南シナからの風は呻きとなり響き

夏目有也

文字の大きさ
上 下
3 / 10

104号室

しおりを挟む
 その老人は、なぜか天狗様と呼ばれていた。生前に私の母親がそう彼を呼んでいた。私が大家になる遥か前から104 号室 で一人暮らしをしているが、戦後のごたごたで年齢不詳であるらしい。
 生前には管理人だった私の母が、天狗様と何やら話し込むところを見かけることが多かった。天狗様は一貫として徹底した聞き役で、母が俯きながら永延ぼそぼそと何かを喋っていた。天狗様は樹齢百年の木目みたいな皺くちゃな顔をしているが、小柄ながら身体に芯があるように背筋がのびた老人だった。いつも着物を着ていて、袖口から覗く前腕は筋張っている。鼻の高さも特徴的で、ハゲ鷹のような顔の造形だった。
 なんでこの木造アパートには、猛禽類みたい風貌の奴ばかりいるんだろうか。若かりし頃にはさぞ恐れられたであろうその眼力と筋の通った鼻で、渾名の由来であろう天狗に見えなくもなかった。

 母が天狗様に話している内容を一度だけたまたま耳にしたことがあった。それは日本語ではなかった。かといって、何語かもわからない言葉を母は口にしていた。
 母は世界を巡るような旅番組を録画するくらい好きだった。特にハワイに強い憧れがあるようだった。そのくせ飛行機が恐ろしいからと国外に旅行すらしたことがなかった。あの巨大な鉄の塊が飛ぶということが信じられないようだった。なんだったら、結界で封じ込まれているみたいに台東区からも出ることはあまりなかったぐらいだ。言語が堪能なんて話も聞いたことはない。そんな母が、母国語とも英語とも異なる言語を話していたのが奇怪だった。

 天狗荘の傍には祠があった。その祠の前に天狗様が車椅子に腰掛け佇んでいた。日向ぼっこをしているのか、はたまたほうけてわけわからず放心しているのかわからなかったが、喘ぎ声の調査のため私はこの老人に声を掛けてみることにした。天狗様はえらく耳が遠そうだった。
「騒音とか聞こえませんか?」私は小さめの声で訊く。
「・・・」
「騒音とか聞こえないですか?」私は耳元で囁いてみる。
「・・・」
「聞こえてますか?」私は耳元で大きめの声で訊く。
「・・・」
「おじいちゃん!聞こえる!!?」私は耳元で叫ぶ。
うるさい!」
「あ、やっぱ騒音はあるのね」
「お前の声が聞こえるから、そんな耳元で声張るなってことだ、戯け」
「ああ、そっちね」
「お前のほうが騒音だ、間抜け。全く馬鹿ばっかでかなわん」
「騒音は聞こえます?喘ぎ声が聞こえるとか」
「それも聞こえる」
「どこから?」
 天狗様は手に持った扇を微かに動かし、204 号室を指し示す。
「そうなんですね。204 号室について、何か知っていることないですかね?そういう騒音が出そうな背景とか」
「知らん」
「菓子折りあげるんで、食べかけですけど」
「要らん」
「じゃあ、僕の推理なんですが」
「聞かん」
「お礼は弾みますよ」
 暫くの沈黙が鎮座し、蝉の合唱だけが聞こえた。
「・・・よお、わからんが、あれは宗教狂いだの」
「宗教狂い」

 その言葉で、私は再び母を思い出す。彼女は善良な人だった。笑顔を絶やすことない人だった。放蕩していた父が事故死して以来、祠でいつもお祈りをしていた。朝昼晩とお供物をして、祠を毎日綺麗に掃除していた。そして、祈り狂い死んだ。
「神様は耳が遠いのかもしれん」そんな母がぽつりとそう言ったことを思い出す。「いいお医者さん知ってるから、教えてあげたいの。それも聞こえんか」
 母が通い詰めていた耳鼻科には覚えがあった。その耳鼻科の医者は、愛想だけはいいもののヤブ医者と巷で噂だった。そんな噂を母に教えようとも考えたが、長年通院し何故だか全幅の信頼を寄せている医者の悪評を伝えるのはなんだか心苦しく、結局は何も言わなかった。

 最後に母について天狗様に聞いてみた。
「あれは善人だった」そう天狗様は答えた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

パラサイト/ブランク

羊原ユウ
ホラー
舞台は200X年の日本。寄生生物(パラサイト)という未知の存在が日常に潜む宵ヶ沼市。地元の中学校に通う少年、坂咲青はある日同じクラスメイトの黒河朱莉に夜の旧校舎に呼び出されるのだが、そこで彼を待っていたのはパラサイトに変貌した朱莉の姿だった…。

