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第2章 神々の異世界 ~天神回戦 其の壱~

第30話 太極山への降臨

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 弓なりに反った天井の薄暗い通路を、静かな足取りで進む二人がいた。

 一人は男、一人は女。
 共に身なりの整った姿勢正しい格好で、ただならぬ雰囲気を醸し出している。

 先頭をゆったりとした歩調で歩くのは背の高い男性で、右目に包帯のような眼帯を巻いており、鶯色うぐいすいろ束帯そくたいの和装である。

 端正な顔立ちは美男子のそれで、艶やかで長く黒い髪がさらさら揺れている。
 そして、どこか憂いを秘めた表情は真っ直ぐと前を向いていた。

 そのすぐ後ろに付き従うのは目を閉じた表情の女性で、前を進む男性に迫るほど背が高く、巫女装束風の黒い着物を着こなしている。
 白く長い髪、真紅のべにで化粧した目尻と唇の見目麗しい顔立ち。

 何よりの特徴は、白髪の隙間の前頭部から前に向かって生えている、一対の角。
 麗人の鬼、それが端的に彼女を表す表現である。

 明らかに人ならざる二人はおごそかでみやびに歩を進めている。
 先頭を歩く眼帯の男性は穏やかな口調で、目線は前に向けたまま後ろの鬼の女性に向けて言葉を切り出した。

「日和殿との試合は相成ったようだね。他の神々への配慮の甲斐はあった。此度こたびの運び、我が事ながら本当に業の深いことだよ」

 優しげで全てを包み込むような美声を発した。
 後ろを付かず離れず歩く鬼の女性は答える。

「これも天神回戦の慣わしです。日和様は幸運であらせられます。最期は多々良たたら様の手に掛かることができるのですから」

 こちらもよく通り、静かで澄んだ声であった。
 但し、どことなく冷たい感情が声に交じっている。
 それを受け、多々良と呼ばれた男性は目線だけを動かし語調を落として言う。

慈乃しの、滅多なことを言うものではないよ。一柱の神が願い半ばに眠りにつこうとしている。日和殿もさぞや無念のはずだろう。だからせめて、介錯かいしゃくは私たちの手で粛々と行おう」

「はい、承知致してございます。出過ぎたことを申し上げました」

 鬼の女性は慈乃、と呼ばれた。
 物静かに一礼するその身は、主に忠誠を誓い、全てを捧げて仕えている。

「いや、私のほうこそすまない。慈乃や皆に色々と気を遣わせる」

「いいえ、お気になさらず。多々良様のご心労に比べれば些事さじに過ぎません」

 自嘲気味に笑う言葉に、淡々と当然とした言葉が返った。

 天神回戦八百万順列第二位、鍛冶と製鉄の神、天眼多々良てんがんたたら
 それがこの男性の神名であった。

 眼帯こそしているものの、本当に隻眼ではなく秘めたる神の眼の力を日頃は抑制している。
 いざ開眼をすれば神通力が増すのはもちろん、あらゆる物事を見通す千里眼を発揮することができるという。

「さて、急な試合の取り付けとなってしまったが、今日の試合で日和殿との決着をつけるであろう嫌な役を買って出てくれたシキは誰かな?」

「はい、本日の試合に当たるシキは牢太ろうたでございます。日和様の最期を飾るべく、全力を以て正々堂々礼を尽くすと大層息巻いておりましたよ」

 気を取り直した風に問うと、意外な答えが返ってきて少し驚く。

「おや、慈乃が相手を務めるのではないのだね」

「……大変失礼ながら、今の弱り切った日和様と相対するに、最早私が出るほどのことはないと存じ上げております」

 赤い口紅の唇から冷淡で不敵な言葉を紡がれる。

 漂白された白糸のような長い髪、瞑目した物静かな表情、黒衣を纏う美しき鬼の女性、慈乃姫しのひめ
 彼女こそ、天眼多々良陣営いちの強さを誇るシキ、夜叉やしゃの剣士である。

