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第2章 神々の異世界 ~天神回戦 其の壱~
第29話 どんじり女神の涙
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「──どれ、見てみるがよいのじゃ」
日和が無造作に両手を広げると、またも何も無いところから華美な巻物が現れて、生き物のように自分から広がった。
さっきの白羽の矢といい、こういった手合いの不思議アイテムはこの神の世界では当たり前なのだろう。
これも自分の想像で生み出しているのかと思うと違和感しか感じないが。
日和は巻物に記されている行末を示した。
「ここじゃ。この端っこのほう」
どうやら、これは勝負事の番付表のようなものだった。
天神回戦に参加している神々の陣営の順位を、何らかの基準でそれぞれ参照できるようだ。
漢字にも見える異世界の文字だが、不思議なことにみづきにはそれが読解できてしまった。
記されている事柄が何故かわかってしまうことに気味の悪さを感じつつ、みづきは覗き込んで呟いた。
「……あぁ、ぶっちぎりの最下位だなぁ……」
何かそれを示す情報が掲載されている訳ではない。
ただ、番付の末席に「合歓木日和ノ神」の名があるだけで、自陣の強さと順列が理解できてしまう。
何とも直感的で奇々怪々な情報伝達方法であった。
他陣営に比べ、突き放されて下の位置にいるとはっきりわかるほどに。
天神回戦に参加する神々やシキなら、一目見ただけで内容がわかるようになっていると、日和は語った。
そして、もう後がない、とも言った。
次に負ければ、力尽きて全てを失うのだという。
その後、彼女とこの神社はどうなるのだろう。
もう絶対に関わるまいと思っていたのに、やはり同情してしまうお人好しな性格と、一風変わった和テイストなファンタジー世界に興味が湧いてしまうみづき。
何気なくも、問いを投げてしまっていた。
「次に負けて、力が全部無くなったら……。その後はどうなるんだ?」
振り仰ぐ日和と目が合う。
幼い顔の円らな瞳がしっとりと潤み、悲しそうな顔で言葉を吐き出した。
「眠りにつくことになるじゃろうなぁ。いつ覚めるやも知れぬ永き永き眠りじゃ。──敗北の眠りと、古くから言われておる」
その言葉を聞くと何故か胸が痛む。
頭の奥が疼き、漠然とした不快感と忌避感が湧いた。
「神は不滅の存在じゃが、力を失った神はただ静かに眠るのみなのじゃ……。そのまま未来永劫眠り続けるか、はたまた何かの拍子で目覚めるのか……。それは文字通り神のみぞ知る、といったところじゃな。ふふふ……」
寂しげに笑う日和の次に取った行動に、みづきは面食らう。
両手を膝に揃え、小さい身体をさらに小さく折り曲げて、ゆっくりと綺麗な姿勢で頭を下げた。
「済まぬな……」
それは唐突な謝罪であった。
顔を下向きにしたまま、抑揚のない声で淡々と言葉を紡ぐ。
「私が滅べば、シキであるおぬしも存在することはできなくなる。天神回戦に出てくれぬのは残念じゃが、どのみちと結果は同じなのじゃよ。おぬしが試合に出ないならば、もう私自身で試合をやるしかなくなる。最後に華々しく戦い、散り行くその後で運命を共にしようぞ……」
みづきが試合に出ず、代わりの者もいないなら日和自身が出向くしかない。
力を失い、万策尽きた今となっては待っているのは玉砕の運命である。
創造主を失えば、そのしもべのシキも生き長らえることは叶わない。
「済まぬぅ……」
もう一度謝罪の言葉を口にし、日和は顔を上げた。
その顔を見たみづきは、驚いて目を見開いた。
「う……。うぅっ……」
日和の両の目からとめどない涙が流れ出していた。
大声を出すでもなく、大粒の涙をぼろぼろ零し、さめざめとむせび泣く。
