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2. 神様のきまぐれ
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神様のきまぐれにより、幼少より庵は絵画の才を幼い身体にねじ込まれたようだった。その身勝手な贈り物は、庵が独りで背負いきれるものではなかったのかもしれない。
「He is gifted. (才能がある)」異邦人の画商が5歳の庵の絵を眺め、目をほぼ丸にしてそう言った。
「It is so cute. (かわいいね)」 異邦人の画商が6歳の私の絵を眺め、目を細めて微笑みそう言った。
「もろもろ大丈夫?」と6歳の私は舌足らずに言う。
「もろもろ大丈夫。」と5歳の庵は舌足らずに言う。
幼い私がにっと笑いかけると、幼い彼はすんと無表情でこちらを見つめる。
庵の眼は青く、混血である父の血が色濃いといった旨の話を、まるで世界が口裏を合わせているように大人たちはしていた。
私の眼は黒く、きっと日本人である失踪した母の血が色濃いのだろうといった旨の話を、少しだけ気まずそうに大人たちはしていた。
喘息持ちだった庵はよくひとりで遊んでいた。絵を描いたり、描いた人や動物で物語を組み立てたりしていた。健康体な私もよくひとりで遊んでいた。漫画を読んだり、ゲームをしたりしていた。
格闘ゲームで対決したりすると、負けず嫌いな庵は負けるとすぐに泣いてしまうから、私は手加減するようになり、いつしか対決することはなくなった。
私と庵は画材が煩雑に配置された父のアトリエへよく一緒に行って、それぞれひとり遊びに興じていた。庵は幼少にして、現実を切り貼りしたように写実的な絵を描けた。それにも関わらず、彼はいつもへんてこな絵ばかりを描いていた。
「写真みたいだなぁ」と庵が久々に描いた写実的な彼自身の自画像を私は眺めて、感嘆が口元から押し出されるように呟き、「なんでへんてこな絵ばかりいつも描くの?」とその尾ヒレのような素朴な疑問を口にした。
彼はポラロイドカメラで私を撮影する。カメラから吐き出された写真を、無表情なまま私の眼前に突きつける。眼と写真の距離が近すぎて、ぼやけて見づらい。幼い私の理解と幼い彼の説明がないまま、数秒経過する。次に、彼は自分の背丈はあろうかというアンリ・マティスの画集を隣室から抱えるように持ち出す。むしろ画集が彼を抱えているように見える。幼い彼は画集を開き、幼い私に見せてくれる。
「青は青じゃなくてもいい。赤は赤じゃなくてもいい」と言うと彼は静かに興奮しているようで、なくなりかけのケチャップが噴射するみたいに鼻血を出した。血の朱色が画集を汚してしまう。彼は白いシャツでその血を拭ったが、赤い汚れは落ちなかった。
紙を握ったみたいにくしゃっと彼の顔が崩れた。泣くのかと思ったときには、もう彼はすでに大泣きしていた。気持ちが溢れてしまい処理が追いつかなくなってしまったのだろう。彼は癇癪を起こし、甲高い奇声で、「いらない」と画集を捨て、「いる」と画集を拾い、また「いらない」と画集を捨て、「いる」と画集を拾う。これを二時間ほど繰り返して、声帯が傷めつられて声が出なくなるとようやく泣き止んだ。
この無垢な芸術への憧憬や20世紀の脱写実的表現への畏怖、偏執狂的な性格により、彼は後に図画工作の科目で最低点である「1」をつけられることになる。
幼い私は彼の鼻にぐりぐりと丸めたティッシュをねじ込む。泣き疲れて鼻をぐずぐずしている彼と一緒に画集を眺める。捨てられ続けて画集はぼろぼろになってしまっていた。
私には画集に掲載されているものが、へんてこな絵にしか見えなかった。幼い私は、記憶している限り人生で初めてわかったふりをして、「すごいね。青は青じゃなくてもいいし、赤は赤じゃなくてもいいんだね」と言った。その画集は父から庵への贈り物だったそうだ。私は父から画集を与えられることはなかった。
