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第2章 神々の異世界 ~天神回戦 其の壱~
第35話 みづき、逃げる
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「みづきぃーッ! しっかりなのじゃぁーっ!!」
明瞭になってくる意識に、神々の特別席から前のめりになった日和の声いっぱいの声援が飛び込んでくる。
日和にシキとして生み出された瞬間からのみづきの記憶。
パンドラの地下迷宮の世界から飛んできたミヅキの記憶。
そして、現実世界の夕緋とのささやかな安らぎのひとときから、異世界転移に巻き込まれた三月の記憶。
ようやくそれらの記憶は一様に統合され、この神々の世界の冒頭と繋がって一つとなった。
三系統の並列した記憶は、多重人格を思わせる気持ち悪さを感じさせたが、すぐにそれらの違和感は消え、みづきの意識は一本化していた。
「思い出したはいいけど……」
脂汗を流し、みづきは乾いた笑みを浮かべていた。
「フゥーンッ!」
怖気づきながら見上げる先には、叩きつける突風みたいな荒い鼻息の巨体がある。
それは仁王立ちする馬の鬼。
馬頭の鬼の迫力満点に見下ろす眼光に睨まれていた。
「本気でこんなのとやり合うのかよ……。大砲でもなけりゃ、下手な武器じゃどうにもならないぞ……。まして、素手で戦うなんて頭おかしいだろ……」
身長だけでも三倍以上も向こうが大きいというのに、黒光りする鍛え抜かれた分厚い筋肉はみづきとの対比をさらに大きく引き離している。
猛り狂った息遣いの馬頭の鬼はにやりと笑った。
「ようやく来たか、日和様のシキよ! 我は偉大なる天眼多々良様のシキの一人、地獄の獄卒鬼、牢太と申す!」
表情筋をびくびく動かし、名乗りを上げる馬頭の鬼、牢太。
顔面は見た通りの馬のものだが、声帯や喋る筋肉は人間と同じのようだ。
空気を震わす野太く大きな声を発して、首を傾げながらみづきを値踏みするように見下ろしている。
「随分と小さき体躯! 得物も持たぬ、丸腰の装い! 本当に始めてもよいのか? そちらの事情はどうあれ、全力を持って礼儀とする所存であるぞ!」
刺股の石突をドスンと地面に叩きつけ、尖った両耳を後ろに倒して、前傾姿勢で激しく威嚇する。
ひ弱そうな小さい身体で、おまけに武器も持たず現れたみづきに、苛立ちを覚えて怒りの鼻息を噴き出した。
この馬頭鬼の牢太は相当に血の気が多いシキのようだ。
熱い鼻息を浴びつつ、みづきは泣きそうになっていた。
「ひぃ……。ほ、ほんとだよ、武器くらい持たせてくれよ……」
こんな化け物が相手では、下手な武器を持っていてもいなくてもどうにもなりはしないだろうが、せめて気休めくらいには何か得物が欲しかった。
無情にも試合開始の刻限はもう間近に迫っている。
「みづき様……」
姜晶はみづきの嘆きに同情の気持ちがいっぱいだった。
このまま試合を始めても良いかどうか逡巡したが、迷う時間も試合を止める権限も持ち合わせてはいなかった。
粛々と審判官としての任を果たし、公平に勝敗を見定めていくだけだ。
これまでだって一方的な展開の試合は何度も見てきたはずだ。
力量差が適正ではない陣営同士での戦いは、思わず目を背けたくなるほど。
この試合もその一つに過ぎない。
「……それでは皆様、お待たせ致しました。天神回戦午後の部、第一試合を謹んで執り行います」
思いを振り切り、姜晶は手の笏をみづきと牢太の間に差し向けた。
いよいよ試合が始まる緊張感に、場内の歓声も一時の静まりを見せる。
誰もが息を呑み、神々の武の祭典に血湧き肉躍らせる。
「天眼多々良様のシキ、馬頭鬼の牢太殿、対、日和様のシキ、みづき殿!」
自分の名を呼ばれ、心臓が跳ね上がる。
目の前の馬の鬼は体勢を低くして、武器を握る手に力を込め、片足は地面を掻いて動き、突撃準備は万端だ。
とうとう始まってしまう。
「互いに油断無く構えて! いざ、尋常に勝負──」
