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9. Junkie Porno
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カメラは被写体の眼球を接写する。眼球振盪により被写体の男の黒目が痙攣したように意思と関係なく挙動する。瞳孔が限界まで開ききり、微量の光でも眼球を射る。
カメラは被写体の全身を撮影する。水の張っていない猫足浴槽の中で、膝を抱えて座る男が撮影されている。昼であるにも関わらず薄暗く、湿気がもったりと鎮座し、浴槽は赤黒く錆び、壁には下品な落書きが描かれている。
右腕の前腕には脈拍が伝わるほど血管が浮き出て、巣を張るように張り巡らされている。左腕にはタトゥーが隙間なく彫られていて、その中に彼の絵画のモチーフである全身タトゥーの嬰児が擬態するように彫られている。
胸には縦に一筋、赤みを帯びた外科手術の痕のような傷がある。拒食から肋骨がくっきりと浮かびあがり、不眠の日々を物語るように目は眼窩に沈み窪んでいた。関節と骨から古びたベッドのように軋む音が聞こえるようだった。肉体がもう限界であると叫んでいる。
「Overdose」という題名のドキュメンタリーの撮影が行われている。
被写体は、ベイカー・アレンという名の男で、39歳のときの祖父だった。頸椎を損傷して人間に成り下がる以前、悪魔時代の私の祖父だ。彼はクリストファー・ヒルという著名な美術批評家の賞賛を得て、時代を象徴する画家となっていた。
痩身であったが、齢ほど肉体が老いているわけではなく、無駄な脂肪のない身体は、どことなく官能的にも映った。灰色の目は儚げで、顔立ちが整っており、窶れてはいるものの年齢にしては若々しかった。
私が11歳のときに、祖父は54歳であるはずだった。ただ、11歳の私から見た祖父は、まるで死を隣にした老人だった。その容姿は実年齢よりひどく老いていたように記憶している。わずか15年ほどで異様な速度で老化したようだった。私たちの倍速で生き抜けたように。何が彼をこれほどまでに老いさせたのだろうか。
悪魔時代の彼は浴槽の排水溝から生えるケシを幻視する。緑色をしたケシの果実の裂け目から、濃厚な樹脂が湧く。彼はそのケシの果実を、震える黒目で見上げている。そして、ほんの僅かな空気の揺らぎにもかき消されてしまいそうな囁き声で途切れ途切れに語る。
「There is nothing that everyone likes. There is also nothing that everyone dislikes. Don’t suck up. Just drive a few people into a frenzy. Be extraordinary. Be controversial. I wanna be a poison. A luscious poison. Like a heroine. Go to theme parks if you wanna make yourself happy and comfortable. Mouse will give you a blow job with his mouth. Come back to me if you are sick of theme parks and you wanna destroy your mind. My children will be discriminated against due to my art. My grandchildren will be as well. I dedicated my life, my parent’s life, and my children’s life to art. So my family will hate me forever. But, art loves me. Life is the theater. (すべての人から好かれるものは存在しない。すべての人から嫌われるものもまた存在しない。媚びるな。一部の人間を熱狂させろ。異常であれ。賛否を生めないような人間になるな。私は毒でありたい。甘美な毒でありたい。ヘロインのような。もし幸せや心地よさを求めるなら、テーマパークへ行けばいい。鼠がしゃぶってくれる。もしテーマパークにうんざりして、心を破壊することを望むなら、私の元へ戻って来ればいい。私の子は、私の芸術により差別を受けるだろう。その子もまた差別を受けるだろう。私と親と子の人生を芸術へ捧げた。家族は私を永遠に嫌うだろう。ただ、芸術は私を愛している。人生は演劇だ)」
「My brain is fucking melting. (脳みそがとろけている)」と彼は震える声で言うと、酸味の強い黄色い泡が口から溢れる。
祖父の意識は飛び、魂が抜けたように脱力していた。筋骨隆々な二人の男が浴槽に駆け寄る。泡を吹く祖父の肋骨が折れる音が聞こえるような心臓マッサージをする。撮影者の声をマイクが捉える。彼女は「Come back to me」と囁いた。
