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一章
とある森にて(2)
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仮想端末の機能確認。
仮想インベントリの次は、マップを見てみようか。
なにが映るか、予想はつくけどな……ッ!
マップをポチッ。
(ザザッ――ザッ――)
―――――――――――――
―― LOST ――
―――――――――――――
うん……知ってた。
さっさと次に行こうか。
なぜこんなことになっているか、おおよその見当はつく。
『犬』のゲーム開始時では、脱出ポット周辺の地形座標が最初から登録されていて、拠点の周囲でのみ自身の現在地がわかる仕様だった。
そこから徐々に行動半径を広げながら、マップを広げていくという段取りだった。
まずは、ゲーム開始地点の周囲をじっくり探索。
それがサバイバルゲームの鉄則だ。
そのお約束は、今作にも当てはまるのだろう。
ゆえにゲーム開始直後では、拠点から極端に離れると現在地がわからなくなる。
これもまた、安全圏を広げて機器を設置したり、技術を進めて行って衛星を打ち上げたりすると変わってくるんだが――まあ、当分それは望めまい。
ゆえに言おう。
なにも映らないのは知ってた、と。
さっさと次に行こう―― っと、次はオプションか。
これもまた、快適なゲームプレイにあたって、とても大切な項目だ。
*────
オプションを押下。
すると、無機質な文字列を中心とする無数の項目が現れる。
この項では、もっぱらメタな情報を弄ることができる。
フルダイブシステムを採用しているのもあって、前作から……いろいろと増えている。
……ふむ。
とりわけこのゲームで注目するべきものは幾つかあるが――
『視覚同調補正設定』
『聴覚同調補正設定』
『味覚同調補正設定』
『嗅覚同調補正設定』
『触覚同調補正設定』
俺が気にするべきは、やはりこの辺りだろう。
たとえば盲の人が、フルダイブシステムを用いた世界をどう見るか、なんていうのは、フルダイブシステム登場時に世界を震撼させたセンセーショナルな議論なわけだけど――
(――あいつもこっちに来るかな?)
リアルで会ったことのある三人の『犬』友達の一人である「彼」のことを想う。
あいつのことだ。
未知の感覚にビビることはないだろうし、むしろ嬉々として飛び込んでくるだろう。
それは『犬』におけるあいつの愉しみ方を広げるものだから。
(……。)
そんなとりとめのないことを考えながら、すべての同調スライダーを端に寄せる。
これで俺の感覚は、現実の俺と一致する。
おかげさまで俺は五体満足だ。
感じないものを感じるように補正してもらう必要はないし、
感じるものを感じないように制限してもらおうとも思わない。
とはいえ、この世界ではいまだ経験していない、はじめての死のあとでは――
(考えは、変わるかもしれんが)
流石に現実世界に影響を及ぼすような環境下でプレイし続けるのは本意ではない。
……ほんとだよ?
*────
ついでに仮想端末の立ち上げ方法を変更する項も発見したので、変更しておく。
音声認識による立ち上げ方法も、一応残しておくとして。
それに追加して「人差し指で身体のどこかを2回叩く」を新規に追加した。
やはり慣れ親しんだ動作である方が馴染みやすい。
手首から先しか動かせない状態でも親指を叩くだけで起動できる。
希望通り音も立てず、動作の気配もほとんどないだろう。
そんな状況を想定する必要があるかって?
いや、あるんだ。
あるんだよそんな状況が。
口を開いて音を発することができず。
全身が拘束されてほとんど身体を動かすこともできず。
それでも死んでいないという状況が。
そんな状況で、仮想端末を開いてどうするんだって?
