上 下
83 / 148
一章

異変(1)

しおりを挟む
 心臓が、早鐘を打つ。

(なにが、起こった)

 耳鳴りが、止まない。

(なにが、起こっている――)

 ぐにゃりと歪む視界に映るもの。
 無機質な光に照らされた、脱出ポッドの室内。

(――どうして、こうなった)

 目の前にあるのは、虚空。
 そこにいたはずの、少女。
 その気配はもはや、どこにもない。

(いったいこの状況は――なんなんだ?)

 心の中で、巡る問い。
 答えるものなど、どこにもいない。


 *────


 痺れてまともにはたらかない思考。
 震える脚がもつれるように、俺の身体を、椅子の上へと降ろす。
 浅く沈み込み、身体が安定して。
 誰もいなくなった脱出ポッドを見て。
 ようやく、思考が回り出す。

 俺の目の前で、突如として消失したカノン。
 この世界は、現実世界でない、フルダイブゲームの世界だ。
 物理的事象として、突然目の前から人が消える。
 そういうことが起こることはあるだろう。

 だがやはり、それは通常、ありえない。
 拠点内にせよ、拠点外にせよ。
 この世界からダイブアウトするためには手続きが必要だ。
 仮想端末からダイブアウトの処理を行う必要がある。
 それにすら、いくらかの所要時間がある。
 なんの予備動作もなく、予兆もなく、突然消えてしまうなんて、ありえない。

 だから、これは通常の事象ではない。
 例外的な事象。
 プレイヤーの手によらない、突然のダイブアウト。
 それが起こる理由は、俺には一つしか思いつかない。

 現実の身体の異常に伴う、強制ダイブアウト。
 彼女は、フルダイブシステムデバイスによって、強制的にダイブアウトさせられた。

 その原因は、恐らくは、体調不良。
 だがそれは、恐らくは、外因性のものではない。
 あのただならぬ様子。あのタイミングでの強制ダイブアウト。

 心因性の、異常。
 それが、先ほど彼女の身に起こったことだ。

 そして。
 フルダイブゲームにおいて、フルダイブしている間、彼女の心はこちら側にある。
 彼女の心因性の異常は、現実の側ではなく、こちら側で発生した。
 先ほどの、カノン。
 あれが、その心因性の異常そのものだ。
 あのときの彼女は、明らかに異常だった。

(……なんだっ。……なんなんだっ!?)

 膝がカタカタと震える。
 わからない。
 わからないからだ。
 わからないから、苛々する、不安になる。
 差し迫った危機があるはずなのに、その正体がわからない。

 ……落ち着け。
 そうだ、落ち着くんだ。
 目を覚ませ。

  ――パァンッッッ

ッッてぇぇぇッ!!」

 一切の加減なく頬に叩きつけたせいで、ちょっと強すぎた。
 涙が出る。痛い。だが、これでいい。
 冷静になれ。
 散らばった思考を整えろ。
 まとまらない感情は切り捨てろ。
 暴れる衝動は圧し潰せ。
 いまそれらは、どれ一つとして必要ない。

 深呼吸をしろ。
 思考をクリアにしろ。

(ふぅぅぅううう―― はぁぁぁあああ――)

 そうだ。落ち着け。
 冷静になれ。
 お前が、いま、真っ先にやるべきことは、なんだ?


 *────


 仮想端末を開く。
 フレンドリストを開く。
 プレイヤー名、カノンを選択。
 メッセージを送る。

『To:カノン
 件名:(無題)
 内容:今はなにも考えなくていい。
    なにもしなくていい。明日のなにもかも休んでいい。
    落ち着いて。眠れるなら眠ってしまえ。
    俺は午前三時まで、こちらにいる。
    いつでもいい。不安になったら来い。』

 これでいいか。
 これでいいだろう。いいのか?
 多少強引になるが、いまはそれくらいのほうが良い。
 たぶん、彼女は来ないだろう。来られないだろう。
 フルダイブシステムが、彼女のダイブインを許さないだろう。
 強制ダイブアウトが行われるほどの異常だ。
 体調不良を理由に弾かれるだろう。

 ……ダイブイン?
 ……体調不良?
 ……来られないだろう?

 待て。
 こんな思考、前にも、しなかったか?

『件名:フーガくんへ
 内容:こんばんは。お仕事お疲れさまです。
    ちょっと体調がすぐれないので、一旦ダイブアウトします。』

 午後8時前の時点で、俺に送られたきていたカノンのメッセージ。
 その文面からは、彼女が自分の意志で、ダイブアウトしたように、思えるけれど。

『体調がすぐれないので、ダイブアウトします。』

 本当に、そうなのか?
 もしかして、彼女は、その時も――

  ――パァンッッッ

 歪にねじくれた思考をちからづくで断ち切る。
 それは、いまは必要のない邪推だ。
 たとえそこに小さな嘘があったとしても、今この場ではあまり関係がない。
 なんか血の味がする。口の中を切ったらしい。

