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一章

神秘

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 ――――。


 カノンと共に、柱状節理の岩壁にできた、石の階段を登り。
 その最後の一歩を踏み切った、その瞬間に、
 俺の目の前に現れたもの。

 それは、





     青。





 眼前に広がる、岩壁の上面。
 五角形、六角形、四角形。
 幾何学的な図形が、無秩序に、隙間なく敷き詰められた台地。
 その台地は、まるで誰かがその上を均したかのように、全く凹凸がない。
 その平たい台地の上方には、ただ、青だけがある。
 台地が成す黒灰色の地平線と、その上にある雲一つない空。

 黒灰と青。

 この場には、それしかない。


「――――」

 言葉が出ない。

 ここまで色を絞られると、綺麗だ、とか、美しい、とか、そういった情動すら湧いてこない。
 ただ、なにか原初の。
 人間の本能の、もっともはじまりに近い場所が、軋みを上げる。
 苦しいような。
 切ないような。
 きゅっと、胸を締めあげられるような。

 蒼穹の蒼。

「……、っ、ぁ……」

 隣にいるカノンが、なにかを言おうとしている気配がある。
 だが、声が出てこない。
 俺も同じだ。
 なにか胸に迫るものがあるのに、口から漏れ出るのはただの吐息だけ。
 なにものも異物を許容しない、完全なる世界がここにある。

(――――まだ、だ)

 この世界に入り込むことは躊躇われる。
 だが、ここで帰るわけにはいかない。
 岩壁の上を覗いたまま、腕に力を込めて身体を持ち上げ、岩壁の上に身体を載せる。
 この光景は、確かに美しい。
 だが、本当の神秘は。
 俺たちが見るべきものは、きっとこの黒灰と青の先にある。

「……カノン、行けそう?」
「っ――、うっ、ん。……うんっ」

 カノンもまた、圧倒から立ち直り、その身を岩壁の上へと躍らせる。
 カノンが足を滑らせて落ちることがないように見守りながら、周囲に目を配らせる。
 俺たちが登ってきた方を見れば、そこにあるのは地表へと続く石の階段。
 それなりに角度のあるその階段を転がり落ちれば、骨折は間違いない。
 無論、石の階段があるところ以外で岩壁から落ちれば、ほぼ即死だ。
 15m超と言えば、マンションの五階くらい。
 ここまで高くなると、もう受け身がどうとかいう問題じゃない。

「っは、はぁ……。……ちょっと、緊張した、かも」
「カノン、高いのは大丈夫だよな?」
「うん、あの――きれい、で」
「……ああ、わかる」

 息が詰まりそうな世界を目の当たりにして。
 その世界の中に身を潜り込ませるのに緊張したのだろう。
 完成された世界の、圧迫感を覚えるほどの圧倒的な密度。
 ここには、それがある。

「ええっと……川の亀裂は、あっちの方だな」

 登り切った地点から左手、20mほど離れた地点で、岩壁の上面に深い亀裂が空いているのが見える。
 あれに落ちても、やはり助からないだろう。
 見たところ、その亀裂以外に、この岩壁の上で危険になりそうなものはない。

「……。」

 そして再び、台地の先に視線を戻す。
 黒灰の地平線と、空の蒼。
 その黒灰の地平線は、目測100mほど先で、途切れている。
 つまりこの岩壁の厚みは100mほどあり。
 その先には、なにもないということ。
 その先には、空だけがあるということ。