「私とて、好きでこのような惨めな境遇になった訳ではないのじゃ……。神としての責務を果たし続けていきたいだけじゃというのに……。敗北の眠りになど、つきとうない……。ううぅっ、わぁぁぁ……」
無念と悲しみに暮れる日和の泣き声が、閑散とした境内に響き渡る。
そうしてとうとうその場にへたり込み、両手で顔を覆って泣き崩れてしまった。
「ああああぁぁぁ……。ひっく、ひっく……」
「うぐぐぐ……!?」
唸るみづきの居心地は大変に悪かった。
これはただの夢で、全部幻のはずである。
しかし、日和は嘘を言っているようには見えないし、神とはいえ見た目幼い少女に目の前で大泣きされるのは物凄く困った。
着物の幼女を泣かせるおかしな格好の男。
誰にも見られていないからいいものを、これが現実の世界でのことなら間違いなく通報案件である。
「お、おい、何もそんな泣くことは……」
焦ったみづきは思わず日和の肩に手を伸ばした。
見た目以上にその身体は華奢で弱々しく、涙する震えが手に伝わってくる。
「あ、あんたも一応、神様なんだろ……? 実際やってみたら、案外何とかなったりするんじゃないのか……? やるだけやってみたら──」
言いかけたところで、顔をくしゃくしゃにして泣く日和と再び目が合う。
哀れで痛ましい顔だった。
無責任な言葉で慰めるのがためらわれるほど、見ていられない様子であった。
言葉を詰まらせる様子のみづきを見上げ、日和は嗚咽交じりに言った。
「私は意気地無しじゃ……。この期に及んで戦うのが怖い、恐ろしいのじゃ……。いざ、自分がその憂き目に遭うのが、こんなにも怖いとは夢にも思わなんだ……」
死地に赴く辛苦を嘆き、怯えて縮こまってしまっている。
こんな弱々しい状態で満足な戦いなどできようはずもなかった。
「お願いじゃっ!」
「うわっ!?」
日和は縋りつくようにみづきの腰に抱きついた。
背に手を回してしがみ付き、涙に濡れた顔をしきりに擦り付ける。
振り払おうと思えば簡単に振り払えるか弱さだ。
しかし、そんな惨めな姿を邪険に扱うなどできそうになかった。
「後生なのじゃ……! やはり、どうか試合に出てはくれぬかっ!? 目覚しい戦果など望まぬ! おぬしだけが最後の希望なのじゃ! どうか、どうか……!」
強く抱きついたまま顔を上げ、みづきを見つめて涙を両目から零し続ける。
恥も外聞も無く、弱った女の情に任せて、日和は必死にみづきに懇願した。
「私を助けて……。お願いなのじゃ……」
かすれる弱々しい声で助けを求める。
一度は断られたが、今一度考え直して試合に出てはもらえないか、と。
日和はみづきにそう告げるとずるずると崩れ落ちた。
両膝と両手を地面に付けて顔を伏せてしまう。
うっ、うぅ、という嗚咽の声だけが朽ちた境内に静かに漂っていた。
「あぁ、もう……。くっそぅ……!」
これ以上ないほどの泣き落としだったが、みづきはもう陥落寸前であった。
人には親切に、女の子には優しくを心掛けてきた。
損得勘定だけで意地悪な行動を自分に許していいものかと葛藤が始まった。
──結局、泣かせちまったか……。女の子に泣いて頼まれて、つれなく引き下がってしまっていいもんだろうか……。
この日和とはさっき会ったばかりで、厄介事を押し付けられようとしている。
代わりに矢面に立ってやる義理など多分無い。
まして、これが夢の中の出来事だというなら尚更である。
──このまま頼みを断って、試合に行かせて悲惨な結果になったら罪悪感に苛まれやしないか? もとい、寝覚めが悪くはならないか……?
しかし、情けは人のためならずであった。
これが夢幻の出来事だろうと変わらない。
日和を見捨て、自分は現実の世界へ帰るという選択は後悔を生むだろう。
みづきが心に掲げる信念に反するほどに。
──どうせこれも夢なんだろ? 勝っても負けても後はどうなっても関係ないんだ。それだったら、夢の中だけでもいい格好をしてもいいんじゃないか……?