「Rock なおじいちゃんだね」と左手の薬指がない女の子は、この毒の強いドキュメンタリーを一旦停止して、パンを頬張りながら言う。
「きっと狂ってるんだよ。どうして家族に対してあんな発言ができるのかわからない。芸術のために家族を犠牲にするなんて、身勝手にも程がある」と私は生ごみでも吐いて捨てるように言う。「でも、庵を理解するためには、祖父を知らないといけない気がする」
庵が自殺に至った原因の手掛かりを求めて、別荘を物色していたときに見つけたドキュメンタリーだった。「Junkie Porno」と評されたそのドキュメンターは非売品となっていた。
祖父は絵画の悪魔だった。この悪魔は、芸術に愛されるために、家族を生贄にした。絵画上で母を陵辱し、子を便器に捨てた。彼はまだ生まれてすらいなかった孫の人生まで芸術に賭けていた。血縁から一生軽蔑されるだろう。家族なんていうありきたりな幸せなんて望んでなどいなかったのだろう。
祖父の言葉通り、彼の芸術の性質から、私や庵は差別を受けることが頻りにあった。それはときに生理的嫌悪感や誹謗中傷、いじめへと形態を変え、私たちを強襲した。ネットの掲示板で晒し上げられることも頻繁にあった。「資本主義の奴隷め!恥を知れ!不純な銭ゲバが芸術を穢すな!外人は故郷へ帰れ!」と見知らぬ男に炭酸の抜けたぬるいコカコーラをぶっかけられたこともあった。家が放火され、小火騒ぎになったこともあった。
私と庵は祖父を嫌っていた。私の純粋な嫌悪と違い、庵のその嫌悪は入り組んだ複雑なものであるように思えた。
「絵のためにある左腕を捥いで、灰色の眼を抉ってしまいたい。それは僕がベイカー・アレンの血を継いでいる証に思えるから」と庵は言った。
もぐもぐもぐもぐとパン食動物が主食のパンを咀嚼する。
「ぶぁいぼぉえぇいんばぁっぐんぐうぇういんぐ」
「なんて?」
「ばぁばんうぁい?」
「飲み込んでから喋りな」
「ばーい」
もぐもぐもぐもぐ。ごくん。
かたかたかたかた。かちゃ。
「ねえ、何書いてるの」と彼女が訊く。
「え、教えないよ」と私が答える。
「何って?」
「教えないって」
「何かだけ教えてよ」
「いやだよ」
「ねえねえ、教えてくれてもいいじゃん」
「うーん」
「ねえねえ」
「教えない」
「ねえねえ」
「・・・」
「ねえねえ」
「・・・」
「ねえねえ」
「・・・」
「ねえねえ」
「・・・」
「ねえねえ」
「・・・」
「ねえねえ」
「・・・」
「ねえねえ」
「・・・」
「ねえねえ」
「・・・」
「ねえねえ」
「思ったよりしつこいな」
「ねえねえ」
「・・・小説だよ」
「なんで?」
「子供の頃は小説家になりたかったんだ」
「小説なんだ。何について書いてるの?」
カメラは被写体の全身を撮影する。水の張っていない猫足浴槽の中で、膝を抱えて座る男が撮影されている。昼であるにも関わらず薄暗く、湿気がもったりと鎮座し、浴槽は赤黒く錆び、壁には下品な落書きが描かれている。
右腕の前腕には脈拍が伝わるほど血管が浮き出て、巣を張るように張り巡らされている。左腕にはタトゥーが隙間なく彫られていて、その中に彼の絵画のモチーフである全身タトゥーの嬰児が擬態するように彫られている。
胸には縦に一筋、赤みを帯びた外科手術の痕のような傷がある。拒食から肋骨がくっきりと浮かびあがり、不眠の日々を物語るように目は眼窩に沈み窪んでいた。関節と骨から古びたベッドのように軋む音が聞こえるようだった。肉体がもう限界であると叫んでいる。
「Overdose」という題名のドキュメンタリーの撮影が行われている。
被写体は、ベイカー・アレンという名の男で、39歳のときの祖父だった。頸椎を損傷して人間に成り下がる以前、悪魔時代の私の祖父だ。彼はクリストファー・ヒルという著名な美術批評家の賞賛を得て、時代を象徴する画家となっていた。
痩身であったが、齢ほど肉体が老いているわけではなく、無駄な脂肪のない身体は、どことなく官能的にも映った。灰色の目は儚げで、顔立ちが整っており、窶れてはいるものの年齢にしては若々しかった。
私が11歳のときに、祖父は54歳であるはずだった。ただ、11歳の私から見た祖父は、まるで死を隣にした老人だった。その容姿は実年齢よりひどく老いていたように記憶している。わずか15年ほどで異様な速度で老化したようだった。私たちの倍速で生き抜けたように。何が彼をこれほどまでに老いさせたのだろうか。
悪魔時代の彼は浴槽の排水溝から生えるケシを幻視する。緑色をしたケシの果実の裂け目から、濃厚な樹脂が湧く。彼はそのケシの果実を、震える黒目で見上げている。そして、ほんの僅かな空気の揺らぎにもかき消されてしまいそうな囁き声で途切れ途切れに語る。
