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ツキノシヅクカラ

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 ドビュッシーの『月の光』が聴こえていた氣がする。
 
いつの間に眠ってしまっていたのだろう?
気がつけば辺りはすっかり闇に覆われた中を列車は走り続けていた。
時折過ぎる踏切と遠くに浮かぶ灯りだけが見える。
ずいぶんと街を離れたことが分かった。

 車内には自分の他には誰もいない…。

そもそも何処を目指してこの列車に乗り込んだのだろう?
仕事帰りだったのだろうか?
荷物は…見当たらない…。

 列車は減速し古びた駅に差し掛かった。
車内アナウンスが駅名を告げたが聞き取ることができなかった。
駅に着き、隣の車両から数人のサラリーマン風の人たちが足早に改札に向かうのが見える。
ここからだとちょうど駅名板に蛍光灯の光が反射して文字が見えない…。

出発の笛が鳴り、ドアが閉まった。
列車はまた闇の中を走り始める。
線路沿いの木々の間から遠くに幾つか街灯らしき灯りだけが確認できた。

 さっきからこの列車に乗り込む前の事を思い出そうとしているが…数日前のことすら曖昧になっている気がする。
何やら記憶障害でも起こしているのだろうか?
記憶が錯乱するほどショックな出来事でもあったのだろうか?

 そういえば幼い頃、父親の友人だったろうか?クルマで連れられて行った山の中。
街灯もない真っ暗な細い山道にクルマを止めて休憩を取っていた時の事を思い出した。
あの時も何処を走っているのか全く分からずとても不安だった…。





 車窓の風景は変わらなかった。
時々、線路沿いの木々が開けて遠くの灯りだけが見えるが
近くにはほとんど動くものが見えない。

ただ送電線だけがどこまでも列車に寄り添うように続いている。

踏切の警告音が近づき遠ざかってゆく。
踏切にクルマや人の姿もなかった。

深夜なんだろうか?いったい何時なんだろ?
ポケットをまさぐる。
と、その時初めてスマホがないのに気付いた。

何処かに落としたのか?いや、そもそも今日は持って出なかったのでは?
…また記憶が曖昧になってきた。

 一瞬、芳香剤のような香りが漂ってきた。
金木犀の香りだ。

向かいの窓が少しだけ開いている。

金木犀の花が咲いているということは今は秋…?
自分の服装を観ると混毛のパンツにセーターにコート、どう見ても冬の格好だ。
しかもこの車両には暖房も入っている…。

 と、改めて車両を見渡し、違和感を感じた。

この車両には広告が一枚もないのだ。
車両の天井中央付近、それから網棚の上、どう付いていたかは分からないが
見慣れたハズの目線の先に広告がひとつもない。

取り付け金具もネジ穴すらない。
それにドアの上にあるハズの路線図さえも?
入っていたと思われる金属製の枠とアクリル板はあるのだが中の路線図が見当たらない…。

誰かが抜き取ったのか?





 突如、少し開いた窓から轟音が飛び込んできた。
トンネルに入ったようだ。

このトンネルを抜けると風景が変わるかもしれない…。
しばらくすると音がしなくなった。

トンネルを抜けたようだがコンクリートの壁が車窓を覆ていて周りが確認できない。
見上げると壁の上の方に木々の影らしきものが映っている。

いつ壁が開けるのだろうと思っていると再びトンネルに…警笛が響いている。
 
 いきなり視界が開け、音も消えた。

雲の隙間から少し欠けた月が顔を出し、辺りを照らした。
海…いや、大きな河か湖だろうか?
水面に月の光が反射していて対岸の灯りが見える。

またもや轟音。
だが今度は橋を渡っているようだ。
橋を渡り再び木々の中を走る。



と、車内アナウンスが流れた。
「毎度××電鉄をご利用ありがとうございました。
次は終点『ツ×ガ××チ』終点『ツ×ガ××チ』お忘れ物ないようお降り下さい。尚、この列車、終電となります。
上り列車はございませんのでご了承下さい…。次は終点…」

滑舌が良くなく駅名も聞き取れなかったが、やはり終電だったのか…

 駅に到着した。

『月ヶ瀬淵』と駅名板に書いてある。

最近できた郊外のベッドタウンと云った佇まいの近代的な駅だ。
隣の車両から数人の人たちがエスカレーターを駆け上がっていく姿が見えた。

タクシーの順番待ちのためだろうか?

 一通り乗客が走り去ったあと、改札に向かう。

眠り込んでしまい乗り過ごした事を話して始発まで居させてもらえないか交渉しよう…

と云っても何処で降りようとしていたのかいっこうに思い出せないが…。

念のためポケットを弄った。
小銭入れはあるもののキップは出てこなかった。
 
 改札に駅員の姿はなかった。

「すみませーん」呼びかけても応答がない。

しばらく待ってみたが、人の気配がしない。

仕方ないので改札の外に出てみる…と、後ろで構内の電気が消えた。





 駅を出るとロータリーがあり、幾つかのバス停がある。

だがもうどれも灯りは付いていなかった。

不思議とそんなに寒くはない…。

自販機で缶コーヒーを買ってベンチに腰掛ける。

 もう一度よく思い出してみようと考えた。

いったい何時、何処に向かうためにあの終電に乗ったのか?
その前は何をしていた…?仕事帰りだったような気がする。
仕事が終わりいつもの列車に乗り込んだハズ…だったのか?

仮にそうだとしたらいったい何時間乗っていたのだろう?

…そして今は何時?

辺りを見渡しても時間を示すようなものは何もなかった。

 とにかく電車もバスもないのならタクシーを捜さなきゃ…
さっき走っていった人たちについていけばよかったと思った。
タクシー乗り場らしきものはここからは見あたらない…

ロータリーを抜けて街灯沿いを歩くことにする。
大きな通りに出れば流しているタクシーぐらいいるだろう。
でもその前に電話しなきゃ…。

電話…?

誰に?

また混乱してきた。
 


 大通りに出た。

この通り、なんとなく見覚えがある。
以前、クルマで通ったことのある道だ。
この信号待ちで側の中古車を見ていた。
向かいにファミレス、隣にケータイショップ。

いつ通ったのだろう?
クルマで…運転していた?
ああ、そうだ妻が運転して自分は助手席にいた!
後部座席に娘が寝ていた!

 家族の事を思い出せたのが嬉しかった。
しかし、次の瞬間、悲しい氣持ちになった。
数年前に離婚したのだった。

親権は元妻に決まり、その後、再婚の知らせが来てから電話も通じなくなった。
娘宛に送った手紙も宛名先不明で戻ってしまっていたのだ。
電話の必要はなかった…。
 
 それからは一人だったっけ?

 両親は元気だろうか?
上京するまでいた実家に二人とも住んでいる筈だ。

妹は…?
8歳年下の職場の男性と結婚して実家と同じ市内に住んでいるだったっけ?

徐々に記憶が蘇ってきた。

と、何処からともなく香の匂いが漂ってきた。
つい先日、嗅いだ事があると思った。

祭壇、喪服姿の両親、妹夫婦…誰の葬儀だったのだろう?
私も参列したっけ…?





 駅からどのくらい歩いたのだろ…?

見覚えのある所もいつの間にか通り過ぎてしまった。
それにしても広い通りの割に交通量が少ない。
電話ボックスもない。

さっきから数えるくらいしかクルマが通っておらずタクシーは一向に来ない。
それもそのハズで数十メートル先に行き止まりを示す看板が立っている。
作業車だけを通すゲートが閉まって道はT字路の細い旧道に分かれていた。

まだ開発中だったのだ…。

看板の向こう…造成地の中に灯りが見える。
ひょっとすると飯場のような施設や電話があるかもしれない…。

 おとなしく駅で始発まで待てばよかった。
心のドコかでそう思っていた。

明日も仕事なのにこんな深夜に知らない土地で何やっているんだろ?

暑くなりコートを脱ぎながら歩いた。
アスファルトが未舗装路に変わり、靴に泥が付いて歩きにくい。
道は少し上り坂になって灯りはその上、高台の電柱らしきものに灯っていた。

 振り返るとさっきまで歩いて来た道が見渡せた。
あの街灯が集まった部分が駅周辺だろう…
そこから通りに出てずっと歩いてきた。
駅の向こうは河だろうか?
対岸に向かい一筋の橋が架かっているのが見える。

 風が心地よかった。

 高台の灯りは最近設置したような新しい電柱だった。
土台の一部だけ残した形で周囲だけが削り取られていた。
そこからさらに一本の電線が細い道の上を…まだ造成の手が入っていない森の方へと続いている。
奥にもうひとつ灯りが見え、引き寄せられるようにそちらに歩いて行った。



 鳥居があった…神社のようだ。

奥にはそんなに広くはないが境内らしき空間もある。
古いがちゃんと管理されている感じがする。

煙の匂いがする。「パチン」何かが爆ぜる音がした。
見ると祠の脇から煙が上がっていた。

焚き火のようだ。
どんど焼きみたいに竹で作った結界のような空間で何かを燃やしている。

すぐ側の熱くなっている岩に腰掛けぼんやりと炎を眺める。

お尻も前も両方暖かい…

ほんの2キロほど歩いただけなのに疲労感が押し寄せてきた。

 背中の寒さで目が覚めた。

火にあたるうちにどうやらまた眠ってしまったようだ。

ここは…昨晩、灯りを頼りに歩いた神社の境内だろうか?
どうやら昨夜の記憶はあるようだ。

辺りが白んでいる…夜明けなのか?
今は何時ぐらいなのだろうか?