自分に言い訳をして、危なげな橋を渡るのも仕方がないと折り合いをつける。
一度は頼みを突っぱねた手前だが、日和を可哀相に思って力になれないか、などと思い始めてしまっている。
──ダンジョンの世界でだって安請け合いをしたんだ。だから、この神様の世界でもお人好しでも……。いいよな……?
情に訴えられては非情になれない、それは悪いことではないと言い聞かせた。
優しさとお人好しは違うかもしれないが、もう考えるのが面倒になってくる。
だから、頭を片手で掻きながら長い長いため息をついて。
「もう、わかったよ……。出りゃいいんだろ……? 期待なんてすんなよ……。喧嘩なんてからっきし駄目なんだからな……」
とうとうみづきは降参したとばかりに白旗を振った
観念して日和の頼みを聞くことにしたのだった。
天神回戦とやらの試合に出る、という頼みを。
「ほ、本当かぁ……? ならば、約束をしてもらっても、構わぬか……?」
「ああ、本当だよ。約束でも何でもするよ……!」
地面に顔を向けたまま、日和は妙に震える声で言った。
みづきはそれに諦めと同情半分、後はどうにでもなれという消極性で応えた。
大変な安請け合いをしてしまったと後できっと思い知ることになりそうだ。
みづきはつくづくとそう思うのだった。
「そうかぁ……」
だからなのか──。
顔を伏せて泣いているはずの日和は、泣き顔には相応しくないつり上がった笑みを浮かべていた。
みづきには決して見えないように。
「ありがとうっ……! おぬしならきっとそう言ってくれると信じておったぞ! ……ええと、みづき、じゃったな!」
ぱっと変わり身早く顔を上げ、勢いよく立ち上がった日和は、今までの塞ぎっぷりが嘘のように輝かしい笑顔になっていた。
白玉童子の名前は引っ込め、自らのシキにみづきの名前を採用した様子だ。
さっきの弱々しい力とは打って変わり、逞しささえ感じさせる力で手をぎゅうっと握られる。
「さっきも言った通りじゃ。絶対に勝て、などと贅沢なことは言わん。引き分けて、次へと命を残すだけでもよい。よろしく頼むぞよ!」
「あ、ああ……」
言わずもがな、みづきは何だか騙された気分になった。
胡散臭そうな顔をしてみせるが、もう後の祭りである。
満面の笑顔でにこにこする日和にはもう何を言っても無駄なような気はする。
どちらにせよ、みづきが試合をしようが、日和が試合をしようが、負ければ一巻の終わりなのは変わらない。
日和を信じるのであれば、これはそういう話だ。
「──では早速じゃが、試合の日取りについて伝えさせてもらうぞ!」
腰に両手を当て、日和は嬉々としてみづきを見上げて言った。
それは、引き受けてしまってもう手遅れな今となっても、予想外でびっくり仰天をしてしまう知らせであった。
「試合は本日の午後一番の試合じゃ! 半刻後には執り行われるゆえ、すぐに会場へと向かうぞ。急な話で誠に済まんのじゃ!」
「えッ!? 今日!? しかも、半刻後って……。1時間後かよっ!?」
素っ頓狂な声をあげるみづきの頭上の太陽は丁度正午の位置くらい。
もうそろそろ午後の時間となる頃合だろう。
日和はさらににこやかに続ける。
「先ほどの白羽の矢を射合った此度の対戦相手は、神威明らかなる鍛冶と製鉄の神、天眼多々良殿の陣営、八百万順列第二位の相手よ!」
相手にとって不足なしじゃな、とからから笑う日和。
試合までの刻限がぎりぎりだったのを秘密にされていたことから嫌な予感はしたが、公開された対戦相手の順列にもひっくり返る思いであった。
「ほ、本当に不利な相手と戦うことになってやがるーっ……!」
番付表の神々の名は上から下まで無数に連ねられていて、同じ戦うのでももっと他に与しやすい相手を選べそうなものなのに。
