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51. 戦車の眼前に立つ
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朝日が降り注ぐ清潔なベッドの上で、クリストファー・ヒルは起床する。まるでまた朝が到来したことに絶望するように、両手で顔を覆う。その指の隙間から覗く眼球は、眼球振盪により痙攣するように黒目が揺れている。
クリストファー・ヒルは起き抜けに寝間着を乱雑に脱ぎ捨てる。全身白の使用人のひとりがそれを丁寧に拾い上げて洗濯機へ入れる。クリストファー・ヒルは顔を洗い、歯を磨き、髭を剃る。びしょびしょに濡れて、剃られた毛で汚れた洗面所を、全身白の使用人が綺麗に拭きあげる。別の使用人は、歯ブラシと髭剃りを濯ぐ。
クリストファー・ヒルは新聞を読みながら、スクランブルエッグとコーヒーとトーストの朝食をとる。
クリストファー・ヒルはひどく醜い男だった。眼の形の左右差が著しく、左眼は細く切れ長で、右眼は見開かれていた。鼻は骨がうっかり抜けてしまったように低くて、唇は魚卵が詰まっているように腫れぼったい。鰓には、角質が黒く凝固して盛り上がった疣が点々とできており、それは貝殻が密集するテトラポットを連想させた。
美しいものは腐るほど見てきた。そうやって養われた審美眼で、批評家を生業としてきた。その眼で自らの顔を見ると、吐き気を催す。醜くて仕方ない。美しくなくても構わない。せめて食事中にまともに見られるような顔で生まれたかった。
クリストファー・ヒルは、世界中で母親にしか愛されないほど醜かった。そして、彼の身は癌に犯され、余命幾ばくもない。
食器が触れ合う音だけが響くその潔癖なほど清潔な部屋の片隅に、血だらけの美青年が全裸で蹲っている。彼の左手の薬指はへし折られていた。彼の四肢はへし折られていた。彼の両目には、灰色がかった義眼が埋め込まれていた。血だらけの飼い奴隷は、首を垂れて、血の混じった一筋の涎を垂らしている。薬漬けにされて、植物に近しい状況だった。彼の胸には縦に一筋、赤みを帯びた外科手術の痕があった。彼には名前すらなかった。彼はクリストファー・ヒルの飼い奴隷だった。
クリストファー・ヒルは食事を終えると、液晶テレビで録画された映像を観始める。それは無邪気にはしゃぐ幼い庵の映像だった。
正午にその録画映像を一時停止し、クリストファー・ヒルは飼い奴隷を一瞥してから、ゆっくりと席を立つ。それを無音の号令として、全身白の使用人たちは一斉に部屋を退出する。
その日の午後、クリストファー・ヒルはジョン・F・ケネディ国際空港行きの飛行機に乗るため空港へ向かう。物語のように語られた暴露本の内容が真実であるかを空港にて記者に問われたが、上と下の唇を縫い合わせたように口を閉ざした。喧騒から逃れるようにトイレに入り、用を足すためにペニスを露出する。軌道が不安定な尿を眺めていると、後方で妙な音が鳴った。その音がもう一度鳴る。振り返ると、そこには巨男がいた。
その男は、巨きな生き物だった。獣のような眼をギラつかせて、獣臭が臭い立つような荒い息遣いで立っている。その男は、宇佐美周だった。
入り口には、全身白の使用人が伸されている。その巨きな生き物は、ボクシングの構えをする。森林で羆に遭遇したようなものだ。抗ったとて、敵うはずもない。逃げたとて、逃げおおせるはずもない。
「I know you would be here. I’ve been waiting for you. (君がここに来ることを私は知っていた。君を待っていた)」とあらゆることを悟り飲み下したようにクリストファー・ヒルが穏やかに言う。
「ボクシングは、このときのためにやっていたんだろう。いや、巨きな身体が与えられたのは、このときのためだったんだ」と底のない深淵に一枚ずつ言葉をひらひら落としていくように伏し目のまま周が言う。
「I loved Baker. I just love his son as well. (私はベイカーを愛していた。私はただ彼の息子も愛しているだけだ)」
「復讐は自己満足であるという自らの言葉に縛られていた」