「There is nothing that everyone likes. There is also nothing that everyone dislikes. Don’t suck up. Just drive a few people into a frenzy. Be extraordinary. Be controversial. I wanna be a poison. A luscious poison. Like a heroine. Go to theme parks if you wanna make yourself happy and comfortable. Mouse will give you a blow job with his mouth. Come back to me if you are sick of theme parks and you wanna destroy your mind. My children will be discriminated against due to my art. My grandchildren will be as well. I dedicated my life, my parent’s life, and my children’s life to art. So my family will hate me forever. But, art loves me. Life is the theater. (すべての人から好かれるものは存在しない。すべての人から嫌われるものもまた存在しない。媚びるな。一部の人間を熱狂させろ。異常であれ。賛否を生めないような人間になるな。私は毒でありたい。甘美な毒でありたい。ヘロインのような。もし幸せや心地よさを求めるなら、テーマパークへ行けばいい。鼠がしゃぶってくれる。もしテーマパークにうんざりして、心を破壊することを望むなら、私の元へ戻って来ればいい。私の子は、私の芸術により差別を受けるだろう。その子もまた差別を受けるだろう。私と親と子の人生を芸術へ捧げた。家族は私を永遠に嫌うだろう。ただ、芸術は私を愛している。人生は演劇だ)」
「My brain is fucking melting. (脳みそがとろけている)」と彼は震える声で言うと、酸味の強い黄色い泡が口から溢れる。
祖父の意識は飛び、魂が抜けたように脱力していた。筋骨隆々な二人の男が浴槽に駆け寄る。泡を吹く祖父の肋骨が折れる音が聞こえるような心臓マッサージをする。撮影者の声をマイクが捉える。彼女は「Come back to me」と囁いた。
「Rock なおじいちゃんだね」と左手の薬指がない女の子は、この毒の強いドキュメンタリーを一旦停止して、パンを頬張りながら言う。
「きっと狂ってるんだよ。どうして家族に対してあんな発言ができるのかわからない。芸術のために家族を犠牲にするなんて、身勝手にも程がある」と私は生ごみでも吐いて捨てるように言う。「でも、庵を理解するためには、祖父を知らないといけない気がする」
庵が自殺に至った原因の手掛かりを求めて、別荘を物色していたときに見つけたドキュメンタリーだった。「Junkie Porno」と評されたそのドキュメンターは非売品となっていた。
祖父は絵画の悪魔だった。この悪魔は、芸術に愛されるために、家族を生贄にした。絵画上で母を陵辱し、子を便器に捨てた。彼はまだ生まれてすらいなかった孫の人生まで芸術に賭けていた。血縁から一生軽蔑されるだろう。家族なんていうありきたりな幸せなんて望んでなどいなかったのだろう。
祖父の言葉通り、彼の芸術の性質から、私や庵は差別を受けることが頻りにあった。それはときに生理的嫌悪感や誹謗中傷、いじめへと形態を変え、私たちを強襲した。ネットの掲示板で晒し上げられることも頻繁にあった。「資本主義の奴隷め!恥を知れ!不純な銭ゲバが芸術を穢すな!外人は故郷へ帰れ!」と見知らぬ男に炭酸の抜けたぬるいコカコーラをぶっかけられたこともあった。家が放火され、小火騒ぎになったこともあった。
私と庵は祖父を嫌っていた。私の純粋な嫌悪と違い、庵のその嫌悪は入り組んだ複雑なものであるように思えた。
「絵のためにある左腕を捥いで、灰色の眼を抉ってしまいたい。それは僕がベイカー・アレンの血を継いでいる証に思えるから」と庵は言った。
もぐもぐもぐもぐとパン食動物が主食のパンを咀嚼する。
「ぶぁいぼぉえぇいんばぁっぐんぐうぇういんぐ」
「なんて?」
「ばぁばんうぁい?」
「飲み込んでから喋りな」
「ばーい」
もぐもぐもぐもぐ。ごくん。
かたかたかたかた。かちゃ。
「ねえ、何書いてるの」と彼女が訊く。
「え、教えないよ」と私が答える。
「何って?」
「教えないって」
「何かだけ教えてよ」
「いやだよ」
「ねえねえ、教えてくれてもいいじゃん」
「うーん」
「ねえねえ」
「教えない」
「ねえねえ」
「・・・」
「ねえねえ」
「・・・」
「ねえねえ」
「・・・」
「ねえねえ」
「・・・」
「ねえねえ」
「・・・」
「ねえねえ」
「・・・」
「ねえねえ」
「・・・」
「ねえねえ」
「・・・」
「ねえねえ」
「思ったよりしつこいな」
「ねえねえ」
「・・・小説だよ」
「なんで?」
「子供の頃は小説家になりたかったんだ」
「小説なんだ。何について書いてるの?」
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