寧あんねいの場所のことだよ。よく自分の殻に閉じこもるっていう言い方をするだろ」

「そ、そういうことじゃねえよ……」

 訳のわからないことを言う朝陽もどきの少女を奇怪に思い、三月は炬燵から抜け出して後じさり、いつでも立ち上がれるように腰を浮かす。

 すぐ後ろには部屋の壁があり、背中がぶつかってどんと大きめの音を立てた。
 それを見て、両の手で三月を制する仕草を見せる謎の少女。

「そう警戒しなくても大丈夫だよ。俺は三月の味方さ。今までだって何度も助けてあげたじゃないか」

「訳がわからん……。俺はお前のことなんて知らんし、助けてもらった覚えなんてないぞ……。あとその、朝陽の姿と声で、違和感しかないことを色々やるのは頭が変になりそうだからやめてくれ……」

「そんなのしょうがないじゃないか。この朝陽の姿だって、アパートの部屋だって、三月が自分でイメージしてつくりあげたものなんだからさ」

「ああ、もう……。頭が混乱してぶっ倒れそうだ……。ダンジョンの世界といい、神様の世界といい、いったいいつまでこの変な夢は続くんだ……。いい加減にもう解放してくれよ……」

 さらなる不可解な応答に、三月は眩暈めまいさえ覚えていた。

 パンドラのダンジョン世界に目覚めて、もしかしたら本当の異世界召喚かと思い、ダンジョン踏破にやる気になった矢先に、神々の世界でまた目が覚めて、天神回戦なる試合を頑張っていこうと決意したら、また妙な夢に付き合わされて朝陽の姿をした得体の知れない何かに混乱させられている。

 頭を抱えて参ってしまう三月に、朝陽もどきの少女は笑んだまま言った。

「ふふっ、大分困惑させてしまっているようだね。──じゃあ、いいよ。初めの質問に答える。誰だお前は、と聞かれれば、……俺は、朝陽じゃあない」

 謎の存在の朝陽もどきの少女はふんぞり返って腕組みをする。
 そして、己の正体をさらりと口にした。

 しかし、三月にはそれが何を意味しているかすぐに理解できなかった。
 しばしの間、唖然とした顔をしていたと思う。

「俺は三月の中で覚醒した能力、──地平の加護の擬似人格だよ」

 再び白い歯を見せてにやっと笑う。

「……地平の、加護? 擬似、人格……?」

 ぽかんとした三月を満足げに見やって、朝陽もどきの少女は続けた。

「普段は加護の行使と制御をやっていて会話らしい会話はできないけど、今は三月の潜在意識を元にした擬似人格を作って、この心象空間に干渉しているんだ。こんな喋り方になっているのは三月の性格に影響を受けているからかな」

 身振り手振りを交え、聞いてもいない応答は止まらない。
 三月は得体の知れ無さにすくみ上がっていた。

「化身の見た目に朝陽の姿が選ばれたのは、三月が常日頃最も強く意識をしていて、心の中の割合を最も多く占めている人物が朝陽だからだよ。安らぎの心象空間がこのアパートの部屋になっているのも同様の理由で、三月が今最も安心できると思える場所はこの自宅のアパートってことなんだろうね」

 朝陽の顔をした謎の少女らしき者は、ぺらぺらと流暢りゅうちょうに自らの素性を語った。
 地平の加護の擬似人格であると。

 地平の加護、とは言うまでもなく、パンドラの地下迷宮世界と天神回戦の神々の世界で、三月の危機を幾度となく救い、立ちはだかる障害を排除してきた、何でもありのとてつもない異能のことである。

 全能付与魔法、洞察済み技能再現、三次元印刷機能──。
 といった多様な能力を持ち、加護というくくりに収まり切らない無限の可能性を秘めている。

 夢か現か未だはっきりとしない非現実の中で目覚めた尋常ならざる権能。
 それがこの朝陽もどきの正体なのだという。

 いつまで経っても覚めない夢。
 もう悪夢といっても差し支えはない。
 三月の我慢はそろそろ限界であった。
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