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一章
伝えたいこと
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「……落ち着いたか?」
「……うん」
「よかった。……身体も、どうだ?」
「うん。もう……さむく、ない」
あたたかい、かれの腕の中で。
いったい、どれだけの時間が経ったのだろう。
くらやみのなか、かれの腕の中で、かれの声を聴く。
かれが言葉を発するたびに、かれの胸もとが動く。
かれが呼吸をするたびに、膨らむ胸もと。
それがなにか嬉しくて、いとおしくて。
頬をぎゅっと押し付ける。
わたしの身体をこすりつける。
「……やっぱり、寒いのでは?」
「……んっ、ふふっ」
もしかして、わかってないのかな。
たぶん、わかってるよね。
でも、かれがこう言ってくれているなら。
もう少しだけ、甘えてもいいのかな。
……いや、やっぱりだめだ。
少なくとも、ここでは、だめだ。
ぼやけたあたまが、冷静になる。
フーガくんの匂いで、覚醒する。
ここは、……あぶない。
ここはたぶん――崖のそばだから。
「ね、フーガくん」
「うん?」
「ここ。……あぶ、ない、よね?」
「いまさらぁ!?」
かれは、けっこう感情表現が豊かだ。
そして、それを隠そうとすることも少ない。
それを偽ろうとすることもない。
だからわたしは、かれの言葉のすべてを信じられる。
かれのすべてを、信じている。
「ん。たぶん、がけの、近く?」
「……もしかしてカノン、見えてない?」
「うん。……夜目、つけてきて、ないから」
「マジかよ」
フーガくんは、そういうけれど。
たぶん、雨の夜闇の中では、あってもなくても変わらないんじゃないかな。
夜目は、ある程度の光があるところじゃないと、ほとんど見えないから。
「よくここで止まれたな、カノン。崖からたぶん2m……いや、1m半も離れてないぞ。
ここだけちょっとせり出してるみたいだから、両脇も危ないし」
「んっ。まえに、フーガくんに、教えてもらったから」
「……なにを?」
「暗いところでも、まわりのことがわかるやり方」
「……。よくこんな汎用性のない無駄テクニック覚えてたな……」
フーガくんの教えてくれたことだから。
フーガくんの教えてくれたことは、ぜんぶ覚えてる。
フーガくんが、わたしにくれた言葉は、ぜんぶだ。
その一つ一つが、わたしをあたためる、灯だから。
「……で、カノン。……もう、いいのか?」
わたしを腕の中に納めたまま、フーガくんが、問いかける。
要点を――わたしが聞かれたくないことを、ぼかしたまま。
ただ、確認する。
わたしの意志を。
わたしが、まだ、そうしたいのかを。
かれにはもう、ぜんぶ、わかっているのだろうけれど。
それでもわたしに、聞いてくれる。
「――うん。もう、いい」
かれが来てくれた時点で、もう、どうでもよくなってしまった。
わたしのどろどろは、まだ、わたしのなかにあるけれど。
かわらず、わたしの足にまとわりついているけれど。
その影は、もう1つのかげに塗り潰されてしまった。
かれの輝きに照らされて落ちた、もう1つの影に。
その輝きが、わたしを惹き寄せる力は、
どろどろが、わたしを曳き寄せる力より、ずっとずっと強い。
その2つの影は、区別があるだけじゃなくて。
その力の大きさにも、大きな隔たりがある。
この4年間、わたしを照らし続けた過去からの灯。
それがなかったのなら、わたしはとっくに、どろどろに引きずり込まれていただろう。
二度と這い上がれない、くらやみの中に。
「ごめん、フーガくん。支えて、もらって」
「それはいいけど、ほんとに大丈夫なのか?