 落ち着け。冷静になれ。
 俺がやるべきことの第一。彼女にメッセージは送った。
 彼女がそれを読むにせよ、読まないにせよ。
 俺はこれから3時間、午前3時まで、ここで彼女を待つ。
 それまでに、俺がしておくべきことは、他にあるか。

 ある。
 思考を整理しておくことだ。
 それはつまり。

 なにが、起こったのか。

 なにが、起こっているのか。

 どうして、こうなったのか。

 いったいこの状況は、なんなのか。

 それを考えることだ。
 それは、なぜか。
 それがわからない限り、もし仮に、彼女がここに戻ってきたとき。
 どのように彼女に声を掛けるべきなのか、わからないからだ。

 俺はいま、カノンのことがわからない。
 カノンがなにを考えているのかわからない。
 カノンの身になにが起こっているのかがわからない。

 だが、それを推測しなければならない。
 しかも、単なる邪推妄想ではなく、状況証拠から推察して、だ。
 彼女は、俺を見て、確かに微笑んでいた。
 安堵していた。安心していた。

 ならば、
 
 ――ならば、彼女は。

(……。)


 なぜ、破綻したんだ?

 いつから、どこから、破綻していたんだ?


 *────


 状況を整理しよう。
 まず仮定として、昨日までの時点では、今回の問題は生じ得なかったものとする。
 つまり今回のカノンの異変は「昨日までにもいつでも生じ得たのだが、たまたま今日生じた」のではなく、今日のなにかしらの契機を持って生じたものだと仮定する。
 この仮定がひっくり返る場合、俺はなにか根本的な、どうしようもない思い違いをしている可能性がある。
 カノンと俺の間の関係性を、致命的に捉え損ねている可能性がある。
 だが、それを考えるのは最後の最後にしよう。

 カノンは。
 俺とカノンは、昨日までは、問題なかったのだ。
 俺と彼女の間には、齟齬はなかった。

 齟齬……そうだ、齟齬はなかったはずだ。
 俺とカノンの間には、理解や感情の類の擦れ違いがあったわけではないはずだ。
 彼女が俺を見るまなざしに負の色はなかったと思っている。
 俺も彼女を負の色を込めて見たことはない。
 仮にもカノンが俺の言動についてなにかしらの誤解をしないように、彼女に掛ける言葉には細心の注意を尽くしてきたのだ。
 彼女の一挙手一投足を見逃さないように注視してきたのだ。
 狭くつたない自分の頭の中だけで決めつけるのではなく、一人の人間としての彼女との相対あいたいの中で、ふいに零れ落ちた小さな切れ端すらも拾い上げて、ずっと考えて、考え抜いてきたのだ。

 その考えに誤りがあるというのなら。
 俺が彼女のことを根本的に誤解していたというのなら。
 彼女が俺のことをどう見ているかというのを、決定的に捉え損なっていたというのなら。
 そのときは、もうどう足掻いても、駄目だ。
 俺が足掻けば足掻くだけ、カノンのことを傷つけることになる。
 だから、その可能性は、最初から除外する。

 その可能性を除外するならば、物事はかなり単純になる。
 俺とカノンの間には、大きな齟齬はないというのなら。
 今回の問題は、俺とカノンの関係性の問題ではなく。
 昨日までに培ってきた、二人の間の距離の問題ではなく。

 カノンの、問題なのではないか。
 カノンの中の、問題なのではないか。
 彼女は、なにか問題を抱えていたのではないか。

 その問題は、今まで発芽しなかった。
 俺と一緒にいるときは、発芽しなかった。
 昨日までの日々と、今日のちがい。
 俺と彼女は、一緒にいなかった。
 それぞれが別の時間帯にダイブインし、そうしてすれ違った。
 そして、彼女に異常が起こった。

 異常――異常か。
 そういう捉え方は、よくない。
 ものの本質を、捉えていない。
 彼女に起こったことは、いったいなんだ?

 狭く拙い自分の頭の中だけで決めつけるな。
 小さな切れ端すらも拾い上げろ。

 思い返せ。今日のすべてを。
 カノンにまつわる、すべての事象を。


 *────


『From:カノン(『ワンダリング・ワンダラーズ!!』)(09-04-19:48)
 件名:フーガくんへ
 内容:こんばんは。お仕事お疲れさまです。
    ちょっと体調がすぐれないので、一旦ダイブアウトします。
    わたしのことは気にせず過ごしてください。
    フーガくんの拠点でもあるので、なんでも自由に使ってください。』


 俺から見えるすべてのはじまりは、このメッセージだ。
 カノンは、このメッセージの送信前、午後8時前の時点で、この世界に来ていた。
 俺が来る前に、彼女は『犬2』をプレイしていた。
 それはなぜだ。
 可能性の一、普通に遊んでいた。俺とは関係なく。
 可能性の二、俺を待っていた。いつ来るかわからない俺を。
 そのどちらの可能性もあるが、どちらせよ。

 疑問の一。
 彼女は……この最初のダイブアウトまで、いったい、なにをしていたんだ?
 そこでしていたことや、このときの彼女の身に起きた体調不良と言うのは、今回の異変にもなにか関係があるのか?

