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一章

六日目/予兆

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 9月4日。水曜日。平日。

 ぱちりと目を覚ます。
 枕もとの時計を見れば午前6時半過ぎ。

 誰に起こされるまでもなく、自然と目が覚める。
 昨日そうして起きたように。
 今日こうして起きたように。
 明日もまたきっと、この時間に起きるだろう。
 そうでないと困る。
 なにせ――今日は、有休明けなのだから。

「ふわぁぁあ――」

 無意識に大きな欠伸を一つ。
 眠いわけではないが、なんとなく眠り足りないような気もする。
 機能は結局、何時ごろに寝付いたんだったか。
 直前までダイブインしていたせいで、なかなか眠れなかった。
 よい子の諸君は寝る直前までゲームをするのはやめよう。
 俺みたいなダメな大人になってはいけない。
 ……これも典型的なパターナリズム、か。
 寝ぼけまなこのまま冷蔵庫の扉を開けて、気づく。

(……やべぇ、食うものなんもねぇ)

 ゲーム漬けの日々に備えて用意していた食料は、昨日で丁度食べきった。
 そして、今日の朝のことまでは考えていなかった。
 そもそも有休を含めた5日間のどこかで一度は買い物に行くだろうと考えていたのだ。
 それがまさか、一度も行く機会がないとは思わなかった。

 ……やむを得ない。朝食は外で済ませよう。
 今日の帰りがけには、またいろいろと買い込まないといけない。
 でも、しばらく本格的な自炊は……いいかな……。
 一分一秒でも、長く向こうにいたい。今はそんな気分だ。
 でも、あまりにも不摂生が過ぎるとニューロノーツ先生の堪忍袋の緒が切れる可能性がある。
 ここは外食で手を打とうじゃないか。

 ……りんねるも、こんな発想してそうだなぁ。
 流石にここまでひどくはないか。イメージの押し付けはよくない。
 でも、あのインナースーツに白衣のちびっこ姿は、変わらず衝撃的だった――


 *────


 地下鉄の電車に揺られながら、公式情報をチェックする。
 本日も新情報および異常なし。
 強いて言うなら、登録者数が30万人を突破したらしい。
 最近のVRゲームの市場規模がよくわからないが、多い方だとは思う。
 セドナにいるプレイヤー数がざっくり100人くらいで、着陸地点数が1000くらいになっているとして……あれ、計算が合わないな。
 着陸地点数がもっと増えてるのか、それとも着陸地点ごとの人数が他の地点はもっと多いのか。
 どっかの配信者のところは上限人数まで行ったらしいが、上限人数はどのくらいなのか。
 300人とか500人だろうか。それとももっと?
 影響力のある配信者なら千人でも万人でも人を集めるだろうし、どのくらいの数に上るのかは想像もつかない。

 当然ながら、登録者数とアクティブユーザー数は一致しない。
 ちょっと遊んでみて、肌に合わないと投げ出してしまった人もいるだろう。
 このゲーム、思い通りの自分を演じたいプレイヤーには合わないだろうし、プレイヤーを選ぶゲームであるのは間違いない。
 剣と魔法の世界に馴染んだ人、サンドボックスゲームに不慣れな人には序盤がつらいかもしれない。
 その篩に掛けられた脱落者は、決して少なくないだろう。

 まぁ、そういったプレイヤーを引き留めるのは公式の仕事だ。
 俺が気にするべきことではない。
 でも、マジで即死するのだけは勘弁してくれよ?
 このゲーム、10年くらい続いてくれるって俺は信じてるぞ?
 終わるというならせめて『犬3』を確約してから終わってくれ。
 もうかつてのように、失意の底に沈むのはこりごりだ。


 *────


 結局、出勤したあとでも、俺の頭の中は『犬2』のことばかりで。
 5日ぶりに会う同僚たちに詫びたり、迷惑を掛けたり、心配されたり。
 溜まっていた仕事を片づけたり、方々に感謝と報連相をしたり。
 ついでに今後溜まりそうな仕事も回してもらったり。
 そうして平凡な社会生活という、現実の日常を取り戻してもなお。
 俺の心は、惑星カレドの非日常に留め置かれたままで。