よりにもよって、二位などという高位の相手と突き合わせられていたとは。
相手が一位ではなかっただけまだましだが、どう足掻いても強敵との試合は避けられない状況だ。
「しかもじゃ、重ねて済まぬのじゃが……」
八の字眉の上目遣いでぺろっと舌を出し、日和はさらに言った。
「おぬしを……。みづきを生み出すことに神通力を使い果たし、何の得物も持たせてやることもできん。つまり武器は無し、寸鉄も帯びずで済まぬーっ!」
「丸腰っ!? これがほんとの徒手空拳だぁーっ!」
やけっぱちにみづきは空を仰いで叫んでいた。
そのまま卒倒しそうにもなる。
間近に迫っていた試合の刻限、対戦相手の順列と強さに驚かされ、しかも素手で戦地に赴かなければならない。
思わぬ不利な条件を突きつけられ、いきなり絶体絶命の逆境から始まる。
──今回の夢はまた随分と厳しい立ち上がりだなぁ……。やっぱり、お人好しが災いしたのかもなぁ……。何だか、あのエルフの姉さんを思い出す……。
こことは別の異世界で、使命を果たすためにエルフという種族の保守性を遺憾なく発揮し、勇者への道へと後押ししたアイアノアの悪気の無い笑顔が脳裏に浮かぶ。
今度は女神を名乗る日和に泣きつかれた挙げ句に、無理難題を押し付けられてしてやられた感が半端ない。
「さあ、いくぞ、みづき! ぐずぐずしてはおれんのじゃー!」
思ったよりも強い力で手を握られて日和に引っ張られる。
すぐに試合会場に向かう言葉に嘘は無く、割れた石畳の境内を走り出す。
迷いなく向かう先には赤い鳥居が建っているが、その向こうはなだらかな崖で、金色の雲の下へと続く階段は見えない。
「ちょ、ちょっと待てよ……! 行くったって、どうやって……」
「黙って着いてくるがよい、すぐにわかるのじゃ!」
ぐいぐいと引っ張る日和の力に逆らえず、もう目の前に鳥居が迫っていた。
そして、鳥居をくぐる瞬間、眩しい光がみづきと日和を包み込む。
途端、視界が真っ白になり、身体中をぐにゃりと曲げられる感覚を覚え、頭の中が容赦無くぐるぐる回り出した。
「ぎゃああぁー!?」
全身が一度光に分解されて粒子となり、ここではないどこかへ飛んでいくようだ。
これはきっと、鳥居を使った空間転移の一種なのだろう。
空間を瞬時に飛んで、別の空間へと移動する際には激しい体調不良に見舞われると何かで聞いたことがあるが、あれは本当のことだったようだ。
あまりの気持ち悪さに悲鳴をあげるみづきは、失神して意識を失う最中にそんなことを思っていたのだった。
転移の行き先は、天神回戦と呼ばれる武芸試合の会場であろう。
おそらく待っているのは避けようのない戦いの運命だ。
ありふれた中世ファンタジー風の異世界の地下迷宮を冒険する物語の次は、和風な異世界で神様の力を巡って武芸を競う一風変わった物語。
これがまたぞろ夢ならば。
二つ目に始まったこの幻想の物語にどんな意味があるというのか。
はたまた夢ではないならば。
別の異世界転移に巻き込まれ、今度こそ本命の物語が開始されたというのか。
どうやら、まだしばらくみづきはこの不明な出来事から解放されなさそうで、何が起こっているのか皆目検討がつかない。
但し、これより始まる人外の祭典にまずは度肝を抜かれることになるであろう。
天神回戦祈願祭、太極天の力を争奪する、神々による秩序ある新たな戦争。
八百万順列最下位の日和陣営のシキとして、みづきの戦いは幕を開けた。
「ウーン……」
当のみづきは光の奔流の中を無茶苦茶に流されながら目を回す。
これよりのとんでもない顛末を知りもせず。
記憶の同期は徐々に、みづきを戦いの舞台へと導いていくのであった。