 この疑問を追う前に、次の疑問へ行こう。
 帰宅した俺はカノンのメッセージを見て、 20:34の時点でカノンにメッセージを送った。
 そして、この世界にダイブインした。
 そこにはカノンはいなかった。外に出た形跡もなかった。
 そして俺は資源採取のために外に出た。
 俺が脱出ポッドを出た時の時刻は、たぶん――21時前だ。

 すなわち、次のカノンの行動も、このあとになる。
 カノンは、21時過ぎに、再びダイブインした。
 恐らくは、俺のメッセージを受けて、俺に逢うために。
 だが、俺はいなかった。
 外出用のレザーコートはなく、どうやら外に出ているらしかった。
 だから、彼女は俺を待つことにした。

『んっ。でも、早めに戻ってきてくれて、嬉しい』

 彼女は確かにそう言った。
 彼女は、俺の帰りを待っていたのだ。
 俺が帰ってきたのは、23:49。
 これを考えるなら、彼女がダイブインしたのは21時過ぎから、彼女が「早めに戻ってきた」と感じられる時刻までの間となる。
 つまり23時半ごろに彼女が再びダイブインしたならば、辻褄が合う。
 しかし……その推測は、彼女の別の言葉によって否定される。

『……まだ、けっこう、遊べる時間、ある、よね』

 これだ。
 カノンのこの言葉は、どう考えても
 だって、俺が帰ってきたのは23:49で。
 もう、カノンと遊べる時間なんて、残っていなかったのだから。
 カノンが俺に、夜更かしをいたという線も、次の言葉から否定される。

『明日もおしごとなら、あんまり遅くまでは、ダメだけど。
 昨日くらいの時間までなら、だいじょうぶ?』

 昨日ダイブアウトしたのは、ちょうど日が変わるあたり、深夜零時前後だ。
 つまりカノンは、深夜零時前後をタイムリミットとして、それまで「けっこう遊べる時間がある」と言っているのだ。
 もう、深夜零時まで10分もないのに。
 ここが、どうしようもなくおかしい。
 カノンの認識が歪んでいる。狂っている。


 ……このあたりのカノンの認識を、カノンの側から説明するならば、おそらくこういうことになる。

 カノンは「昨日くらいの時間まで」「まだ、けっこう、遊べる時間」がある時刻にダイブインし。
 しかし俺はそこにいなかったため、俺を待ち。
 それからほどなく帰ってきた俺に対して「早めに戻ってき」たと感じた。
 だから「まだ、けっこう、遊べる時間」がある。

 そこに矛盾はない。
 だから、俺が指摘するまで、彼女の中では、なにもおかしくなかったのだ。

『――もう、日が変わる、ぞ?』

 彼女の表情が凍り付いたのは。
 彼女の中で、なにかが狂い始めたのは、俺のこの言葉を聞いてからすぐだった。
 つまり、彼女は、そう思っていなかった。
 もう日が変わるほどの時間になっているなんて、思っていなかった。

 これが、疑問の二。
 彼女のこの、時間認識のずれは、なんだ?

 可能性の一。彼女の使っているフルダイブシステムデバイスの異常。
 彼女は21時頃にダイブインしたはずなのに、実際は3時間ほど意識がなくなっていて、時間が飛んでいることに気が付かなかった。
 正直、この線が一番ありがたい。
 彼女自身には、なにも異常がないということだから。

 可能性の二。彼女の時間認識の異常。
 彼女は、俺のメッセージを受け取って、それほど時間を経ることなくこの世界に戻ってきていた。
 だが、そこから俺が戻ってくるまでの数時間を認識できていない。
 残念だが、こちらの可能性の方が高い。
 なぜか。それは、彼女の身に起こった、強制ダイブアウトを伴うほどの体調不良。
 彼女の様子は明らかにおかしかった。
 おそらくは、そのおかしさを自覚してしまったのだ。

『ふ、ふーが、くんっ、わたし、わたっ、わたし――』

 だが、――なんだ?
 その場合、どうなる?
 この可能性は、必然的に、3つ目の疑問を生む。

 疑問の三。
 彼女は……この世界に再び戻ってきたあと、俺が帰ってくるまで、いったい、なにをしていたんだ?

 彼女が認識できていない、空白の時間。
 その空白の時間は、いったいなんなんだ?
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

性転換ウイルス

廣瀬純一
SF
感染すると性転換するウイルスの話

性転換マッサージ

廣瀬純一
SF
性転換マッサージに通う人々の話

[恥辱]りみの強制おむつ生活

rei
大衆娯楽
中学三年生になる主人公倉持りみが集会中にお漏らしをしてしまい、おむつを当てられる。 保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。

日本の少子化問題は完全に解決されました

かめのこたろう
SF
よかったよかった めでたしめでたし

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

性転換タイムマシーン

廣瀬純一
SF
バグで性転換してしまうタイムマシーンの話

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...