 すぐ側に昨晩にはなかった水の入ったバケツが用意してある。
眠り込んでしまったうちに誰かが来たらしい…。

ここの管理人さんだろう…またすぐに戻ってくるだろう。
戻ってきたらここが何処なのか、今が何時なのか尋ねよう…

 背中を炎の方に向け、暖を取っていると昨晩以前の出来事がぼんやりながら思い出せた。


十数年前、サラリーマンを辞めて上京した事。

細々とイラストの仕事を請け負いながらもバイトで生計を立てていた事。

バイト先で知り合った娘と付き合ううちに子供ができて入籍した事…そして別れた事。

その後どうしたんだろう…
再就職するも馴染めず職を転々として今の派遣社員に落ち着いた事。
いつか入院した事もあった。

担当だった看護師さんと仲良くなって何度か食事したハズじゃ…?
あれは結婚する前の事だったのか?…でも音信不通になったんだっけ…。



 ひとつひとつの出来事を数年前まで思い出せたが前後関係がハッキリしない。
ここ数日の事はほとんど思い出せない。

  毎朝、7時16分のバスに乗って41分発のJRに乗り継ぎ、職場には8時40に着いていた。
鞄にはレギュラーで入れたコーヒーを持って来ていた。
スマホに5000曲ぐらいの音楽を入れていて通勤時に聞いていた。
定期券をモバイルSuicaに移行していたから通勤時に持って行かないとは考えられない。

となれば昨晩の終電に乗ったのは休日だった?

でも格好は普段の通勤の時と同じ、
混毛のパンツにストライプのシャツ、それにハイネックのセーター、そして古着のカシミアのコート…。

休日ならセーターの下に開衿シャツなんか着る筈がないのだが…単に忘れただけなのか?
少しづつ思い出してきたものの昨晩までには結びつかなかった。
それ以上の事がどうしても思い出せない…。

 気がつくと数メートル離れた所で一匹の豆柴がこちらをジーッと見つめていた。



「おいで…」手を叩いて招くがその気はないらしい…
やがて数歩離れてまたこちらを見ている。

そしてまた数歩遠ざかりこちらを振り返る…まるで誘っているようだ。
焚き火で少し身体も暖まってきたせいか後を追ってみたくなった。

こちらが動くのを確認するとまた数歩歩いてはこちらを振り返っている。
「はいはい、わかったよ…」
昨日来たのとは反対側の道のようだ。

こちらはまだ造成工事は行なわれていないらしく森が広がって
その中を人ひとり通れるぐらいの道が続いている。





 もう日が昇ってきた頃だろうか…

すぐ先の森が開けており明るくなっている。
細い道を軽やかに豆柴が走ってゆく。
森を抜けた辺りでまたこちらを振り向いている。

近づくが今度は走り出さない…と、眼下に村が広がっているのが見え少しホッとした。
でもちょっと感じがおかしい。
見慣れた田舎の風景とは違っていた。

 見渡しても水田らしきものがない。

畑もほとんどない。

民家があちこちに点在している…。

皆それぞれ個性的でいい感じの家なのだが佇まいがバラバラだ。

百年は経っていそうな古民家から北欧系のウッドハウス、新しい感じの鉄骨住宅やコンクリート打ちっぱなしのモダンな建物まである。

クルマがすれ違って通れるような広い道もここからはほとんど確認できない。
唯一、村の中心部となるような大きな建物の前が一番広い通りになるのだろうか…?
 
 いつのまにか豆柴はまた数メートル先にいてこちらの様子を伺っている。

そのまま後について高台を下ってゆく…。
こちら側にも鳥居があり、それを潜った所でどこからともなく発生した霧が今来た道を覆ってしまった。

雲の中に入ったような…?
登り始めた太陽が霧の中でぼんやりと見えている。

 少し下った所で広場に出た。
ベンチが数台設置してあり、街灯と水飲み場があった。

まだ新しい施設のようだ。
どこかに電話はないだろうか?
辺りを見回しているうちに案内してくれた豆柴はどこかへ行ってしまった。
 




 それにしてもここも人の気配がない。
クルマや電車や飛行機の音も然ることながら人が暮らしている生活音すらしない。

平日の朝なら慌ただしく通勤や通学の様子があってもいい筈なのに…
まるでネットゲームの仮想空間のように風の音と小鳥のさえずり、虫の声だけが響いている。
植え込みの中に何やら動くものが見える。

「そこにいたのか…」

近寄るとさっきの豆柴ではなくもっと大きな犬だった。
茶色の長いうねった毛、垂れた大きな耳、G・レトリバーだ。
なにやら必死に匂いを嗅いでいる様子。

どこかで見覚えのある犬だった。
そう、十数年前、まだ上京する前に飼っていた愛犬にそっくりなのだ。
「そんなハズは…?」
試しに名前を呼んでみる…と、クルッと振り向いた。
仕草までそっくりだ。

生きていればもう二十歳ぐらいか?
いくら長生きしても大型犬は15歳ぐらいまでが限度のなのだが?
首輪もハーネスも付けていない。
やっぱり犬違いか…

 そう思ったが昔のように手を広げて招いてみる
「さぁおいで、ピピ!」

再びこちらを向き笑ったような表情を見せてまた匂いを嗅いでいる…
あの頃と全く同じ仕草だ。

近くに落ちていたバッジを見せ注意を引いてみる。
「ほーら、ほらほら~ピピ!こっち!!」
ようやく嗅ぐのに飽きたのか

こちらをじーっと見つめてから尻尾を大きく振って歓びを表してくれた。



「お前やっぱりピピなのか?」

両頬に手を当てて顔をもみくちゃにしてみる。
興奮して更に大きく尻尾を振る喜び方もそのものだ。

顔をよーく観てみる。
ピピなら眉間にシワのように見える毛のクセがあるハズ…。

毛の質感も『お手』の仕草も『お座り』した時右の後ろ足だけがだらしないのもそっくりだ。
「お前、ホントにピピなのか?」
そんな訳ないとは思ったがあまりにもそっくりなのに驚いた。
不意にピピが空を見上げた。







          ドォォォーーーン!



 



 いきなり落雷したかのような暴音が轟き地響きがした。
空気がビリビリと振動している。
「な、なんだ?」しばらく辺りの様子を伺う…が、雨雲などはどこにも見当たらない。

何事もなかったかのように再び静まり返った。
「なんだったんだろ?」と目線を下ろすとそこにピピはいなかった。
「ピピ!」大声で呼ぶがどこにも見あたらない…。
 
「こんなことをしてる場合じゃなかった。職場に連絡しなきゃ…」
と、我に返って電話を捜しに村の中心部辺りに向かう。
本当はピピを捜してもっと確かめたかったのだが…。

 相変わらず人の気配がしない村の中を比較的建物の多い所に向かって歩いて行く。
動くものがいない…。
この村で一番大きいであろうとする建物を目指す。

学校か公民館のようだ。
ずいぶんと古い木造建築のようで外壁の木の板に塗られたペンキが剥げている。
木造製の窓枠の中を覗くとガランとした広い室内にこれまた古い木造の机が3個ほど置いてある。

教室に使われていたんだろうか?
その向こうに廊下が見える。
と一瞬、その廊下に人影らしきものが過った。

 誰かいる!

建物の入り口を捜すがこちら側には窓しかない。
側面に回ると扉らしきものがあったが外から南京錠が掛かっている。

大声を出して扉を叩く
「すみませーん。どなたかいらっしゃいませんかー?」
聞こえないのだろうか?

それともこんな朝っぱらから大声で扉を叩く見知らぬ男に警戒した…のだろう。
自分が逆の立場ならおそらく応対などしないだろう…
諦めて再びどこかに電話がないか捜した。

 5軒ほど先に駅舎らしき建物が見える。
これもまた随分と古い佇まいだ。
スマホを持っていたらスナップを一枚撮っていただろう。

昭和初期…いや、それ以前の木造建築だろうか?
その側に電話ボックスらしきものが見えた。
走ってその中へ飛び込んだ。
受話器を取り小銭を入れてダイヤルを回そうとして気が付いた。

 電話番号が分からない。

普段、スマホに登録してあるから番号を覚えていないのだ。
「そうだ」と104を回そうとしたが小銭がつり銭口に出てきてしまった。

もう一度受話器を置いて取り、小銭を入れてみる。
発信音はせず、またしても小銭はつり銭口に…壊れているようだった。

「んだよーぉ…」電話ボックスの中でへたり込んでしまった。





 ずいぶんと日が高くなってきた。
8時頃だろうか?

いつもなら通勤の列車に揺られている頃なのに…。
それにしてもここの住民は何をしているのだろう?

駅舎を覗き込む。
するとそこは既に駅ではなかった。

待合室までは解放されているもののかつて改札だった空間は閉鎖され『立ち入り禁止』の看板が出ている。
プラットホームはそのままのようだがその下に線路はなかった。

廃線になったのだろうか?
改めて駅名を見る。

『月ヶ瀬淵』

昨晩、降りた駅と同じ名前だ。
元々こちらにあった駅を人口の増えた新興住宅地側に移したのか…。

 待ち合い室に自販機があった。
試しに小銭を入れてみるとランプが点いてちゃんと缶ジュースが出てきた。
ここはまだゴーストタウンではないようだ。

でも出てきたオレンジジュースの缶を見て驚いた。
ここ数十年は見た事のない商品だ。

プルトップが取れるタイプである。
缶の底が少し錆びている。
賞味期限を疑うがどこにも製造年月日が印字されいない…。

恐る恐る口にしてみる…変な味はしない。
子供の頃に飲んだ懐かしいあの頃の味である。

 ベンチに腰掛け辺りを見回してみる。

大きな壁掛け時計がある。
でも示す時間はどう考えても今の時間とは考えにくい。
今は真夜中でも昼過ぎでもない…。

大きな時刻表があったのか?
壁の色が一部だけ変わっていた。
剥がされたポスターの後、剥がし残りに『祭り』の文字が見える。
ここもかつては人が賑わい活気のあった村だったのだろう…。


 いつの頃だったか、まだ幼い頃に母に連れられた見知らぬ駅。
待合室でずーっと待っていたことがある。
何時間も何かを待っていた。
持ってきていたみかんを食べ、母と一緒に絵本を読み、童謡を歌い、売店のおばさんと何かを話した。

高い所にある窓から光が差し込んでいたのを覚えている。
…壁の色は違う感じだが、ここはあの場所にとても似ている気がする。

どこからか歌が聞こえる。
子供の頃に歌ったような聞き覚えのある唱歌だ。
何て題名だったか?





 奥にもうひとつ部屋があるのに気付く。
入り口にパーティションが設置してあり死角となって見えなかったのだ。
こちらには扉があり、窓が曇っている。
暖房が入っているようだ。
擦りガラス戸越しに人影も見える。

人がいる!