「He always wished to live with his sons. Probably, his wish came true. I just wanted to create something. Can't you see? It's just a black comedy. Anything is fine as long as you can laugh. (彼はいつも息子たちと一緒に暮らすことを望んでいた。おそらく、彼の望みは叶ったのだろう。私はただ何かを創りたかった。わからないのか?これはただのブラックコメディだよ。笑えればなんでもいい)」
「この人生、ずっと我慢してきた。でも、もう限界だ。お前を許すことが優しいってことなんだろうな。ただ、母や弟のためにお前に復讐することこそ、優しいってことのように俺には思える。なあ、優しさって何なんだろうな」
「No family. No friend. No desire. I have no idea about what I should use my abundant wealth for. Iori said that he loved me. He is the only boy who said it to me. (家族もいない。友人もいない。物欲もない。このありあまる富を何処で何に使えばいいのかもわからない。庵は私を愛していると言ってくれた。彼が唯一、私にそう言ってくれる男の子だった)」
その巨きな生き物は、戦車の装甲のように硬いファイティングポーズを維持したまま、重戦車がキャタピラでにじり寄ってくるように、徐々に近寄ってくる。
周の間合いに入っても、クリストファー・ヒルは放尿を終えたばかりの下半身を情けなく露出したまま、一歩たりとも動かずにいた。両腕は弛緩して、ペニスと同じように力なくぶら下がっている。
戦車の眼前に立つようだった。戦車砲は顔面に照準を合わせている。砲弾は装填されている。
薬莢に詰められた装薬が燃え、爆ぜて弾ける砲弾で撃ち抜くように、その巨きな生き物の拳が老人の顔面を捉える。その爆発する力エネルギーをそのまま受けて、その勢いで老人は後頭部を壁にぶつける。巨きな生き物は、距離をさらに詰めて殴り続ける。倒れこむことすらできない連打だった。
老人の全身の骨は、悉く粉砕される。その巨きな生き物の右手に後頭部を掌握され、顔面を便器に何度となく力任せに叩きつけられる。さらにその巨きな生き物は馬乗りになり、抉れてしまってもう顔面とも呼べない顔面を殴る。まるで自らを罰するように、ただの肉塊に成り果てたその死体を、周は泣きながら殴り続ける。
自戒する巨男の拳は血塗れで、赤い血に浮かび上がるように白い骨が露出していた。
クリストファー・ヒルは起き抜けに寝間着を乱雑に脱ぎ捨てる。全身白の使用人のひとりがそれを丁寧に拾い上げて洗濯機へ入れる。クリストファー・ヒルは顔を洗い、歯を磨き、髭を剃る。びしょびしょに濡れて、剃られた毛で汚れた洗面所を、全身白の使用人が綺麗に拭きあげる。別の使用人は、歯ブラシと髭剃りを濯ぐ。
クリストファー・ヒルは新聞を読みながら、スクランブルエッグとコーヒーとトーストの朝食をとる。
クリストファー・ヒルはひどく醜い男だった。眼の形の左右差が著しく、左眼は細く切れ長で、右眼は見開かれていた。鼻は骨がうっかり抜けてしまったように低くて、唇は魚卵が詰まっているように腫れぼったい。鰓には、角質が黒く凝固して盛り上がった疣が点々とできており、それは貝殻が密集するテトラポットを連想させた。
美しいものは腐るほど見てきた。そうやって養われた審美眼で、批評家を生業としてきた。その眼で自らの顔を見ると、吐き気を催す。醜くて仕方ない。美しくなくても構わない。せめて食事中にまともに見られるような顔で生まれたかった。
クリストファー・ヒルは、世界中で母親にしか愛されないほど醜かった。そして、彼の身は癌に犯され、余命幾ばくもない。
食器が触れ合う音だけが響くその潔癖なほど清潔な部屋の片隅に、血だらけの美青年が全裸で蹲っている。彼の左手の薬指はへし折られていた。彼の四肢はへし折られていた。彼の両目には、灰色がかった義眼が埋め込まれていた。血だらけの飼い奴隷は、首を垂れて、血の混じった一筋の涎を垂らしている。薬漬けにされて、植物に近しい状況だった。彼の胸には縦に一筋、赤みを帯びた外科手術の痕があった。彼には名前すらなかった。彼はクリストファー・ヒルの飼い奴隷だった。
クリストファー・ヒルは食事を終えると、液晶テレビで録画された映像を観始める。それは無邪気にはしゃぐ幼い庵の映像だった。
正午にその録画映像を一時停止し、クリストファー・ヒルは飼い奴隷を一瞥してから、ゆっくりと席を立つ。それを無音の号令として、全身白の使用人たちは一斉に部屋を退出する。