……そもそも。なんでカノンさんは、服を着ていないのですか」
「失くしたく、なかったから」
わたしは、とぶつもりだった。
とんだら、持っているものを失くしてしまう。
フーガくんがくれたものを、なにもかも。
そんなことは、耐えられない。
「……そっか。でも、さすがに、ブーツくらいは、履いてきても……っておい。
もしかして、ここまで、裸足で来たのか」
「んっ」
「足のうら、切ったりしなかったのか」
「……切った、かも」
正直、よくわからない。
暗くてよく見えないし、雨風で冷えて、冷たすぎてよくわからない。
わたしの胴体や腕は、かれの身体の熱であたためられたけれど。
膝から下に関しては、冷えたまま、力が入らないままだ。
かれに支えられるままではよくないと、先ほどから力を入れようとしているのだけど。
なぜだか力が入らない。
「ちょっと見せて……いや、ここでやると雨でずぶ濡れだな」
かれは、わたしを支えたまま、なにかを考えている。
たぶん、雨に濡れずに、わたしの足裏を見る方法を考えている。
「……よし、カノン。このまま、俺の首にしがみつけ。
あと、コートの覆いもいったん外すから、雨に濡れる覚悟もしといてくれ」
そういってかれは、少し身体を低く屈める。
わたしの背の高さに合わせてくれる。
いいのかな。
いいんだよね。
だれも見てないし。
フーガくんもいいって言ってくれてるし。
「んっ!」
だからわたしは、かれの首元に、ぎゅっと抱き着く。
湿った身体を押し付けられたからか、かれの身体がぴくりと震える。
それを申し訳なく思うけれど、この誘惑は耐えがたい。
ぎゅっと抱きしめて、あごをかれの肩に載せる。
少し硬くて、大きくて。
首筋に顔を寄せれば、かれの匂いがする。
わたしたちの頭上に掛かっていたコートが取り外される。
すぐに、わたしの身体に、つめたい雨が……
……あれ……雨、あんまり、強くない、かも。
「……か、カノン。ちょっと腰の下に手、回すぞ。
身体が持ち上がったら、俺の方に重心を預けてくれ」
「んっ。いい、よ」
かれの腕が、わたしのお尻の下に回される。
だから、もっとぎゅっと、押し付けるように。
わたしの身体を、かれの方に預ける。
わたしの身体が、硬い地面から浮き上がる。
「……雨、弱くなってきたな」
「ずっと、降ってたもんね」
いつの間に、こんなに弱くなったんだろう。
あんなに強く、降っていたのに。
「……ま、好都合だ。ちょっと亀裂の中まで戻ろうか。
そこで足裏をチェックしよう」
「んっ」
ということは、こうしてかれに抱かれていられる時間はそう長くない。
亀裂の中に戻るまでの、ほんのわずかな時間だ。
だったら、できるだけ、たくさん味わいたい。
かれの熱を。かれの匂いを。かれの音を。
かれの首元に、顔を埋める。
現実のかれの匂いとは、ちょっとちがうけど。
この匂いもまた、かれの匂いだから。
どっちも、大好きな匂い。
「……カノン、さん。なにか、積極的でいらっしゃらない?」
「……そうかも」
あたまが、疲れてしまっている。
むずかしいことが、考えられない。
だから。
なんで、とか。
どうして、とか。
どうしよう、とか。
そういうのは、ちょっとだけおやすみしよう。
――ピチャッ ピチャッ
わたしを前に抱えたまま、フーガくんが歩き出す。
なにも見えない暗闇の中を、一歩一歩、踏み確かめるように。
サァァ……
ォォォ――
細雨の音が遠ざかる。風の音が遠ざかる。
わたしの身体が、崖から離れていく。
わたしがいくはずだった、地の涯てから。
身体を――安堵が満たす。
ああ。やっとわかった。
わたしの胸に満ちる、この想いの名前。
わたしがあのとき、かれに言うべきだったこと。
「……ね、フーガくん」
「ん」
かれの首に回した腕に、もっとぎゅっと、力を込めて。
胸いっぱいの想いを、込めて、言う。
「ありがと、ね」
「――っ」
ああ、そうだ。
ずっと、それが言いたかったんだ。
胸のつっかえがとれたように、想いが溢れ出す。
「――ぃひ、ぅぐっ、うっ――」
わたしの口から漏れ出た、謝罪の言葉。
それは、わたしの本心ではなかった。
わたしは、謝るべきなのかもしれないけれど。
でも、わたしは謝りたかったんじゃないんだ。
「ぅ、ぅう、ふーがっ、ふーが、くんっ――」
「……うん」
感謝したかったんだ。
ありがたかったんだ。
気づいてくれて。
探してくれて。
見つけてくれて。
