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プロローグ

第1話 幼馴染みとの夜から

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 男は暗く広大な地下迷宮で絶体絶命の危機を迎えていた。
 目の前にそびえ立っているのは伝説の魔物である。

「……ドラゴン……!?」

 自分で言ってみて呆れた。
 赤い鱗の巨体、レッドドラゴンである。
 頭に浮かんだ表現はそれしかなかったが、こんなもの居るはずがない。
 少なくとも現実の世界には──。

「あ、あ……!」

 なんだこれは、どういうことだという言葉も出てこない。
 あまりの突然の出来事に頭も身体もついてきていなかった。

──俺はただ、幼馴染みの夕緋ちゃんが忘れたストールを届けようと、アパートの部屋のドアを開けて外に出ただけだ。なのに、なんでダンジョンでドラゴンと戦う羽目になっているんだよ……!?

 男は、佐倉三月さくらみづき、28歳。
 身長は成人男性平均程度の172センチ。
 今日も仕事を終え、自宅アパートに帰宅し、幼馴染みと夕食を共にしていた。
 それがどうして今はこんなことになっているのか訳がわからない。

 ともかく、三月は無我夢中であった。

 暗い回廊がゴオオッと真っ赤に光り、ドラゴンが凄まじい火炎を吐き出した。
 標的はもちろん三月である。
 問答無用で迫るこんな炎を浴びれば、骨も残らず燃やし尽くされてしまう。

「な、なんだ……!? これ、俺がやってるのか……!?」

 知らない内に三月はドラゴンに背を向ける形で立っていて、両手を精一杯に広げて仁王立ちをする格好をしていた。
 驚くべきは自分を中心にして光の壁が巻き起こり、炎の勢いと熱を防いでいる。

 これは自分がやっている、という確かな感覚があった。
 ドラゴンの炎は届いていない。
 続けて自然に身体が動く。

「食らえッ! ちょっとは燃やされるほうの身にもなってみやがれッ!」

 威勢の良い台詞が口から滑り出る。
 炎を防ぐ障壁を展開しつつ、身体を捻ってドラゴンのほうへ向いた。

 姿勢を低くして、顔を突き出し、口をぐぁっと開ける。
 瞬間的に身体の奥から熱い何かが込み上がり、開けた口から噴き出した。

 ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォッ……!!

 何と三月の口から飛び出したのは、巨大な炎の息であった。
 直前にこの赤いドラゴンが吐き出した炎とそっくり同じである。
 意趣返しとばかりに噴き返した炎は、ドラゴンの炎とぶつかり合い、空中で相殺されて互いに消えてしまった。

──俺、なんでバリアなんか張ってドラゴンの炎を防いでるんだ? しかも、それとおんなじくらいの火を噴いてドラゴンと張り合ってるだって!? いったいこれは何の悪い冗談なんだ……!?

 人間の三月にこんな芸当ができる訳も無い。
 だが、知らない能力が身体の内に備わっていて、できてしまう。

 驚愕する表情に嫌な脂汗が浮かび、たらりと流れていった。
 三月の見上げる視線とドラゴンの見下ろす視線が交錯し、一瞬時間が止まったかのような感覚を覚えるが、直後にそれが錯覚だと気付くきっかけが訪れた。

「ミヅキーッ、逃げろーッ!!」

 あらん限りの声を張り上げる黄色い叫びが背後から飛んできた。
 悲鳴にも似たその声は通路に響き渡り、反響する。
 それが誰の叫び声なのか確かめる余裕はなく、ドラゴンはまたしても大きい口を開き、赤く燃え盛る炎を吐き出しそうである。

 そういえば名前を呼び捨てで呼ばれるのは随分と久しぶりだと感じた。
 その程度には現実逃避できていて、錆びついた思考が軋むようにゆっくりと動き出していた。

──だけど、なんで……?!

 問い掛けるのは、訳のわからない状況に対してだけではない。
 頭の中に降って湧いたみたいに発生した記憶に驚いていた。

──なんで、どうしてこうなったのかを思い出せるんだ……!? 俺には、これが何なのかが理解できてしまう……!

