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104号室 (3)
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超大型台風が巻き起こす風音が、強くなっているような気がする。
「待てい」と天狗様が言った。彼が車椅子を使わずに立っているのを初めて見た。それから彼は埃に咳き込む。扇を手に持っていて、それを振ると忽ち埃は霧散した。
キチガイ女は天狗様のほうを振り返る。
「空から降っといて、詫びひとつないんか」と天狗様が言う。彼は扇を少しだけ開き、自らを扇ぐ。扇からは男の呻き声のような音がする。それから、うつ伏せの巨漢とその下の血溜まりを横目で見る。
「頭が高い。跪け。貴様は神の眼前にいるのだぞ」と天狗様は言う。
「神はひとりしかいません。そして、それはあなたではない」と女は答える。
「貴様は神の逆鱗に触れたのだ。一度ならず二度までも」
「神であるならば、その証拠を見せなさい。異教のペテン師が」
天狗様は扇を閉じて、女の膝の辺りに向ける。
「跪け」と扇をゆっくりと横に動かすと、女の脚の筋肉がすべてすっぽり抜かれてしまったみたいに、膝が落ちて跪く。一瞬遅れて、豚の断末魔のような女の絶叫が響く。倒れようとする胴体を、両腕で支えようとする。右肘の関節がより深く逆にひしゃげる。
「頭が高い」と扇を少しだけ振り下ろすと、強い重力が一点に生じたように、女は床にめり込むように突っ伏す。
「動くな」と扇を左右に軽く振ると、女の両腕が機能しなくなり、だらんと脱力する。
キチガイ女は天狗様を凝視する。そして、四肢の自由を剥奪された後でも、顔と胴体だけで這いながら天狗様ににじり寄り、襲いかかろうとする。
天狗様は扇を払うように振ると、女は玩具のように後方に吹き飛ばされ壁に激突した。
女は穴から階上を見上げ、貞操帯をつけた少年に向かい、泣きながら叫ぶ。
「愛してる!ママはあなたを愛してる!いつまでも!死んでも永遠に愛してる!」
それから声帯抜かれた男のほうを向く。
「あなた。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。それでも、あなたを愛してる」
天狗様は瓦礫に腰掛け、煙草を吹かす。それから、うつ伏せの巨漢を見つめる。
「あれだけ痩せろと言ったであろう。心根はよいかもしれんが、阿呆で叶わん。脳みそに脂肪が詰まっとる。一族から出来損ないの木偶の坊と蔑まれようとも、純血主義者どもから混血と差別されようとも、それでも儂にとっては可愛い倅だ。先に逝くほどの親不孝はないぞ」
キチガイ女は依然として言葉にならない愛を叫んでいる。
「煩い」と天狗様が扇を払うように横に動かすと、豪速球がキャッチャーミットに収まったようなスパンというキレの良い破裂音とともに女の口がなくなる。理屈など全くわからないが、そこには穴もなく、皮に埋もれてただただ口がなくなっていた。女は口を手探りするが、そこには何もない。口を塞がれたように、「んー!んー!んー!」と叫ぶばかりになった。あまりに理不尽な力だった。
「もう面倒だの。全部消すかの」と天狗様は呟き、開かれた扉から天を見やる。
「ああ、そうか。これは天の思し召しだったか」
天狗様は扇をひとつずつ開いていく。
「今日この扇が振られるのは、天が決めた。儂はその道具でしかない。力でなく、血で振るのだ。この扇を振れるのは、一族で儂だけ。世継ぎも期待できん」
扇を開き切り、能のように舞踊り謳う。ただの私の不勉強かもしれないが、それは日本語ではないように聞こえた。神事を目の当たりにしているのかもしれないと私は思った。
腰を落として構える。それは綺麗な扇だった。超大型台風の風が、より強くなり建物を震わせる。
天狗様は右腕に力を込めて、振ろうとするが扇は一切動かない。水を放出させながら手を離れたホースのように、右腕からこめかみにかけて浮き出た血管がはち切れて暴れ出してしまいそうだった。食いしばることにより、歯が縦に割れる。全力にも微動だにしない扇は、まるで南シナ海の熱帯低気圧を捉えているようだった。
扇が微かに動くと、男の呻き声のような音が鳴る。扇は加速していき、やがて地獄で炙られる何千という男たちの呻き声のような音をさせながら、強い風を巻き起こす。
その風は玄関の扉を一瞬で吹き飛ばし、壁一面を根こそぎ薙ぎ倒した。木造アパートは半壊した。渾身の一振りだった。
そして、キチガイ女はその風をもろに受け、塵となり消えた。神隠しをみた。風で塵に帰すという、幾分パワースタイルの神隠しだった。
「加減ができんで、すまない」と天狗様が呟く。「酷な話だが、この世は御主らではなく、私等を軸に回っておる。だから、御主らにとってこの世は不条理なものであろう」
