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(二)
しおりを挟む次の証言は、元飯田町中坂下にある湯屋、有馬屋与総兵衛方で、火焚き男として使われている某の話である。
彼は、最初の橋板の崩落の際に川へと転落し、奇跡的に九死に一生を得た一人であった。
・・・・あの事故の事は今でも時々夢に見ることがごぜえます・・・・。
あれからもう十数年も経ちますが、未だにあの辺りを通るとイヤな心持がするものですから、どうしても行かなきゃならねぇ時は格別、なるべくあの近所には寄らねぇことにしておりやす・・・。
あっしは、あの日朋輩数人と八幡様のお祭りを見に行きました。
芋の子を洗うような人の波に押しつ押されつしながら、橋の中ほどまで来た時でごぜえます。
突然足元が崩れ落ちて、アッと叫ぶ間もなく、周りにいた者共と一緒に真っ逆さまに大川に落っこちました。
気が付くと、あっしは大川の水の底におりやした・・・そこで初めて橋が落ちたんだと気づいたんですよ。
あっしは越後新潟の産で、餓鬼の頃から泳ぎには慣れておりますから、なんとか水底から這い上がろうと泳ぎ始めました。
・・・・ええ、水の中では着物は邪魔になる物でごぜえます・・・・あっしは水の中で単衣ものを脱ぎ捨てまして、下帯ひとつになって水面に上がろうとしますと、周りにはあっしと同じで橋から転げ落ちた者が沢山おりました。
そうしているうちにも、上からボチャボチャと音を立てて、次から次へと人間が降ってきやす・・・・水の中も、大勢の人間で溢れ返っておりやした・・・。
・・・ええ、それは恐ろしい光景でございやした・・・地獄というのはああいう事を云うのでござんしょう・・・。
上から落ちてきた者にブチ当たって、そのまま一緒に川底に沈んでしまった者もおりやしたよ・・・。
あっしが、必死で手足を動かして水を掻いておりますと、あっしの足をギュッと掴む者がおりやす・・・若い娘でした。
髪を乱れ髪に散らして、黄八丈の小袖を着た若い娘が恐ろしい形相で、あっしの足にしがみついてくるのです。
餓鬼の頃に、近所の小僧共を集めて水練を教えて下さっていた、ご近所のお武家の御隠居に教わった話ですが、船が沈むときなどは、いくら水練の達者な者でも、溺れる者に取り付かれて、そのまま一緒に水中に引きずり込まれて命を落とすることがあるそうで・・・
あっしも娘に足を掴まれ、水底に引かれてゆきました。
娘だけではありません、水底から何本も腕が伸びてきて、あっしの足にしがみつこうとしてくるので・・・・。
このままでは、道連れになると思い、足に縋り付いてくる手を必死で蹴落としながらようようのことで水面に上がっていったのでごぜえます・・・・。
・・・自分が生きるためとはいえ、可愛そうなことをいたしやした・・・。
今でも、あの娘の恐ろしい形相や、あっしの足にしがみついてきた手の感触を思い出すと、ゾッと背筋が凍る気がいたしやす・・・・。
この湯屋の火焚き男は、そういって目を閉じた。
この男のように泳ぎの心得がある者は良かったが、女子供など泳ぎを知らない為に犠牲になった者は多い。
また、女性はこの火焚き男のように水に落ちたからとて着物を脱ぐわけにもいかず、水を吸った着物の重さで沈んでしまったのであろう。
狭い範囲に集中して次々と人が墜落してきたために、上から落ちてきたものに当たってそのまま沈んでしまった者や、川底で人が積み重なって、そのまま泥の中に埋まって死んだ者も少なくなかったということだ。
この火焚き男は、この事故で足の筋を損ねて奉公が出来なくなった為、その九月に故郷に戻って療養していたが、傷も癒えたので次の春にまた江戸へ戻ってきたということだ。
次の証言者は、妻子を大祭の見物に出したが、ちょっとした用心から妻子共に事故の難を逃れたという人物である。
この人は、当時深川八幡門前に住んでいた山田屋という商人で、かねてより知人からお祭りの日は、子供達を連れて遊びにおいでなさい、と招待を受けていたのだという。
富岡八幡の神様は、自分の産神でもあり、三十年前の大祭では自分も深川で奉公をしていた折に祭りを見物した思い出もあることから、このように我が家に御縁のある神様のお祭りならば、妻子に見物させるのも良いことであろうと、妻子を祭り見物に出すことにした。