 瞬間的に思い出した、という表現は適切ではない。
 こんな状況に至る記憶をどういう訳か、三月は以前から予め知っていたみたいに思い出すことができた。

 何故こんな場所でドラゴンなんて化け物と出くわしたのかを思い返していた。
 思えば確かにこの場所、地下迷宮ダンジョンへ入る前から不穏で危険な気配はあった。

 それなのに連れの少女、キッキが不用意に飛び込むものだから。
 三月は思いも寄らない危険に見舞われてしまったのである。

──キッキって誰だっけ……? それにダンジョンだって……?!

 覚えているようないないような記憶が頭を混乱させた。
 動揺する思いとは裏腹、脳ははっきりと状況を把握していく。

──いや、待てよ……。

 思考は徐々に回り出した。
 混乱は少しずつ収まってきていた。

──落ち着け、初めから思い出せ……! どうしてこうなった……!?

 三月は思い出す。
 今ここに至るまでの顛末を。

 意識と記憶が巡り、これが何であったのかを理解する。
 夢か幻か、はたまた紛れもない現実かどうかを思い知る。

「はぁ、はぁ……。はぁ……」

 息は乱れ、全身に冷や汗を浮かべ、心臓がどくどくと脈打っていた。
 焦りと戸惑いを抑え、三月は認めざるを得ない事実を思うのであった。

──多分、俺は巻き込まれてしまったんだ……! 異世界転移ってやつに!


◇◆◇


 時間は幾らかを遡る──。

 仕事から帰ってきた三月は2階建ての自宅アパートの部屋へと向かう。
 鉄製の階段をカン、カン、と音を立てて上がった。
 自室の前に立ち、ディンプルシリンダーの鍵のくぐもった金属音が鳴ると、ドアはゆっくりと開いた。

 薄暗い部屋の中にひゅうと木枯らしが吹き込んだ。
 季節は秋も終わり、11月の末。

 三月はくたびれた表情にため息をつき、靴を玄関に最低限に脱ぎ揃えて部屋の中へ上がり、歩きながら照明のスイッチを入れた。
 仕事帰りに作業着のまま、部屋の中央の炬燵テーブルに顎を乗せて座り込む。

「ふぅ……」

 一息をついてしばし動きを止める。
 ふと向ける目線の先、テレビが鎮座する白いサイドボードが設置されている。
 その上には写真立てがあった。

 茶褐色のフォトフレームには、古ぼけて色褪せた写真が収まっている。
 それは一枚の懐かしい思い出の一幕だ。
 学生服を着た自分を挟んで両隣に、二人の女子生徒が同じ高校の制服姿で写っていた。

 しばらく写真を眺め、三月はもう一度短いため息をつく。
 わずかに口角が上がった。

「……ただいま」

 そして、呟くように写真立てに向かってそう言った。

 今日も仕事を終え、帰宅後の束の間の休憩中。
 しばらくもぞもぞとそうしていたが、時計を見やると午後7時少し前。

「よし」

 誰に言うでもない声を発して三月は立ち上がる。
 部屋の入り口の横にあるキッチンの前に立った。

 アパートの間取りは1DKで、一人暮らしには特に不自由しない何の変哲も無い普通の部屋である。
 キッチンの板張りの足元の隅に置かれた、精米済みの米袋から計量カップで米をすくい出し、手馴れた手つきで米を流しで洗い始めた。

 ただ、その分量は一人分ではなく、二人分だった。
 当然、分量を間違えた訳でも、二人分の量を一人で食べる訳でもない。
 三月が米を研ぎ終えて炊飯器のスイッチを入れる頃、すぐ横にある玄関のインターホンがピンポーン、と鳴った。

「どうぞー、開いてるよー!」

 ドアの向こうにいる相手に三月は声を掛ける。
 すると、よく見知った来訪者がドアを開けた。

「こんばんわ、三月さん」

 物静かな笑顔を浮かべ、ストールを巻いた冬服姿の、綺麗な黒のロングヘアーの女性が部屋を訪れた。
 ドアノブを押した手の、もう片方の手には食材の詰まったビニールの買い物袋が下げられている。