きっと名のある天狗なのだろう。私はそう思った。あと、これって保険とか降りるのかなとも思った。
「安心しろ。世界が儂に合わせる」と神通力で見透かしたように天狗様が言った。
「待てい」と天狗様が言った。彼が車椅子を使わずに立っているのを初めて見た。それから彼は埃に咳き込む。扇を手に持っていて、それを振ると忽ち埃は霧散した。
キチガイ女は天狗様のほうを振り返る。
「空から降っといて、詫びひとつないんか」と天狗様が言う。彼は扇を少しだけ開き、自らを扇ぐ。扇からは男の呻き声のような音がする。それから、うつ伏せの巨漢とその下の血溜まりを横目で見る。
「頭が高い。跪け。貴様は神の眼前にいるのだぞ」と天狗様は言う。
「神はひとりしかいません。そして、それはあなたではない」と女は答える。
「貴様は神の逆鱗に触れたのだ。一度ならず二度までも」
「神であるならば、その証拠を見せなさい。異教のペテン師が」
天狗様は扇を閉じて、女の膝の辺りに向ける。
「跪け」と扇をゆっくりと横に動かすと、女の脚の筋肉がすべてすっぽり抜かれてしまったみたいに、膝が落ちて跪く。一瞬遅れて、豚の断末魔のような女の絶叫が響く。倒れようとする胴体を、両腕で支えようとする。右肘の関節がより深く逆にひしゃげる。
「頭が高い」と扇を少しだけ振り下ろすと、強い重力が一点に生じたように、女は床にめり込むように突っ伏す。
「動くな」と扇を左右に軽く振ると、女の両腕が機能しなくなり、だらんと脱力する。
キチガイ女は天狗様を凝視する。そして、四肢の自由を剥奪された後でも、顔と胴体だけで這いながら天狗様ににじり寄り、襲いかかろうとする。
天狗様は扇を払うように振ると、女は玩具のように後方に吹き飛ばされ壁に激突した。
女は穴から階上を見上げ、貞操帯をつけた少年に向かい、泣きながら叫ぶ。
「愛してる!ママはあなたを愛してる!いつまでも!死んでも永遠に愛してる!」
それから声帯抜かれた男のほうを向く。
「あなた。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。それでも、あなたを愛してる」
天狗様は瓦礫に腰掛け、煙草を吹かす。それから、うつ伏せの巨漢を見つめる。
「あれだけ痩せろと言ったであろう。心根はよいかもしれんが、阿呆で叶わん。脳みそに脂肪が詰まっとる。一族から出来損ないの木偶の坊と蔑まれようとも、純血主義者どもから混血と差別されようとも、それでも儂にとっては可愛い倅だ。先に逝くほどの親不孝はないぞ」
キチガイ女は依然として言葉にならない愛を叫んでいる。
「煩い」と天狗様が扇を払うように横に動かすと、豪速球がキャッチャーミットに収まったようなスパンというキレの良い破裂音とともに女の口がなくなる。理屈など全くわからないが、そこには穴もなく、皮に埋もれてただただ口がなくなっていた。女は口を手探りするが、そこには何もない。口を塞がれたように、「んー!んー!んー!」と叫ぶばかりになった。あまりに理不尽な力だった。
「もう面倒だの。全部消すかの」と天狗様は呟き、開かれた扉から天を見やる。
「ああ、そうか。これは天の思し召しだったか」
天狗様は扇をひとつずつ開いていく。
「今日この扇が振られるのは、天が決めた。儂はその道具でしかない。力でなく、血で振るのだ。この扇を振れるのは、一族で儂だけ。世継ぎも期待できん」
扇を開き切り、能のように舞踊り謳う。ただの私の不勉強かもしれないが、それは日本語ではないように聞こえた。神事を目の当たりにしているのかもしれないと私は思った。
腰を落として構える。それは綺麗な扇だった。超大型台風の風が、より強くなり建物を震わせる。
天狗様は右腕に力を込めて、振ろうとするが扇は一切動かない。水を放出させながら手を離れたホースのように、右腕からこめかみにかけて浮き出た血管がはち切れて暴れ出してしまいそうだった。食いしばることにより、歯が縦に割れる。全力にも微動だにしない扇は、まるで南シナ海の熱帯低気圧を捉えているようだった。
扇が微かに動くと、男の呻き声のような音が鳴る。扇は加速していき、やがて地獄で炙られる何千という男たちの呻き声のような音をさせながら、強い風を巻き起こす。
その風は玄関の扉を一瞬で吹き飛ばし、壁一面を根こそぎ薙ぎ倒した。木造アパートは半壊した。渾身の一振りだった。
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「加減ができんで、すまない」と天狗様が呟く。「酷な話だが、この世は御主らではなく、私等を軸に回っておる。だから、御主らにとってこの世は不条理なものであろう」
きっと名のある天狗なのだろう。私はそう思った。あと、これって保険とか降りるのかなとも思った。
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