 その腰には、彼女の細い身体が振るうには大振りな太刀の鞘が下げられている。
 多々良陣営が他の追随を許さずに第二位の順列を勝ち取り、守り抜いているのは彼女、慈乃の存在によるところが大きい。
 だから、多々良もそんな慈乃に全幅の信頼を寄せている。

 二人の交わす言葉が指す通り、彼らが日和とみづきが戦う相手である。
 但し、その強大なシキは今回の試合に出る気は無く、別の者が代わって任に当たる様子であった。
 衰えた力の堕ちた女神を軽んじ、歯牙に掛けるつもりはないと言うばかりに。

「手厳しいな、慈乃は。だけれど、天神回戦の取り仕切りは慈乃に任せているのだから文句は無いよ」

 柔らかく微笑んで言う多々良は、ただ、と一言区切る。

「日和殿は、あの可憐な見た目とは裏腹になかなかの狸でもあるんだ。此度の試合で今度こそ力尽きると目されてはいるが、本当にそうなるかどうかはいざいざ蓋を開けてみないとわからないかもしれない。最後の最後で、何かとんでもない奥の手を繰り出してくるやもしれないよ」

 笑ってはいるが、多々良の目は油断の無い不敵な光を浮かべていた。
 日和とはもう長く天神回戦の試合を通じ、そのふところの内をよく知っている年来の知己だ。

 勝利こそ無かったものの、日和のしぶとさ、強かさには一目を置いている。
 付け加え、重苦しく低い声で言った。

「それに、日和殿はあの御方の姉君であられる。本来であれば、決して油断のできるような相手ではないのだが──」

 言い掛け、言葉を淀ませる多々良には少々と思うところがあった。
 言及する先は日和の妹とされる、もう一柱の女神のことである。
 多々良に代わり、慈乃が口を開いた。

「日和様も何も初めから落ちぶれていた訳ではありません。創造の女神として、神の世界に日和様有りと神名を轟かせていたこともありましょう。あの御方と同じく、天に輝く太陽と月のように」

 特に感情を込めずに慈乃は語る。
 多々良と共に長く見てきた神々の歴史を淡々と振り返っている。

「ですが、強大な神として栄華を誇っていた日和様でしたが、その神威はいつの頃からか見る見る内にと失墜してしまいました。今となっては、健勝であった時分の神格は見る影もございません」

 慈乃の言葉に多々良は頷いた。
 神である多々良にとっても不可解な事態が日和とその周りで起きている。

「失墜していった理由は明らかではない。短い間に急激な衰退を見せた様子が私には不審でならなかった。長い付き合いであっただけに、このような結末はできれば避けたかったのだけれどね……」

 歩きながら、多々良は後ろを振り向かずに視線だけを慈乃に向ける。
 優しげな目をすっと細めて言った。

「慈乃、私は気掛かりなんだ。日和殿があのように弱ってしまったことには、何かの秘密があるように思う。日和殿は姉妹で一対の女神であられる。何らか異変に巻き込まれ、保たれていた互いの均衡が崩れてしまったのかもしれない。結果、日和殿だけが一方的な割を食わされ、今のような状態に陥ったのではないか、とね」

 多々良は日和の運命を憂慮している。
 姉である日和と、妹である「あの御方」。
 双方の神の関係性に懸念を感じている。

 多々良がそう思うほど、日和の急転直下な破滅には目を見張るものがあった。
 しかし、理由はついぞわからない
 悩む多々良に対して、相変わらず慈乃は冷たく言った。

「どのような事情がおありなのかは存じませんが、こうなってしまった以上は日和様の命運もとうとう潮時しおどき──。敗北の眠りは必定でございましょう。多々良様は、その顛末を憂いておいでなのですね。私などでは考えも及びませぬ、深き御思慮のなせる業でございます」

