無題のドキュメント

夏目有也

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19. 僻地にある小高い丘から

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 僻地へきちにある小高こだかい丘から、データセンターを眺める。見渡す限り周りに他の建物はない。ただ道が一本、定規で正確に引いたみたいに真っ直ぐ伸びる。その道と垂直に交わる地平線は、空と大地を真っ二つに裂いていた。
 自社に多大な損失をもたらした Software Engineer 時代の私は、腹に虫が湧いている巨漢を視るようになる。脂肪が邪魔で自立もままならないほどの巨漢だった。その男は昆虫食であり、ろくに咀嚼せずに虫を飲むことから、内臓で瀕死の虫が生きたまま蠢いていた。その空想上の怪物が現実に紛れ込むようになる。
 それは冷蔵庫と壁の隙間に挟まっていた。それはベッドの下に潜り込んでいた。それは便器の穴から眼球を覗かせていた。それは必ず身じろぎが許されない閉所にいた。

 その巨漢が現実に紛れ込むようになってから、同僚の Software Engineer が言っていることが徐々に理解できなくなっていった。巨漢が私の脳を、甘ったるいストロベリーシェイクのようにじゅこじゅこ吸っているのではないかと疑うほどだった。インド人の Software Engineer がインドなまりの英語を喋っているのか、唐突にヒンディー語を喋り出したのか、判断がつかなくなる。稀に聞き取れる英単語を日本語に変換しなければ理解できなくなり、その変換もスペックが低いコンピューターのように遅延があった。イップスのように以前どのように英語を聞き取っていたのかがわからなくなる。インド訛りが原因で内容の把握ができないのかと思ったが、文章でも理解が追いつかなくなり、その仮説は成立しなくなる。文法エラーか言葉足らずのせいか、あるいは自らの技術不足かと考えたが、履歴を見ていると過去の自分はどうやら理解ができているように思えた。直訳して文章の意味は理解できるが、ニュアンスが理解できなかった。無意識下で解答に至るのを回避しているようだった。停滞ですらなく、後退していた。
 退化した私は、自社で使用される内部ツールの開発 / 保守を担当するチームへと異動させられることになった。内部ツールでの不具合は顧客へ直接の影響を与えることはない。つまり、責任が軽減されたことになる。
 左遷だった。働く場所が変わるわけではない。物理的な左遷ではなく、仮想的な左遷だった。

 祖父の資産の恩恵で、私は働かなくとも一生困らずに生きていける経済状況にいた。羨望や嫉妬を受けるような恵まれた境遇であると理解している。ただ、仕事に対して、生きるための義務感が生じない。労働所得へのありがたみがない。護るべき家族もいない。私は何のために働いているのかという回答が見つからない。恵まれた私は、本当の絶望すら体験することができない。
 私は目的のために原因をこしらえたのかもしれない。ただ仕事を辞めたかったのかもしれない。

 アプリケーションは幻想に過ぎない。コードという文字列で機能を定義して、それを HTML や CSS、Javascript、画像ファイルで装飾して、あたかもそのアプリケーションの UI が機能しているように見せているだけだ。例えば、アプリケーション上でファイルを削除して、ゴミ箱に入れると、UI 上でファイルがゴミ箱に移動されるが、実際には Trash という、30日後にファイルを完全に削除するようにプログラムされたタグがつけられているだけだ。
 オブジェクト指向によりアプリケーションは現実を模倣する。そんな幻想に人生を費やす価値があるのか。それが好きな奴に任せておけばいい。なんだか馬鹿らしくなる。

 このデータセンターにあるサーバー群を物理的に破壊すれば、サービスのすべてが停止する。半身ほどあるハンマーを力の限り振り下ろし、少しの衝撃でも故障する精密機械を叩き壊していくのを妄想する。暗闇にネオンのように光るサーバーが、破壊されてひとつずつ消灯していく。そんな明暗の切り替わりをはっきりとイメージする。
 すべての Software Engineer は無力となり、コードはただの文字列へと成り下がる。アプリケーションという幻想が消滅する。サーバーの稼働率を示すツール上で、猟銃で撃ち抜かれた空飛ぶ鳥みたいにグラフが急降下するのを想像する。
 このサーバー群は冗長性がある可能性が高い。つまり、他の拠点に同様のジョブを担うサーバー群が存在し、ひとつのデータセンターが災害などで稼働不能となっても、サービスが機能し続けることを担保することができる。冗長性構成のために、どのサーバーが使われているのかはわからない。
 すべてのサーバー群を破壊して回ればいい。いや、それは無理だ。そもそもどうやって警備が厳重なデータセンターに侵入するんだろうか。ジェームズ・ボンドじゃあるまいしね。
 データセンターをオフィスのパソコンで Google ストリートビューを通して眺めながら、そんなことを夢想する。
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