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一章

vs " Z "(10)

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 目の前に、一匹の獣が立っている。
 体高1.5m、体長3mにも及びそうな、四つ脚で立つ巨大な肉食獣。
 俺はその姿を、前作『犬』でも見たことがある。
 かつて俺たちと争い、やがて友となり、アミーの名を与えられた獣。
 大きさはちがうが、その姿かたちは紛れもなく、アミーのものだ。

 その獣の胴体には、広げた手のひらほどの太さの、赤錆びた2本の鉄杭が刺さっていた。
 その獣の右前脚には、細い鉄杭が穿たれていた。
 だがそれらの鉄杭は、今やすべてが抜け落ちて。
 その貫通痕からは、とめどなく血が流れ出ている。
 その命は、もはや数分と保たないだろう。
 俺たちをくだし、この肉を喰ったところで、生き永らえることはできない。
 もうはっきりと、自分のらぬ死を、悟ってしまっているだろう。

  ――……ゥゥ、ァオオオオォォォォ――――ンッ!!!

 それでも、目の前の獣は吼える。
 生きたい、と。
 死にたくない、と。
 死んでたまるか、と。
 抗いの、絶叫を上げる。

 そうしてお前は、もう一度、
 俺たちに示して、教えてくれた。
 迸るほどの、命の熱さを。
 眩いほどの、命の輝きを。
 誰もが持つ、命の強さを。
 お前こそは、俺の師匠に相応しい。

 ……なんていうのは、まだ早いよな。

「――行くぞ、ズールッ!!」

 だって、俺たちも、お前も、まだ生きているんだ。

 ならば死ぬまで、生き足掻いてやろうぜッ!!


 *────


   ――――ズダンッ!!!

 爆音と、土埃とともに。
 目の前からズールの姿が――消えた。
 
「えっ――」
「カノンっ上だッ、避けろッ!!」

 弾かれるように左右に散開した、俺たちの
 周囲に血の雨を降らせながら、軽やかにその身を宙に躍らせ――

  ズドォォォォンッ!!!

 凄まじい衝撃と共に降ってくる、白い獣。
 地を割り砕くような音、揺れる大地。
 着地したズールの身体は、既に――

「――さっすがッ!!」

  ギュォンッ

 大気を切り裂きながら、こちらにかっ飛んでくる白い弾丸。
 俺の動体視力ではもう、そのかたちを捉えることすらできない。
 白いなにかが、こちらに突っ込んでくるというだけだ。
 これまでのように、跳ねるような横っ飛び回避――はしない。

「――ォッ!!」

 その白いなにかと、衝突する寸前、身を翻す。
 巨獣の振るう前脚が、烈風とともに俺の頬に触れる。
 ピッと、鋭いなにかが頬を裂く。
 だが――浅いッ!

「――お返しッ!!」

 通り過ぎる獣の胴体にナイフで抉り、全力で蹴り飛ばして【跳躍】する。
 全力で突き立てた石刃は、血塗れの皮膚を浅く裂くのみ。
 飛び跳ねるように遠ざかった俺の眼前を、ビュンっと通り過ぎる、赤黒い――

「同じ手は――食わんッ!!」

 鞭のように振り回された尻尾から放たれる血飛沫を半身になって躱し、弾けるように距離を――

(――なッ!?)

  ――……ゥゥ、グルル、ルルッ!!

 こちらに尻尾を叩きつける動作のまま、身体をこちらに向けて着地した獣は、既にこちらに飛び掛かる姿勢。
 はじめて見せた、天へと跳ねるような大跳躍も、
 先ほど俺に一撃入れた、尻尾による奇襲すらも、囮として――

(――こっちが本命かよッ!!)

 直感する。
 この飛び掛かりは――避けられない。
 その体勢に入られた時点で、こちらが回避に移っていないと、もう間に合わない。
 左右に跳ねようが上に跳ぼうが下に伏せようが後ろに退こうが、一息に仕留められる。
 この一太刀でお前を殺すと、目の前の獣が言っている。

(ならば――)

 太股の外側から石楔を抜き取り、両手で構える。
 避けられないというのなら、避けなければいい。
 正面から、受けて立とう。
 殺せるもんなら、殺してみせろ。

「――来いッ!! ズールッ!!」

  ――……ゥゥ、グルル、ルルルルァァァアアッ!!

 全身をばねのように弾けさせ、こちらに飛び掛かってきたズールの放つ一手。
 こちらの胸元に横薙ぎに叩きつけられるその部位は――左前脚ッ!!
 お前が力を込められるのは、もうそこしかないッ!!