留めてくれて。
待ってくれて。
ことばを掛けてくれて。
支えてくれて。
温めてくれて。
ここに来てくれて、ありがとう。
見捨てないでくれて、ありがとう。
わたしは、こんなにも、変われなかったけど。
フーガくんは、4年も先に進んでしまったけれど。
かれは、わたしのところまで来てくれた。
「ありっ、ありが、とぅ、――っ」
「こちらこそ」
せなかに、かれの熱を感じる。
ぽんぽんと、叩いてくれる。
撫でてくれる。あやしてくれる。
「……ありがとな。カノン」
かれが、言っていることは、よくわからないけれど。
そのことばの持つ、あたたかさだけはわかる。
わたしの耳を悦ばせる、かれのことばのひびきだけは。
だからわたしは、ただ、顔を埋めるようにして、
かれのあたたかな首筋を濡らした。
*────
「切れてますね」
「切れて、ますか」
「浅くスパッといってるだけだから、出血量に比べて傷は浅いけど。
……気づかなかったのか?」
「気づいてた、かも」
「やっぱり」
亀裂の中の、暗い闇の中。
仰向けに身体を降ろされたわたしの右足を、フーガくんが触診してくれている。
冷えてしまって感覚はないけれど、少しくすぐったい。
「痛くはないのか?」
「いまは、あんまり」
「……そう、か。血は止まってるし、雑菌さえ入らなければ問題なさそうではある。
応急処置しようにも……清潔な布地がないな。
いったん拠点にもどっ――」
「いや」
「えっ」
「……えっ、あっ……あれ? ご、ごめん、なんでも、ない……」
「……っ」
思わず口をついて出てしまった、否定の言葉を打ち消す。
いまのは、なんだ。
なぜ、そんなことを言ってしまったんだ。
なにがいやなんだ。
かれが一旦拠点に戻るのがいやなんだ。
移動できないわたしを、ここに置いて。
置き去りにされるのがいやだ。
まるで赤子だ。
いまのわたしは、思考よりも先に、ことばが溢れてしまう。
わたしは、自分で思っているよりも、まだ、おかしいままなのかもしれない。
「……。
………。
…………よし、決めたっ」
いつものように、なにか遠大な思考を巡らせていたらしきかれが、口を開く。
たぶん、次にかれが言うのは、わたしの予想外のことばだと思う。
かれがこうして、なにかを悩んだ後に口に出すことばは。
たいていがよくわからないことなのだ。
いつも、そうなのに。
いまは、あたまがまわらないから。
きっと、きいても、すぐにはわからない。
「ん、なに、を?」
それでも、わたしは問いかける。
かれのことばを、聞かせてほしい。
「カノン。 ――ちょっと、寄り道していい?」
ほら、ね?
やっぱり、よくわからない。
「……うん」
「よかった。……身体も、どうだ?」
「うん。もう……さむく、ない」
あたたかい、かれの腕の中で。
いったい、どれだけの時間が経ったのだろう。
くらやみのなか、かれの腕の中で、かれの声を聴く。
かれが言葉を発するたびに、かれの胸もとが動く。
かれが呼吸をするたびに、膨らむ胸もと。
それがなにか嬉しくて、いとおしくて。
頬をぎゅっと押し付ける。
わたしの身体をこすりつける。
「……やっぱり、寒いのでは?」
「……んっ、ふふっ」
もしかして、わかってないのかな。
たぶん、わかってるよね。
でも、かれがこう言ってくれているなら。
もう少しだけ、甘えてもいいのかな。
……いや、やっぱりだめだ。
少なくとも、ここでは、だめだ。
ぼやけたあたまが、冷静になる。
フーガくんの匂いで、覚醒する。
ここは、……あぶない。
ここはたぶん――崖のそばだから。
「ね、フーガくん」
「うん?」
「ここ。……あぶ、ない、よね?」
「いまさらぁ!?」
かれは、けっこう感情表現が豊かだ。
そして、それを隠そうとすることも少ない。
それを偽ろうとすることもない。
だからわたしは、かれの言葉のすべてを信じられる。
かれのすべてを、信じている。
「ん。たぶん、がけの、近く?」
「……もしかしてカノン、見えてない?」
「うん。……夜目、つけてきて、ないから」
「マジかよ」
フーガくんは、そういうけれど。
たぶん、雨の夜闇の中では、あってもなくても変わらないんじゃないかな。
夜目は、ある程度の光があるところじゃないと、ほとんど見えないから。
「よくここで止まれたな、カノン。崖からたぶん2m……いや、1m半も離れてないぞ。
ここだけちょっとせり出してるみたいだから、両脇も危ないし」