勢いよく戸を開け話しかける。
「すみません…!」
歌っていた3人の老人が振り向いた。
「あのーすみません、今、何時ですか?ここは何という所ですか?」

きょとんとこちらを見つめている。
老夫婦とその兄妹といった感じだ。
「あんた…どちらから来なすった?」
言葉が通じてホッとした。
どことなく中央アジアな雰囲気を持った3人だったからだ。

「昨晩の終電でこの高台の向こうの駅に着いてそこから歩いてきたんです。」
驚いた表情だった。
「はー、そりゃ寒かったろう~」
なんだかTV番組の第一村人のような会話だと思った。
トトロに出てくるお婆さんの声に似ている。

「今、何時ですか?これから仕事にいかなきゃならないんですけど
ドコからかバスとか出てませんか?」
早口で喋ったせいか反応がない…。

3人の中では少し若めの老婆が答えてくれた。
「時計持っとらんから分からんけど…バスはこの向かいから出とるよ。」
窓越しに通りの向かいにバス停らしき標識が見え、次の瞬間、目の前をバスが通り過ぎた。

「わーっ!」

 慌てて駅舎を飛び出すがバスは既に去ってしまった。
信号もないから走っても追いつけそうもない…。

バス停の時刻表を見てみる。
7時台に2本、8時台に3本、あとは17時まで載っていない。

あれが8時台の9分発とすれば次は34分発があるその次は56分発…。
気を取り直してしばらくさっきの待合室で待つことにする。





 奥の部屋の扉を開けると3人がこちらを見ている。

「いやー、間に合いませんでした。…どこかに電話ありませんか?」
「電話ならそこに…」
やや年上の方の老婆が外の電話ボックスを指差す。

「あれ…壊れてるみたいなんですよ」そう答えると
「んじゃNTTさ電話して修理してもらわんとなー」
「電話が壊れとんのにどーやって電話するとね?」
「あーそーじゃねー」

…なんだか喜劇でも見ている錯覚に陥った。
「この辺には他に電話ないんですか?」
3人は顔を見合わせて「以前は、ここにもあったんだけどな…」
古雑誌が無造作に置かれた台を指差す。

置かれていた古雑誌の日付けを見て驚いた。
30年以上は古い物ばかりだ。
程度がよければネットオークションにでも出品すればいい値がつくかもしれない…。

 見上げるとここにもひと回り小さな同じような壁掛け時計がある。
「この時間…合ってるんですか?」

尋ねると今度は3人が口々に話し出す
「いやーこれはいつ見ても8時13分じゃよ…」
「じゃが…そこの窓の光がここまで届いとるから8時過ぎぐらいかの…?」
「へぇー、光の長さで時間が分かるんですかー?スゴいなー」

「云ってみただけじゃ…」

初対面でこう返ってくるとは思っていなかったので笑ってしまった。
3人も笑顔になった。





 「今日は祝日じゃなかったかの?」
年上の老婆が云った。
「ホントですか?今日って何の日なんでしょ?」
「えーっとなんだったかいのー」

本当なら慌てて帰る必要はない…
でもこの3人の云う事はちょっと信じられない気がしていた。

「あのー携帯電話なんかお持ちじゃないですよね…どこか他に電話ありませんか?」
「上の図書館にあったんでねえの?」
3人は再び顔を合わせてそう云った。
「すぐ側ですか?」

先きの公民館らしき方向を指差すと上の方を示してこう云った。
「そこの通りさ渡って丘の方へ上がるんだ。」
「ここからどのくらい掛かりますか?」
「おめーさだったら…10分も掛かんねぇでねえの?」

今が8時15分ぐらいだとしたら図書館に着くのが25分、104で調べてもらって
職場に連絡するのに10分あれば大丈夫だろう…そしてここまで戻って来るのに更に10分
…次の34分発はムリだとしてもその次の56分発には充分間に合う。

「この向かいの路地を上がっていけばいいんですよね?」
窓越しにバス停の横の路地を指差すと3人は口々にうなずいた。
 「どうもありがとうございました。」
礼を云いながら待合室を出た。





 外は相変わらず閑散としている。
それにしても人気のない村だ。
さっきの老人たち以外に村人はいるのだろうか…。

足早にバス停の横の路地を進む。
少しずつ勾配がキツくなっている。

高い塀に囲まれた農家のような家並みを抜けると林が見えた。
葉が全くない背の低い木々が規則的に並んでいる。
梅の木だろうか?
 
 以前、住んでいた町も梅の名所だったっけ?
シーズンの休日には近隣の道路が大渋滞するほどに…
気のせいか、あそこでも誰かをずーっと待っていた気がする。

バイクに乗っていた?

ヘルメットをかかえてまだ寒い早春、日暮れまで独りで誰かを待っていた。
誰を…だったのか?

そういえばあの町にいつ頃まで居たのだろう?
引っ越しした気がする…

いつ頃?

何処へ?

…また混乱してきた。

ここ数年の事が断片的にしか思い出せない。
いったい何故?

 梅林を抜けると伐採した跡地のような所に出た。
図書館らしき建物はない。
道を間違えたのだろうか?

子供の声がする。
振り返ると梅林の向こうを数人の子供達が駆けて行く。

「子供もいるじゃない…」

その後を目で追うと蔵らしき建物と大きな木の向こうに
比較的新しいコンクリートの建物が見えた。
高台の広場からも見えていた建物だ。





 これが図書館か…

入り口の一枚ガラスのドアが開いている。
外装も中もコンクリート打ちっぱなしのモダンな建物だ。

無機質な感じなのに中に人の気配がしているだけでなんだかホッとする。
入り口側にトイレとウォータークーラー、それにうがい機まである。
何だか懐かしい…。

見回すと待ち合いスペースにピンク電話があった。
早速かけようと小銭を…入れる場所がない。

テレホンカード専用電話だ。
今時テレカなんぞ持っとらんぞぉーと思ったが、隣にテレカ販売機が?
…千円からのカードしか販売してない。
ポケットの小銭を数えてみる…863円…。

「あーあー」

そのまま側のソファに倒れ込んでしまった。

 「事情を話して電話させてもらう…」
気を取り直して人の気配を感じる図書室に入る。
子供が数人いる…が、大人がいない。

本の貸し出しも腕章を付けた子供がやっている。
ここは学校の施設なのか?

「こんにちは。大人の人はいないの?」
その子に尋ねてみると、ぎょっとした目でこちらを見た。

ムリもない、お世辞にも身なりの好いとは云い難い見知らぬオッサンがいきなり自分たちの生活圏に入ってきたのだから…昨今の凶悪犯罪が頻発していることを思えば警察官が踏み込んできてもおかしくはない状況だ。

「あ、はい…」
幸いにもその子は悲鳴を上げることなくそう云って誰かを呼びに行った。



 数分経った…が戻って来ない。
いったいどこまで呼びに行ったのだろう?
身の危険を感じて逃走したのだろうか?
バスの時間が心配になってくる。

今、何時だろう?
ここにも時計は見当たらない。
カレンダーもない…?
図書館なのに?

 やっぱり何かが変だ…改めてそう感じた。

極端に人気のない村、メイン通りにコンビニやスーパー、雑貨店すら見あたらない。
バスは通っていたが他にクルマがない。

見かけたのは老人と子供だけ、いったいこの村の大人達はどこに行ってしまったのか?
ここは何処なのか…?

 「ハイ、何でしょう?」

目の前に若い女性が現れた。
さっきの子が呼んできたのだ。
清楚な雰囲気で以前TVドラマに出ていた新人ナースの役の娘によく似た感じだ。

「電話を貸していただけませんか?」

不審者と思われたくなくてできるだけ丁寧に云った。
「電話ならそちらに…」と入り口方向を手で示す。

「すみませんがあれはテレカ専用で、あいにく私は今、小銭しか持っていません。
職場に連絡を取りたいだけなのです。どうか電話を貸して下さいませんか?」
真摯に訴える。

「わかりました。事務所のを使って下さい。職場はどちらなんですか?」
「それが…普段はスマホから掛けているもので…番号が分からないんです。
104で調べてもらってから掛けようと思っていたのですが…」
「会社名は?」
答えようとしたが何かが喉に詰まったようになった。

思い出せない…?

何て事だ…!
それすらも思い出せなくなっていた。

「えっと…」
不審者に思われたくない…
「実は…昨晩、終電で向こうの高台を越えた駅に着いたのですがその時点から何も覚えていないんです。
何故その終電に乗ったのかさえも…」

「私にそう云われても…」
困惑した表情だ。
「すみません。そうですよね…」
成す術もなく引き上げることにした。

 「あのー」

新人ナース役が呼び止めた。
「今日は祝日ですけどお仕事なんですか?」
「えっ、そーなんですか?今日って何の日でしたっけ?」
「えーっと、なんでしたっけ…?」云った本人も分かっていない様子だった。

笑いながら困惑した表情をしている。
もはやこれ以上困らせたくないと思い図書館を後にする事にする。
最後に「今、何時ですか?バスに乗ろうと思っているのですが…」
そう尋ねると壁に貼られた時刻表を見ながら彼女はこう答えた。

「もうバスはありませんよ」
「えっ?確かまだ8時56分発のがあったハズじゃ…」
「今日は祝日ですから…午前中は8時3分までです。後は夕方の18時7分発ですね…」
しまった!平日の時刻表しか見ていなかった…。

カラダから力が抜ける気がした。





 表の自販機で缶コーヒーを買った。
ここのは見慣れた銘柄だ。
車止めの柵に腰掛け飲み始める。

日射しが心地よい。
今日は風もなく暖かで穏やかな日のようだ。

「どーするかなー」
丘を越えてまた昨日着いた駅を目指すか、夕方までここでバスを待つか…
それともタクシーを呼んでもらうか…。

今、コーヒーを買ったから残りは743円、小銭しか持っていないからタクシーに乗る余裕はない。
やはり昨日の駅を目指して歩くか…。

 気が付くと幼女が一人こちらを見ている。
何か言いたげな表情だ。

「こんにちは。お名前は?幾つ?」

声をかけてみる。
曲げた指の数を確認してこちらに見せてくれた。
「3つかぁ…」
別れた時の娘の歳だ。

今は幾つになったのだろう…?
断片的だが娘のことは思い出せた。

娘が生まれた時の事。
夜中に高熱でひきつけをおこして小児科の救急病院を捜しまくった時の事。
初めて掴まり立ちをした時の満面の笑顔。
初めて歩いた時につまずいて私の股間に激突した事。
初めて「パパー」と呼んでくれた時の事。
好きだったイチゴを「パパにあげる!」と言って食べさせてくれた事。
「おかえりー」起きている時には笑顔で出迎えてくれた事。

…涙が溢れ出てきた。
もっともっとずっと傍に居たかった。

一緒に絵本を読んだり、アニメを見たり、歌を歌ったりしたかった。
ずっと寝顔を見ていたかった。
いつまでも話しながら一緒に散歩していたかった。

…もう逢えないのだろうか?