……あるんだ。やれることが。
そんなどうしようもない状況で使うことを想定して、『犬』のサービスが開始されてしばらく経ってから追加された、とある機能がある。
その機能は、今作では最初から実装されているようだ。
それが、仮想端末のホログラムウィンドウの右側最下段に用意された、一番最後の項。
そこにあるのは赤い下地に白のピクトグラム。
描かれているのは、リアルな頭蓋骨。
その下で、二本の骨が交差している。
どこかで見覚えのあるそれは「劇薬」を示すラベル。
そこにあるのは。
公式名称「緊急帰還予定機能」。
俗称「余命タイマー」「自殺ボタン」……である。
*────
緊急帰還予定機能。
そのボタンを押下すると、警告画面が出る。
その警告内容をざっくり言うとこうだ。
『このボタンを押すとあなたは|(設定時間)後に死にます。』
そう、死ぬ。
デスする。
その時点で持っているアイテムをすべてロストして。
設定時間が近づくにつれ、徐々に視界が霞み、行動がおぼつかなくなり、
死ぬ。
崖から飛び降りなくても。
自分で自分の首を掻き切らなくても。
死ねる。
そんなボタンだ。
*────
すべてのプレイヤーは、自身の命の尊厳を守るため、
その奥歯に自死用の毒薬を仕込んでいる。
――というこの世界のプレイヤーの設定。
そんな設定ゆえに、このボタンには劇薬のレッテルが貼られている。
当時はともかく、五感を得た今作『犬2』においても、俺の奥歯の奥に何かが仕込まれているような感覚はない。
だがこのボタンが用意されているということは、こちらでも同様の理屈で自死が行われるのではないかと思う。
これは『犬』にもともと用意されていた機能ではなく、サービス開始後にプレイヤーの要望に応じて実装されたものだ。
なぜこんな機能が実装されたのか?
またテレポバグが悪さしたのか、って?
いやいや、この機能が実装されたのは『犬』のサービスが開始してからわずか3か月後。
まだポータルの利用もはじまっておらず、そしてそれゆえ、これはテレポバグとはなんの関係もない理由で実装された機能だ。
*────
まあ、そこそこきつい事件があったんだよ。
こういうゲームだとどうしても死ねない状況って生じるよなって。
身体の自由が奪われた状態で拘束されて、植物の苗床にされる、的な。
麻痺毒にやられて一部の節足動物の保存食として衰弱死するまで飼い殺される、的な。
そういう方向性の詰みが、とある不幸なプレイヤーの身に起こってしまった。
『犬』は視覚と聴覚限定同調のVRゲームだったが……それでもだいぶきついことになったらしい。
当時はまだサービス開始から3か月ほどしか経っておらず、技術開発もあまり進んでいなかったのもあり、他プレイヤーによる救出も困難だった。
最終的に実質詰みから1週間くらい経った時点で、プレイヤーたちの要請を束ねた歎願状に運営が答える形で、そのプレイヤーにはゲーム的な「死」が与えられ、その後程なくしてこの機能が正式実装された。
あの事件のあとしばらくの間は、ソロ探索が倦厭されたなぁ。
当時ソロメインだった俺も流石にビビってしばらくの間は野良プレイヤーとタッグを組んだりしたものだ。
さて、そんな曰くに基づいて実装されたこのボタンの使い方を紹介しよう。
たとえば明らかに危険な領域に開拓に数日間赴くときに、保険として「一週間後に死ぬ」ように設定しておいて、もしも自分が未開地で、自分で死ぬことができないようなことになった場合に、いつまでもそこで拘束され続けて詰むことがないように、自動で死ねるようにしておく。
これなら仮に自分が「意識を失った状態で完全に飼い殺」されてもそのうち自動で死に戻って来られる。
ゆえに「余命タイマー」。自分で設定する死のタイムリミット。
このタイマーは、設定は何処でもできるが、解除は自分の拠点でのみ行うことができる。
この使い方は、拠点に戻ってタイマーを解除することを前提としているわけだ。
1日がかりの探索に向かうときはとりあえず2日に設定しておくプレイヤーも多かった。
あるいは、意識があり指先が動かせるなら、もう完全に脱出が不可能と悟った段階になってからこの機能に指をかけ、自らの生命に幕を下ろすこともある。
こうした使い方から、プレイヤーが与えたもう一つの名前は「自殺ボタン」。
この二つが運営開発がこの世界にあってしかるべきと実装した「緊急帰還予定機能」の使い方だ。
この機能のいやらしい――もといよく考えられているところ。
それは、自分で定める死亡までの設定時間が最短1分から最長1か月までになっていたこと。
つまりこのボタンによる「死」までに最短で1分の所要時間がある、というところだ。
たとえば崖から落ちたとして、その恐怖から咄嗟にウィンドウを開いてこのボタンを押しても、ほとんどの場合は墜落死よりも前に死に逃れることはできない。
たとえば巨大な肉食生物のような明らかに存在の格の違う先住生物に遭遇し、自身の確実な死を予感した場合、惨たらしい殺され方を避けるためにこのボタンを押しても、そこから1分間は死に逃れられない。
この機能は、この世界で突如降りかかってくる死の恐怖から容易に逃れるためには機能しないのだ。
このあたりの仕様がこのゲームの年齢制限にも影響しているように思われる。
「現実感のある未開地開拓」というこのゲームの理念を維持するためにも、「アイテムロストのペナルティさえ甘受すればいつでも眼前に迫る死の恐怖から逃げられる」機能にしたくなかったのかもしれない。
……とはいえ、この機能を使えば、アイテムロストを伴うとはいえ、いつでも拠点に戻ることができる。
その事実がプレイヤーの心に与える影響は大きい。
アイテムロストを含むため普段はまったく使えないし使わないが、この機能が存在するかしないかの差は、人によっては大きいだろう。
余談だが、このボタンにヒントを得て、『犬』のとある薬物ガチ奴が、「できるだけ速やかに楽に死ねる薬品」を精製したこともある。
それでも流石に生命活動を停止するまで20秒近く掛かっていたし、その薬品を常備しておくのも手間だったから、それほど流通はしなかったけどな。
数秒で即死できない以上、根本的な解決になっていなかったのもある。
むしろそれを矢弾に塗布した「麻痺矢」「麻酔銃」みたいな使われ方の方が主流だった。
*────
で、だ。
この「緊急帰還予定機能」だが、
前作に続いて、今作でも俺は使わないだろう。
なぜって?