「んっ。まえに、フーガくんに、教えてもらったから」
「……なにを?」
「暗いところでも、まわりのことがわかるやり方」
「……。よくこんな汎用性のない無駄テクニック覚えてたな……」
フーガくんの教えてくれたことだから。
フーガくんの教えてくれたことは、ぜんぶ覚えてる。
フーガくんが、わたしにくれた言葉は、ぜんぶだ。
その一つ一つが、わたしをあたためる、灯だから。
「……で、カノン。……もう、いいのか?」
わたしを腕の中に納めたまま、フーガくんが、問いかける。
要点を――わたしが聞かれたくないことを、ぼかしたまま。
ただ、確認する。
わたしの意志を。
わたしが、まだ、そうしたいのかを。
かれにはもう、ぜんぶ、わかっているのだろうけれど。
それでもわたしに、聞いてくれる。
「――うん。もう、いい」
かれが来てくれた時点で、もう、どうでもよくなってしまった。
わたしのどろどろは、まだ、わたしのなかにあるけれど。
かわらず、わたしの足にまとわりついているけれど。
その影は、もう1つのかげに塗り潰されてしまった。
かれの輝きに照らされて落ちた、もう1つの影に。
その輝きが、わたしを惹き寄せる力は、
どろどろが、わたしを曳き寄せる力より、ずっとずっと強い。
その2つの影は、区別があるだけじゃなくて。
その力の大きさにも、大きな隔たりがある。
この4年間、わたしを照らし続けた過去からの灯。
それがなかったのなら、わたしはとっくに、どろどろに引きずり込まれていただろう。
二度と這い上がれない、くらやみの中に。
「ごめん、フーガくん。支えて、もらって」
「それはいいけど、ほんとに大丈夫なのか?
……そもそも。なんでカノンさんは、服を着ていないのですか」
「失くしたく、なかったから」
わたしは、とぶつもりだった。
とんだら、持っているものを失くしてしまう。
フーガくんがくれたものを、なにもかも。
そんなことは、耐えられない。
「……そっか。でも、さすがに、ブーツくらいは、履いてきても……っておい。
もしかして、ここまで、裸足で来たのか」
「んっ」
「足のうら、切ったりしなかったのか」
「……切った、かも」
正直、よくわからない。
暗くてよく見えないし、雨風で冷えて、冷たすぎてよくわからない。
わたしの胴体や腕は、かれの身体の熱であたためられたけれど。
膝から下に関しては、冷えたまま、力が入らないままだ。
かれに支えられるままではよくないと、先ほどから力を入れようとしているのだけど。
なぜだか力が入らない。
「ちょっと見せて……いや、ここでやると雨でずぶ濡れだな」
かれは、わたしを支えたまま、なにかを考えている。
たぶん、雨に濡れずに、わたしの足裏を見る方法を考えている。
「……よし、カノン。このまま、俺の首にしがみつけ。
あと、コートの覆いもいったん外すから、雨に濡れる覚悟もしといてくれ」
そういってかれは、少し身体を低く屈める。
わたしの背の高さに合わせてくれる。
いいのかな。
いいんだよね。
だれも見てないし。
フーガくんもいいって言ってくれてるし。
「んっ!」
だからわたしは、かれの首元に、ぎゅっと抱き着く。
湿った身体を押し付けられたからか、かれの身体がぴくりと震える。
それを申し訳なく思うけれど、この誘惑は耐えがたい。
ぎゅっと抱きしめて、あごをかれの肩に載せる。
少し硬くて、大きくて。
首筋に顔を寄せれば、かれの匂いがする。
わたしたちの頭上に掛かっていたコートが取り外される。
すぐに、わたしの身体に、つめたい雨が……
……あれ……雨、あんまり、強くない、かも。
「……か、カノン。ちょっと腰の下に手、回すぞ。
身体が持ち上がったら、俺の方に重心を預けてくれ」
「んっ。いい、よ」
かれの腕が、わたしのお尻の下に回される。
だから、もっとぎゅっと、押し付けるように。
わたしの身体を、かれの方に預ける。
わたしの身体が、硬い地面から浮き上がる。
「……雨、弱くなってきたな」
「ずっと、降ってたもんね」
いつの間に、こんなに弱くなったんだろう。
あんなに強く、降っていたのに。
「……ま、好都合だ。ちょっと亀裂の中まで戻ろうか。
そこで足裏をチェックしよう」
「んっ」
ということは、こうしてかれに抱かれていられる時間はそう長くない。
亀裂の中に戻るまでの、ほんのわずかな時間だ。
だったら、できるだけ、たくさん味わいたい。