すーっ、と姜晶は笏を高々と掲げ、そして一気に振り下ろした。
天神回戦の開始の号令とともに。
「──はじめッ!!」
瞬間、会場は再びの熱気と大喚声に包まれた。
勇ましく叩かれる太鼓の打音がそこかしこから響き渡る。
空間全体に帯びた異常な熱が、否が応にもみづきの背を押す。
牢太にしてもそれは同じで、全身がいきり立っていた。
「行くぞッ! 日和様の小さきシキよッ!!」
まるで、意思を持った大岩が突っ込んできたかのようだ。
牢太は地を蹴り、みづきに向かって凄まじい迫力で突進してきた。
「ぬうぅんッ!!」
甲高いいななきをあげて、牢太は棒立ちのみづきめがけ、振り上げた刺股を真上から力任せに叩きつける。
小山ほどにも見える巨体が日の光を遮り、暗い影を落とした。
みづきは赤い目をした殺気に満ちる鬼を直視する。
「ひぃっ!」
情けない悲鳴をあげ、みづきは硬直していた身体を何とか動かした。
後ずさるように利き足で踏み切り、飛び下がる。
「うわわっ!?」
率直にみづきは驚いた。
一瞬で視界の地面が遠ざかっていく。
軽く後ろに飛んだだけなのに予想外に速く高く跳躍できていた。
重力を無視して空中を舞い、身体が羽根のように軽い。
「か、身体が軽いッ……!? めちゃくちゃ動けるぞ……!」
そういえば、空の浮島から太極山に落ちたのに怪我一つ無かった。
身体のあちこちがちょっと痛いだけで済んだのは気のせいではない。
──自分のことながら信じられないけど、シキの身体ってのは俺が思うよりはるかに高い身体能力を持ってるみたいだな。
さっきまでみづきが立っていた場所に、牢太の刺股の切っ先が炸裂している。
えぐれた地面から黒い瘴気がおぞましく噴き出していた。
初撃をかわしたみづきを馬頭の鬼はぎろりと睨む。
その目は戦いの高揚に細くなる。
「……良い動きだ、続けてどんどん行くぞ!」
突撃を再開する牢太は巨体に似合わず俊敏だ。
また向かってくる馬の鬼には恐怖しか感じない。
みづきはもう迷わなかった。
──シキの身体は強くて速い! そうなら、やることは一つだ!
「ヒィィッ……!」
「なっ……!?」
予想だにしていなかったみづきの行動に、牢太は虚を突かれて驚いた。
それはそれはもう驚いた。
みづきはわかりやすく背を向け、脱兎の如く逃げ出していたのだ。
無様に逃亡する背中を見送る牢太は呆気にとられていた。
一拍遅れて我に返り、みづきを追い掛け始めるものの──。
臆病風に吹かれ、逃げ惑っているとしか思えない無様が信じられなかった。
「こ、こらァッ! 待たぬかぁッ! 逃げるでないッ!!」
「うるせぇっ! こ、こんなのっ、やってられるかっ!!」
みづきは居直ってふてぶてしく叫び散らした。
後ろからは狂ったように刺股を振り回す牢太が追いかけてくる。
疲れ知らずの身軽い身体能力を遺憾なく発揮して逃げ回るみづきと。
予想外の敵の行動に慌てふためく牢太に。
場内は唖然となって、しんと静かになっていた。
多分、これまでの天神回戦では例の無いことなのだろう。
例え劣勢だろうと主の神のため、シキは勇ましく戦うものである。
しかし、戦いを放棄して逃げ出し、場内を駆け回る醜態を晒すなんて。
こんな光景、神々も観客もとんと見たことがなかった。
「ま、待てぇぇッ!!」
「嫌だー!!」
追う牢太に逃げるみづきの声が、やけに静まった会場に響いている。
とうとう大勢の観客たちはその無様に我慢がならず、大きな笑い声を一斉にあげてしまっていた。
本来は真剣に取り組まねばならない祭事で、試合を笑うなど不謹慎に当たる。
それはわかっているが、これはどうにも堪らなかった。
「待てと言うにぃーッ!!」
「嫌だって言ってるだろぉーッ!!」
片や戦わずに逃げながらも攻撃をかわし続けているシキ。
片や何とか相手を仕留めようと無茶苦茶に武器を振り回すシキ。
二人の滑稽なる姿が晒されている。
常日頃、余興などは無く、しめやかに執り行われていた天神回戦であったため、みづきと牢太のおかしなやり取りは妙に笑いを誘った。