俺はワンダラーだからな。
このボタンは、生きるのをあきらめるボタンだ。
ゆえに、俺はそれを押すわけにはいかない。
意味がわからないって?
うん、それでもいい。
というかそれが普通だ。
でも、そのうちわかってもらえるかもしれない。
まあ、あれだ。
本当に死ぬかどうかなんて、最後の最後までやってみないとわからないだろ?
ボタンが押さなくてもそのうち世界が殺してくれるわけだし。
ああでも、本当の本当に詰んだら押すことになるだろう。
たとえば、この神ゲーでは起こりえないとは思うが、足元の地面をなにかの拍子にすり抜けて、未来永劫永遠に落ち続けるなんてことになったら流石に押す。
あと、俺の心が完全に折れ砕けたら勝手に押してしまうかもしれない。
俺の言葉の重みなんてそんなもんだ。
だからこれは俺の信念と矜持、そして今後の愉しみのための決意表明みたいなもんだと思ってくれ。
*────
さて、仮想端末の確認が一通り終わった。
全部が全部というわけじゃないが――
うん、だいたいのところはいいだろう。
じゃあ、いよいよ。
行くか。
行ってしまいますか。
確認するべきことはもうない。
確認できるようなものをほとんど持っていないからな。
はじめてのテレポバグ。
そのあとに待っているのは当然、
はじめての――未開域探索!
今この時より、この世界における、
俺のワンダラーとしての歩みがはじまる。
眼前に広がる昏い森へと、その一歩目を踏み出す。
*────
俺は今、前人未踏の世界にいる。
いまからゆくこの森は、きっとこの世界で初めて俺が発見した地形環境で、
ここに生えている草木は、きっとこの世界で俺以外の誰にも見られたことはない。
その植物たちから、いったいどんな資源が採取できるだろう。
この森の土壌は、いったいどんな性質を有しているんだろう。
この森には、いったいどんな生き物がいるんだろう。
この森には、いったいどんな彩りがあるんだろう。
この森を抜けた先には、いったいなにが見えるんだろう。
ここは――いったいどこなんだろう。
この星の開拓が進んだ未来、いつかまた再び、ここに辿り着くことがあるだろうか。
それとも、このあと「死に戻り」したが最後、このゲームのサービス終了まで、
二度とこの森に辿り着くことはなく。
これから見る世界は、俺の記憶にのみ残る、
一期一会の、なにものこらない夢幻に終わるだろうか。
ああ。
そうだ。
それこそが、テレポバグの神髄。
それこそが、ワンダリング・トラベルの真骨頂。
もしもそうならば、
もしもそうであっても。
俺はこれから死ぬまでに見る、
すべての色彩を、この目に焼き付けよう。
この世界のすべてを、愉しませてもらおう。
愉快な旅のタイムリミットは、俺が死ぬまで。
だというのなら、簡単には死んではやらない。
生き続ければ生き続けるほど、
より多くの彩を見て、
より多くの愉しみを味わうことができるんだ。
それが、俺が『犬』を愛した最大の理由。
それが、俺がテレポバグに恋焦がれた理由。
それが、俺がワンダラーである理由。
変なとこに飛ばされる。
たったそれだけで。
世界は、こんなにも、愉しくなる。
仮想インベントリの次は、マップを見てみようか。
なにが映るか、予想はつくけどな……ッ!