日和が無造作に両手を広げると、またも何も無いところから華美な巻物が現れて、生き物のように自分から広がった。
さっきの白羽の矢といい、こういった手合いの不思議アイテムはこの神の世界では当たり前なのだろう。
これも自分の想像で生み出しているのかと思うと違和感しか感じないが。
日和は巻物に記されている行末を示した。
「ここじゃ。この端っこのほう」
どうやら、これは勝負事の番付表のようなものだった。
天神回戦に参加している神々の陣営の順位を、何らかの基準でそれぞれ参照できるようだ。
漢字にも見える異世界の文字だが、不思議なことにみづきにはそれが読解できてしまった。
記されている事柄が何故かわかってしまうことに気味の悪さを感じつつ、みづきは覗き込んで呟いた。
「……あぁ、ぶっちぎりの最下位だなぁ……」
何かそれを示す情報が掲載されている訳ではない。
ただ、番付の末席に「合歓木日和ノ神」の名があるだけで、自陣の強さと順列が理解できてしまう。
何とも直感的で奇々怪々な情報伝達方法であった。
他陣営に比べ、突き放されて下の位置にいるとはっきりわかるほどに。
天神回戦に参加する神々やシキなら、一目見ただけで内容がわかるようになっていると、日和は語った。
そして、もう後がない、とも言った。
次に負ければ、力尽きて全てを失うのだという。
その後、彼女とこの神社はどうなるのだろう。
もう絶対に関わるまいと思っていたのに、やはり同情してしまうお人好しな性格と、一風変わった和テイストなファンタジー世界に興味が湧いてしまうみづき。
何気なくも、問いを投げてしまっていた。
「次に負けて、力が全部無くなったら……。その後はどうなるんだ?」
振り仰ぐ日和と目が合う。
幼い顔の円らな瞳がしっとりと潤み、悲しそうな顔で言葉を吐き出した。
「眠りにつくことになるじゃろうなぁ。いつ覚めるやも知れぬ永き永き眠りじゃ。──敗北の眠りと、古くから言われておる」
その言葉を聞くと何故か胸が痛む。
頭の奥が疼き、漠然とした不快感と忌避感が湧いた。
「神は不滅の存在じゃが、力を失った神はただ静かに眠るのみなのじゃ……。そのまま未来永劫眠り続けるか、はたまた何かの拍子で目覚めるのか……。それは文字通り神のみぞ知る、といったところじゃな。ふふふ……」
寂しげに笑う日和の次に取った行動に、みづきは面食らう。
両手を膝に揃え、小さい身体をさらに小さく折り曲げて、ゆっくりと綺麗な姿勢で頭を下げた。
「済まぬな……」
それは唐突な謝罪であった。
顔を下向きにしたまま、抑揚のない声で淡々と言葉を紡ぐ。
「私が滅べば、シキであるおぬしも存在することはできなくなる。天神回戦に出てくれぬのは残念じゃが、どのみちと結果は同じなのじゃよ。おぬしが試合に出ないならば、もう私自身で試合をやるしかなくなる。最後に華々しく戦い、散り行くその後で運命を共にしようぞ……」
みづきが試合に出ず、代わりの者もいないなら日和自身が出向くしかない。
力を失い、万策尽きた今となっては待っているのは玉砕の運命である。
創造主を失えば、そのしもべのシキも生き長らえることは叶わない。
「済まぬぅ……」
もう一度謝罪の言葉を口にし、日和は顔を上げた。
その顔を見たみづきは、驚いて目を見開いた。
「う……。うぅっ……」
日和の両の目からとめどない涙が流れ出していた。
大声を出すでもなく、大粒の涙をぼろぼろ零し、さめざめとむせび泣く。
「私とて、好きでこのような惨めな境遇になった訳ではないのじゃ……。神としての責務を果たし続けていきたいだけじゃというのに……。敗北の眠りになど、つきとうない……。ううぅっ、わぁぁぁ……」