その日の午後、クリストファー・ヒルはジョン・F・ケネディ国際空港行きの飛行機に乗るため空港へ向かう。物語のように語られた暴露本の内容が真実であるかを空港にて記者に問われたが、上と下の唇を縫い合わせたように口を閉ざした。喧騒から逃れるようにトイレに入り、用を足すためにペニスを露出する。軌道が不安定な尿を眺めていると、後方で妙な音が鳴った。その音がもう一度鳴る。振り返ると、そこには巨男がいた。
その男は、巨きな生き物だった。獣のような眼をギラつかせて、獣臭が臭い立つような荒い息遣いで立っている。その男は、宇佐美周だった。
入り口には、全身白の使用人が伸されている。その巨きな生き物は、ボクシングの構えをする。森林で羆に遭遇したようなものだ。抗ったとて、敵うはずもない。逃げたとて、逃げおおせるはずもない。
「I know you would be here. I’ve been waiting for you. (君がここに来ることを私は知っていた。君を待っていた)」とあらゆることを悟り飲み下したようにクリストファー・ヒルが穏やかに言う。
「ボクシングは、このときのためにやっていたんだろう。いや、巨きな身体が与えられたのは、このときのためだったんだ」と底のない深淵に一枚ずつ言葉をひらひら落としていくように伏し目のまま周が言う。
「I loved Baker. I just love his son as well. (私はベイカーを愛していた。私はただ彼の息子も愛しているだけだ)」
「復讐は自己満足であるという自らの言葉に縛られていた」
「He always wished to live with his sons. Probably, his wish came true. I just wanted to create something. Can't you see? It's just a black comedy. Anything is fine as long as you can laugh. (彼はいつも息子たちと一緒に暮らすことを望んでいた。おそらく、彼の望みは叶ったのだろう。私はただ何かを創りたかった。わからないのか?これはただのブラックコメディだよ。笑えればなんでもいい)」
「この人生、ずっと我慢してきた。でも、もう限界だ。お前を許すことが優しいってことなんだろうな。ただ、母や弟のためにお前に復讐することこそ、優しいってことのように俺には思える。なあ、優しさって何なんだろうな」
「No family. No friend. No desire. I have no idea about what I should use my abundant wealth for. Iori said that he loved me. He is the only boy who said it to me. (家族もいない。友人もいない。物欲もない。このありあまる富を何処で何に使えばいいのかもわからない。庵は私を愛していると言ってくれた。彼が唯一、私にそう言ってくれる男の子だった)」
その巨きな生き物は、戦車の装甲のように硬いファイティングポーズを維持したまま、重戦車がキャタピラでにじり寄ってくるように、徐々に近寄ってくる。
周の間合いに入っても、クリストファー・ヒルは放尿を終えたばかりの下半身を情けなく露出したまま、一歩たりとも動かずにいた。両腕は弛緩して、ペニスと同じように力なくぶら下がっている。
戦車の眼前に立つようだった。戦車砲は顔面に照準を合わせている。砲弾は装填されている。
薬莢に詰められた装薬が燃え、爆ぜて弾ける砲弾で撃ち抜くように、その巨きな生き物の拳が老人の顔面を捉える。その爆発する力エネルギーをそのまま受けて、その勢いで老人は後頭部を壁にぶつける。巨きな生き物は、距離をさらに詰めて殴り続ける。倒れこむことすらできない連打だった。
老人の全身の骨は、悉く粉砕される。その巨きな生き物の右手に後頭部を掌握され、顔面を便器に何度となく力任せに叩きつけられる。さらにその巨きな生き物は馬乗りになり、抉れてしまってもう顔面とも呼べない顔面を殴る。まるで自らを罰するように、ただの肉塊に成り果てたその死体を、周は泣きながら殴り続ける。
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