 「あのー」

涙と鼻水でぐしょぐしょになったところに新人ナース役が話しかけてきた。
ハンカチで顔を覆った。

「はい?」と答えようとした瞬間、鼻水が気管に入って咳が止まらなくなった。

「大丈夫ですか?」
苦しいのと恥ずかしいのとが入り交じっていた。
深呼吸を繰り返しようやく咳が止まった。

「な、なんでしょう?」やっと云えた。

「もしよかったらこれから子供たちで焼いたクッキーをみんなで食べるんですけどこちらで一緒にいかがですか?」

予期せぬ誘いに驚いた。
「でも私は部外者ですし、一緒にいるところを親御さんたちが見たらとても心配すると思うのですが…」
ひとりの親として素性の分からないオッサンを子供に近づけるのはとんでもないことだと思った。

「でも…悪い人には見えませんし…」

そのひと言に救われた気がした。
「じゃあ、ちょっと顔を洗ってきます」そう云ってトイレに駆け込んだ。
  
顔を洗って出てくると図書室の隣の部屋から賑やかな声が聞こえた。
中に入ると十数名の子供たちと新人ナース役が大きなテーブルを囲んでいる。

「こちらにどうぞ」隣の席に招かれた。
テーブルにはちょっと濃い目の色した形の歪なクッキーがキッチンペーパーの上に盛ってあった。

「すみません。ではいただきます…」
ひとつ齧った。
さくさくと香ばしい…しっかりとバターの味がする。

「美味しいですね」
マグカップに暖めた牛乳を持って来てくれたナース役に微笑みかけた。
「よかった」嬉しそうな笑顔がこぼれた。





 なんだか久しぶりにとても幸せな気分になった。
暖かな部屋、子供たちの笑い声。

みな美味しそうにクッキーを頬張っている…。
ナース役が子供を世話する様子が結婚していた頃を思い出させた。

さっき泣いたせいかもう涙は出てこなかった。

目を細めて見つめる私にナース役が気付いた。
「よかったらまだ召し上がります?まだありますから…」
「あ、いえ、もう結構です。ごちそうさまでした。とても美味しかったです。」

セーターの袖を引っぱる感じに振り向くと幼児がいた。
手にクッキーを握りしめている。
「くれるの?」
手を出すと握りしめて粉々になったクッキーを掌に置いてくれた。
そして膝の上に乗ろうとしている。

もらったクッキーをキッチンペーパーに置き、抱きかかえて膝に乗せると
モノ珍しそうにペタペタと無精ヒゲ面の顔を触り始めた。
顔がクッキー粉だらけになった。

「わわっ」

慌てる様子をナース役が笑って見ていた。

 どれほどの時間が経ったのだろう?
日がすっかり高くなっている。
昼過ぎだろうか?

 クッキーを食べて隣の図書室で本を読む子、その場でウトウトとする子、
裏の広場で遊ぶ子の姿が窓越しに見える。

ナース役はさっき数人の少女たちに連れられ部屋を出て行ってしまった。
室内には数人の子供と私だけだ。

もし私が異常者だったらどうするつもりなんだろう?
こんな素性の知れないオッサンと無防備な子供を一緒にさせておくなんて…。

危機感のなさに呆れながらもうたた寝する子供の姿を眺めていた。
屈託のない寝顔を見ていたらまた眠くなってきた…。

 気が付くと部屋には誰もいなかった。

テーブルの上もキレイに片付けられている。
隣の図書室にも裏の広場にもナース役や子供たちの姿はなかった。

ここにも時計がないから何時間過ごしていたのか分からない…。
でも日はまだ高いままだ。
また誰もいなくなってしまった…。

よく周りを見渡すと何やら覚えのある部屋だと思った。
八角形の出窓部分、細長い採光窓…廊下に出てみる。

ここにパイプスペース、この先にエントランス…そうだ!
昔、デザイン事務所で担当した案件だ。

あのときは公民館という計画で進められていたような?
客先の二転三転する仕様変更にうんざりしながらも
何日も徹夜でプランを仕上げてプレゼンに望んだのを思い出した。

辛かったことも多かったけど仲間もいたし、なかなか楽しかった職場だった…
何故、辞めたのだろう?

そうだ…思い出した。
あまりにその場しのぎの無計画でワンマンな所長のやり方に我慢できなくなり、
今までのことを指摘したら大喧嘩になって…もう1人のスタッフとその場で出てきたんだっけ。

その後、もう1人の方には所長が直々に謝りに行ったらしいが…私の所には来なかった。
なんだか思い出したらまたハラが立ってきた。

あの頃、結婚してようやく安定した仕事に就いてくれた!
と喜んでいた妻をたいそうがっかりさせてしまい…そんな自分が情けなかった。

気分を変えようと表に出てまた車止めに腰掛けた。

そのあとはどうしたのだろう?
就職活動しつつ、PCの工場でアルバイトしていたんだっけ。
大きな工場だったので皆、訳アリの人たちが集まっていて面白かったが
時給が安く拘束時間が長い割には稼ぎが少なくて経済的にはラクではなかった。

そのことで毎日、妻との口論が絶えなかった気がする。





 日射しの暖かさはさっきと変わっていない。
このままゆっくり散歩がてら昨日の駅に戻ろうか…そう思っていると何やら視線を感じた。

 振り向くと一匹のキツネらしき小動物がこちらをじっと見ている。
どうせすぐ逃げるだろう…そう思って無視していると側に寄ってきた。
手を伸ばせば触れるぐらいの距離まで来ている。
じーっとこちらを凝視しながら…。

腹いせにちょっと捕まえるフリをして脅かしてみる。
飛び上がって一瞬逃げようとするがこちらがそれ以上動かないので様子を見ている。
またじりじりと近づいてくる。

本当に捕まえてやろうかと思ったがエキノコックスだと嫌なのでやめておいた。
そんなことを繰り返しているうちに…仲間が増えている。
一匹、また一匹と…7匹になっていた。
7匹がにじり寄ってくる。

そうなると今度はこっちがちょっと怖い。
こちらから襲いかかる動きを見せる。
一瞬7匹が怯んだ隙に走り出した。
7匹が追いかけてくる…いや、あちこちから集まってどんどん数が増えているように見える。

 梅林を抜け、できるだけ民家の多い方へ逃げようと思っていたのだが道は森の方へと続いていた。
道はどんどん険しくなる。
足場が悪くて転んでしまいそうだ。
と、森を抜け丘の上に出た。

草原が広がっている…金色の草原だ。
昔のXPのデスクトップの丘陵を金色にしたような感じだと思った。
振り返るとキツネらしき集団は追ってきていない。

逃げ切れた?

いや、そんな筈はないと思ったがとりあえず側の岩に腰掛けた。
汗が噴き出してくる…コートとセーターを脱ぐ。
滴る汗をハンカチで拭いながら辺りを見渡す。

遠くは霞んでいてよく見えないが幾重かの山影が見える。
昨日の駅や街は高台に阻まれここからは見えない。
頂きに展望台らしき建物が見える。

後を気にしながら頂を目指して歩き出した。
あそこからなら何か見えるかもしれない…。

あのキツネたち何故追いかけてきたんだろ?
逃げたから本能的に?
ちょっと脅したのが頭にきたのか…
それとも知らないうちに彼らのテリトリーでも侵したのだろうか?





 木を模したコンクリート製の展望台だった。
これも比較的新しい建物のようだ。
幾つかベンチが設置してある。
コートとセーターを横に置いて座り込んだ。

ここからでもあの高台の向こうの街は見えなかった。
ただ霞んだ先に昨日列車で渡った河の水面らしきモノが見える。

あんなに離れていたっけ?
昨日あの高台から見た時はもっと近かったように感じていた。

 汗が引いてきた。
ポカポカ陽気のおかげで風邪はひかずに済みそうだ。
ここにも人影はなく風と鳥のさえずりと虫の声だけが聞こえる。


 さっきの続きを思い出していた。
PCの工場で働きながら今までのスキルが生かせる仕事を捜した。
できるだけお金の掛からない様に情報は職安かネットで集め応募していた。

 そんな時、同郷の知り合いから纏まったイラストのオファーがあった。
大手メーカーの下請けで、業務用のマニュアルを更新するから所々イラストが欲しい…というものだった。

サンプルを幾つか作成してプレゼンに使ってもらい、話が進んで行った。
マニュアル一冊はおよそ千頁前後、2~3頁に1点イラストを使用して300~500点。
それが5~8冊同時に進められ、2~3年に一度更新されていくという。

モノクロ中心なので単価は1点3,000円~5,000円程度だが単純な絵柄なので
日に10点ぐらいは充分作成可能だった。

 スキルが生かせ、収入が増えて継続性のあるこのオファーに妻も喜んでくれた。
方や、やっと決まりかけていたデザイナーの就職口も辞退し、準備に取りかかった。

分かっている資料だけでも先に貰い、効率化を検討しながら作業を進めていた矢先、制作費のコスト削減計画の徹底した実施との通知で…全ての話が流れた。

 ショックのあまり妻は倒れてしまった。

あまりに呆気ない、誠意のないクライアントの態度に損害賠償訴訟も考えた。
しかし、口約束だけで仕事が回っているこの業界で個人委託者と契約書など取り交わす習慣もなく…諦めざる負えなかった。

結局は泣き寝入りだった。
今から思えば、こういう事態になっても面倒な事にならない様に私に声が掛かったのだろう。 

そのあとはどうしたんだっけ?