マップをポチッ。
(ザザッ――ザッ――)
―――――――――――――
―― LOST ――
―――――――――――――
うん……知ってた。
さっさと次に行こうか。
なぜこんなことになっているか、おおよその見当はつく。
『犬』のゲーム開始時では、脱出ポット周辺の地形座標が最初から登録されていて、拠点の周囲でのみ自身の現在地がわかる仕様だった。
そこから徐々に行動半径を広げながら、マップを広げていくという段取りだった。
まずは、ゲーム開始地点の周囲をじっくり探索。
それがサバイバルゲームの鉄則だ。
そのお約束は、今作にも当てはまるのだろう。
ゆえにゲーム開始直後では、拠点から極端に離れると現在地がわからなくなる。
これもまた、安全圏を広げて機器を設置したり、技術を進めて行って衛星を打ち上げたりすると変わってくるんだが――まあ、当分それは望めまい。
ゆえに言おう。
なにも映らないのは知ってた、と。
さっさと次に行こう―― っと、次はオプションか。
これもまた、快適なゲームプレイにあたって、とても大切な項目だ。
*────
オプションを押下。
すると、無機質な文字列を中心とする無数の項目が現れる。
この項では、もっぱらメタな情報を弄ることができる。
フルダイブシステムを採用しているのもあって、前作から……いろいろと増えている。
……ふむ。
とりわけこのゲームで注目するべきものは幾つかあるが――
『視覚同調補正設定』
『聴覚同調補正設定』
『味覚同調補正設定』
『嗅覚同調補正設定』
『触覚同調補正設定』
俺が気にするべきは、やはりこの辺りだろう。
たとえば盲の人が、フルダイブシステムを用いた世界をどう見るか、なんていうのは、フルダイブシステム登場時に世界を震撼させたセンセーショナルな議論なわけだけど――
(――あいつもこっちに来るかな?)
リアルで会ったことのある三人の『犬』友達の一人である「彼」のことを想う。
あいつのことだ。
未知の感覚にビビることはないだろうし、むしろ嬉々として飛び込んでくるだろう。
それは『犬』におけるあいつの愉しみ方を広げるものだから。
(……。)
そんなとりとめのないことを考えながら、すべての同調スライダーを端に寄せる。
これで俺の感覚は、現実の俺と一致する。
おかげさまで俺は五体満足だ。
感じないものを感じるように補正してもらう必要はないし、
感じるものを感じないように制限してもらおうとも思わない。
とはいえ、この世界ではいまだ経験していない、はじめての死のあとでは――
(考えは、変わるかもしれんが)
流石に現実世界に影響を及ぼすような環境下でプレイし続けるのは本意ではない。
……ほんとだよ?
*────
ついでに仮想端末の立ち上げ方法を変更する項も発見したので、変更しておく。
音声認識による立ち上げ方法も、一応残しておくとして。
それに追加して「人差し指で身体のどこかを2回叩く」を新規に追加した。
やはり慣れ親しんだ動作である方が馴染みやすい。
手首から先しか動かせない状態でも親指を叩くだけで起動できる。
希望通り音も立てず、動作の気配もほとんどないだろう。
そんな状況を想定する必要があるかって?
いや、あるんだ。
あるんだよそんな状況が。
口を開いて音を発することができず。
全身が拘束されてほとんど身体を動かすこともできず。
それでも死んでいないという状況が。
そんな状況で、仮想端末を開いてどうするんだって?