「……行こうか、カノン」
「……うん、フーガ、くん」

 その先を、見に行こう。


 *────


 空の青と、台地の黒灰。
 たった二色しかないその道のりを、カノンとともに歩いていく。

 ここは、現実なのか。
 ここは、夢幻なのか。

 恒星が東の空を輝き登り。
 空に目を凝らしても、星は見えない。

 風もなく、音もない。
 鳥のさえずりも、獣の遠吠えも。

 なにもかもが不要だと。
 そう言わんばかりに。

 ふっ、ふっ。
 呼吸の音。

 とく、とく。
 脈打つ心臓。

 てく、てく。
 革ブーツの足音。

 涼し気な風の味。
 澄んだ大気の匂い。

 革グローブの湿った内布。
 からからに乾いた口腔。

 唾を呑み込む。
 ああ、喉が渇いた。

 それを見たあとで、
 きっと水を飲もう。

 喉を鳴らすその音が、
 喉を濡らすその熱が、

 きっと俺たちを、
 現実に引き戻してくれるはずだから。

 そして、遂に、

 岩壁の果て、

 その手前に至り、

 そこで立ち止まり、

 そこで立ち止まらない、

 彼女の腕を掴み、

 俺は、

 それを見た。


 *────


 それは、この星に空いた、小さな水溜り。

 視界一杯に広がる、コバルトブルーの湖。

 その湖のなかから、無数に生え延びる、

 白く四角い、小さな岩山たち。

 墓標のように、沈黙するそれは。

 硝子のように、白く煌めく。

 墓標に絡みつく、緑の檻。

 檻の隙間から咲き誇る、小さな赤。

 墓標を囲んで舞う、白い鳥たち。

 湖の底に倒れ込む、無数の墓標。

 無数の、無数の、無数の。

 無数の、無数の、無数の。

 無数の、無数の、無数の――

 ――白の墓標。



 *────



「カノン」
「――っ、あっ……」
「――カノン。……あぶないぞ」

 掴んだ彼女の腕を、少しだけ強くこちらに引く。
 力なく引き寄せられる彼女の身体を、軽く受け止める。

「あっ、ごめっ――」
「うん、落ち着こう。
 ……水が飲みたいな。……ある?」
「え、と。あの。……う、ん。」
「目的は達した。一息入れよう」

 とにかく、この場を少し離れたい。
 頭を整理したいし、カノンにも落ち着いて欲しい。

 そのためには、水だ。
 カノンと共に、岩壁の果てから、さらに数歩下がる。

 喉が渇いた。
 現実感がない。
 ふわふわしている。
 この状態は危険だ。
 ふっ、と、誘われるように、
 あの向こうへ、足を踏み出してしまいそうで。

「……、は、い。……おみず、フーガくん」

 カノンが取り出したのは、初期備蓄である非常用の携行水――宇宙空間でも飲めるようになっている、輸血パックみたいな形状のアレ――だ。
 脱出ポッドの中にあった、水と食料の2週間ぶんの備蓄。
 今回はそれを持ってきた。
 もちろん、それぞれが自身の分を。

「ん。ありがと、じゃあ、はい。これはカノンの分な」

 俺は、自分の革袋に入れていた携行水をカノンに渡す。つまり交換だ。
 自分でも何をしているのかよくわからないが、とりあえず落ち着くためだ。

「あっ、ありがと、う――」
「座ろうぜ」
「――う、ん」

 カノンと共に、幾何学的な玄武岩の台地の上に腰をつける。
 カノンはいまだ、どこか心ここにあらずといった感じだ。
 俺とカノンと感じたイメージは決して同じものではないだろうが。
 ショックを受ける光景であったことは確かだ。
 だが、そのショックの正体は、――まだ、よくわからない。

 携行水を飲み込む。
 冷たい水が、渇いた口腔を潤し、ひび割れた舌を癒し、喉を通り、熱を奪い、胃へと流れ込んでいく。
 俺は生きている。
 これは夢ではない。
 紛れもなく現実だ。

「ぷっはぁ――ッ」

 両手を挙げ、硬い台地の上に仰向けに寝転がる。
 空の青。冷たいそよ風。背に感じる硬質な岩盤。
 飲んだばかりの水が、胃の中で暴れる。

「うぐゅっ」

 思わず身体を起こし、体内の水の流れを正常に戻す。
 1秒、2秒、……よし。
 落ち着いた。いろいろと。

「いやぁ、なるほどなぁ。確かにこれはやばいわ。
 モンターナも、そりゃあ『カレドの小片集』書きたくなるよな」
「……ここ、……なに?」

 カノンが、核心をつく問いを掛ける。
 その問いには、二つの疑問が含まれている。
 簡単な方から一つずつ行こう。

「……まず。ここセドナは、だ」
「こうち?」
「んー、そのイントネーションからはどことなくカツオのたたきの香りがするが――そうじゃなくて、高い大地と書いて、高地だ」

 モンターナがアマゾンだのベネズエラだの言ってた意味が、ようやく理解できた。
 モンターナもまた、この光景を見て察したのだ。

「ここセドナは、たぶん、どのくらい昔か分からないが、火山活動の影響で丸ごとせり上がったんだ。
 ……それも、めちゃくちゃ広い範囲が」
「火山?」
「ああ、この周囲の地形を形成している岩石は、火山活動が関係している……はずだからな」

 そのあたりは詳しくない。
 断片的な知識を組み合わせて、もっともらしい推論を組み立てているだけだ。

「だから、セドナの端に来るとこんな景色を見ることになる。
 断崖の下に見えるのは、窪んだ盆地とか、巨大な陥没穴なんかじゃない。
 おそらくはあちらが、より海抜0mに近いこの星の地表面なんだ」

 だから、セドナ川は流れ落ちる。
 高いところから、低いところに向かって。
 セドナという高地から、その下に向かって流出する。

「じゃあ、セドナの、川は、どういう?」
「この星の地下水脈が、地中を登ってきて、それがセドナのどこかで湧出して流れ落ちているんだな。
 その辺は普通の山の水源とかと一緒だ。
 ただ、汲みあげられる高さが少しだけ違うだけで」