ストーカー【完結】

本野汐梨 Honno Siori
ホラー
大学時代の元カノに地獄の果てまで付きまとわれた話

熾ーおこりー

ようさん
ホラー
【第8回ホラー・ミステリー小説大賞参加予定作品(リライト)】  幕末一の剣客集団、新撰組。  疾風怒濤の時代、徳川幕府への忠誠を頑なに貫き時に鉄の掟の下同志の粛清も辞さない戦闘派治安組織として、倒幕派から庶民にまで恐れられた。  組織の転機となった初代局長・芹澤鴨暗殺事件を、原田左之助の視点で描く。  志と名誉のためなら死をも厭わず、やがて新政府軍との絶望的な戦争に飲み込まれていった彼らを蝕む闇とはーー ※史実をヒントにしたフィクション(心理ホラー)です 【登場人物】(ネタバレを含みます) 原田左之助(二三歳) 伊代松山藩出身で槍の名手。新撰組隊士(試衛館派) 芹澤鴨(三七歳) 新撰組筆頭局長。文武両道の北辰一刀流師範。刀を抜くまでもない戦闘の際には鉄製の軍扇を武器とする。水戸派のリーダー。 沖田総司(二一歳) 江戸出身。新撰組隊士の中では最年少だが剣の腕前は五本の指に入る(試衛館派) 山南敬助(二七歳) 仙台藩出身。土方と共に新撰組副長を務める。温厚な調整役(試衛館派) 土方歳三(二八歳)武州出身。新撰組副長。冷静沈着で自分にも他人にも厳しい。試衛館の弟子筆頭で一本気な男だが、策士の一面も(試衛館派) 近藤勇(二九歳) 新撰組局長。土方とは同郷。江戸に上り天然理心流の名門道場・試衛館を継ぐ。 井上源三郎(三四歳) 新撰組では一番年長の隊士。近藤とは先代の兄弟弟子にあたり、唯一の相談役でもある。 新見錦 芹沢の腹心。頭脳派で水戸派のブレインでもある 平山五郎 芹澤の腹心。直情的な男(水戸派) 平間(水戸派) 野口(水戸派) (画像・速水御舟「炎舞」部分)

原典怪飢

食う福
ホラー
食べるのが好きな女の子と怪異のお話 不定期で筆が乗ったら更新します。 ホラーじゃないけどミステリーでもなさそう。 短編じゃないけど長編でもなさそう。

ラヴィ

山根利広
ホラー
男子高校生が不審死を遂げた。 現場から同じクラスの女子生徒のものと思しきペンが見つかる。 そして、解剖中の男子の遺体が突如消失してしまう。 捜査官の遠井マリナは、この事件の現場検証を行う中、奇妙な点に気づく。 「七年前にわたしが体験した出来事と酷似している——」 マリナは、まるで過去をなぞらえたような一連の展開に違和感を覚える。 そして、七年前同じように死んだクラスメイトの存在を思い出す。 だがそれは、連環する狂気の一端にすぎなかった……。

近くにある恐怖

杉 孝子
ホラー
何気ない日常に潜んでいる恐怖を届けます。 『小説家になろう』にも掲載させて頂いています。

ホラー短編集

倉木元貴
ホラー
思い付いた短編ホラーを気が向いた時に更新します。 ※この物語は全てフィクションです。実際の人物、地名、団体、事件等とは一切関係ありません。また、心霊スポットと呼ばれる場所への探索を勧めるものではありません。悪ふざけで心霊スポットと呼ばれる場所へ行くのはおやめください。深夜の騒音は近隣住民の迷惑になります。山へ行く場合も遭難や動物に襲われる危険性もあります。絶対におやめください。

十一人目の同窓生

羽柴吉高
ホラー
20年ぶりに届いた同窓会の招待状。それは、がんの手術を終えた板橋史良の「みんなに会いたい」という願いから始まった。しかし、当日彼は現れなかった。 その後、私は奇妙な夢を見る。板橋の葬儀、泣き崩れる奥さん、誰もいないはずの同級生の席。 ——そして、夢は現実となる。 3年後、再び開かれた同窓会。私は板橋の墓参りを済ませ、会場へ向かった。だが、店の店員は言った。 「お客さん、今二人で入ってきましたよ?」 10人のはずの同窓生。しかし、そこにはもうひとつの席があった……。 夢と現実が交錯し、静かに忍び寄る違和感。 目に見えない何かが、確かにそこにいた。

処理中です...