南シナからの風は呻きとなり響き

夏目有也

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201号室

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 その住人は巨漢だった。鷲鼻にギョロ目で、飛ぶことを忘れて肥えた巨鳥みたいな風貌をしていた。肌着であろう白のノースリーブは、パスタソースか何かで赤く汚れている。実際にパスタソースかどうかはわからないが、とりあえず血ではない何かと願っておこう。どろりと粘性のある白い液体で満ちたコップを片手に持っているが、その液体が何なのかは怖くて訊けそうにない。
 この木造アパートは傾いている。ボールを床に置けば勝手に転がる。この巨漢が端に住んでいるせいだと私は思っている。
 彼越しに覗く 201 号室は酷く汚れていた。使用済みのパスタソース缶が散乱し、どろどろに汚れたミキサーもある。女っ気など微塵もない。壊れかけのブラウン管テレビはあるが、ビデオデッキはなさそうだった。ビデオでポルノでも見ているのかと疑っていたが、そういうわけでもなさそうだった。
「なんでしょう?」とその体躯に似つかわしくない弱々しい声で、その男は突然の訪問者である私に問いかけた。
「騒音の苦情がありまして、その調査をしているんです」
「ミキサーの音でしょうか?シェイクが大好きでよくつくるので、それがうるさかったかもしれない」
「いえ、違うと思います」
 その巨漢は立っているのも辛いようで、玄関の靴箱に半分の体重を預けるみたいに寄り掛かっている。何故か息切れもしていて、生きているのすらしんどそうだった。
 彼の身じろぎで床が軋む。下の階に住まう私としては、いつか底が抜け、空から巨漢が降ってくるのではないかとびくついてしまう。杞憂に終わるといいが。
「騒音は、どうやら女性の喘ぎ声らしいんです」と私は言った。
 巨漢はただでさえデカい目を見開き、恥ずかしそうにクリームパンみたいな両手で股間のあたりを何故か抑える。
「その音は聞いたことあるかもしれない」とその巨漢は一語ずつ辞書から言葉を選ぶように慎重に言う。
「ほう」
「その声はこっちのほうから聞こえる。たぶん 204 号室」と彼は左のほうを指差す。
「よくわかりますね。私はその声すら聞こえないです」
「幼いときから耳だけはいいんです。他の部屋での会話なんかも聞こえます」と少しだけ誇らしげに言ってから、「それで気持ち悪がられることもありますが。地獄耳って」と少しだけしょんぼりしながら付け加えた。下の階で暮らす私の物音も筒抜けと思うと、私もなんだか気味が悪いと感じた。

 204 号室は母と息子の二人暮らしであったはずだ。旦那がたまに帰るのか。あるいは母親が恋仲の男でも連れ込んでいるのだろうか。小学生の高学年と思しき息子は、押し入れで息を殺して、耳を塞いで母親の喘ぎを聞かないようにしている。そうも考えたが、あの母親の異様な風貌にその可能性は薄いと感じてしまう。
 まず、彼女は普通ではなかった。気が触れたともっぱらの噂だった。精神病を患っているらしいことは、醸す空気から明らかだった。筆舌し難いが、ノーモーションで背後から肝臓を刺してきそう。そんな雰囲気だった。その黒目しか見えない一対の目も、朽ちかけた木の枝のような痩せ細った身体も、髪の毛を鷲掴みにして毟り取ったように所々禿げた頭部も、熱湯をぶっかけられ溶けたみたいな笑顔も、どす黒い剥き出しの歯茎も、ガタガタで密に生えた歯も、とにかく異様で正直言ってあまり関わりを持ちたくない。
 それに何より、彼女から発されるその臭いに、恋仲などという妄想はかき消される。彼女と擦れ違ったりすると、微かではあるが浮浪者のような、汗と尿が乾き切ったような残り香が鼻腔を掠めることがあった。
 まさか売春でもしているのだろうか。超激安の個人売春とか。いや、でも男が出入りしているなど見たことも聞いたこともない。自慰かもしれない。あるいは、母と子でという可能性もある。そこまで考えたところで、その風船のように膨らんだ妄想は拒絶の針に刺され、破裂して消滅した。

「シェイク飲みます?とてもおいしいから」と巨漢が間抜けそうな顔をして無垢な目で尋ねる。
 夏の暑さも相まってべとべとになっていそうなコップと、そこに満たされた黄色がかったシェイクを私は見つめる。
「何が入ってるんですか?」
 その誘いを断るのは大前提として、耳障りのいい口実を探すために念のために質問してみる。牛乳が入っていたら、乳糖で腹が緩くなるとか適当な言い訳を拵えればいい。
「牛乳と砂糖、蜂蜜、バニラアイス、バニラエッセンス、バナナ、ピーナッツバター、卵、ひとつまみの塩、それから牛脂です」
「は?」
「牛脂シェイクです。牛脂は隠し味。コクが出るんだよね。一杯どうですか?全部飲まれたら僕の分がなくなっちゃって悲しいから、一杯だけになっちゃうのだけれど」
「結構です」
「とてもおいしいのにな」と巨漢は素直に驚いてから、心底残念そうに呟いた。ただ、牛脂シェイクをやっぱり独り占めできると思い至ったのか、最後にはなんだか嬉しそうな笑顔をにんまり浮かべていた。
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