……あるんだ。やれることが。
そんなどうしようもない状況で使うことを想定して、『犬』のサービスが開始されてしばらく経ってから追加された、とある機能がある。
その機能は、今作では最初から実装されているようだ。
それが、仮想端末のホログラムウィンドウの右側最下段に用意された、一番最後の項。
そこにあるのは赤い下地に白のピクトグラム。
描かれているのは、リアルな頭蓋骨。
その下で、二本の骨が交差している。
どこかで見覚えのあるそれは「劇薬」を示すラベル。
そこにあるのは。
公式名称「緊急帰還予定機能」。
俗称「余命タイマー」「自殺ボタン」……である。
*────
緊急帰還予定機能。
そのボタンを押下すると、警告画面が出る。
その警告内容をざっくり言うとこうだ。
『このボタンを押すとあなたは|(設定時間)後に死にます。』
そう、死ぬ。
デスする。
その時点で持っているアイテムをすべてロストして。
設定時間が近づくにつれ、徐々に視界が霞み、行動がおぼつかなくなり、
死ぬ。
崖から飛び降りなくても。
自分で自分の首を掻き切らなくても。
死ねる。
そんなボタンだ。
*────
すべてのプレイヤーは、自身の命の尊厳を守るため、
その奥歯に自死用の毒薬を仕込んでいる。
――というこの世界のプレイヤーの設定。
そんな設定ゆえに、このボタンには劇薬のレッテルが貼られている。
当時はともかく、五感を得た今作『犬2』においても、俺の奥歯の奥に何かが仕込まれているような感覚はない。
だがこのボタンが用意されているということは、こちらでも同様の理屈で自死が行われるのではないかと思う。
これは『犬』にもともと用意されていた機能ではなく、サービス開始後にプレイヤーの要望に応じて実装されたものだ。
なぜこんな機能が実装されたのか?
またテレポバグが悪さしたのか、って?
いやいや、この機能が実装されたのは『犬』のサービスが開始してからわずか3か月後。
まだポータルの利用もはじまっておらず、そしてそれゆえ、これはテレポバグとはなんの関係もない理由で実装された機能だ。
*────
まあ、そこそこきつい事件があったんだよ。
こういうゲームだとどうしても死ねない状況って生じるよなって。
身体の自由が奪われた状態で拘束されて、植物の苗床にされる、的な。
麻痺毒にやられて一部の節足動物の保存食として衰弱死するまで飼い殺される、的な。
そういう方向性の詰みが、とある不幸なプレイヤーの身に起こってしまった。
『犬』は視覚と聴覚限定同調のVRゲームだったが……それでもだいぶきついことになったらしい。
当時はまだサービス開始から3か月ほどしか経っておらず、技術開発もあまり進んでいなかったのもあり、他プレイヤーによる救出も困難だった。
最終的に実質詰みから1週間くらい経った時点で、プレイヤーたちの要請を束ねた歎願状に運営が答える形で、そのプレイヤーにはゲーム的な「死」が与えられ、その後程なくしてこの機能が正式実装された。
あの事件のあとしばらくの間は、ソロ探索が倦厭されたなぁ。
当時ソロメインだった俺も流石にビビってしばらくの間は野良プレイヤーとタッグを組んだりしたものだ。
さて、そんな曰くに基づいて実装されたこのボタンの使い方を紹介しよう。
たとえば明らかに危険な領域に開拓に数日間赴くときに、保険として「一週間後に死ぬ」ように設定しておいて、もしも自分が未開地で、自分で死ぬことができないようなことになった場合に、いつまでもそこで拘束され続けて詰むことがないように、自動で死ねるようにしておく。
これなら仮に自分が「意識を失った状態で完全に飼い殺」されてもそのうち自動で死に戻って来られる。
ゆえに「余命タイマー」。自分で設定する死のタイムリミット。
このタイマーは、設定は何処でもできるが、解除は自分の拠点でのみ行うことができる。
この使い方は、拠点に戻ってタイマーを解除することを前提としているわけだ。
1日がかりの探索に向かうときはとりあえず2日に設定しておくプレイヤーも多かった。
あるいは、意識があり指先が動かせるなら、もう完全に脱出が不可能と悟った段階になってからこの機能に指をかけ、自らの生命に幕を下ろすこともある。
こうした使い方から、プレイヤーが与えたもう一つの名前は「自殺ボタン」。
この二つが運営開発がこの世界にあってしかるべきと実装した「緊急帰還予定機能」の使い方だ。
この機能のいやらしい――もといよく考えられているところ。
それは、自分で定める死亡までの設定時間が最短1分から最長1か月までになっていたこと。
つまりこのボタンによる「死」までに最短で1分の所要時間がある、というところだ。
たとえば崖から落ちたとして、その恐怖から咄嗟にウィンドウを開いてこのボタンを押しても、ほとんどの場合は墜落死よりも前に死に逃れることはできない。
たとえば巨大な肉食生物のような明らかに存在の格の違う先住生物に遭遇し、自身の確実な死を予感した場合、惨たらしい殺され方を避けるためにこのボタンを押しても、そこから1分間は死に逃れられない。
この機能は、この世界で突如降りかかってくる死の恐怖から容易に逃れるためには機能しないのだ。
このあたりの仕様がこのゲームの年齢制限にも影響しているように思われる。
「現実感のある未開地開拓」というこのゲームの理念を維持するためにも、「アイテムロストのペナルティさえ甘受すればいつでも眼前に迫る死の恐怖から逃げられる」機能にしたくなかったのかもしれない。
……とはいえ、この機能を使えば、アイテムロストを伴うとはいえ、いつでも拠点に戻ることができる。
その事実がプレイヤーの心に与える影響は大きい。
アイテムロストを含むため普段はまったく使えないし使わないが、この機能が存在するかしないかの差は、人によっては大きいだろう。
余談だが、このボタンにヒントを得て、『犬』のとある薬物ガチ奴が、「できるだけ速やかに楽に死ねる薬品」を精製したこともある。
それでも流石に生命活動を停止するまで20秒近く掛かっていたし、その薬品を常備しておくのも手間だったから、それほど流通はしなかったけどな。
数秒で即死できない以上、根本的な解決になっていなかったのもある。
むしろそれを矢弾に塗布した「麻痺矢」「麻酔銃」みたいな使われ方の方が主流だった。
*────
で、だ。
この「緊急帰還予定機能」だが、
前作に続いて、今作でも俺は使わないだろう。
なぜって?
