無題のドキュメント

夏目有也

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29. 復讐心に枯葉剤をぶっかけられる

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 その男は、優しい巨男おおおとこだった。若かりし頃の宇佐美周うさみあまねは、ヘビー級のボクサーだった。フィジカルモンスターである彼のその類稀たぐいまれな腕力から繰り出される、鉄球のように重く体重の乗った殴打は強烈で、対戦相手に怪我を負わすことも多かった。対戦相手を殴る度に、まるで自らを殴っているように感じた。
 彼はボクシングをするには優しすぎた。練習を重ねるほど、己を鍛え上げるほど、パンチの威力が高まるほど、相手を傷つけることに怯えた。ジムで誰よりも強かった彼は、誰よりも臆病者だった。強くなりたいのに、強くなりたくなかった。
 偉大な画家である父を持ち、そのくせ自らには絵画の才能がないことを悟っていた。絵画を描き上げる度に、ろくに話したこともない父から、「才能のない者は去れ」と音もなく言われるようだった。絵画から逃避するようにボクシングにのめり込んだ。恵まれた体躯から、彼には格闘技の才能があった。特定のボクサーに憧れていたわけではない。何か才能がありそうなものを手探りし、体躯と腕力しか見当たらず、それが武器となりそうなボクシングを選んだだけだった。

 彼のその鈍器じみたパンチにより、ある試合での対戦相手の左眼が網膜剥離となった。劣勢に立たされた試合で、生殺なまごろしの眼となった彼が容赦なく相手を殴り続けた結果だった。このサディズムの沼にはまったら、抜け出せなくなると直感した。もう戻れなくなってしまう。
 彼は本気で人を殴れなくなってしまった。初動で力の限り殴ろうとどれほど力んでも、インパクトの寸前に筋肉が縮むように攣縮れんしゅくし、腕ごと根こそぎ後ろに持っていかれるようになった。ジムの会長はイップスと言ったが、どれほど練習してもそれが治ることはなかった。ボクシングをするには、彼は優しすぎた。

 ボクサーの夢を捨ててから、彼はパワーリフティングを趣味ではじめる。スクワットとベンチプレス、デットリフトという三種目で合計挙上重量を競う競技で、そのトレーニングで筋肉はさらに肥大し、脂肪も蓄えられたことで、重戦車のような身体になった。
 周は画家の傍で画塾を設立した。その頃に、5歳のいおりが描いた絵に電流が神経を駆け巡るような衝撃を受け、細々と続けていた画家を諦めることになる。
 その後、画塾の運営や藝大の客員教授などによる美術教育における貢献と、主に美術専門誌での美術評論が認められ、美術館の館長にも抜擢された。美術界でのこの成功に、ベイカー・アレンの恩恵がなかったとは言えない。講演会で ベイカー・アレンの息子として紹介されることもあったし、経歴には必ずと言っていいほど ベイカー・アレンの名が記載された。
 美術界に身を置く限り、この呪縛からは逃れることはできないが、その特恵とっけいを甘受している自分も客観的に認識し、それを見下してもいた。結局は、自分だけの才能で何かを成し遂げることはできない非力な人間だと自らを卑下していた。ベイカー・アレンは宇佐美周にとって、どれほど焦がれても届かない存在だった。
 彼は芸術に人生を売り、家族を犠牲にすると宣言した。その宣言から暫くして、母は病み鬱となってしまった。

 母はエッセイストで、その軽妙でコミカルなエッセイに、周は「息子くん」としてよく登場していた。彼女はエッセイストとして左程さほど有名ではなかったが、ベイカー・アレンの日本人妻として有名だった。彼女のエッセイにごく稀に登場するベイカー・アレンは、謎が多いが、何処となく魅力的な物言わぬ人物として描かれていた。
 彼女は湿気のない夏みたいにからっとした人だった。明るく陽気な人だった。何処どこででも誰とでもすぐに友達になってしまうような人だった。旅行先で農家の老夫婦と仲良くなって、娘のように可愛がられて、その後も定期的に連絡をとるような人だった。公園で見知らぬ小学生と本気で鬼ごっこをするような人だった。あてられてしまうほどの活力を持った太陽のような人だった。社交性の塊のような人だった。高校生の周に対して、「息子くんはまだ童貞やんなぁ?」とにこにこしながら興味津々で訊いてきたりするような人だった。色情狂で他の女とヤリまくるという夫の性的放蕩せいてきほうとうについて、お門違かどちがい甚だしく母を責め立てる叔母に対して、「ひとりでこっそりシコシコされるよりましやわ」ときっぱり言ってしまうような人だった。巨大なヴァギナの絵を見て、「この綺麗なのは、わたしのがモデルやんなぁ?」と息子からしたら際どすぎる冗談をぶっ込むような人だった。今振り返ると、下ネタが好きだったのかもしれない。
 他人の笑顔を切に願うことができる優しい人だった。息子に常日頃「優しい人でありなさい」と説くような人だった。悲しみを怒りに変換するのではなく、悲しみのまま飲み込むことができる強い人だった。物書きという仕事柄からか創り話も得意な人だった。「自分を可愛いポメラニアンだと勘違いした狸」の物語は特に秀逸で、幼い周はよくその物語をせがみ、くすくすと笑っていた。笑う周を見る嬉しそうな母の表情が好きで、わざと大袈裟に笑ってみせたりしていた。
 彼女は諸々を抱えきれなくなったのかもしれない。何か明確なきっかけがあったわけでもなく、唐突に鬱に犯された。陽気さを取り戻してほしくて、周は母を励まし続けた。道化を演じて息子が生まれることを大袈裟に喜んだり、「いつき」という名前は母に決めてもらったりした。そんな周を見て、彼女は痛々しくも陽気に振る舞おうとしていた。そして、周はその調子と言わんばかりにまた母を励ました。鬱を発症した後も、滑稽なエッセイの作風は何も変わらなかった。鬱なんてまるでないみたいに、日常を面白おかしく綴っていた。今になって考えれば、その内と外のずれが、彼女をより苦しめたのではないだろうか。彼女はその病を拗らせ、躁鬱を繰り返し、次第に痙攣のような笑顔をするようになり、最後には笑うことすらできなくなった。そして、あれほど楽しみにしていた初孫の誕生を待たずして、交通事故でとんでもなくあっさりと死んだ。運転者曰く、走る車に気づかぬ様子でふらふらと道路に躍り出てきたという。運転者が酒気帯び運転をしていて、反省の色も微塵もない男だったら、彼を憎むことができた。だが、実際には運転者に過失はなく、事故の責任は死んだ母にあった。真夏のアスファルトに額を擦り付け、泣きじゃくりながら土下座をして周に謝罪する初老の運転者の姿を、彼ははっきりと記憶している。

