無題のドキュメント

夏目有也

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40. 穴ぼこ

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 穢多えたの被差別部落の名残りが色濃く残る一区画である「腸」の出入り口となる俗称「肛門」と呼ばれる門で、真冬の早朝に15歳の庵はリアカーをく。幽霊くんとの最終決戦を終え、リアカーには彼の瀕死体が積まれている。牛の死骸は邪魔だから古惚ふるぼけけた焼肉屋の前に置いてきた。
 高名な予言者のような身なりのめしいの老人が「肛門」を出たところにいて、音に反応したのか、リアカーのほうに顔を向ける。
「王よ。なんじは母を犯し、父を殺すであろう」とその老人が神託を告げるように仰々しく言う。
 庵はそれを一切無視して、一艘いっそうのボートで大海原へ漕ぎ出すようにリアカーを曳く。老人はそのガン無視を予期できていなかったようで、長台詞を言う。
「あれ、聞こえた?おーい。もしもーし。聞こえた?おかしいなぁ。無視はやめてよぉ。不安になるじゃん。最近変な奴ばっかだよ、まったく。何なんだよ。この前なんて誰か殴ってきたしさ。予言者だよ?正直言って、こんな雑に扱われたの初めてですわ。予言者なんてやってらんないわ。不景気だか何だか知らないけど、時給もよくないし。転職でもしようかな。でも履歴書になんて書くかな。資格もないしさ。正社員の経験もないしさ。この歳になるまでバイトだったからな。障害者雇用とかで大企業が採用してくれないかな。まあ、無理だよな。コンピューターとかできないしな。あ、でも眼は見えないけど、未来は見えますとか言ったら需要あるかもな。でも、どうせ信じてもらえないか。もう予言者として生きていくしかないんだよな。世知辛いなぁ。よし、念のため、もう一回言っておこう」
 咳払いをして声音を高名な予言者モードに切り替え、「王よ。汝は母を犯し、父を殺すであろう」と仰々しく言った。だがそのときには庵はリアカーとともに、その声が届かないほど遠くに行ってしまっていて、予言は空転した。

 白んだ息を吐き、息切れしながら庵はリアカーを曳く。真冬の寒さに痛めつけられて凍ってしまった肺が悲鳴を上げるように、激しく咳き込む。西部劇のガンマンのように短時間作用性β2刺激薬を吸引する。氾濫する血液の巡りを全身で感じるほど、体温がメーターいっぱいまで上がりきり、冬の早朝にぐっしょりと汗ばむ。
「ちょっと君、止まりなさい!」と誰かに呼び止められる。真冬に汗だくの庵が振り返ると、リアカー越しに警察の制帽が見えた。
 それは牛の捜索をしている本官くんだった。庵が無視して推進し続けようとすると、本官くんは素早く目の前に回り込み、それを制止する。
「そのリアカー、見せていただけないでしょうか?」と本官くんが言う。彼の黒目はゆれるように微細に挙動し、顔はうつむきぎみで庵と目が合うことはない。
「嫌だ」と庵が言う。
「ちょっと中身を確認するだけなのであります」
「嫌だ」
「リアカーには何が積まれているのでしょうか?」
「僕の芸術」
 水を含んだ雪のような重たい沈黙が訪れる。その冷たい沈黙を、何とか溶かそうと、本官くんが言葉を慎重に精査しながら続ける。
「・・・ちょっと今、畜舎から失踪した牛を捜索しておりまして、ご協力いただきたいのです。ちょうど牛一頭でも入りそうな大きさのリアカーですし、べったりと血がついてますし、これを見逃すわけにはいきません。失礼しますね」
 醜い秘密が覆い隠す寒々しい色合いのブルーシートに、本官くんは手をかける。まるで一頭の巨大な動物の皮を剥ぐように、生乾きの血がついたブルーシートをめりめりと捲る。そこには幽霊くんの瀕死体があった。
「終わったな」とその言葉が宙に浮くように庵がぽつりと呟く。言葉が寒さに凍り、実体を獲得するようだった。
「な、なんだこれは!お前がやったのか!ふざけるな!血だらけじゃないか。殺したのか?」と叫びながらも、まだ目が合うことはない。
「生きてる」
「まだ息がある。大丈夫ですか?意識はありますか?早く病院へ。・・・待て。こいつは幽霊くんか?」
「そう、幽霊くん」
 本官くんは雪に脳みそを冷却されるように、その熱量を急速に失っていく。そして、庵に向け、生真面目な表情で敬礼をする。
「そうだったのですね。大変失礼しました」
「どういうこと?」
「幽霊くんは国民ではありません。だから、本官が護るべき対象ではないのであります」
「?」
「彼は朝鮮人であるかと思われるからして、日本国民ではありません。噂では、戸籍もないそうです。本官は国民を護るために巡回をしております。この男は国民ではないので、護る必要がありません。家畜なんかと同じで、日本国にいる生き物というだけで、国民ではありません」
「本気で言ってんの?」
「何故でありますか?本官の夢は国民の皆様を護ることであります。畜舎から牛が失踪し、その牛が国民に危害を加えるかもしれないというこの有事に、存在が曖昧なそれこそ幽霊の如き非国民を救う必要があるのでしょうか?非国民を国民から護れというのであれば、本官はパニックです。脳みそがこんがらかって、ねじ切れそうです。何をすればいいのかわかりません。警察の義務の一つは治安を維持することです。警察という組織はそうかもしれませんが、本官という個人は違います。それに本官は警察という組織に属してはおりません。こんななりをしていますが、本官は警察官ではありません。警察官採用試験に何度も挑戦しておりますが、合格しておりません。血尿が出るほど公務員試験の問題集やテキストで猛勉強しているので、第一次試験には合格できます。ただ、第二次試験に合格できないのであります。嘔吐するほど走り込みで猛特訓しているので、体力は及第点にあると思います。警察への情熱は誰にも負けていないということを、面接や記述式の適性検査でぶつけてもいます。それでも、何故だか第二次試験で不合格となってしまうのです。妹は一昨年に警察官採用試験に合格しました。本官はそれを大変誇らしく思ってるであります。この衣装は警察の扮装ふんそうであります。本物に似せて制服と制帽をお裁縫で自作いたしました。巡査の方々にご迷惑をかけてしまいかねないので、個人的なパトロールは深夜と早朝に行っております」
 柔軟性を欠いたナショナリズムを喜劇のようにリアリティが希薄な論理展開で告白してから、この警官コスプレイヤーは目を合わせることなく庵に再び敬礼する。恥ずかしがり屋でろくすっぽ顔も見ていないものだから、庵が混血であることに盲目的に気づく様子もなく、その場を去る。