 焦点が合わない状態で歩いてきた方をぼんやり眺めていた。
すると森の中から動くものが…誰か歩いてきた。
同じ歳くらいだろうか?男性のようだ。

辺りを見回しながらゆっくりとこちらに歩いてくる。
やがて展望台に上がってきた。

どことなく見覚えのある姿だ…どこで見たのだろう?

「こんにちは…」

向こうから声をかけてきた。
やはり見覚えがある…。

「どこかでお会いしましたっけ?」
「えーっと…何処でしたっけ?」
むこうも見覚えはあるものの思い出せないようだった。

 「いつからここに?」
逆に彼に尋ねられて答えに困った。

「実は…」
昨晩、終電で高台の向こうの駅に降りた事、神社の境内で夜を明かした事、朝のバスに乗り遅れてしまいこの辺りをぶらぶらしている事を話した。

「そうですか…」
そう云って遠くを見つめた。

「今、何時だか分かります?」
彼が問うが時計を持っていないことを告げると「持ってない方がよかったかも…」
そう云って自ら腕時計を見せてくれた。

でも秒針が動いていない…。

「? …電池切れですか?」
「ここに来た時はまだ動いていたんですよ。少なくとも2、3ヶ月ぐらいは…」
「3ヶ月も…ここに?」

彼はうなずき
「ずーっと彷徨ってました。しかも、その間一度もここは夜になっていない…」
彼が何を云わんとしているのか分からなかった。

「ここは夏季の北極か南極圏なんですか?」
彼は吹き出し
「だといいんですけどね。どう見てもここは北欧でもロシアでもアラスカでもカナダでも…ましてや南極でもない。」





「?…何か知っているんですか?」
「分かりません…私もある日、気が付いたらこの村にいたんです。あちこちを彷徨い、バスを待った。でもいくら待てどもバスは来ない…」

「さっき、通り過ぎるのを見ましたよ。」
「そう、通り過ぎるのは何度も見てます。でも乗れないんです。何時間バス停で待っていてもバスは来ない。
しかしバス停を離れた途端に通り過ぎて行き止まってくれない…」
「バスの後を追って行ったらどうなんです?」

通りの見える方を指差す。

「廃駅の前から公民館の前を通ってそのままずーっと続いているように見えるでしょ?」
「違うんですか?」
「その森に入ったところで道は急に細くなっている…バスが通れる幅じゃないんです。」
「じゃあバスは何所へ?」
「分かりません…追いかけてそこまで走っても既に姿はなくなっているし、
そこで待ってもバスは来ない…」

「他に道は?来る方はどうなんです?」
「同じです。そのカーブを曲がったところの道幅では大型車は通れない…でも見ていると
バスはそのカーブから現れ森の方に消えて行くんです。」
「しかも、ここから乗る人も何人か見た。」

 ちょうど大型ディーゼル車の音がしてカーブからバスが現れたのが見えた。
「そんな…夕方までないハズなのに?」
まだ日は高い。
せいぜい正午か午後1時ぐらいだ。

「ちょっと確かめてみますよ。」

彼の言っていることが信じられなくて走り出していた。
彼が何か叫んだが聞こえなかった。

草原をの丘を下り、森に入る。
足場の悪い道を下って行くと梅林に出た。
民家の軒先の路地を抜けると表通りにバスが通り過ぎて行くのが見えた。
一心不乱に追いかけた。



 こんなに全力で走ったのは何年ぶりだろう?
いつだったか電車に乗り遅れそうになった時、いきなり走り出したら
足が絡まって転んでしまった事があった…。
何故だか分からないがあの時と比べものにならないくらいカラダが軽く感じる!

 しかし、さすがにバスには追いつけなかった。
バスは通りをまっすぐ走り、緩やかなカーブーを曲がって行った。
バスの後を追って走るとさっき聞いたとおり急に道幅が狭くなっていた。
他に道らしきものはない…。



息をきらしながらそのまま歩いてみる。

道の両端は斜面になっており、谷側に沢が流れていた。
落ち葉が道を覆っている。
所々水たまりもあるが轍などのクルマが通った様子はない。
この辺りは常緑樹も多いのだろうか?

森が鬱蒼と茂り昼でも薄暗い。
暫く行くと視界が開け一面のすすき野に出た。
斜面の山肌をびっしりと覆っている。
低い雲が流れて金色のすすき野に影を落として行く…まるで絵画の世界だ。



 いつの間にか道は草原の中で消えていた。
見上げるとさっき居た展望台が見える。
乾いた風が汗をかいた頬に心地いい…。
立ち止まり風の匂いを嗅いだ。
「どうです…何か分かりましたか?」
そう云ってベンチに置いてきたコートとセーターを手に彼が現れた。
「いや…言ってた通りでしたよ。あのバス…いったい何処に消えたのでしょう?」

「さあ…」

セーターを受け取り着ようとして気付いた。
彼は開襟シャツにチノパン姿だ。
「寒くないんですか?」
「いや、全然…逆に暑くないのかな?と思いましたよ」
そう云われれば寒くはない。
セーターは要らないかもしれない…
汗をかいているのに風も冷たく感じられなかった。

 「どうやってここに来たのですか?」
さっき聞き逃した事を彼に尋ねた。
「それが…アナタと同じでよく覚えていないんです。気が付いたら駅の待合室に居た。」

ゆっくりと歩きながら話しを続けた。
「他に誰かいました?」
「親子が居ました。母親と子供…唄を歌っていた。」
「唄?どんな?」
「小学校で習うような唱歌です。なんて題名だっけ…?」


「名も知らぬ、遠き島より、流れ寄る、椰子の実ひとつ…」


不意に思い出した唄を口ずさむと彼は驚いた。
「それですよ!何で分かったんですか?」
「いや、なんとなく…」
幼い頃、母親に教えられ一緒に歌った唄だ。
奇妙な一致が何故か嬉しかった。



 再び展望台で彼と話した。
今までの生活や仕事、家族の事。
彼には二人の息子がいて反抗期のせいかここ数年まともに話をしていなかった事、
妻がノイローゼ気味な事を話してくれた。

彼も若い頃バイクに乗ってよくツーリングに行っていたらしい。
もう少し早く会っていれば一緒に走る機会があったかもしれない…。
数ヶ月前に大腸にポリープが見つかり手術し、退院した事までは覚えていたのだが…

後は記憶の順序が曖昧で何が一番新しい出来事だったのかハッキリしないらしい…。
「そういえば誰かの葬儀に参列した覚えがあります。義母だったような…?」
「うん、私もありますよ。誰の葬儀だったかは覚えていないけど…」
嫌な胸騒ぎはしたがそれ以上は互いに口にしなかった。

 かれこれ数時間は経った筈だが彼の云う通り一向に日は沈もうとはしない。
「今、何時なんだろう…少なくとも3、4時間は経った気がする…」
冬場ならそろそろ暗くなってきてもいい頃だが…
日は少し傾いた気がする程度だがまだ高く、ポカポカと暖かな日射しが辺りを包んでいる。

 不意に彼が思い出したように云った。
「あの高台の向こうから来たって云いましたよね?」
「ええ、新興住宅街があってここと同じ駅名でした…」
「高台の向こうはまだ行った事がありません。前に行った時は道がなかった…
案内してもらえます?」
また歩き始めた。

今朝通った道だ。
確か一本道だった…駅まで戻る事はたやすいと思っていた。
駅前のバス通りを渡ってしばらく行くと登り坂になっている。
住宅地を抜け広場に出た。

今朝、ピピと出会った場所だ。
ひょっとして戻ってきていないだろうか?
そう思い呼んでみたが姿はなかった。
今朝とは陽の当たる方向が違うせいかここから見える村の風景が幾分違って見えた。
暖かな午後の日射しに照らされて半日ぐらいしかいないのにずっといるような…
とても懐かしい気がした。



 一本道を登って行くと鳥居が現れた。



今朝の霧に包まれた幻想的な趣きとは違い、子供の声が聞こえる生活圏の一部と化していた。
境内に入るとそこは子供の遊び場だった。

キャッチボールをする子、けんけんぱをしている女の子。
何だか自分の子供の頃を思い出す…。

子供たちの間を抜けて境内の反対側に出る。
引き込みの電線があり道が続いていてその先には周囲を削られた新しい電柱が一本
立っている筈だった。

 電柱は立っていた。
だが古い木製で周囲の様子は変わっていた。
昨晩通ってきた造成地はなくそこには鬱蒼と茂る森が続いていた。
「どうなっているんだ?」
道を間違えたのだろうか?