 *────


 ズールとの戦いが始まってから、徹底して。
 俺はズールの身体のに集中して負担を掛け続けた。
 それは、最初から細い鉄杭が穿たれていた、ズールの右前脚。
 異常に巨大化したあいつの重量を受け止めるには、あまりにも細い部位。
 最初に壊れるのは、まずはそこだろうと思ったからだ。
 だから俺はひたすら左方向への回避を続けた。
 俺を追うあいつが、つねに身体を右向きに回さなくてはならないように。
 そのときに、軸足となるあいつの右前脚に、負荷がかかるように。

 それに加えて、もう一つ。
 右前脚に刺さっていた細い鉄杭を、俺の投擲によって引き抜かれたあと。
 杭を引き抜いた直後から、一度も出血が止まっていない。
 俺が酷使させ続けたために、血を失い続けた。
 身体の末端部である、お前の右前脚。
 血が足りなくなれば――当然、酸素が足りなくなる。

 なぁ、ズール。
 お前の右前脚は、もう駄目になっているんだろう。
 極度の酷使による疲労と、酸素不足による痺れで。
 もう、感覚がないだろう。
 もう、力を込められないだろう。
 もはやお前の右前脚は、松葉杖としての役割しか果たしていない。
 それでもなお、ここまで動いて見せるのは見事だが――
 もう片方もやられたら、果たしてどうかな――ッ!!


 *────


(――ここが、勝負どころッ、かもなッ!!)

 覚悟を決めて、その横薙ぎに角度を合わせる。
 しなる丸太のように力強く薙ぎ払われる、左前脚。
 その内側に、垂直に――

「喰らっとけ――ッ!!」

 両手で包み込むようにして、石楔の切っ先を宙に留め置く。
 ズールの左前脚が、俺の身体を吹き飛ばす前に、その切っ先が刺さり――
 ズール自身の膂力により、振るわれる前脚の体皮を切り裂き、肉を喰い破り――
 抑えつける俺の手のひらにも、抉るように――

(――ここ、まででッ!!)

 手を、離――
 前に、出――
 左に、跳――

「ぐ、ぎッ――」

 右肩の外側から押し潰されるような重圧、
 めきめきと軋む二の腕。目の前から迫る白い壁。
 宙に浮く身体。臓腑が潰れるような横向きの加速度。

  ――……ゥゥ、ルルルルァァァアア――ッ!!
    ――ガォンッ!!

「――ぅぅぉぉおおおおあああああッ!?」

 高速で右下にスッ飛んでいく視界。
 足がつかない。視界が縦横に回転する。
 飛んでいるのは――俺だッ!!

(――ぅぎぎぎぎぎっ)

 焼けるような痛みを放つ右肩を軸にして、左腕を広げ。
 身体の縦回転を止めて――空中で態勢を整える。
 自ら跳ねたあと、単に掬い上げるようにぶっ飛ばされただけだ。
 こんなもん、骨を折るにも値しないッ!! たぶん!!
 宙に舞いながら、獣の巨体が前に崩れるのを見――好機チャンスッ!!
 動く左手で新たな楔を抜き取りながら、叫ぶ。

「――今だッ!! やったれカノンッ!!」


 *────


 フーガくんと、アミーの、
 まるで踊る様な、一瞬の交錯の中で、

「――来いッ!! ズールッ!! ――喰らっとけ――ッ!!」

 突然足を止めて、なにかを構えたフーガくんが――
 アミーの飛び掛かりに――

  ――……ゥゥ、ルルルルァァァアア――ッ!!
    ――ガォンッ!!

(ぁ――ッ!?)

 当たっちゃったっ!?
 ボーリングのピンのようにくるくると、フーガくんの身体が飛んで――

「――今だッ!! やったれカノンッ!!」

(――っ!!)

 目の前にいるアミーの身体が、うつ伏せるように崩れ落ちる。
 荒い息を吐きながら、必死で前脚で立とうとして――
 その脚が、生まれたての小鹿のようにぷるぷると震えている。
 フーガくんの作戦をやるなら――いましかないっ!!

「――ぅぁっ!!」

 空き地の中央付近で、こちらに背を向けているアミーに向かって走り出す。
 目の前の獣は、こわい。
 速くて、強くて、底が見えなくて。
 痛そうで、辛そうで、苦しそうで。
 それでも、戦うことをやめない。
 最期まで、生きるのを諦めない。

 それは、カッコいいと、思う。
 だって、それは――フーガくんと、同じだから。

 フーガくんと、アミーの、二人の。
 火花を散らすような、煌めくような、
 命を削って命を削り合う、命を賭けた戦い。
 死んじゃうくらい全力で、それでも生きるための戦い。
 わたしが――水を差すわけには、いかない。
 わたしも――アミーに、恥ずかしくないように!
 わたしも、本気でっ――
 この腕が、壊れちゃうくらいに――

(――行き、ますっ!!)