これには祭りの主催者たる太極天も、さぞや苦笑いをしていることだろう。
「……みづき、私、恥ずかしくて死にそう……」
神々の特別席で、日和は自分のシキの体たらくに、耳まで真っ赤にした顔を両手で覆い、ぶるぶると震えて恥じ入っていた。
小さな身体がますます小さく見えて、そのまま消えてしまいそうだ。
「あはは……。これはまた、随分と個性的なシキだね……」
「シキは創造主である神に似ると言いますが、今の日和様とそっくりですね。勝負を恐れて逃げ回るあのシキは瓜二つです」
多々良も思わず苦笑い、慈乃は呆れ果ててため息をついていた。
そして、会場の雰囲気以上に置いてきぼりをくっていた姜晶は、気の抜けた自分の吐息で我に返った。
「はぁー……。はっ!?」
目の前で起こっているおかしな試合と、異常な盛り上がりを見せる会場にこれ以上ないほどの惨状を感じる。
長く天神回戦に関わっているが、こんなのは見たことがない。
戦わずに逃げ出すシキ。
それを追い掛けるシキ。
抱腹絶倒の笑いに包まれる観客たち。
それを照覧になっている神々の心境を慮るのは心痛の極みであった。
「あ、あぁー……。ぼ、僕の初めての審判官のお勤めが……。こ、こんなことになるなんてぇ……」
何より、記念すべき初の晴れ舞台の試合がこんなことになってしまい、身の置き所が無いことこの上ない。
ずるりと着物の襟元が崩れて肩口が見えてしまっている姜晶は、逃げ惑うみづきを見て嘆いていた。
「みづき様ぁ、不利な状況でも主たる日和様のために、何だかんだとちゃんと試合をするものだと思ってたのにぃ……」
小さい身体に武器さえ持たず、それでも戦いに臨むであろうみづき。
そんな姿に感動すら覚えていたのに、目の前で繰り広げられる珍騒動にはがっかりである。
姜晶は大層憤慨して大声で叫んでいた。
「みづき様っ! 何をしているんですかッ!? 逃げてばっかりいないでちゃんと戦って下さいっ! これは神聖で、由緒正しい天神回戦の試合なんですよっ!」
叫び声が聞こえたのか、飛んだり跳ねたり転んだりのみづきが振り向いた。
と、何を思ったのかそのまま姜晶のほうに向かって走ってくる。
当然その背後には、刺股を狂ったように振るう牢太が付いてきている。
我を失い、怒る鬼の顔は超怖い。
「うひぃっ!?」
姜晶は悲鳴をあげると、自分も背を向けて一目散に逃げ出した。
このままでは嵐のような牢太の追撃に巻き込まれてしまう。
「おーい! 待ってくれー、姜晶くぅんっ!」
ただ、あっという間にみづきは姜晶に追いつくと、そのまま併走を始めた。
何故か追いかけてこられたのかわからず、姜晶は泡を食った顔で叫んでいた。
「ちょ、ちょっと、みづき様っ! な、なんでこっちに来ちゃうんですかっ!? ぼっ、僕は関係ないですよっ!?」
「姜晶君、聞いてくれっ! もう俺の負けでいいっ! 降参だっ! さっさと試合を終わらせてくれっ!」
「え、ええっ!? な、なにを言ってるんですかぁ、貴方はっ!?」
「こ、こんなの無理だっ! 試合は放棄するから、後ろの怖い馬の鬼さんをどうにか止めてくれぇぇー!」
逃げるのに必死なみづきに、もはや戦闘の意思は欠片も無かった。
ちょっと身軽なくらいでは、体格差と得物の有無をはじめとした強さの溝は埋められるものではない。
鼻息荒く、こちらも必死に追い掛けてくる牢太の鬼の形相を見て、姜晶も必死になって叫んでいた。
「駄目ですぅっ! 不戦の降参は認められませんっ! 言ったじゃないですかぁ、正々堂々一生懸命にって……! 正しき道に悖ることは許しませぇーんっ!」
「何だよっ! くれぐれも命は大事にしろって言ったじゃねぇかよっ! 緊急避難に正しい道も何もあるかってんだ! 人命優先だろうがーっ!」
「駄目ったら駄目ですー! はぁ、はぁ、……もう、早く戦ってくださいー!」
「嫌だったら嫌だー!!」
喚き散らしながら並んで走るみづきと姜晶、それを追う牢太の三人。
数多の神々や会場中の観客に見守られながら、依然走り回る彼らの姿は何だか無性に笑いを誘う絵面であった。
