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53. 父殺し
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秒ごとに死へとにじり寄る。油絵の具で色鮮やかに汚れたボート上で、27歳の私は呼吸を止める。ただ、私は超人ではないので、本能に意志はねじ伏せられ、窒息死とは程遠いところで呼吸を再開せざるを得ない。何度試みようと、結果は同じだった。
四肢が拘束されてしまったみたいに、私はボート上で動けず仰向けに寝そべる。湖。朝靄。木々。鳥の群れ。油絵の具で汚れたボート。見えるのはそんなものだ。
19歳の彼はここで死に去ってしまった。
27歳の私はここで生き残ってしまった。
靄をゆっくりと裂きながら進むようにボートを漕ぎ、湖岸に乗りつけると、左手の薬指がない女の子がいた。思えば「拾われた子」ではないのかという積年の疑問を晴らすために父に会いに別荘を出てから、数ヶ月彼女と会っていなかった。彼女は瞳孔が限界まで開ききった眼で私を凝視していた。まるで遠くにある小さなものに眼を凝らすように、眼に意識を集中しすぎて、他の顔の部位にはどこにも力みがなく無表情で感情が読み切れない。
彼女に見つめられながら、私はボートから降りる。それから、真正面で見つめ合う。
彼女のピアスがゆれて、鼻の穴がほんの少しだけ膨らみ、一粒の涙が溢れる。その涙は無表情な顔の曲線を撫でるように頰を伝い、降り始めた雨の初めの一滴みたいに顎から地面に落ちた。それに歯車が連動するように、握られた紙みたいに彼女の顔がくしゃっと崩れたかと思ったら、胸を抱えるようにしてその場に蹲ってしまう。やがて、大雨の訪れのようにわんわんと泣き始めてしまった。
「なんで泣いてるの?」と私は訊く。
「だってあなたが死んじゃうって思ったから」と彼女は答える。
彼女は私のために泣いてくれているのではなく、私の代わりに泣いてくれているのかもしれない。どちらにしろ、それはとても幸せなことだと思う。
私たちは別荘に向かうことにした。その道すがら、彼女がはいっと手を差し出す。私がただその手を見つめていると、「手つないであげるってこと」と彼女が色付いた果実のように顔を赤くしてぶっきらぼうに言う。その顔を見られたくないのか、彼女は外方を向いていてしまった。
書きかけの小説で庵の自殺を描写した後、私は物語を書き進めることができなくなっていた。私は文字列で彼を殺してしまった。もう最終章を残すだけで、書くことも決まっているはずなのに、筆が一向に進まない。この物語を終わらせてしまったら、明日から何もやることがなくなってしまう。
「結局、庵のことは何もわからなかったのかもしれない」と私は言う。
「自分のことすらよくわかんないことがあるのに、他人のことをわかるなんて無理なのかもね」と彼女は言う。
「心残りが一つあるんだ」
「なに?」
「庵のアトリエに何かあるかもしれない」
「離れのアトリエ?」
「うん、そう」
「見ればいいじゃん」
「鍵がかかってて開かないから、業者とか呼ばないとね」
「開くよ」
「開かないよ」
「鍵なんてかかってないよ」
「なんでそんなこと知ってるの?」
「入ったことあるから。秘密だけど」
「窓から入ったの?」
「玄関から入った」
「別荘の離れのこと言ってるんだよね?」
「うん、そうだよ」
私たちは、離れのアトリエへ向かう。私は玄関の扉を恐る恐る引いてみるが、やはりそれは開くことはなかった。
「やっぱり開かない」と私は言う。
「違うよ」と彼女が言う。「珍しいかもしれないけど、引くんじゃなくて、押すの」
彼女が左手を玄関に優しく添えて軽く押すと、その扉はいとも容易く開いた。
私は唖然として立ち尽くす。どうして今まで押してみようと思わなかったのかがわからない。この扉が開かれることを無自覚に拒絶していたのかと思うほど、間抜けな結末だった。
アトリエには、彼の創作物が窒息してしまいそうなほど濃度高く犇めきあっていた。老犬の死体の絵があった。猫の死体の絵があった。自慰する女教師の絵があった。へし折られた左手の薬指の絵があった。泡だらけの庵と血だらけの幽霊くんの絵があった。牛での復讐の絵があった。左眼が抉られた庵自身の絵があった。
そして、ボート上で自殺した庵の絵があった。死後の彼がモデル、生前の彼が画家、そして私が作家。私は書きかけの小説を書き上げなければならないと思った。
「小説を終わらせようと思う。後は最終章を書き上げるだけなんだ」と私は言う。
彼女は黙り込んでしまう。濃密な靄みたいなもったりとした時間が流れ、暫く経った。それから、禁忌に触れようとする口調で、私に問いかける。
「ねえ、ずっと考えてたの。わたしはわたしの名前を知らないの。忘れてるとかでもなくて、ただ知らないの。そんなものそこに初めからなかったみたいに。そんなことってある?ねえ、ずっと気になってたことなんだけど、あなたの小説って、本当にあったことなの?庵くんや他の登場人物は、作者が表現したいことを表現させられてるんじゃないの?作者の欲のために、犠牲になってるんじゃないの?」
「・・・」
「ねえ、どこまでがフィクションで、どこまでが本当の話なの?」
「・・・」
私は離れのアトリエから外へ歩き出ようとする。