「お仕事お疲れ様です。お邪魔しますね」

 澄んだ通る声でそう言うと、自分の脱いだ靴だけでなく、三月が適当に脱いだ靴も揃え直し、長い黒髪の女性はぺこりとおじぎをしながら部屋に上がった。

 神水流夕緋かみづるゆうひ
 年齢は三月と同じ28歳で、身長はこちらも平均程度の162センチほど。
 どこか影のある内向的な美人という印象で、控えめそうなその姿は見た目よりも小さく映ってしまうかもしれない。

「こんばんわ、夕緋ちゃん」

「遅くなってしまってごめんなさい。お米、炊いてくれてたんですね、ありがとうございます」

 親しげに声を掛ける三月に笑顔で応え、夕緋はベージュのストールと黒地の上着を脱ぐといそいそとキッチンに立った。
 きゅっと備え付けてある紺色のエプロンの紐を後ろ手に結び、長く綺麗な髪を後ろで一つに結い、振り向きながら三月に柔らかい視線を投げる。

「お腹空いてますよね。すぐお夕食つくります」

「うん、いつもありがとうね。お世話になります」

「好きでやってることなので……。三月さんは座って待っててください」

 伏せ目がちに柔らかい微笑を浮かべる夕緋。

 これは彼女の日課だった。
 お互いに仕事を終えてから夕緋が三月の家に夕食をつくりにきて、食事の時間を共に過ごす。

 その日あったことや思ったことをあれやこれやと和気藹々と話すのである。
 そんな夕餉のひとときは、二人のささやかな楽しみだった。

 ただ、このアパートは三月が一人で住んでいるもので、夕緋とは寝食を共にしているわけではない。
 夕緋はこの近くに住んでおり、傍から見れば通い妻のように見えるが、これまた二人は付き合っているわけでもない。
 普通に考えれば、二人はおかしな関係と他人には映ることだろう。

「今日はお鍋にしますね。11月も終わりですし、一段と寒くなってきましたから」

「あぁ、いいねえ。そろそろ鍋の季節かぁ」

 三月の良い反応に夕緋は満足そうに微笑んだ。
 勝手見知ったる、といった動作で土鍋やら包丁などを台所のあちこちから取り出して準備していく夕緋。
 その様子は二人のこの営みが何度も繰り返されているのを物語っている。

 ガサガサッと、スーパーのレジ袋から食材を出して、すぐにまな板の上で包丁の刻む音が響き始めた。
 夕緋の手際のいい調理の様子を眺めながら、穏やかな時間は過ぎていった。
 くらくらと鍋の煮える聞こえのいい音がし始める頃、夕緋は三月に声を掛けた。

「できましたよー。机の上を空けてくださいねー」

 可愛らしい柄の鍋つかみで熱い水炊きの鍋を運んでくる。
 炬燵テーブル上の鍋敷きにゆっくりと腰をかがめて土鍋を置いた。

「よいしょっと」

 ちらりと夕緋の視界に、テレビのサイドボード上の写真立てが入る。
 姿勢的にも動作的にも、自然と目に映る格好だった。

「……」

 写真に写る学生服の三月と二人の少女、その内の一人は紛れもなく懐かしき時分の夕緋のものであった。

 もう一人の少女は儚げな笑顔の夕緋とは対照的で、黒髪のボブカットな髪型。
 明るく弾ける笑顔をたたえて三月を挟んで立っている。
 その少女は、夕緋と顔や容姿がとてもよく似ていた。

「……あ、ご飯よそってくるよ」

 一瞬、夕緋が写真を見ていたのに気づいた三月は、気を遣った風な素振りで立ち上がった。
 夕緋はその背中に、はい、とだけ返事をする。
 ただその後、彼女は特にそれに触れたり、気にしたりすることはなかった。


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