かれの熱を。かれの匂いを。かれの音を。
かれの首元に、顔を埋める。
現実のかれの匂いとは、ちょっとちがうけど。
この匂いもまた、かれの匂いだから。
どっちも、大好きな匂い。
「……カノン、さん。なにか、積極的でいらっしゃらない?」
「……そうかも」
あたまが、疲れてしまっている。
むずかしいことが、考えられない。
だから。
なんで、とか。
どうして、とか。
どうしよう、とか。
そういうのは、ちょっとだけおやすみしよう。
――ピチャッ ピチャッ
わたしを前に抱えたまま、フーガくんが歩き出す。
なにも見えない暗闇の中を、一歩一歩、踏み確かめるように。
サァァ……
ォォォ――
細雨の音が遠ざかる。風の音が遠ざかる。
わたしの身体が、崖から離れていく。
わたしがいくはずだった、地の涯てから。
身体を――安堵が満たす。
ああ。やっとわかった。
わたしの胸に満ちる、この想いの名前。
わたしがあのとき、かれに言うべきだったこと。
「……ね、フーガくん」
「ん」
かれの首に回した腕に、もっとぎゅっと、力を込めて。
胸いっぱいの想いを、込めて、言う。
「ありがと、ね」
「――っ」
ああ、そうだ。
ずっと、それが言いたかったんだ。
胸のつっかえがとれたように、想いが溢れ出す。
「――ぃひ、ぅぐっ、うっ――」
わたしの口から漏れ出た、謝罪の言葉。
それは、わたしの本心ではなかった。
わたしは、謝るべきなのかもしれないけれど。
でも、わたしは謝りたかったんじゃないんだ。
「ぅ、ぅう、ふーがっ、ふーが、くんっ――」
「……うん」
感謝したかったんだ。
ありがたかったんだ。
気づいてくれて。
探してくれて。
見つけてくれて。
留めてくれて。
待ってくれて。
ことばを掛けてくれて。
支えてくれて。
温めてくれて。
ここに来てくれて、ありがとう。
見捨てないでくれて、ありがとう。
わたしは、こんなにも、変われなかったけど。
フーガくんは、4年も先に進んでしまったけれど。
かれは、わたしのところまで来てくれた。
「ありっ、ありが、とぅ、――っ」
「こちらこそ」
せなかに、かれの熱を感じる。
ぽんぽんと、叩いてくれる。
撫でてくれる。あやしてくれる。
「……ありがとな。カノン」
かれが、言っていることは、よくわからないけれど。
そのことばの持つ、あたたかさだけはわかる。
わたしの耳を悦ばせる、かれのことばのひびきだけは。
だからわたしは、ただ、顔を埋めるようにして、
かれのあたたかな首筋を濡らした。
*────
「切れてますね」
「切れて、ますか」
「浅くスパッといってるだけだから、出血量に比べて傷は浅いけど。
……気づかなかったのか?」
「気づいてた、かも」
「やっぱり」
亀裂の中の、暗い闇の中。
仰向けに身体を降ろされたわたしの右足を、フーガくんが触診してくれている。
冷えてしまって感覚はないけれど、少しくすぐったい。
「痛くはないのか?」
「いまは、あんまり」
「……そう、か。血は止まってるし、雑菌さえ入らなければ問題なさそうではある。
応急処置しようにも……清潔な布地がないな。
いったん拠点にもどっ――」
「いや」
「えっ」
「……えっ、あっ……あれ? ご、ごめん、なんでも、ない……」
「……っ」
思わず口をついて出てしまった、否定の言葉を打ち消す。
いまのは、なんだ。
なぜ、そんなことを言ってしまったんだ。
なにがいやなんだ。
かれが一旦拠点に戻るのがいやなんだ。
移動できないわたしを、ここに置いて。
置き去りにされるのがいやだ。
まるで赤子だ。
いまのわたしは、思考よりも先に、ことばが溢れてしまう。
わたしは、自分で思っているよりも、まだ、おかしいままなのかもしれない。
「……。
………。
…………よし、決めたっ」
いつものように、なにか遠大な思考を巡らせていたらしきかれが、口を開く。
たぶん、次にかれが言うのは、わたしの予想外のことばだと思う。
かれがこうして、なにかを悩んだ後に口に出すことばは。
たいていがよくわからないことなのだ。
いつも、そうなのに。
いまは、あたまがまわらないから。
きっと、きいても、すぐにはわからない。
「ん、なに、を?」
それでも、わたしは問いかける。
かれのことばを、聞かせてほしい。
「カノン。 ――ちょっと、寄り道していい?」
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