「どこへ行くの?」
「父殺し」
「どういうこと?」
「いや、言い方がわかりにくいかもしれない。神殺しをする。作者殺しだよ」
そうして、私は小説を書き終えた。
四肢が拘束されてしまったみたいに、私はボート上で動けず仰向けに寝そべる。湖。朝靄。木々。鳥の群れ。油絵の具で汚れたボート。見えるのはそんなものだ。
19歳の彼はここで死に去ってしまった。
27歳の私はここで生き残ってしまった。
靄をゆっくりと裂きながら進むようにボートを漕ぎ、湖岸に乗りつけると、左手の薬指がない女の子がいた。思えば「拾われた子」ではないのかという積年の疑問を晴らすために父に会いに別荘を出てから、数ヶ月彼女と会っていなかった。彼女は瞳孔が限界まで開ききった眼で私を凝視していた。まるで遠くにある小さなものに眼を凝らすように、眼に意識を集中しすぎて、他の顔の部位にはどこにも力みがなく無表情で感情が読み切れない。
彼女に見つめられながら、私はボートから降りる。それから、真正面で見つめ合う。
彼女のピアスがゆれて、鼻の穴がほんの少しだけ膨らみ、一粒の涙が溢れる。その涙は無表情な顔の曲線を撫でるように頰を伝い、降り始めた雨の初めの一滴みたいに顎から地面に落ちた。それに歯車が連動するように、握られた紙みたいに彼女の顔がくしゃっと崩れたかと思ったら、胸を抱えるようにしてその場に蹲ってしまう。やがて、大雨の訪れのようにわんわんと泣き始めてしまった。
「なんで泣いてるの?」と私は訊く。
「だってあなたが死んじゃうって思ったから」と彼女は答える。
彼女は私のために泣いてくれているのではなく、私の代わりに泣いてくれているのかもしれない。どちらにしろ、それはとても幸せなことだと思う。
私たちは別荘に向かうことにした。その道すがら、彼女がはいっと手を差し出す。私がただその手を見つめていると、「手つないであげるってこと」と彼女が色付いた果実のように顔を赤くしてぶっきらぼうに言う。その顔を見られたくないのか、彼女は外方を向いていてしまった。
書きかけの小説で庵の自殺を描写した後、私は物語を書き進めることができなくなっていた。私は文字列で彼を殺してしまった。もう最終章を残すだけで、書くことも決まっているはずなのに、筆が一向に進まない。この物語を終わらせてしまったら、明日から何もやることがなくなってしまう。
「結局、庵のことは何もわからなかったのかもしれない」と私は言う。
「自分のことすらよくわかんないことがあるのに、他人のことをわかるなんて無理なのかもね」と彼女は言う。
「心残りが一つあるんだ」
「なに?」
「庵のアトリエに何かあるかもしれない」
「離れのアトリエ?」
「うん、そう」
「見ればいいじゃん」
「鍵がかかってて開かないから、業者とか呼ばないとね」
「開くよ」
「開かないよ」
「鍵なんてかかってないよ」
「なんでそんなこと知ってるの?」
「入ったことあるから。秘密だけど」
「窓から入ったの?」
「玄関から入った」
「別荘の離れのこと言ってるんだよね?」
「うん、そうだよ」
私たちは、離れのアトリエへ向かう。私は玄関の扉を恐る恐る引いてみるが、やはりそれは開くことはなかった。
「やっぱり開かない」と私は言う。
「違うよ」と彼女が言う。「珍しいかもしれないけど、引くんじゃなくて、押すの」
彼女が左手を玄関に優しく添えて軽く押すと、その扉はいとも容易く開いた。
私は唖然として立ち尽くす。どうして今まで押してみようと思わなかったのかがわからない。この扉が開かれることを無自覚に拒絶していたのかと思うほど、間抜けな結末だった。
アトリエには、彼の創作物が窒息してしまいそうなほど濃度高く犇めきあっていた。老犬の死体の絵があった。猫の死体の絵があった。自慰する女教師の絵があった。へし折られた左手の薬指の絵があった。泡だらけの庵と血だらけの幽霊くんの絵があった。牛での復讐の絵があった。左眼が抉られた庵自身の絵があった。
そして、ボート上で自殺した庵の絵があった。死後の彼がモデル、生前の彼が画家、そして私が作家。私は書きかけの小説を書き上げなければならないと思った。
「小説を終わらせようと思う。後は最終章を書き上げるだけなんだ」と私は言う。
彼女は黙り込んでしまう。濃密な靄みたいなもったりとした時間が流れ、暫く経った。それから、禁忌に触れようとする口調で、私に問いかける。
「ねえ、ずっと考えてたの。わたしはわたしの名前を知らないの。忘れてるとかでもなくて、ただ知らないの。そんなものそこに初めからなかったみたいに。そんなことってある?ねえ、ずっと気になってたことなんだけど、あなたの小説って、本当にあったことなの?庵くんや他の登場人物は、作者が表現したいことを表現させられてるんじゃないの?作者の欲のために、犠牲になってるんじゃないの?」
「・・・」
「ねえ、どこまでがフィクションで、どこまでが本当の話なの?」
「・・・」
私は離れのアトリエから外へ歩き出ようとする。
「どこへ行くの?」
「父殺し」
「どういうこと?」
「いや、言い方がわかりにくいかもしれない。神殺しをする。作者殺しだよ」
そうして、私は小説を書き終えた。
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