「なんか心ここにあらずって感じですけど――大丈夫ですか?」
「……うなぎかなぁ」
「旬にはまだ早いかと思いますが」

 うなぎの旬って秋から冬だっけ。
 やっぱ寒い方がいいのかな。脂のノリ的な意味で。
 あのウナギモドキ、鰻だと認識したままでいいのかな……。


 *────


 夕暮れの紫に染まる空。
 天蓋を覆う、赤から青へのグラデーション。
 胸を締め付ける、原色の色彩。
 夜が降りてくる。
 かぁかぁと、帰り損ねた鴉が鳴いている。
 ……おまえ、なんかいつもこの時間に鳴いてない?

「ただいま――」

 誰もいないアパートの一室。
 すっかり見慣れた明かりのないワンルームに、むなしく響く声。
 カノンと欠かさず挨拶していたせいで、自然と出てしまった言葉。

 ……誰が返してくれるわけでもないだろうに。
 というか返事があったらビビるわ。こちとら一人暮らしぞ。

 冷蔵庫の傍に、どさりと、買い物袋を落とす。
 いやー、買った買った。
 空っぽになった冷蔵庫を埋めてやらんとばかりに買った。
 結局またカロリー補給の友も買ってしまった。
 なんというか、手軽。それに尽きる。
 それに、ディープブルーもひとケース買ってきた。
 ケースで買うのは四年ぶりだ。まだ売っててよかった。
 『犬』でテレポバグする前には、よく一本開けていたものだ。
 今のところ使う予定はないが、本気出したいときは飲もう。

 時刻は夜8時前。
 ……思ったよりは、早く帰って来ることができた。
 有休関連も含めていろいろ手を回したり、夕飯を外食で済ませたり、買い物したりしていたから、もうちょい遅くなるかと思ったのだが、この分なら、いろいろ込みでも8時半頃にはダイブインできそう。
 手早くシャワーだけ浴びておこう。


 *────


 禊を済ませ、日常的なタスクも片づけた。
 明日の準備も済ませた。あとはもう、寝るだけだ。
 つまり、ダイブインの準備よし。

 時刻は午後8時半頃。
 ……平日は、基本的にこんな時間になるだろう。
 我が家のフルダイブシステムデバイス・ニューロノーツを起動する。

『フレンドからのメッセージが1件届いています。』

(……お)

 誰からだろう。
 俺のフルダイブシステムデバイスのフレンド欄は寂しい。
 なにせ5日前に買ったばかりで、当然『犬2』で出逢ったフレンドしかいないからな。
 可能性があるのは、マキノさん、りんねる、モンターナ、カノンの4択だ。
 彼らについては、ゲームの中からでも外からでも、俺へのコンタクトが取れるように設定してある。
 ただ、ゲームの中のフーガにではなく、現実の俺にメッセージを送る必要があるのは――

 ポップアップから、メッセージを開く。

 『From:カノン(『ワンダリング・ワンダラーズ!!』)(09-04-19:48)
  件名:フーガくんへ
  内容:こんばんは。お仕事お疲れさまです。
     ちょっと体調がすぐれないので、一旦ダイブアウトします。
     わたしのことは気にせず過ごしてください。
     フーガくんの拠点でもあるので、なんでも自由に使ってください。』

 送信時刻は……1時間前くらい、か。
 内容は……体調不良。

 これ、現実側のカノンの、ってことだよな。
 『一旦ダイブアウト』ってことは、このメッセージを送るまでは、カノンは『犬2』にダイブインしていたということだ。
 送信者が『カノン|(『ワンダリング・ワンダラーズ!!』)』になっていることからもそれはわかる。
 このメッセージは、ダイブインしている状態のカノンから、こちらに向けて送られたということ。
 そして、いまはダイブアウトしているということだ。

 (……くそっ、ちょっと入れ違いになったか)