「こらァッ! 待てェーッ! 待たぬかァッ!」
牢太の怒る叫び声だけが、失笑に包まれる会場内に響き渡っていた。
明瞭になってくる意識に、神々の特別席から前のめりになった日和の声いっぱいの声援が飛び込んでくる。
日和にシキとして生み出された瞬間からのみづきの記憶。
パンドラの地下迷宮の世界から飛んできたミヅキの記憶。
そして、現実世界の夕緋とのささやかな安らぎのひとときから、異世界転移に巻き込まれた三月の記憶。
ようやくそれらの記憶は一様に統合され、この神々の世界の冒頭と繋がって一つとなった。
三系統の並列した記憶は、多重人格を思わせる気持ち悪さを感じさせたが、すぐにそれらの違和感は消え、みづきの意識は一本化していた。
「思い出したはいいけど……」
脂汗を流し、みづきは乾いた笑みを浮かべていた。
「フゥーンッ!」
怖気づきながら見上げる先には、叩きつける突風みたいな荒い鼻息の巨体がある。
それは仁王立ちする馬の鬼。
馬頭の鬼の迫力満点に見下ろす眼光に睨まれていた。
「本気でこんなのとやり合うのかよ……。大砲でもなけりゃ、下手な武器じゃどうにもならないぞ……。まして、素手で戦うなんて頭おかしいだろ……」
身長だけでも三倍以上も向こうが大きいというのに、黒光りする鍛え抜かれた分厚い筋肉はみづきとの対比をさらに大きく引き離している。
猛り狂った息遣いの馬頭の鬼はにやりと笑った。
「ようやく来たか、日和様のシキよ! 我は偉大なる天眼多々良様のシキの一人、地獄の獄卒鬼、牢太と申す!」
表情筋をびくびく動かし、名乗りを上げる馬頭の鬼、牢太。
顔面は見た通りの馬のものだが、声帯や喋る筋肉は人間と同じのようだ。
空気を震わす野太く大きな声を発して、首を傾げながらみづきを値踏みするように見下ろしている。
「随分と小さき体躯! 得物も持たぬ、丸腰の装い! 本当に始めてもよいのか? そちらの事情はどうあれ、全力を持って礼儀とする所存であるぞ!」
刺股の石突をドスンと地面に叩きつけ、尖った両耳を後ろに倒して、前傾姿勢で激しく威嚇する。
ひ弱そうな小さい身体で、おまけに武器も持たず現れたみづきに、苛立ちを覚えて怒りの鼻息を噴き出した。
この馬頭鬼の牢太は相当に血の気が多いシキのようだ。
熱い鼻息を浴びつつ、みづきは泣きそうになっていた。
「ひぃ……。ほ、ほんとだよ、武器くらい持たせてくれよ……」
こんな化け物が相手では、下手な武器を持っていてもいなくてもどうにもなりはしないだろうが、せめて気休めくらいには何か得物が欲しかった。
無情にも試合開始の刻限はもう間近に迫っている。
「みづき様……」
姜晶はみづきの嘆きに同情の気持ちがいっぱいだった。
このまま試合を始めても良いかどうか逡巡したが、迷う時間も試合を止める権限も持ち合わせてはいなかった。
粛々と審判官としての任を果たし、公平に勝敗を見定めていくだけだ。
これまでだって一方的な展開の試合は何度も見てきたはずだ。
力量差が適正ではない陣営同士での戦いは、思わず目を背けたくなるほど。
この試合もその一つに過ぎない。
「……それでは皆様、お待たせ致しました。天神回戦午後の部、第一試合を謹んで執り行います」
思いを振り切り、姜晶は手の笏をみづきと牢太の間に差し向けた。
いよいよ試合が始まる緊張感に、場内の歓声も一時の静まりを見せる。
誰もが息を呑み、神々の武の祭典に血湧き肉躍らせる。
「天眼多々良様のシキ、馬頭鬼の牢太殿、対、日和様のシキ、みづき殿!」
自分の名を呼ばれ、心臓が跳ね上がる。
目の前の馬の鬼は体勢を低くして、武器を握る手に力を込め、片足は地面を掻いて動き、突撃準備は万端だ。
とうとう始まってしまう。
「互いに油断無く構えて! いざ、尋常に勝負──」
すーっ、と姜晶は笏を高々と掲げ、そして一気に振り下ろした。
天神回戦の開始の号令とともに。
「──はじめッ!!」
瞬間、会場は再びの熱気と大喚声に包まれた。
勇ましく叩かれる太鼓の打音がそこかしこから響き渡る。