 多々良は弱った笑みを浮かべた。
 日和への無遠慮な見限りと、自分への敬服の態度の落差は露骨である。

「からかわないでおくれ。私はただ、もういたずらに疲弊して消えていく神々の姿を見たくないだけだよ」

 そうして多々良は改めて前を向いた。
 歩き往く前方、通路が途切れて出口の光が白く見える。
 活気に満ち溢れる喧騒が、もうすでに大きく聞こえてきていた。

「──さあ、始めよう。我ら神々の業深き力の祭典を」

 陽光を浴びて通路から外に出るそこは、神々の雌雄を決する加持祈願かじきがんの祭場。

 円形のすり鉢状の巨大な建造物で、多々良たちが通ってきたのは観客席用の外からの通路である。
 建物全周には大勢が観覧可能な傾斜のある階段状の客席が設けられており、見下ろす中央には客席に囲まれた競技の場が広がっている。

 まさにその様は闘技場だ。
 硬い砂と砂利の撒かれた舞台にて闘劇が執り行われる。

 それを観戦しようと、今日も大勢の観客が集まっていた。
 人間の客はただの一人もおらず、全員が仙人や神族、妖怪や魔物の類ばかりだ。

 此処ここは天神回戦祈願祭、その大会場である。
 北側の客席の高い位置には社が建立こんりゅうされており、この祭場の主神、太極天が祀られている。

 社を中心にして、試合に参加する神々が座する特別な席が備え付けられていた。
 多々良と慈乃が訪れたのは、その神専用の待遇席である。

「ふう……」

 太極天の社を振り仰いだ後、視線を闘技場に移して多々良は小さく息を漏らす。
 間もなく、ここで運命を閉ざすであろう哀れな女神に言葉を送る。

「日和殿、どうか許して欲しい。貴方の思いは私たちが責任を持って引き継ごう。安らかなる眠りを過ごすこと、切に願うよ」

 眼帯の神の目には、温かく優しい光と、冷たく厳しい光が混在していた。
 本日の試合において、一柱の神を討ち滅ぼす覚悟を秘める強い光でもある。

 太極の神と数多の神々、人外の観客の見守る戦いの舞台が待っている。
 落日の迫る神を今か今かと待っている。
 今日も今日とて、天の世界は骨肉の争いに満ち満ちていた。

◇◆◇

 網膜に影が残る強烈な眩しさを感じていた。
 高く長く跳躍したかのような浮遊感に包まれたかと思うと、急に足が地に付いて堪らず転倒した。

「あ痛たぁ!」

 顔を地に擦り付け、みづきはうつぶせに派手に転んだ。
 そんな無様の横で日和は平然として立っている。

「なんじゃ、その無様な格好は。ちょっとした距離を飛んだだけじゃぞ。新参のシキとはいえ、だらしがないぞよ」

 転んだみづきを見て、日和はにやにやして得意そうだ。
 泣き落としをしてまで試合に出たがらなかった様子が嘘みたいである。

「はぁ、まったくもう……」

 日和のにやけた顔を見ていると腹が立ってくるので、みづきは顔を逸らした。

 逸らして見た先の後ろには朱色の鳥居が建っていて、それをくぐってこの場所へと至った様子だが、やはり鳥居の反対側に日和の神社がある訳ではない。

 通ってきた向こう側には何も無く、ただ鳥居が静かに佇んでいるだけである。
 みづきはこれがどういう設備であるかを察した。

「へぇ、鳥居がワープ機能を持ってるんだな……。思い描いた場所に自動的に運んでくれるみたいな……。うぇぇ、気持ち悪……」

「わぁぷ……? 空間転移のことかの?」

 体調悪そうに呟くみづきにきょとんとする日和。
 服に着いた土を払って起き上がるみづきは、そうだよ、相槌を打った。

「うむ、これは念じた場所へと瞬時に移動できる瞬転の鳥居じゃ。天の世界は見渡す限りの遠大な雲海ゆえ、どこへ行くにもこの鳥居が必要不可欠なのじゃ。いちいちと自ら飛び回っておってはただ疲れるだけなうえ、日もとっぷり暮れてしまうわい」

 どうじゃすごいじゃろ、と自慢そうに胸を張った日和を一瞥して、みづきは瞬転の鳥居とやらの朱色の姿を見上げた。

 神の世界と人間の俗界を分け隔てる門であり、結界の役割があるという鳥居。
 様々な形状があるものの、その鳥居は稲荷大社いなりたいしゃが思わせる春日かすが鳥居、八幡やはた鳥居のそれに近い。