ただ妻には、「明日、祭り見物に行くときはなるべく早朝に出るようにしなさい」・・・と注意を与えたという。
その理由について、山田屋の主人はこう答えた。
・・・ええ、私が妻にこんな事を申しましたのは訳のあることなのです。
永代橋の近くに住んでいた頃、よく橋を渡りながら観察しておりますと、あの橋の欄干に所々朽ちている個所があるのが目についたのです・・・。
安政の末頃のことだったでしょうか・・・中洲で涼むのが気持ちの良い秋ごろの事でした、仙台候様が花火を打ち上げられるという事で、永代橋の付近はいつもより人が多かったのですが、茶屋はどこも満員でございます・・・茶屋に入れずに橋の中ほどに立ち止まって花火を見ていた群衆が、欄干によりかかった際に、欄干の朽ちた所を押し倒してしまい、大勢の者が川に落ちて溺死したという事件があったのです。
私の頭の中にこの事件の事があったものですから、明日の大祭もまた沢山に人が出て、永代橋も混雑するだろう、そうなればまたあの時のように欄干を押し倒してしまう事故が起こらないとも限らない・・・そう心配したのです。
ですから妻には「例え永代橋に差し掛かっても、人が密集しているようなら面倒でも迂回して大橋の方を渡りなさい、早朝早く出れば、まだそれほど混雑するようなことはないだろうから、明日は出来るだけ早く出発しなさい」と注意しました。
妻も心得て、当日は朝の六つ(午前6時)頃に子供達を連れて出立しました。
その日の牛の初刻(正午)頃でした、出入りの魚屋さんが、
「たった今、川岸の者から聞いたんですが、永代橋が落ちたそうですぜ!死人や怪我人も沢山出ておりましょう」
と興奮した様子で大声で話しているのを聞いて、初めて永代橋が落ちたことを知りました。
「なにしろ詳しいことはわっちにも分からねぇが、河岸の方はその噂でもちきりですぜ!」
魚屋さんがそう大声で繰り返し叫ぶのを聞いて、近所の人達も驚いて集まってまいりました。
近所の人達が私に向かって言いました。
「山田屋さんのお内儀はお子さん達を連れて祭り見物に行っているのではございませんか・・・さぞご心配なことでございましょう・・・」
ある人は、「一刻も早く人を遣わして安否を尋ねた方が良い」と進言してくれたりもしました。
しかし、私は妻子は事故に巻き込まれていないと確信していたのでこう答えました。
「いえ、それは大丈夫です、かねてから気になっていたこともあって、妻子は今朝早くに家を出したのです・・・足弱の女子供の足でも五つ(午前八時)前後には永代橋を渡っているはずです、橋が落ちたのは四つ(午前10時)を過ぎた頃と聞いておりますので、妻子は無事なはずでございます・・・迎えは未(午後二時)を過ぎてから出すつもりです」
そうして、羊の刻(午後二時)頃に、家の者を迎えに遣りました。
その時、家の者には提灯を持たせまして、妻子を探すときに掲げるよう言いました。
そして、もし大橋も危ないようなら、用心するに越したことはない・・・遠回りになるが両国橋まで回って帰るように念を押しました。
今度の大祭には山車も多く出ているので、山車が渡り切るのも遅くなりましょう、祭りが終わるのは夜になるかもしれない・・・そう思って提灯を持たせたのです。
「永代橋が落ちたとなると、帰りは道も大変混雑しているかもしれない、小さな子供連れなのでくれぐれも怪我のないよう気をつけてな」
私は、そう言って迎えの者を送り出しました。
迎えを送り出した後も、私の妻子が祭り現物に行っていると聞いた近所の人達が心配して次々に見舞いに来てくれましたが、私は妻や子供達が無事であると確信しておりましたので、それほど心配はいたしませんでした。
無事に帰ってくるとしても、長女は十四歳、次女は十二歳、その下は十歳と八歳の子供連れですから、普通に歩いてきたとしても、帰りは夜になるだろうと予想して待っておりますと、その日の戌の頃(午後八時)、妻子たちは無事に帰って参りました。
まあ、妻子はあの災難を逃れているはずだと信じてはおりましたが、実際妻子が無事に帰ってきて、その元気な顔を見た時は、時は思わず手を合わせて神仏にお礼を申し上げました・・・・。
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