 周は母のために、父への復讐を望んでいた。鬱の原因が父なのかどうかも曖昧なまま、振り上げた拳の納めどころを見出せず、それを近くて遠い父に向けた。誰かのせいにしてしまうのが楽だった。
 色情狂でヘロイン中毒で芸術家だったベイカー・アレンは、女や知人の家に入り浸り、家庭を顧みることがなかった。
 家にも全く帰ってこなかった彼が帰ってきたのは、事故により下半身不随となってからだった。事故による記憶障害もあり、左手の自由も奪われ、容姿も変貌し、人格も変容し、全くの別人のようになっていた。どうして母ではなく、あんたが生き残ったんだ。周は力の限り彼を殴ろうとしたが、腕ごと根こそぎ後ろに持っていかれるような寸止めで、拳が届くことはなかった。排泄すらまともにできない彼を目の当たりにして、復讐心は枯葉剤かれはざいをぶっかけられたみたいにしおれた。これは父の皮をかぶった植物だ。復讐対象はすでに虚像となった。記憶を喪失して、下半身不随となったこの老人は、過去のベイカー・アレンと同一人物なのだろうか。過去の行いに覚えのないこの老人に復讐をして、何か意味があるのだろうか。罪とは何に宿り、罰とは何に与えられるべきなのか。おい、爺さん、あんたは一体誰なんだ?
 記憶を失くせば、罪は浄化され、罰は風化するのだろうか。そんなことはないだろう。映画好きで犬好きのこの老人を殴れば、母のための復讐となるのだろうか。だが、どう考えてもこの老人は、母を鬱へと追いやったかもしれないベイカー・アレンとは別人だった。交通事故で彼は自己分裂したのではないだろうか。復讐の対象である彼は交通事故ですでに死んでしまい、記憶障害の老人だけが生き残った。
 復讐ってそもそも何なんだ。復讐で何を達成しようとしているんだ。母のための復讐ってなんだ。この上なく大切だった母が鬱で死んでしまったという俺自身の痛みを和らげるために、復讐を望んでいるのではないか。復讐を果たしたところで、母の死に変わりはない。そもそも母が復讐を望んでいたかもわからない。もっと言えば、父が母の鬱の単一原因であるかもわからない。復讐は自己愛の権化だ。復讐はエゴから生まれた自己満足だ。死んだ母のためにならないなら、わだかまるこのもやもやを解消するためだけの自慰行為であるなら、復讐の対象とするべきかどうかもわからない記憶障害の老人を復讐という名目で殴るなんてことはできない。死者のために生きることは、愚かしいことなのだろうか。

 10歳の庵が、自慰にふける女教師を描いて復讐をしたとき、周は「復讐は自己満足だ」とだけ庵に伝えた。庵は「復讐は本能だよ」とだけ周に答えた。
 庵が小さな頃から、周は彼に絵画を熱心に教えていた。あらゆる画材や画集を買い与えて、あらゆる美術館を巡った。だが、庵が10歳になる頃には、周が直接絵画の指導をすることはなくなった。誰から見ても、周より庵のほうが絵が上手くなっていた。
 庵は小さな頃から、周にひょこひょこひなみたいについて、ボクシングジムに遊びにきていた。ボクサーの夢を諦めてからも、趣味で軽いボクシングのトレーニングは定期的に行なっていて、そこで周は庵にボクシングを教えていた。庵が15歳となり、暴力嗜好が強くなり、自傷により失明してから、ボクシングを教えることもなくなった。
 絵画とボクシングという接点を失った寡黙なふたりは、庵が自殺するまでほとんど会話することすらなくなった。

 庵が雑誌や新聞に掲載される度に、周がそれを切り抜きにして大切に保管していることを私は知っている。周から貰ったぼろぼろの画集や画材を、庵が大切に保管していることを私は知っている。互いを大切に想いあっているというのに、どうして通じ合えないのだろうか。彼らはただひたすらに、それこそ救いようもないほどに不器用だったのだろう。

 19歳の庵の訃報ふほうを受けたとき、周は理解するのに時間がかかっていたように見えた。口元を右手で抑えて、溢れる何かを押し込もうとしていた。
 やがて、巨大なダムに亀裂が生じるように指の隙間からひとつだけ嗚咽おえつが漏れた。強い父が項垂うなだれているところを私は初めて見た。こんなときにも、うじうじした湿っぽい私小説さながらに、父にとっては庵より私が自殺したほうがよかったのだろうなんてことを私は考えていた。
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