空間全体に帯びた異常な熱が、否が応にもみづきの背を押す。
牢太にしてもそれは同じで、全身がいきり立っていた。
「行くぞッ! 日和様の小さきシキよッ!!」
まるで、意思を持った大岩が突っ込んできたかのようだ。
牢太は地を蹴り、みづきに向かって凄まじい迫力で突進してきた。
「ぬうぅんッ!!」
甲高いいななきをあげて、牢太は棒立ちのみづきめがけ、振り上げた刺股を真上から力任せに叩きつける。
小山ほどにも見える巨体が日の光を遮り、暗い影を落とした。
みづきは赤い目をした殺気に満ちる鬼を直視する。
「ひぃっ!」
情けない悲鳴をあげ、みづきは硬直していた身体を何とか動かした。
後ずさるように利き足で踏み切り、飛び下がる。
「うわわっ!?」
率直にみづきは驚いた。
一瞬で視界の地面が遠ざかっていく。
軽く後ろに飛んだだけなのに予想外に速く高く跳躍できていた。
重力を無視して空中を舞い、身体が羽根のように軽い。
「か、身体が軽いッ……!? めちゃくちゃ動けるぞ……!」
そういえば、空の浮島から太極山に落ちたのに怪我一つ無かった。
身体のあちこちがちょっと痛いだけで済んだのは気のせいではない。
──自分のことながら信じられないけど、シキの身体ってのは俺が思うよりはるかに高い身体能力を持ってるみたいだな。
さっきまでみづきが立っていた場所に、牢太の刺股の切っ先が炸裂している。
えぐれた地面から黒い瘴気がおぞましく噴き出していた。
初撃をかわしたみづきを馬頭の鬼はぎろりと睨む。
その目は戦いの高揚に細くなる。
「……良い動きだ、続けてどんどん行くぞ!」
突撃を再開する牢太は巨体に似合わず俊敏だ。
また向かってくる馬の鬼には恐怖しか感じない。
みづきはもう迷わなかった。
──シキの身体は強くて速い! そうなら、やることは一つだ!
「ヒィィッ……!」
「なっ……!?」
予想だにしていなかったみづきの行動に、牢太は虚を突かれて驚いた。
それはそれはもう驚いた。
みづきはわかりやすく背を向け、脱兎の如く逃げ出していたのだ。
無様に逃亡する背中を見送る牢太は呆気にとられていた。
一拍遅れて我に返り、みづきを追い掛け始めるものの──。
臆病風に吹かれ、逃げ惑っているとしか思えない無様が信じられなかった。
「こ、こらァッ! 待たぬかぁッ! 逃げるでないッ!!」
「うるせぇっ! こ、こんなのっ、やってられるかっ!!」
みづきは居直ってふてぶてしく叫び散らした。
後ろからは狂ったように刺股を振り回す牢太が追いかけてくる。
疲れ知らずの身軽い身体能力を遺憾なく発揮して逃げ回るみづきと。
予想外の敵の行動に慌てふためく牢太に。
場内は唖然となって、しんと静かになっていた。
多分、これまでの天神回戦では例の無いことなのだろう。
例え劣勢だろうと主の神のため、シキは勇ましく戦うものである。
しかし、戦いを放棄して逃げ出し、場内を駆け回る醜態を晒すなんて。
こんな光景、神々も観客もとんと見たことがなかった。
「ま、待てぇぇッ!!」
「嫌だー!!」
追う牢太に逃げるみづきの声が、やけに静まった会場に響いている。
とうとう大勢の観客たちはその無様に我慢がならず、大きな笑い声を一斉にあげてしまっていた。
本来は真剣に取り組まねばならない祭事で、試合を笑うなど不謹慎に当たる。
それはわかっているが、これはどうにも堪らなかった。
「待てと言うにぃーッ!!」
「嫌だって言ってるだろぉーッ!!」
片や戦わずに逃げながらも攻撃をかわし続けているシキ。
片や何とか相手を仕留めようと無茶苦茶に武器を振り回すシキ。
二人の滑稽なる姿が晒されている。
常日頃、余興などは無く、しめやかに執り行われていた天神回戦であったため、みづきと牢太のおかしなやり取りは妙に笑いを誘った。
これには祭りの主催者たる太極天も、さぞや苦笑いをしていることだろう。
「……みづき、私、恥ずかしくて死にそう……」
神々の特別席で、日和は自分のシキの体たらくに、耳まで真っ赤にした顔を両手で覆い、ぶるぶると震えて恥じ入っていた。