「ここを通ってきたんですか?」
「いいえ、昨晩通ったのは開発途中の造成地でした。そして…」
道なき草むらをかき分けて行く
「ここから駅が見えました」
斜面に差し掛かった所で下を指差す。

眼下に街はなく森が…その先の河川敷まで続いていた。
昨晩見た駅前のロータリーも中古車屋もファミレスもケータイショップもそこにはなかった。
ただ、線路だけは通っているように見える。そして河川に架かる橋も…。

 けもの道を下り線路の終わり付近にたどり着く。
昨晩歩いた時より随分と近く感じる。
そこは駅舎もない無人の折返場だった。
錆び付いた資材が辺りに積まれて侘びしさを醸し出している。


まるでタイムスリップした気分だ。



「こんな所あったんだ…」
驚く彼に
「ここじゃないんです。昨晩、終電に乗って降りた駅は…」
単に道を間違えた?
でも他に道らしきものはなかった。

「でもここから列車に乗れるかもしれない。待ってみましょうよ」
そうだった。
昨晩降りた駅がここじゃなくても要はここから脱出できればいいのだ。

 資材の山に腰掛けて二人は列車を待った。
風が少し出てきたが相変わらず日射しは暖かだった。

「子供の頃…」

彼が話し始めた。
「電車が好きで親父のカメラ借りてこうやって停車場で待っていたモンです。」
「私の子供の頃はスーパーカーブームで豪邸や大きな駐車場で待ち伏せしましたよ…」
互いに子供の頃の思い出を語った。
話からすると見た目は変わらないようだが彼は私よりひと回りぐらい年上のように感じる。
不思議な事に彼もまた歳やここに来る前の記憶を失っていた。

自分の名前さえも…。

「そういえば何ヶ月もの間どうやって暮らしていたんです?食べ物や寝る場所は…?」
「それが…ある時期から全然食べてない…というか腹が減らないんですよ。
疲れもしないし、眠くもならない…。日が落ちても暗くならないでしょ?
そのせいか1日という感覚が麻痺して…だから何日経ったか分からないんです。」
「それって凄くないですか?ある意味、楽園ですよね…。」

冗談半分で驚くと彼はうんざりした表情で
「楽園がこんな所なら…長くは居たくないですね。」そう答えた。
「ここに来た当初は疲れもしたし、腹も減ったりしていました。でもだんだんその感覚が
薄れてきて…気付いたらもう何日もうたた寝する事すらなくなっていた。死んだのかと
思いましたよ。でもちゃんと痛みは感じるし脈も打っている。息もしているし、汗もかく…。」

「でも食べる物に困ったり外部から身を守る心配しなくていいなんて…やっぱり楽園ですよ!」
「ここには全くと云って外からの情報が入ってこない。まるで世の中から隔離されたみたいで
落ち着きませんよ。世界は今、どうなってしまっているんでしょう?」

訴えかけるような眼差しに
「少なくとも…昨日までは今まで通りだったと思いますよ…。」
曖昧な答え方だと思ったが他に良い云い方を思いつかなかった。



 また少し風が出てきた。
雲が早く流れている。
「電車…なかなか来ませんね…」
彼はぼんやりと遠くを見つめていた。

線路の続く先の鉄橋、それに交わる河口が広がりここからは海のようにも見える。
どこかで警笛のような音が微かに聞こえた。
「来たんじゃないですか?」
立ち上がり鉄橋の向こうを見つめた。
一瞬、列車らしき姿が見えたように思えたがこちらへは来ず、森の中へと消えて行った。

 「向こうにも線路がある?」

二人は引き寄せられる様に再び歩き出していた。
鉄橋に差し掛かった…が、下が丸見えで安全網もない。
この上を歩くのは危険だと感じた。
辺りを見渡すと数百メートル上流にも橋が見えた。
向こうから渡ろうと話し合った。

資材置き場から未舗装路が続いている。
大型車が通った後だろうか?
轍が深く所々大きな水たまりがある。
道沿いには煉瓦造りの倉庫らしき建物もある。
だが皆閉まっていて人気はない。
ここも何か忘れ去られた施設のように侘びしさを感じる。

 廃屋が並んでいる。
嘗て栄えた工場の後らしい…。
よくドラマや映画で密約の取り引きに使われそうな所だ。
堅く閉ざされた門扉の奥にガラス張りの部屋が見る。
一瞬、中で少女らしき影が動いた気がした。

「見ました?」

とっさに彼に尋ねた。
「えっ?」
「今、そこに人影が…」どうやら私にだけ見えたらしい…。
「ひょっとして娘さん?」
「…見えたんですね?」
「いえ、私も時々息子たちらしい影を見ます…でもいつも一瞬見えるだけです。」



彼の言葉に驚いた。
やっぱり幻覚なのだろうか…?
「アナタを展望台で見つけた時、また幻覚かと思いましたよ」
「何故違うと分かったんです?」
「近づいても逃げなかったから…」彼は少し笑いながら云った。

何人かは見えることもあるが実際に話ができるのはその内の数人ぐらいらしい…。
「ここに来て…今まで何人ぐらいの人と話されたんですか?」
「たぶん…30人ぐらいでしょうか…」
「結構いますね。その人たちは何処に?」
「分かりません。こうやって話しているうちに忽然と消えてしまったり、
バスに乗って行った人もいました。」

「その時、一緒に乗れなかったんですか?」
「それも一瞬の出来事だったんですよ。同じようにこうやって話していたら目の前をバスが
通り過ぎて…見るとその人が車窓から手を振っていたんです。ホント、驚きましたよ。
あの時は…」

何だか昔話をしているように語った。
「しかも…一度お会いした人には二度と会っていないんです。」

 やっぱりここは夢じゃないかと思った。
もしくは壮大なトリックなのか…?
沈まない太陽、一度しか会えない人々。
ここまでは可能性は低いが起こり得ない事じゃない。
夏季の極圏内での白夜、旅先での人との出会い…。
しかし、食べる事も眠る事もなく疲れもしない体などどう考えてもあり得ない。

彼の妄想なのか?
あるいは特異体質なのか?
それとも特別な病気にかかっているのか?
ここの特殊な気候が人体に及ぼす影響なのか?
どう考えても普通ではない!
 
 でも夢ならいっそ覚めないで欲しいとも思っている自分がいた。
昨晩以前の事が思い出せないのは何か思い出したらマズい事が起こったから…
そんな気がしていた。
ドコかで観た映画のようにもしかすると本当の自分は今昏睡状態にあるのかもしれない…。
もし、そんな哀しい現実ならこの夢の中でずっと過ごしていきたい…。



 「ここに来る前で一番新しい記憶って何かあります?」私が問うと
「何かあるんですか?」逆に尋ね返されてしまった。
「私は…」歩きながら、ゆっくり覚えていることを整理しながら話そうと思った。

 あの一件以来、しばらく職を探す気力すら失ってしまったこと。
妻も倒れ、小さな子供を抱えたまま半年近く無収入になり、
生活保護を申請しようと役所に出向いたが
両親が健在なら実家に帰ればいいという理由で申請書すらもらえなかったこと。

1年近くなってやっと派遣社員として仕事に就いたものの、
担当になった上司社員の身勝手ぶりに周りがどんどん辞めるていること。
契約更新のたびに不安になりながらもそれでも耐えて勤め続けていることを話した。

 彼は黙って聞いていた。
「いったい‥どうしてこんなことになってしまったんだろう‥。」
やりきれない気持ちでそう呟いた。

「望んでやってきたんじゃ?」彼が不思議そうに尋ねた。
「まさか‥!福利厚生も賞与も昇給すらない、給料も正社員の半分以下!
誰も好き好んで派遣社員なんてやりませんよ。」
行き場のない怒りを彼にぶつけた。

「‥すみません。」

彼は黙ったまま、ただまっすぐ見つめながら歩調を合わせて歩いている。
「人って‥どうして『ダメだ!』と思う方向に引っ張られてしまうんですかねぇ‥
ほら、曲がりきれないコーナーで路肩の浮き砂やガードレールに引き寄せられるような‥。」
バイクに例えて冗談交じりに話した。

「でもクリアできるコーナーなら路肩の砂もガードレールも目に入ることすらなしに
出口だけを見て走り抜けられますよね。」
確かに迷いがない時はまっすぐ目標に向かってまい進することができる場合もある。
だが、そんなことは今までほんの僅かしかない。

そんな人間がいる筈もないと思った。
「あなたは今まで迷いなく生きて来られたんですか?」意地悪く彼に尋ねた。
「まさか‥」首を振りながら笑った。



 気が付くと足元に猫がまとわりついている。見ると数匹の猫が後をついて来ていた。
黒いのや三毛っぽいのやロシアンブルーみたいのまでいる。
数匹が同じ方向に列を成して歩いているなんてこれもまた珍しい光景だ。
その中に見覚えのある猫がいた。

昔、住んでた家にいつしか住み着いたチンチラ…飼ってた訳じゃないがしばらく居着いていた。
数ヶ月経って気が付くともう姿を見せなくなっていた。
「お前ゴマか?」あの時の名前で呼んでみた。 
すると歩きながらこちらを見ている…。

「ここじゃ、もう何が起こっても不思議じゃない気がしてきましたよ…」
何だかもうあれこれ考えるのが面倒だと思い始めていた。





        ドォォォーーーン!





 今朝聞いたのと同じような轟音が辺りを包んだ。
空気がビリビリと振動している。
驚いて皆一斉に空を見上げた。
「今朝も聞いたんですよ。あの雷みたいな音…あれは一体何なんでしょう?」
「さぁ…でもあの音がした後、誰かに出会う事が多いんですよ…」
誰かがこの世界に踏み込んだ合図だというのだろうか?
見渡すと猫たちは皆忽然といなくなっていた。

 橋に差しかかった。
大型車が通れるぐらいの大きな鉄橋だ。
幾重にも膨らんだ塗膜が長い年月を偲ばせていた。
眼下には広い河原が続き河が流れている。
少し長くなった影が河川敷に映っている。
日が傾いてきたようだ…。

「夕焼けになってきましたね。」
「美しいですよね。ここの夕焼けはいつ見ても美しい…。」
彼は心底この光景を慈しんでいるようだった。
蒼く澄んだ空、ゆっくりと形を変えながらオレンジ色に輝く雲

…世界ってこんなに美しかったのだろうか?
山影に沈んでゆく陽を眺めながらただ歩き続けた。
日が沈んで数十分経っただろうか?
辺りはとっぷりと暮れてもいい時間なのだが…一向に暗くならない。

 長い橋を渡り対岸まで辿り着いた。
だがここからは線路は見えなかった。
「もっと河口寄りでしょう…」
こちら側には橋の道幅そのままの広い舗装路が続いていた。
所々補修した痕があり車両帯区分の線もほとんど消えている旧い道ではあったが…。

 「あっ!」

彼の声に驚いた。
線路があった。
山の斜面に沿って続く山肌に消えている。
トンネルだ。

「そう云えば駅に着く前に長いトンネルに入りましたよ。」
「このトンネルの向こうに駅が…?」
「着いた時、終電だったんですよね?」
「ええ、辺りはもう真っ暗で幾つかの街灯しか点いていませんでした。」
「そこには夜があったんですよね?」
ほんの数キロしか離れていない場所なのに方や白夜で方や夜になる境目があるなんて…?