湖。朝靄。木々。鳥の群れ。油絵の具で汚れたボート。庵はここにいた。呼吸をしていた。生きていた。そして、ここで死んだ。彼が19歳のときだった。
「He is gifted. (才能がある)」異邦人の画商が5歳の庵の絵を眺め、目をほぼ丸にしてそう言った。
「It is so cute. (かわいいね)」 異邦人の画商が6歳の私の絵を眺め、目を細めて微笑みそう言った。
「もろもろ大丈夫?」と6歳の私は舌足らずに言う。
「もろもろ大丈夫。」と5歳の庵は舌足らずに言う。
幼い私がにっと笑いかけると、幼い彼はすんと無表情でこちらを見つめる。
庵の眼は青く、混血である父の血が色濃いといった旨の話を、まるで世界が口裏を合わせているように大人たちはしていた。
私の眼は黒く、きっと日本人である失踪した母の血が色濃いのだろうといった旨の話を、少しだけ気まずそうに大人たちはしていた。
喘息持ちだった庵はよくひとりで遊んでいた。絵を描いたり、描いた人や動物で物語を組み立てたりしていた。健康体な私もよくひとりで遊んでいた。漫画を読んだり、ゲームをしたりしていた。
格闘ゲームで対決したりすると、負けず嫌いな庵は負けるとすぐに泣いてしまうから、私は手加減するようになり、いつしか対決することはなくなった。
私と庵は画材が煩雑に配置された父のアトリエへよく一緒に行って、それぞれひとり遊びに興じていた。庵は幼少にして、現実を切り貼りしたように写実的な絵を描けた。それにも関わらず、彼はいつもへんてこな絵ばかりを描いていた。
「写真みたいだなぁ」と庵が久々に描いた写実的な彼自身の自画像を私は眺めて、感嘆が口元から押し出されるように呟き、「なんでへんてこな絵ばかりいつも描くの?」とその尾ヒレのような素朴な疑問を口にした。
彼はポラロイドカメラで私を撮影する。カメラから吐き出された写真を、無表情なまま私の眼前に突きつける。眼と写真の距離が近すぎて、ぼやけて見づらい。幼い私の理解と幼い彼の説明がないまま、数秒経過する。次に、彼は自分の背丈はあろうかというアンリ・マティスの画集を隣室から抱えるように持ち出す。むしろ画集が彼を抱えているように見える。幼い彼は画集を開き、幼い私に見せてくれる。
「青は青じゃなくてもいい。赤は赤じゃなくてもいい」と言うと彼は静かに興奮しているようで、なくなりかけのケチャップが噴射するみたいに鼻血を出した。血の朱色が画集を汚してしまう。彼は白いシャツでその血を拭ったが、赤い汚れは落ちなかった。
紙を握ったみたいにくしゃっと彼の顔が崩れた。泣くのかと思ったときには、もう彼はすでに大泣きしていた。気持ちが溢れてしまい処理が追いつかなくなってしまったのだろう。彼は癇癪を起こし、甲高い奇声で、「いらない」と画集を捨て、「いる」と画集を拾い、また「いらない」と画集を捨て、「いる」と画集を拾う。これを二時間ほど繰り返して、声帯が傷めつられて声が出なくなるとようやく泣き止んだ。
この無垢な芸術への憧憬や20世紀の脱写実的表現への畏怖、偏執狂的な性格により、彼は後に図画工作の科目で最低点である「1」をつけられることになる。
幼い私は彼の鼻にぐりぐりと丸めたティッシュをねじ込む。泣き疲れて鼻をぐずぐずしている彼と一緒に画集を眺める。捨てられ続けて画集はぼろぼろになってしまっていた。
私には画集に掲載されているものが、へんてこな絵にしか見えなかった。幼い私は、記憶している限り人生で初めてわかったふりをして、「すごいね。青は青じゃなくてもいいし、赤は赤じゃなくてもいいんだね」と言った。その画集は父から庵への贈り物だったそうだ。私は父から画集を与えられることはなかった。
湖。朝靄。木々。鳥の群れ。油絵の具で汚れたボート。庵はここにいた。呼吸をしていた。生きていた。そして、ここで死んだ。彼が19歳のときだった。
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