 庵は彼のアトリエまで幽霊くんの瀕死体をリアカーで運び込む。アトリエは離れにあり、彼の創作物が窒息してしまいそうなほど濃度高くひしめきあっていた。その彩りから、アトリエ自体が彼の芸術であるかのようだ。その作品群に擬態するように、血塗れの幽霊くんが、右腕は右斜め上に、左腕は左斜め上に、それぞれ目一杯広がるように手錠で拘束されている。脚はロープでぐるぐるに固定されて、一本の脚を真似るように拘束されている。膝が辛うじて床につくような体勢で、形は違えどそれはキリストの磔刑たっけいのようだった。
 その眼前で、庵は全裸になって瞑想をしている。呼吸に全神経を集中する。空気が鼻を介して肺に届き、肺から送り出されて鼻から抜けていくのを想像する。左の眼球は眼帯で覆い隠されている。眼帯を外すと、そこに眼球はなかった。それは穴ぼこのようになっていて、小さな闇があった。その暗がりを照らしてはならない。それを覗き見てはならない。
 交感性眼炎で健常であった右眼にも障害が生じ、それが深刻化したため、眼科医は損傷した左眼を摘出した。眼球が抉られ、穴ぼこができた。左眼は損なわれることで、その存在を色濃くしていた。
 庵は右手で右眼を覆い、穴ぼこで幽霊くんを見つめる。
「その穴ぼこに吸い込まれそうだよ」と幽霊くんが言う。
「穴ぼこに何かいる。この穴ぼこに何かをそうと思ってるんだ」と庵が言う。
「それはいい考えだね」
「今からお前の左腕をへし折る」と穴ぼこが言う。
 穴ぼこが言った通り、庵はゆっくりと幽霊くんの背後へと回り込む。庵は両手で幽霊くんの左手首を掴み、庵の左膝を幽霊くんの左肘の裏側に押し当てる。
「痛みを感じたら左手を挙げてくださいね」と庵は言うと、すうっと息を滑らかに吸ってから止める。左膝を力点として梃子てこで左腕をへし折る。痛みを忘れた幽霊くんの悲鳴はなく、まるで前衛的な音楽みたいに、若竹が弾けるような腕折りの音だけがアトリエに響いた。

 左腕がへし折れた同時刻、古惚けた焼肉屋の前に放置された牛の死骸の周りに警察官と野次馬が集まっていた。警察は牛の死骸が喋っているという通報を受けていた。牛の死骸を見ると、腹の辺りが寄生生物がうごめくように動いているように見える。SFヲタクである現場の警察官は、宇宙人とのファーストコンタクトだと思い込んでいた。
 裂けた腹を覗き見た警察官が、短く悲鳴を上げた。牛の胎児を真似るように片想いする焼肉屋の乙女がいた。
「これが、、、宇宙人なのか?」と警察官は呟いた。
「人喰い牛だ!」と野次馬が叫んだ。
「わ、わ、わたしの大切な人が、ゆ、ゆ、ゆ、ゆ、ゆう、誘拐されてしまいました!」と片想いする焼肉屋の乙女は吃りながら叫んだ。
 それから、血塗れの彼女は牛のあばら骨に繋がれた手錠を外してもらい、警察官からいくつか質問をされた。誘拐された幽霊くんの本名も訊かれた。彼女は好きな人の名前すら知らなかった。
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