 ベネズエラのあの有名な高地にも、確か滝があったはずだ。
 落差が大きすぎて、滝壺のない滝。天使の名を冠する滝。
 セドナから流れ落ちる川は、まさにそれそのものだ。
 ……だからモンターナは、セドナの川を、ベネズエラのそれだと言ったんだな。

「セドナは平凡な地形だと思っていたが……とんでもないな。
 下手すると、完全に孤立してるぞこれ」

 セドナという地形座標は、見事にテーブルマウンテンの上に位置していたというわけだ。
 そういえば、たしかくだんの高地では、下界と異なる独自の生態系が構築されていて、新種の植物や動物が見つかることもあると聞く。
 その点、このセドナもかなり面白いことになってそうだな……。

「……あの、もしかして、なんだけど」
「ん、なんだ、カノン?」
「セドナが涼しいのって、そのせい?」

 あっ、そっか。
 そういうパターンもあるのか。
 セドナって、季節で言えば春頃だと思ってたけど、もしかして春じゃない?
 くっそ、やっぱ気圧計が初期装備じゃないのが痛いな。
 こんだけ標高が高いなら、どこかしらでその兆候が出ていた可能性が高い。
 まだまだ観察眼が足りない。

「標高は……さっきの高さを見る感じ、1,000m以上はありそうだよなぁ」
「100mあがるごとに、気温が0.6度、下がる、だっけ?」
「一般的な地形座標と比べて、ここの平均気温はだいたい6度くらい低いかもなぁ」

 これは防寒着が必要となる日は冗談抜きで近いかもしれんな。
 春ごろだと思ってたから油断してたけど、この涼しさで夏とかだったら冗談じゃすまない。

「ん、だいたい、わかった、かも?」
「面白地形だったなぁ、セドナ」

 マップ中央に峡谷があってフレンドと合流できないと嘆いていたどこぞの地形座標と、マップの周囲が断崖絶壁で完全に孤立しているセドナってどっちが面白いかなぁ。
 どっちも面白いでいいか。

「……。」

 カノンは、まだなにかを聞きたいようなまなざしでこちらを見ている。

 うん、わかるよ。
 カノンが、なにが気になっているかは分かる。
 それは、先ほどのカノンの問いかけに含まれていたもう一つの疑問。
 俺はそれについての言及を明らかに避けてきたからな。
 だが、放っておくわけにもいかない。

「で、『ここが、なにか』についてのもう一つの答えだが」
「う、うん……」

 それは要するに、崖の先に見えた「あれが、なにか」ということだ。
 あれは、全く根拠はないが、でも、たぶん、きっと、恐らくは――

「――わからん」
「フーガくん、でも?」
「うん」

 可能性はいくらでも考えることができる。
 あの一瞬でとらえた風景に、俺が重ねたイメージ。
 そこから導き出される可能性。
 ここが、この世界が、いったいなにかということ。
 それを確定するためには、まったく材料が足りない。

 そして、俺たちは、『犬2』で、
 きっとそれを、探し続けていくことになるのだ。
 この世界を、少しずつ、開拓していきながら。


「だから、カノンもいろいろ考えてみるといいぞ。
 なんなら一緒に考えてもいいしな」
「……ん、よく、わかんない、けど、でも――



 ――なんだか、きれいな――



 ――景色だった、ね」


 ――。

 カノンは、もしかして、あの一瞬で。
 すべてを、洞察しきってしまったんじゃないか。
 言語化されない部分で、本質として、
 俺にすら想像もつかない、この光景の、意味を。
 物語をすべて読み終えたあとに、
 胸に去来する、感情の名を。

 カノンが、そう想う、そう想える、その理由は、

 ――――、


「――そうだな。俺も、そう思う。
 ここは、綺麗だ。……神秘的だとも」


 俺がカノンの言葉の真意に辿り着くのは、きっと最期の最後。
 俺という存在の、終わりの刻にちがいない。


 *────


 そして、休憩を終え、立ち上がった俺は、
 もう一度だけ、その先にあるものを見る。

 ――うん、もう大丈夫だ。
 あのイメージに、この星の引力に、もはや惹かれることはない。

 俺は生きている。
 生きていける。

「……さて! 降りようか、カノン」

 この光景を堪能するのは、今はもう十分だ。
 次来るときはあれだぞ、完全攻略してやる。
 この崖を降りてやろうじゃないか。
 んであの謎の白い物体を隅から隅まで調査してくれるわ。
 楽しみだなぁ。あれいったいどうなってんだろ。

「……。」

 右手で、肩に掛かるケープを、きゅっと抑え。
 カノンがこちらを見る。
 その眼に揺れる、色。

「ん」

 右手の革グローブを外し、この手を差し出せば。

「……んっ」

 カノンもまた革グローブを外し、その小さな左手で、俺の手を握る。




 元の世界に戻るまでの、100mの間だけ、
 彼女を繋ぎとめられれば、それでいい。
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