なんとも納得し難い事だが…他にここを抜け出せる手段を思い浮かばない。
「このまま線路を…トンネルの中を通りますか?」
「いや、それは幾ら何でも危ないので止めておきましょう。この斜面に沿って歩いてゆけば
出口にたどり着けるのでは?」
山肌に道らしきものは見えていない。

「あそこ…ですか?」
訝しがる私に
「それともこの線路を逆に辿って行ってみます?」
河口の方を指差した。
「こっちの方が何か近い気がしますよね…」
別にあてはなかったがこの時はただそんな気がしていた。



 日はないが暗くはなっていない。
「ね、何時まで経っても夜にならないでしょ?」
空は黄昏れから幾分落ち着きを取り戻した様子だった。
さっきの日が沈んだ山を背にして歩いてゆく。
東に向かっているのだろうか?

「今まで会った人たちも皆、何故ここに来たのか覚えてなかったんですか?」
いきなり彼に尋ねた。
「何人かの人は連れて来られたって云ってましたよ。」
「誰に?」

「久しぶりに会った友人や見知らぬ人とかに…」
「見知らぬ人?よくついて来ましたよね…」
「その人は山で遭難したらしいって云ってました。何日も山中を歩き、
やっと人に出会って下山することができた。で、ここにたどり着いたって云ってました。」
「…なるほど」
返す言葉がなかった。

やはり皆、来たくて来たワケじゃなかったのだ。

 「この世界…どう思います?」
彼の問いに答え倦ねていた。
「どう考えても私たちの居た世界ではありませんよね?」
その先を云うにはもっと調べる必要があると思った。
何たって今、この瞬間も呼吸はしているし、汗もかく、ケガだってするし…喉も渇いている。
「確かに…でも私たちまだ生きていますよね?」
自分に言い聞かせるように彼に答えた。

 気が付くとまた日が顔を出していた。
1日が経ったのか?
それにしても長い1日だと思った。
風が河口の方から吹いてくる。
ほんのり潮の香りがした。
「海なんですね…」
河口付近が広がっているを目を細めつぶやいた。

 線路沿いに道はなかった。
線路を歩こうかとも話したがもし列車が来たら危険という理由で
一旦、河原沿いに河口まで行ってみる事にした。
線路はしばらく山間を抜くように敷かれていたがやがて海岸線に沿って続いている。
所々林に覆われてはいるものの数キロは続いているように見えた。

 河原を歩き下流へ下る。
さっき迂回した鉄橋が見えた。
下から見ても随分な高さだ。
もし突風に煽られてあの高さから落ちたら大変な事になっていたんじゃないか?
と思うと遠回りしてよかったのだろう…と、その時、鉄橋を列車が通過していった。
驚いて彼と顔を見合わす。

列車はさっき待っていた折り返しの方から鉄橋を渡り海岸沿いを走り去った。
さっきあのまま待っていたら乗れたかもしれない…
そう思うとさっきから歩き回っていたのが何だかバカらしくなってきた。

「ちょっと休みましょうか…」大きな石に腰掛けた。



 昨晩の事を思い出していた。
幾つかトンネルを抜けて橋を渡り駅に着いた事を…。
あの時確かにここは夜だった。
月の光が水面に映っていた。
そして橋を渡り駅に着いた…。

あの折返場はやはり昨夜の駅じゃなく、昨夜の列車はさっきのトンネルを抜けて
あの山の向こうの駅に着いた…?
そう考えるのが自然ではないか…?

 「昔、まだ息子たちが小さかった頃こうして河原を歩いた事がありましてね…」

不意に彼が話し始めた。
「上の子は脇目も振らずにどんどんと進んで行くのに
下の子はちょっと歩いては石の下の虫や魚を見つけては触ってみたり…
同じ環境で育てた筈なのにこんな頃から個性って出るんだなーって…」

楽しそうに話す彼に思わず顔が綻んでいる自分がいた。
「息子さんたち…何て名前なんですか?」
思わず尋ねると一瞬声に出かけるが
「…」
急に困惑した表情に変わってしまった。
「ダメだ…やっぱり思い出せない…。」
尋ねた事を申し訳なく感じてしまった。

さっきから自分の名だけではなく、娘の名前も思い出せなくなっていたからだ。
家族の名前すらも分からなくなっていた事に憤りと焦りを感じた。

 空は朝焼けになっていた。
紫とオレンジが混じり合ったような色の空。
風が少し冷たくなった気がする。
海からの風が潮騒も運んで来た。
「波の音って何かいいですよね…」
音につられるようにまた歩き出した。

さっきに比べ幾分石の大きさが小さくなって歩き易くなった気がする。
この先は砂浜だろうか?
海が近づくにつれ少しづつ歩調が早くなる。
防波堤を越えると一気に視界が広がった。

          海だ!







 水平線上に幾つか船の灯りのような光が微かに見える。
砂浜が霞んで見えなくなるくらい左右に続いている。

「こんなに広い浜辺って初めて観ますよ!」
「私もですよ。何て広いんでしょう…線路も見えますよ。」

振り返ると浜辺に沿った海岸線に何カ所か線路と送電線が覗いている。

「これ辿ればどこかの駅に着けますよね?」
「ええ、きっと…」
当てはなかったが希望が持てた。

とにかくここを歩いて行けば何とかなる気がした。
強い風が吹き防波堤の乾いた砂を舞い上がらせ旋を巻いた。

 海を観ながら砂浜を歩いてゆく。
寄せては返す波と流れ行く雲が変わる事のないこの世界を表している気がする。
ふと立ち止まり振り返る。

浜辺に出て来た河口付近は窪んでいるせいかここからではもはや分からず、
ずっと浜辺が続いているように見える。

彼も立ち止まり同じように振り返っていた。
何も言わずただ遠くを見つめている。

視線の先、波打ち際に一匹の犬が佇んでいた。
水平線の彼方に行った主人を待っているかのように…。

口笛を鳴らし注意を引くが反応はなかった。

 一体私たちは何を求めて彷徨っているんだろう?
駅を見つけ、列車に乗る事ができたとしても自分の名前も思い出せない状況で
何処に帰ろうとしているのか?

そもそも帰る場所があるのだろうか?
待っている家族はいるのだろうか?

独り水平線の先を観て佇んでいる犬に自分たちの姿を重ね合わせていた。
互いに声をかける事もなく目配せだけで再び歩き出す。

 前方に大きな塊りがあった。漂流物のようだ。
子供用の自転車の残骸やソフトビニールの怪獣人形、そしてヘルメット。
どこかで見覚えのあると思い手に取ると‥それはかつての私のそのものだった。

初めてバイクに乗るために買ったヘルメット。
自分で塗装したのだから間違いない。
ツヤが出ず、何度も磨いては塗り直した覚えがある。
「何故‥ここに?」

よく見ると自転車も怪獣人形も見覚えがあるものばかりだ。
他の子のと区別がつくようにと人形の足の裏をマジックで塗りつぶしてある。

そういう子供だった。

 見ると浜辺には何人分もの足痕が波に洗われていた。
気付かなかった。皆、ここを歩いていたのか?
この先にこの奇妙な世界の答えがあるのだろうか…?
何故この世界に迷い込んだのか?

 日がまた高くなってきた。
ここに着いてからもう何時間経ったのだろう?
ひょっとしたら何日も何週間も経っているのかもしれない…。

「名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実ひとつ…」

不意に口ずさんでいた。
「故郷の岸を離れて汝はそも波に幾月…」

彼が続きを口ずさむ
「旧の木は生いや茂れる枝はなお影をやなせる…」

二人で続きを歌っていた。

不思議だ。
歌詞などは覚えてなかったのに自然に口から出てくる…。



あの駅の待合室で長い間、母親といったい何を待っていたのだろう?
好きな絵本を一緒に読んで、列車案内のアナウンスがある度に
「これに乗るの?」と尋ねたような気がする。

その度に母は首を横に振っていたっけ?
売店のおばさんが話しかけてきて何かを貰った…。
そして向かいの席に誰かが…?

「あれは…あなただった…?」
 そんな筈ある訳がないとは思った。でも彼も同じ事を考えていた。
「どこかで会った気がすると思っていたけど…まさか…ねぇ?」

もうどんなことが起こったとしても可笑しくはない気がしていた。

仮にそうだとすると数十年の時を経て彼はこの世界を彷徨っている事になる。

そして私も幼い頃…ここに居た?
「あなたかもしれない親子を見たのはほんの数ヶ月前だった…?」
もはや常識では理解できない領域に踏み込んでいる感じがしていた。

「誰かが導いたのかもしれませんね…」
ひと呼吸おいて彼が何かを悟ったように云った。

「誰が…何の為に?」
「その意義を考えさせる為に…でしょうか?」

 線路沿いの林が切れている場所が見えてきた。

駅だ!

駅舎はなく、石で積み上げたプラットホームがひとつと
木製の古い屋根の付いたベンチ、それに駅名板があるだけの無人駅。
駅名は『浜辺』と書いてある。

あんまりベタな名前だったので笑ってしまった。
歩いてきた方向には『月ヶ瀬淵』の駅名が、
だが反対側の…この先の駅名は塗装が剥がれて読めなかった。



 「列車…来ますかね?」
彼が歩いてきた方向を見る。
早くも列車が来た!

だが速度が早く止まる気配がない。
貨物車だ。
何両ものタンクローリーを引いて目の前を通り過ぎて行く、
飛び移れば乗れるかもしれない…そう思った時には走り去ってしまっていた。

あのバスを追いかけて以来、久しぶりに躍動感のある物に出会った気がした。
「ここから列車に乗る事ができたら…元の世界に戻れるかもしれない」
ただ直感でそう思った。

しばらくすると反対側から2両編成の短いディーゼル車がやってきたが、
これも停車することなく通り過ぎてしまった。
車内に数人の人影らしきものが…。
あの人たちもこの世界に迷い込んでしまったのだろうか?

 ぱったりと列車が来なくなった。
ただ海からの風が潮騒を運んでくる。

潮が変わったのだろうか?
波の音が先ほどから大きく聞こえる気がする。

一匹の犬が浜辺を歩いている。
さっきの犬だろうか?