 気づかれないように、心の中で叫んで――
 アミーの背後から、両手でナイフを振り下――

  ――……ゥゥ、ルルルルァァァ――ッ!!

(――ぁ)

 アミーが、こっちに振り向――
 気づかれ――

  ――カキィィィィィンッ!!

 突如として空き地の中央で鳴り響く、なにか甲高い音。

  ――……ゥゥ、ガゥッ!?

 アミーが、弾かれるようにそちらを見る。
 ふたたび、わたしに背を向ける。
 だけどアミーが見るそこには――なにもない。

(――っ!!)

 よくわからないけど、いましかないっ!
 全力で、手を重ねるように握ったナイフを、右袈裟に振り下ろす。
 狙いは、アミーの大きな左後ろ脚の――筋。
 わたしの力では、たぶん、傷つけられないだろう。
 硬そうな皮どころか、その血に染まった体毛すら、貫けないだろう。
 だから、ちゃんとはたらいてくれるように、叫ぶ。

「【斧術ふじゅつ】――っ!!」

 からだが、たてにまわる。


 *────


  ――ズシャァァァアアアアッ

(……あばばばばばばばばば――)

 数秒の滞空時間を経て、墜落した先にあるのは、当然地面。
 どこぞのサッカー選手宜しく、ごろごろと転がって受け身を取る。
 この空き地が草地で助かった。
 ガレ場や、あるいは単に硬い地面でも、悲惨なことになっていただろう。

「ぃよっとぉっ――!!」

 血に滑る左手で身体を跳ね上げ、吹っ飛んできた方、空き地の中央を見る。
 そこには前脚を折るズールの姿と――

(――カノンっ!!)

 そのズールの背後から、ナイフを振り下ろすカノンの姿。
 そして――

「ふじゅつ――っ!!」

 なにやらかわいい叫びと共に、しかしまったくかわいくない動作。
 まるで前転するかのように、全力で身を地面に傾け。
 両手で振り下ろしたナイフを、獣の左後ろ足に突き立てる。
 風切りの音すら聞こえてきそうな、鋭い動作で――

  ――ブジュッ

 湿った鈍い音と共に、ナイフが突き刺さった――ように見えた。

  ――……ゥゥ、グギャッ、キャャゥンッ!?

 喘ぎ声に押されるように、カノンがたたらを踏んで下がる。
 もがくように、その身を再び横たえる獣。
 あの様子なら、即座の追撃は――いや、わからんか。
 駆け寄る前に、手早く自身のバイタルを確認する。

(……右側、イカれ――いや、指、動く。神経ヨシ、関節ヨシ)

 強打された右肩の痛み。
 ベストが破られるようなことはなかったようだが、痺れたように動かせない。
 薙ぎ払われた前脚の内側に思い切って潜り込まなかったのなら、いまごろ俺の右肩はもぎもぎされていただろう。
 肩は上がらないが、ぴくりと手のひらを動かすことはできる。
 脱臼もしていない――ような気がする。
 衝撃で一時的に麻痺しているのだと思っておこう。

(――いかんな、右側ばっかり壊れかけだ)

 左方向への跳ねるような回避のために酷使し続けた右脚。
 錆び付いてボロボロだったとはいえ、鉄杭を叩き折った右足。
 横薙ぎを喰らって骨に罅が入ってそうな右脇腹、右肩。
 ダメージコントロールが雑なせいで、負傷が右側に集中している。
 いや、右脇腹と右肩に関しては割り切ろう。
 しかし考えてみれば、後半のあいつの攻撃は――

(――ッと、反省会はあとっ!!)

 横倒しになってもがくアミーの後方に立つ、カノンに駆け寄る。
 特に負傷などはないように見える。
 この戦い、被弾してるの俺ばっかりだな。
 ちょっと情けないが、俺としてはそっちの方が気楽でいい。

「ナイスだ、カノンッ!! いい一発だったぞっ!!」
「う、んっ! でも、さっきの音って――」
「うん? ……ああ、カキィンってやつか。
 俺の投げた楔が、空き地の中央に埋めておいた楔に当たった音」

 ズールが音に反応してるらしいと思った時に、仕込んでおいたもの。
 ヤバいときになにか投げて、音で気を逸らせるように埋めておいたやつだ。
 とはいえ、本当にヤバいときは楔を投げてるような暇がなかったというね。
 微妙に腐りかけていた仕込みだったが、カノンのアシストに役立ってよかった。

「――いつ、投げ、た?」
「吹っ飛ばされてるとき」
「――当た、る?」
「【投擲】のおかげでな」

 前作での慣れがあるとはいえ、流石に空中に吹っ飛ばされながらダーツをしたことはない。
 まぁ、当たらなくてもよかったんだ。
 外れても、ズールの気を惹ければ御の字だったから。


 *────


「さて――」

  ――……ゥゥ、ガァ、ハァッ、ハッ……ッ!!