俺はワンダラーだからな。
このボタンは、生きるのをあきらめるボタンだ。
ゆえに、俺はそれを押すわけにはいかない。
意味がわからないって?
うん、それでもいい。
というかそれが普通だ。
でも、そのうちわかってもらえるかもしれない。
まあ、あれだ。
本当に死ぬかどうかなんて、最後の最後までやってみないとわからないだろ?
ボタンが押さなくてもそのうち世界が殺してくれるわけだし。
ああでも、本当の本当に詰んだら押すことになるだろう。
たとえば、この神ゲーでは起こりえないとは思うが、足元の地面をなにかの拍子にすり抜けて、未来永劫永遠に落ち続けるなんてことになったら流石に押す。
あと、俺の心が完全に折れ砕けたら勝手に押してしまうかもしれない。
俺の言葉の重みなんてそんなもんだ。
だからこれは俺の信念と矜持、そして今後の愉しみのための決意表明みたいなもんだと思ってくれ。
*────
さて、仮想端末の確認が一通り終わった。
全部が全部というわけじゃないが――
うん、だいたいのところはいいだろう。
じゃあ、いよいよ。
行くか。
行ってしまいますか。
確認するべきことはもうない。
確認できるようなものをほとんど持っていないからな。
はじめてのテレポバグ。
そのあとに待っているのは当然、
はじめての――未開域探索!
今この時より、この世界における、
俺のワンダラーとしての歩みがはじまる。
眼前に広がる昏い森へと、その一歩目を踏み出す。
*────
俺は今、前人未踏の世界にいる。
いまからゆくこの森は、きっとこの世界で初めて俺が発見した地形環境で、
ここに生えている草木は、きっとこの世界で俺以外の誰にも見られたことはない。
その植物たちから、いったいどんな資源が採取できるだろう。
この森の土壌は、いったいどんな性質を有しているんだろう。
この森には、いったいどんな生き物がいるんだろう。
この森には、いったいどんな彩りがあるんだろう。
この森を抜けた先には、いったいなにが見えるんだろう。
ここは――いったいどこなんだろう。
この星の開拓が進んだ未来、いつかまた再び、ここに辿り着くことがあるだろうか。
それとも、このあと「死に戻り」したが最後、このゲームのサービス終了まで、
二度とこの森に辿り着くことはなく。
これから見る世界は、俺の記憶にのみ残る、
一期一会の、なにものこらない夢幻に終わるだろうか。
ああ。
そうだ。
それこそが、テレポバグの神髄。
それこそが、ワンダリング・トラベルの真骨頂。
もしもそうならば、
もしもそうであっても。
俺はこれから死ぬまでに見る、
すべての色彩を、この目に焼き付けよう。
この世界のすべてを、愉しませてもらおう。
愉快な旅のタイムリミットは、俺が死ぬまで。
だというのなら、簡単には死んではやらない。
生き続ければ生き続けるほど、
より多くの彩を見て、
より多くの愉しみを味わうことができるんだ。
それが、俺が『犬』を愛した最大の理由。
それが、俺がテレポバグに恋焦がれた理由。
それが、俺がワンダラーである理由。
変なとこに飛ばされる。
たったそれだけで。
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