日が高くなって二人の影が短くなってきた。
またコートとセーターを脱ぎ、ベンチの背もたれに掛けた。

 「さっきの…意義って何なんでしょう?」
彼に尋ねた。
「さぁ…ただ何となくそう思えただけで…」
遠くを見たまま彼は続けた。

「ここで出会った人のほとんどが何処かで出会った覚えのある人たちでした。
中にはあまり親しくなかった…と云うより苦手だった人や好きになれなかった人もいましたよ。
でももうその頃の嫌な感じや憎らしさは消えていて、不思議とただ懐かしさだけがこみ上げてきました。」

「…何故、そう思えたんでしょうね…」
「よく分かりませんが…こんな所まで来て、お互いにもういいか…って
感じになったんじゃないかと…」

照れくさそうに話す彼の目が少し潤んでいるように見えた。
「今、思えばいろいろと価値観は違っていたけど…みんな懸命に生きていましたしね。
こんな所で会えるなんて…って再会を喜び合えましたよ…。」

「再会を喜んだ…」彼の言葉にハッとした。
私はさっき、あの瞬間、素直に喜べていたのだろうか?

 元の世界に帰る事ばかり考えて何故この世界に
踏み込んでしまったのかを考える余裕がなかった。
いや、考えようとはしていなかった。

「教えて下さい。本当は何か知っているんでしょ?」

彼は目を閉じたまま首を横に振った。
「私が知っていることは…つい数日、いや数ヶ月前に出会った幼子が
いきなり私とそう変わらないぐらいの大人になって現れた事だけですよ…。」

本当に何も知らないのだろうか?
それ以上の事は云わなかった。

 いつの間にか空は厚い雲に覆われていた。
雨が降りそうな気配だ…と思った瞬間、大粒の雨が勢いよく降ってきて
プラットホームのアスファルト部分を黒く染めていった。

ベンチに屋根が付いていたのはお誂え向きだと思った。
直接濡れることはなかったが雨漏りの雫がすぐ側の座面を打っている。
彼は遠くを眺め、私も何も言わず遠くを見つめた。

 ここに来る前、いつも何かに煽られるように暮らしていた気がする。

いつも仕事では時間を無駄にできないと思っていた。
限られた時間でやれるだけの事をやろうと努力してきたし、それを認めてくれる人もいた。

そこに自分の存在意義があると信じてやってきた。
今までの仕事のやり方に自負があり、これからもそしていくだろうと思っていた。

 それだけにここには何かしら居心地の悪さがあった。

毎日忙しく働いてきた習慣が身についていたせいなのか、何かをせずにはいられなかった。
何もしないことに嫌悪感すら感じていた。

いつも誰かに咎められるんじゃないか?
そんな強迫観念からか何かをせずにはいられなかった。

 「私たち何故ここに居るんでしょうね…」

彼が遠くを見つめたまま呟いた。
何故ここに居るのだろう?

目の前の浜辺を雨のカーテンがそよいでいるように流れてゆく。
あの犬は何処に行ってしまったのだろう…。

 「何か勿体ないですよね…」彼は続けた。

「せっかく同じ時代にこの世に生きてきたのに成果やら利益やらで人や物事を
格付けしてしまい、出会いの意味や物事の意義を考えようとしないなんて…。

失敗した。負けた。損した。何でこういつも運がないんだろ…なんて、その結果にどんな
意味があるのかきちんと理解することなく過ごしてきたなんて…。」

社会を知らない学生や定年退職した老人ならともかく、働き盛りの世代から
こんな言葉を聞くのは意外だと思った。

「毎日そんな事をいちいち考えている余裕なんてありませんでしたしね…。」
働く世代を代表するような気持ちでそう云った。

「そうでしたよね…」寂しそうに彼はそう呟いた。

似たような光景がどこかであった。

そう、妻もいつもこんなふうに呟いていた。

立場は違っていたが、いつも同じような事で言い争っていた気がする。
日々の不満を漏らす妻に窘めるような事ばかり云って気持ちはいつもすれ違っていた。

仕方ない気持ちと申し訳ない気持ちとがいつもぶつかり合っていたが
…分かってほしいとも思っていた。




 「どう生きたかったんですか?」

彼の問いに絶句した。そんなこと考えてもなかった。

バタバタと日々の生活に追われ1日が無事に終えられるだけで手一杯だった。
疲れ果てて家路に着き、そこから何かをする気力もなく眠りに着き
またいつもの朝を迎える…その繰り返しだった。

 「何かやりたいことがあって出て来られたんでしょ?」

彼の言葉は何か遠い昔の自分に問われている気がする。

いつの頃からか生活費を稼ぐためだけに生きてきた。

『仕方ない』を言い訳に若い頃なりたくなったオトナに…今、自分がなっている。
さっきまで自負していた自信が虚しく思えた。

 何になろうとして生きてきたんだろう?

これまで人に自慢できるような輝かしい功績は何もなかったが
こつこつと地道に色んな経験をしてきたように思う。

決して順風満帆とは云えない人生だったがそれなりに幸せだった時期もあった。

毎日、何かしらの不平不満を抱きつつも、取り返しのつかなくなるような大きなトラブルに
巻き込まれる事もなく、周りの人たちとも巧くやって来れたと思う。

でもそこになりたかった自分は居たのだろうか?

これが望んだ人生だったのか?

子供に標(しるべ)となる生き方が示せたのだろうか?

「元の世界に戻れたなら…今度はもう少しそんな事を考えられるように日々を暮らしていきたいですね…。」

そう答えると彼は嬉しそうに笑った。

 霧雨になっていた。

雲の切れ間から日が差し込んできた。

「あっ…」

海に虹が架かっている。
半円全てが見える大きな虹だ。

「この儚い美しさは私にも分かりますよ…」
付け加えるように告げると彼はまた少し笑った。

 何かを愛し、何かに幸せを感じ…時には何かを憎んだり、何かに恐れを抱きながらこれまで生きてきた。

その中でこの世に生まれた意義と人生の意味、いろんな人たちと出会った理由…毎日の生活の中で
どれだけそんな事について考え、理解しようとしてきたのだろう?

それらを通じてどんな自分になろうとしてきたのだろう?

彼は何か晴々とした表情になっていた。

私も同じような表情をしていたと思う。

「娘さん幾つでしたっけ?」いきなりそう尋ねてきた。
「覚えているまでは…3つと4ヶ月でした。もう何年も逢っていません。今では幾つになったんだろう?」
「逢いたいですよね…。」
「ええ、そりゃーもう…」

「今なら名前…思い出せます?」
「あ…や…?そう!思い出せましたよ。娘の名は…!」

私の嬉しそうな顔に彼も綻んでいだ。
「おめでとう、¢ק∴†○‡…」

彼が何か云いかけた時、轟音と共に列車が滑るようにホームに入りドアが開いた。

 「電車来ましたよ。停まりましたよ!」
興奮し叫んで振り返ったがそこに彼の姿はなかった。

見える限りのホームにも浜辺にもそして乗り込んだ車内にも隣の車両にも彼は見つけられなかった。

やがて扉が閉まり列車は大きな挙動の後、静かに動き出した。

見ると誰もいなかったベンチに彼が座っていた。

こちらを見つけると驚いた表情で駆け寄ってきたが列車は動き始めていた。

彼が以前、一緒にいた相手がいきなりバスに乗っていた話を思い出した。

彼もまた同じ事を思い出したのだろうか、笑顔で手を振った。

私も姿が見えなくなるまで手を振った。




 車内にはやっぱり…と云おうか私の他には誰も乗っていなかった。

無人駅だったのにも拘らず切符をチェックしに車掌が来る気配すらない。
一昨日に乗ってきた車両とは違っていたがこの車両にも広告がなかった。

いったいこの列車は何処に行くのだろう?
この先、何かを思い出せる事ができるのだろうか?
そして元の世界に戻ることができるのだろうか?

 木漏れ日が車内に入ってくる。

晴れて来たようだ。
車窓越しに見る海岸線は恰も永遠に続いているよう見える。
突如、鮮やかな黄色が目に飛び込んできた。



 菜の花だ!



線路沿いに菜の花畑がずっと続いている。

その向こう、浜辺に人影が見えた。

あの廃墟の駅で出会った老人たち、そしてその横には子供たちの姿が…?
あの図書館で一緒にクッキーを食べた子供たちだ。
あの娘も一緒に皆、こちらに向かって手を振っている。

私がこの列車に乗っているのに気付いているのだろうか?

その背後から犬や猫たちが浜辺を走って来る姿も見えた。

ピピとゴマがいる!
何故だろう…皆嬉しそうに(?)見送ってくれている。
私も笑顔で叫びながら思いっきり手を振った。



「ありがとう!」



木漏れ日が車窓に反射して眩しいくらいに輝いている。




時折、目の前が真っ白になって目が開けられないほどに…。






光が風景を包み込んでいく。







眩しさで何も見えない。









列車の揺れる音が鼓動と重なって聞こえる…










































 誰かの声が聞こえる…何か叫んでいる。


























息苦しさと血の匂いを感じる。














何かに推し潰されそうに苦しい。








あまりの苦しさにもがき力一杯叫んだ。





 気が付くと病院らしきベッド…透明なケースに寝かされいた。
足に点滴らしきチューブが繋いである。
もう息苦しさはなかった。

ここは何処だろう?
周りに同じようなケースが並んでいるように見える。
何か鳴き声のようなものも聞こえる…。

ケースの外にはどこかで見覚えのある感じの女性がこちらを見ている。

笑って手を振っているようにも見えるがぼんやりしてよくわからない。

何か話しているが聞き取れなかった。
返事をしようとしたが声が出せない。
喉が詰まって上手く発音できなかった…。

 時々、誰かが覗き込んでくる。

皆、巨人のように大きい。
ケースが開けられ、優しい顔をした大きな手をした誰かに抱えられた。

何か懐かしい匂いがした。
話しかけられているようだが意味が分からない。
でも静かに語りかける口調とその嬉しそうな笑顔にとても安らいだ気持ちになった。

どこからか優しい感じの曲が聴こえる。

 そのまま外に出たのだろうか…
冷たい空気がいろんな匂いを運んでくる。
何か優しい光を感じた。




目を開けると月の光が無数の雫のように…。
















 今までの記憶は必要のない…元の世界に戻れたのだ。



 


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