 目の前の獣が、横たわったまま、身を捩るようにこちらを見る。
 その足元には、夥しい血だまり。
 身体に空いた二つの孔から、血を垂れ流し――もう、流れ出る血も無くなりつつある。
 右前脚には、鉄杭が刺さっていた孔が痛々しく開き、ふるふると震え。
 左前脚には、俺が刺した楔が内側に刺さり、地につけることができず。
 右後ろ脚は、俺のナイフで切り開かれた傷口から流れ出した血で染まり。
 左後ろ脚は、その腱に、カノンが振り下ろしたナイフが深々と刺さったまま。

「フーガ、くん……っ」
「ああ。ズール、――もう、終わりだ」

 お前の四肢は、もう、駄目だ。
 お前の巨体を支えられる力など、どこにもない。
 血を失いすぎて、その力を込めることすらできない。
 お前はもう――立ちたくとも、立てない。

  ――……ゥゥ、ハァッ、ハッ……ッ!!

 荒い息も、どこか弱弱しい。
 痙攣するように震える耳、珠の様な汗が浮かぶ鼻梁。
 口を開いて、舌を垂れ下げて、必死で体温を下げようとする。
 だが、下げきれないんだろう。
 お前の身体は、大きすぎるから。
 籠もった熱が、身体のはたらきを鈍らせる。
 タンパク質の凝固点を越えてしまえば、お前の身体は壊れていく。
 お前の身体は、もう、内側も外側も、ぼろぼろだ。
 流れ出る血もないくらい、血も失っている。
 お前はもう、死ぬ。
 数十秒後の死を、待つだけだ。

「……ッ」

 それなのに。
 もう、喉を鳴らす力もないだろうに。

  ――……ゥゥ、ゥゥゥウウ……ッ!!

 それでも、目の前の獣は、唸るのをやめない。
 死を早めるだけの行為を、やめようとしない。
 だからそれは、死にたくないという理性ではなく。
 世界の不条理に対する、叫びではなく。

 生きる、という。
 ただ、あるがままの命の――本能なのだろう。

「……カノン、いいか?」
「……。うん……っ」

 悪いな、ズール。
 このままお前を、衰弱死なんてさせない。
 お前は、戦いの中で死んでいけ。
 生きるために、生き足掻くために。
 最後の、最期まで――抗い続けるんだ。

「喰らえっ、ズールっ!!」

 開かれた獣の顎の前に、左腕を突き出す。
 お前の最後の晩餐だ、本能のままに喰らうがいいッ!!

  ――……ゥゥ、ルルルルァァァ――ッ!!

 飢えを満たすためか。
 渇きを癒すためか。
 それとも、ただ、反射としてか。
 目の前にあるものに、喰らいつく。

  ガブゥッ!!

(――ぎッ!!)

 獣の口内に収められた左腕が、熱湯風呂のような熱さを伝える。
 痙攣する舌、からからに乾いた口蓋を、俺の流した血が潤す。
 力の入らない顎で――それでも俺の腕を、噛み千切ろうとする。
 左肩に、潰れるような痛みが――

  ――ぞぶり

 喉の――最奥。
 肉の薄い、その場所の、さらに奥。
 そこには、アミー種の頸椎がある。
 頚髄が――ある。

  ――ブヅリ

 堅く太い糸の束を切るような手応えと共に。
 なにかが千切れるような、鈍い音と共に。
 獣の身体が、一度、ビクリと痙攣する。
 そして、すぐに――ピクリとも、動かなくなる。

 だらりと開いた口から、左腕を引き抜く。
 血塗れの左手には――なにも握られていない。

「……おつかれさま、ズール」

 深く息を吐くように、獣の口から空気が漏れていく。
 ナイフは刺したまま。血が肺に流れ込むこともない。

「……ありがとう、ズール」

 カノンと頷き合い、息絶えた獣に近づく。
 動かない耳、湿った鼻、緩く開かれた瞼。

「――おやすみ、ズール」

 その瞼を、そっと抑える。

 もうなにも――視る必要はない。
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