小さな身体がますます小さく見えて、そのまま消えてしまいそうだ。
「あはは……。これはまた、随分と個性的なシキだね……」
「シキは創造主である神に似ると言いますが、今の日和様とそっくりですね。勝負を恐れて逃げ回るあのシキは瓜二つです」
多々良も思わず苦笑い、慈乃は呆れ果ててため息をついていた。
そして、会場の雰囲気以上に置いてきぼりをくっていた姜晶は、気の抜けた自分の吐息で我に返った。
「はぁー……。はっ!?」
目の前で起こっているおかしな試合と、異常な盛り上がりを見せる会場にこれ以上ないほどの惨状を感じる。
長く天神回戦に関わっているが、こんなのは見たことがない。
戦わずに逃げ出すシキ。
それを追い掛けるシキ。
抱腹絶倒の笑いに包まれる観客たち。
それを照覧になっている神々の心境を慮るのは心痛の極みであった。
「あ、あぁー……。ぼ、僕の初めての審判官のお勤めが……。こ、こんなことになるなんてぇ……」
何より、記念すべき初の晴れ舞台の試合がこんなことになってしまい、身の置き所が無いことこの上ない。
ずるりと着物の襟元が崩れて肩口が見えてしまっている姜晶は、逃げ惑うみづきを見て嘆いていた。
「みづき様ぁ、不利な状況でも主たる日和様のために、何だかんだとちゃんと試合をするものだと思ってたのにぃ……」
小さい身体に武器さえ持たず、それでも戦いに臨むであろうみづき。
そんな姿に感動すら覚えていたのに、目の前で繰り広げられる珍騒動にはがっかりである。
姜晶は大層憤慨して大声で叫んでいた。
「みづき様っ! 何をしているんですかッ!? 逃げてばっかりいないでちゃんと戦って下さいっ! これは神聖で、由緒正しい天神回戦の試合なんですよっ!」
叫び声が聞こえたのか、飛んだり跳ねたり転んだりのみづきが振り向いた。
と、何を思ったのかそのまま姜晶のほうに向かって走ってくる。
当然その背後には、刺股を狂ったように振るう牢太が付いてきている。
我を失い、怒る鬼の顔は超怖い。
「うひぃっ!?」
姜晶は悲鳴をあげると、自分も背を向けて一目散に逃げ出した。
このままでは嵐のような牢太の追撃に巻き込まれてしまう。
「おーい! 待ってくれー、姜晶くぅんっ!」
ただ、あっという間にみづきは姜晶に追いつくと、そのまま併走を始めた。
何故か追いかけてこられたのかわからず、姜晶は泡を食った顔で叫んでいた。
「ちょ、ちょっと、みづき様っ! な、なんでこっちに来ちゃうんですかっ!? ぼっ、僕は関係ないですよっ!?」
「姜晶君、聞いてくれっ! もう俺の負けでいいっ! 降参だっ! さっさと試合を終わらせてくれっ!」
「え、ええっ!? な、なにを言ってるんですかぁ、貴方はっ!?」
「こ、こんなの無理だっ! 試合は放棄するから、後ろの怖い馬の鬼さんをどうにか止めてくれぇぇー!」
逃げるのに必死なみづきに、もはや戦闘の意思は欠片も無かった。
ちょっと身軽なくらいでは、体格差と得物の有無をはじめとした強さの溝は埋められるものではない。
鼻息荒く、こちらも必死に追い掛けてくる牢太の鬼の形相を見て、姜晶も必死になって叫んでいた。
「駄目ですぅっ! 不戦の降参は認められませんっ! 言ったじゃないですかぁ、正々堂々一生懸命にって……! 正しき道に悖ることは許しませぇーんっ!」
「何だよっ! くれぐれも命は大事にしろって言ったじゃねぇかよっ! 緊急避難に正しい道も何もあるかってんだ! 人命優先だろうがーっ!」
「駄目ったら駄目ですー! はぁ、はぁ、……もう、早く戦ってくださいー!」
「嫌だったら嫌だー!!」
喚き散らしながら並んで走るみづきと姜晶、それを追う牢太の三人。
数多の神々や会場中の観客に見守られながら、依然走り回る彼らの姿は何だか無性に笑いを誘う絵面であった。
「こらァッ! 待てェーッ! 待たぬかァッ!」
牢太の怒る叫び声だけが、失笑に包まれる会場内に響き渡っていた。
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