無念と悲しみに暮れる日和の泣き声が、閑散とした境内に響き渡る。
そうしてとうとうその場にへたり込み、両手で顔を覆って泣き崩れてしまった。
「ああああぁぁぁ……。ひっく、ひっく……」
「うぐぐぐ……!?」
唸るみづきの居心地は大変に悪かった。
これはただの夢で、全部幻のはずである。
しかし、日和は嘘を言っているようには見えないし、神とはいえ見た目幼い少女に目の前で大泣きされるのは物凄く困った。
着物の幼女を泣かせるおかしな格好の男。
誰にも見られていないからいいものを、これが現実の世界でのことなら間違いなく通報案件である。
「お、おい、何もそんな泣くことは……」
焦ったみづきは思わず日和の肩に手を伸ばした。
見た目以上にその身体は華奢で弱々しく、涙する震えが手に伝わってくる。
「あ、あんたも一応、神様なんだろ……? 実際やってみたら、案外何とかなったりするんじゃないのか……? やるだけやってみたら──」
言いかけたところで、顔をくしゃくしゃにして泣く日和と再び目が合う。
哀れで痛ましい顔だった。
無責任な言葉で慰めるのがためらわれるほど、見ていられない様子であった。
言葉を詰まらせる様子のみづきを見上げ、日和は嗚咽交じりに言った。
「私は意気地無しじゃ……。この期に及んで戦うのが怖い、恐ろしいのじゃ……。いざ、自分がその憂き目に遭うのが、こんなにも怖いとは夢にも思わなんだ……」
死地に赴く辛苦を嘆き、怯えて縮こまってしまっている。
こんな弱々しい状態で満足な戦いなどできようはずもなかった。
「お願いじゃっ!」
「うわっ!?」
日和は縋りつくようにみづきの腰に抱きついた。
背に手を回してしがみ付き、涙に濡れた顔をしきりに擦り付ける。
振り払おうと思えば簡単に振り払えるか弱さだ。
しかし、そんな惨めな姿を邪険に扱うなどできそうになかった。
「後生なのじゃ……! やはり、どうか試合に出てはくれぬかっ!? 目覚しい戦果など望まぬ! おぬしだけが最後の希望なのじゃ! どうか、どうか……!」
強く抱きついたまま顔を上げ、みづきを見つめて涙を両目から零し続ける。
恥も外聞も無く、弱った女の情に任せて、日和は必死にみづきに懇願した。
「私を助けて……。お願いなのじゃ……」
かすれる弱々しい声で助けを求める。
一度は断られたが、今一度考え直して試合に出てはもらえないか、と。
日和はみづきにそう告げるとずるずると崩れ落ちた。
両膝と両手を地面に付けて顔を伏せてしまう。
うっ、うぅ、という嗚咽の声だけが朽ちた境内に静かに漂っていた。
「あぁ、もう……。くっそぅ……!」
これ以上ないほどの泣き落としだったが、みづきはもう陥落寸前であった。
人には親切に、女の子には優しくを心掛けてきた。
損得勘定だけで意地悪な行動を自分に許していいものかと葛藤が始まった。
──結局、泣かせちまったか……。女の子に泣いて頼まれて、つれなく引き下がってしまっていいもんだろうか……。
この日和とはさっき会ったばかりで、厄介事を押し付けられようとしている。
代わりに矢面に立ってやる義理など多分無い。
まして、これが夢の中の出来事だというなら尚更である。
──このまま頼みを断って、試合に行かせて悲惨な結果になったら罪悪感に苛まれやしないか? もとい、寝覚めが悪くはならないか……?
しかし、情けは人のためならずであった。
これが夢幻の出来事だろうと変わらない。
日和を見捨て、自分は現実の世界へ帰るという選択は後悔を生むだろう。
みづきが心に掲げる信念に反するほどに。
──どうせこれも夢なんだろ? 勝っても負けても後はどうなっても関係ないんだ。それだったら、夢の中だけでもいい格好をしてもいいんじゃないか……?