 想像上や創作物などでも鳥居は移動手段として考えられることも多く、この世界でもその不思議設備はご多分に漏れないようだ。
 どういう仕掛けなのだろうとか動力はどうなっているのかとか、色々と気にはなるがみづきは考えるのをやめた。

 神様の常識は思ったよりもずっと奔放のようで、何故かを考えるのは詮方なしというものだろう。
 自分の夢が考えたであろう、神様の世界というものに苦笑しつつ。

「それにしてもすごい景色だ……」

 周囲を見渡すみづきは圧巻の風景に驚いていた。
 瞬転の鳥居で転移してきた場所は小さい島で、鳥居以外の建造物は無く、わずかな草木が生い茂るだけだ。

 どうして小さい島と感じたのかは、周りの広大な空間に無数に点在する同様の島があったのが理由であった。

 しかも、それらすべての島は宙に浮かぶ、言わば浮島うきしまだった。
 とてつもない高さの空の上に、数え切れない大小様々な島が浮遊している。

 遠くてよくは見えないものの、各々の島にはここと同様に瞬転の鳥居が設置されているようである。
 さながらその浮遊島群は伝説の神々の世界、高天原たかまがはらを思わせた。

「……ごくり」

 見下ろす眼下は果てしない金色の雲の海で、高度はあまりにも高すぎて計り知れるものではない。
 高いところがあまり得意ではないみづきは戦々恐々と唾を飲み込んだ。
 だから、急に手を掴まれ、力強く引っ張られて情けない悲鳴をあげてしまった。

「ヒィィィッ……!?」

「ほれ、行くぞー!」

 日和はみづきを捕まえると、何を思ったのか浮島の縁へと迷い無く走っていく。
 島には転落防止の柵など無く、急に陸地の途切れた端が迫った。

 足を踏ん張って必死に抵抗を試みるみづきだったが、どこにそんな力があるのかお構い無しの日和にどんどん引きずられていってしまう。

 こいつ本当に弱った女神なのかよー、と声にならない絶叫をあげる間もなく、日和はそのまま躊躇無く崖を飛び降りた。
 またも失神しそうになるみづきを共立って。

「ぎゃああああああああああああぁぁぁぁぁーっ……!!」

 ようやく声が出たときには身体は宙に浮き、激しい落下感に襲われていた。
 今までいた浮き島が一瞬で後ろに遠ざかっていく。

 突風の如き風が真下から吹き付けてきて、身体中がぶるぶると打ち震える。
 スカイダイビングなんてやったことはなく、当然パラシュートだって装備しているわけもなく、本能的にもう死んだと思った。

「ぎゃあぎゃあやかましいのう……。ちょっとは落ち着かんか」

 手を繋いだままの日和はまたも平然としていた。
 涙と涎にまみれた大変な顔をしているみづきとは大違いだ。

「下を見るがよい。あれがおぬしの戦いの舞台、天神回戦の会場。──その名も太極山たいきょくさんじゃ」

 はっきり言ってそれどころではなかったが、必死の形相で下を見てみる。
 すると、広大な雲海と浮遊島群の中心に、隆起した大陸のような島が見えた。

 雲の中からそのいただきをのぞかせる高い高い大山は、高地と思わせないほど自然に溢れており、深い緑色の天頂部を金色の海原にさらしていた。

 太極天の大いなる神の力が宿る、太極山。
 そして、天神回戦の決戦の舞台である。

「太極天は大地の大神じゃ。私のような人の姿は持たぬ精霊のような存在で、大地や山岳の信仰を集める母なる神なのじゃ」

 読んで字の如く、大地の母なる神、地母神ちぼしん
 多産、肥沃、豊穣をもたらす豊かなる大地の象徴である。

 その恵みの力を以て、無秩序な戦争を秩序ある戦争に変えた山の大神は、今も昔も変わることなく、永劫に無限の恩寵おんちょうを与え続けている。

 それはそれは、一目見れば言葉を失うほどの大きな大きな存在であった。

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