 もしかすると、カノンはダイブインした状態で、俺が来るのを待っていてくれたのかもしれない。
 俺が帰宅した時点で既にこのメッセージは届いていたはずだから、多少急いだところでカノンのダイブアウトまでには間に合わなかっただろうが……。
 なんだろう、妙に胸が痛い。

 ……しかし、体調不良、体調不良か。
 大丈夫かな、カノン。
 フルダイブシステムによるダイブイン自体は行えていたらしい。
 それに加えてシステムによる強制ダイブアウトを喰らっていないということは、そこまで深刻な体調不良ではないのだとは思う。
 昨日まではそんな素振りは一切見せなかったように思うのだが――どこかで無理をしていたのかもしれない。

 『お仕事お疲れさまです。……わたしのことは気にせず過ごしてください。
  フーガくんの拠点でもあるので、なんでも自由に使ってください。』

 そんなときでも、俺への気遣いを示してくれる。
 自分の現状を伝える文面より、俺を気遣う文面の方が多い。
 カノンがいないときでも、俺が『犬2』を気兼ねなくプレイできるように配慮してくれている。
 強い人だ。俺よりも、ずっと。
 痛んだ胸に染みる。

 ……カノンは、今日はダイブインしない方がいいかもしれない。
 あまりにも体調が悪いと、フルダイブシステムデバイスに止められるのだ。
 フルダイブゲームは、ある程度の健康体でないとプレイすることすらできない。
 仕方ない。こうして噛み合わないこともあるだろうと、昨日考えたばかりだ。
 カノンのことは心配だが、現実にいるカノンに、俺ができることはない。

 『To:カノン(『ワンダリング・ワンダラーズ!!』)
  件名:体調は大丈夫?
  内容:こんばんは。今日もお疲れさま。
     帰宅してメッセージを見たよ。遅くなってごめん。体調は大丈夫?
     昨日まではぶっ続けだったし、ちょっと身体や頭を休めたほうが良いのかもしれない。
     俺のことは気にせず、ゆっくり休んでくれ。
     今日は夜までダイブインしてるから、もしも体調が回復して、気が乗ったら――

 ……いや、最後の一文はやめておこう。
 このままだと、カノンは無理をしてダイブインしようとするかもしれない。
 少々訂正する。

 『   俺のことは気にせず、ゆっくり休んでくれ。
     おやすみ、カノン。いつでも、また向こうで逢おう。』

 これで、今日は無理をしなくていい、ということを伝えられるだろうか。

 メッセージというのは難しい。
 基本的に、メッセージは発信者の思惑通りには伝わらない。
 メッセージ自体が拙い場合はもちろん、受け取り手が妙に深読みすることもある。
 いっそ厳密に伝えきることを諦めて、想いだけをふわりと浮かせてしまった方がいいこともある。
 今回カノンに一番伝えたいのは、無理をするなということと、いつでも逢えるということだ。
 ゆえに……これで、送ろうか。

 ……くそ、先方に送るメールの100倍くらい気を使っているぞ。
 テンプレとかないしな。
 なまじカノンの気質が理解できる分、彼女の思考を先回りしたくなる。

 そうしてメッセージを……送信する。
 送信履歴を確認。09-04-20:34。うん、ちゃんと送られている。
 これ以上は、俺がカノンにできることはなにもない。

「――っし、ダイブインするかぁ」

 カノンがいないのは残念だし、体調不良も心配だが、ダイブインはする。
 「一旦ダイブアウト」という表現をした以上、体調不良が回復したら再びダイブインするつもりはあるのだろう。
 それなら俺がダイブインしていた方が、なにかと都合がいい。

 それに――カノンがいない間に、ちょっとやっておきたかったこともある。
 不在を狙うようでちょっと申し訳ないが、この機会を使わせてもらおう。
 できるだけ早めに確認しておきたい。
 ずっと気になっていたことがあるのだ。

 では――あらためて、ニューロノーツ先生、お願いします。
 俺を、惑星カレドに送ってくれ。



 ……だいじょうぶかな、カノン。
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