自分に言い訳をして、危なげな橋を渡るのも仕方がないと折り合いをつける。
一度は頼みを突っぱねた手前だが、日和を可哀相に思って力になれないか、などと思い始めてしまっている。
──ダンジョンの世界でだって安請け合いをしたんだ。だから、この神様の世界でもお人好しでも……。いいよな……?
情に訴えられては非情になれない、それは悪いことではないと言い聞かせた。
優しさとお人好しは違うかもしれないが、もう考えるのが面倒になってくる。
だから、頭を片手で掻きながら長い長いため息をついて。
「もう、わかったよ……。出りゃいいんだろ……? 期待なんてすんなよ……。喧嘩なんてからっきし駄目なんだからな……」
とうとうみづきは降参したとばかりに白旗を振った
観念して日和の頼みを聞くことにしたのだった。
天神回戦とやらの試合に出る、という頼みを。
「ほ、本当かぁ……? ならば、約束をしてもらっても、構わぬか……?」
「ああ、本当だよ。約束でも何でもするよ……!」
地面に顔を向けたまま、日和は妙に震える声で言った。
みづきはそれに諦めと同情半分、後はどうにでもなれという消極性で応えた。
大変な安請け合いをしてしまったと後できっと思い知ることになりそうだ。
みづきはつくづくとそう思うのだった。
「そうかぁ……」
だからなのか──。
顔を伏せて泣いているはずの日和は、泣き顔には相応しくないつり上がった笑みを浮かべていた。
みづきには決して見えないように。
「ありがとうっ……! おぬしならきっとそう言ってくれると信じておったぞ! ……ええと、みづき、じゃったな!」
ぱっと変わり身早く顔を上げ、勢いよく立ち上がった日和は、今までの塞ぎっぷりが嘘のように輝かしい笑顔になっていた。
白玉童子の名前は引っ込め、自らのシキにみづきの名前を採用した様子だ。
さっきの弱々しい力とは打って変わり、逞しささえ感じさせる力で手をぎゅうっと握られる。
「さっきも言った通りじゃ。絶対に勝て、などと贅沢なことは言わん。引き分けて、次へと命を残すだけでもよい。よろしく頼むぞよ!」
「あ、ああ……」
言わずもがな、みづきは何だか騙された気分になった。
胡散臭そうな顔をしてみせるが、もう後の祭りである。
満面の笑顔でにこにこする日和にはもう何を言っても無駄なような気はする。
どちらにせよ、みづきが試合をしようが、日和が試合をしようが、負ければ一巻の終わりなのは変わらない。
日和を信じるのであれば、これはそういう話だ。
「──では早速じゃが、試合の日取りについて伝えさせてもらうぞ!」
腰に両手を当て、日和は嬉々としてみづきを見上げて言った。
それは、引き受けてしまってもう手遅れな今となっても、予想外でびっくり仰天をしてしまう知らせであった。
「試合は本日の午後一番の試合じゃ! 半刻後には執り行われるゆえ、すぐに会場へと向かうぞ。急な話で誠に済まんのじゃ!」
「えッ!? 今日!? しかも、半刻後って……。1時間後かよっ!?」
素っ頓狂な声をあげるみづきの頭上の太陽は丁度正午の位置くらい。
もうそろそろ午後の時間となる頃合だろう。
日和はさらににこやかに続ける。
「先ほどの白羽の矢を射合った此度の対戦相手は、神威明らかなる鍛冶と製鉄の神、天眼多々良殿の陣営、八百万順列第二位の相手よ!」
相手にとって不足なしじゃな、とからから笑う日和。
試合までの刻限がぎりぎりだったのを秘密にされていたことから嫌な予感はしたが、公開された対戦相手の順列にもひっくり返る思いであった。
「ほ、本当に不利な相手と戦うことになってやがるーっ……!」
番付表の神々の名は上から下まで無数に連ねられていて、同じ戦うのでももっと他に与しやすい相手を選べそうなものなのに。
よりにもよって、二位などという高位の相手と突き合わせられていたとは。
相手が一位ではなかっただけまだましだが、どう足掻いても強敵との試合は避けられない状況だ。
「しかもじゃ、重ねて済まぬのじゃが……」
八の字眉の上目遣いでぺろっと舌を出し、日和はさらに言った。
「おぬしを……。みづきを生み出すことに神通力を使い果たし、何の得物も持たせてやることもできん。つまり武器は無し、寸鉄も帯びずで済まぬーっ!」
「丸腰っ!? これがほんとの徒手空拳だぁーっ!」
やけっぱちにみづきは空を仰いで叫んでいた。
そのまま卒倒しそうにもなる。
間近に迫っていた試合の刻限、対戦相手の順列と強さに驚かされ、しかも素手で戦地に赴かなければならない。
思わぬ不利な条件を突きつけられ、いきなり絶体絶命の逆境から始まる。
──今回の夢はまた随分と厳しい立ち上がりだなぁ……。やっぱり、お人好しが災いしたのかもなぁ……。何だか、あのエルフの姉さんを思い出す……。
こことは別の異世界で、使命を果たすためにエルフという種族の保守性を遺憾なく発揮し、勇者への道へと後押ししたアイアノアの悪気の無い笑顔が脳裏に浮かぶ。
今度は女神を名乗る日和に泣きつかれた挙げ句に、無理難題を押し付けられてしてやられた感が半端ない。
「さあ、いくぞ、みづき! ぐずぐずしてはおれんのじゃー!」
思ったよりも強い力で手を握られて日和に引っ張られる。
すぐに試合会場に向かう言葉に嘘は無く、割れた石畳の境内を走り出す。
迷いなく向かう先には赤い鳥居が建っているが、その向こうはなだらかな崖で、金色の雲の下へと続く階段は見えない。
「ちょ、ちょっと待てよ……! 行くったって、どうやって……」
「黙って着いてくるがよい、すぐにわかるのじゃ!」
ぐいぐいと引っ張る日和の力に逆らえず、もう目の前に鳥居が迫っていた。
そして、鳥居をくぐる瞬間、眩しい光がみづきと日和を包み込む。
途端、視界が真っ白になり、身体中をぐにゃりと曲げられる感覚を覚え、頭の中が容赦無くぐるぐる回り出した。
「ぎゃああぁー!?」
全身が一度光に分解されて粒子となり、ここではないどこかへ飛んでいくようだ。
これはきっと、鳥居を使った空間転移の一種なのだろう。
空間を瞬時に飛んで、別の空間へと移動する際には激しい体調不良に見舞われると何かで聞いたことがあるが、あれは本当のことだったようだ。
あまりの気持ち悪さに悲鳴をあげるみづきは、失神して意識を失う最中にそんなことを思っていたのだった。
転移の行き先は、天神回戦と呼ばれる武芸試合の会場であろう。
おそらく待っているのは避けようのない戦いの運命だ。
ありふれた中世ファンタジー風の異世界の地下迷宮を冒険する物語の次は、和風な異世界で神様の力を巡って武芸を競う一風変わった物語。
これがまたぞろ夢ならば。
二つ目に始まったこの幻想の物語にどんな意味があるというのか。
はたまた夢ではないならば。
別の異世界転移に巻き込まれ、今度こそ本命の物語が開始されたというのか。
どうやら、まだしばらくみづきはこの不明な出来事から解放されなさそうで、何が起こっているのか皆目検討がつかない。
但し、これより始まる人外の祭典にまずは度肝を抜かれることになるであろう。
天神回戦祈願祭、太極天の力を争奪する、神々による秩序ある新たな戦争。
八百万順列最下位の日和陣営のシキとして、みづきの戦いは幕を開けた。
「ウーン……」
当のみづきは光の奔流の中を無茶苦茶に流されながら目を回す。
これよりのとんでもない顛末を知りもせず。
記憶の同期は徐々に、みづきを戦いの舞台へと導いていくのであった。
応援ありがとうございます!
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