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(一)
しおりを挟む100万都市、江戸を南北に流れる大河、隅田川に架けられた永代橋。
広重なども好んで描いた、長さ110間(約200メートル)に及ぶ美しい橋である。
近くに深川富岡八幡などもある永代橋は大変交通量の多い橋で、元禄十一(1698)年に架橋されて以来、補修工事等も行われてはいたが、当時財政難に陥っていた幕府にとってその維持管理費用は大変頭の痛い問題であった。
幕府は、架橋から20年以上経過した享保四(1719)年、永代橋の廃橋を決定する。
しか、江戸の庶民にとって、交通の要所である永代橋は生活に無くてはならない大事なインフラであった。
永代橋が廃橋となると、新大橋まで迂回しなればならないがそれは大変に不便なことである。
町人らの嘆願によって、維持管理費を町人側が負担する事を条件に永代橋は存続された。
町では、武士、医師、出家を除く通行人から一人頭銭二文を徴収するなどして橋の維持管理費とした。
しかし、橋そのものの老朽化は誰の目にも明らかで、欄干なども所々腐食したまま補修が間に合わず放置されている部分も少なくなかった。
町で捻出する修繕費では大規模な修繕は不可能であり、応急処置的に細々と修繕していく他はなかったのである。
永代橋は、文化四(1807)年の時点で、老朽化という根本的な問題を抱えたままだったのである。
以下は、文化四(1807)年に発生した、公儀が町奉行を通して公式に確認しただけでも480人、その他未確認の者も含めると死者は千人超に及んだという、「永代橋崩落事故」の生存者から聴取した記録である。
あの事故から十数年経った現在、実際にあの崩落事故に遭遇した人を探すのにも苦労した。
また、あの恐ろしい事故の有様は思い出したくもないという人も少なくなかったが、今回、数人の方々から事故の当時の状況を詳しくお聞きすることが出来た。
それではまず、文化四(1807)年八月十九日の永代橋崩落事故に至る前段階から話を進めてゆきたい。
この年の八月(旧暦)、深川富ケ岡八幡宮で例大祭が開催されることなった。
富ケ岡八幡の例大祭は三十年余中絶されていたが、この年久々に開催されることが決定し、お祭り好きの江戸っ子達の話題をさらっていた。
各町では数か月も前から、この日の為に競うように趣向をこらした山車が製作された。
一番の「海辺大工町」の神功皇后の山車から始まって、二番「給町」の波の龍の山車、三番「さが町」の佐々木四郎の山車等々、九番までがこの日の祭りの為に準備を整え出番を待っていた。
しかし、これらの山車が渡る予定だった八月十五日は雨天だったため順延となり、改めて十九日に渡ることになった。
十九日は前日から晴天が予想された。
三十余年ぶりの大祭、雨による順延、そして当日の晴れ渡った空、それらが空前の人出に繋がったのである。
案の定、十九日は朝から付近は異常な混雑となり、各通りも祭り見物に繰り出す人々で溢れ返った。
永代橋付近も普段の日の数十倍、数百倍の往来で賑わっていたが、一番、二番の山車が渡った際はまだ異変は起こらなかった。
橋の上がビッシリと群衆で埋まり、三、四番の山車が渡り始めた、巳の中刻(午前11時頃)のことである、南の方水際より六七間(約11メートル)の所の橋板が突然崩落し、橋を渡っていた数百人の老若男女が隅田川に転落したのである。
翌日までに引き上げられた死体は四百八十余人だったが、沖に流された者はその数倍にのぼり、その数は公儀でも確認のしようはなかった。
三、四番の山車の通過の際に橋が崩落したのには、もう一つの不幸な偶然が重なっている。
折から将軍家御三卿一ツ橋様のお船が川を通過するために、永代橋に通行規制がかかっていたのである。
巳の時(午前十時頃)より両岸を通行止めとした結果、両岸には通行を待つ数千人の群衆が溢れ返ることになった。
その群衆が規制解除になった瞬間、両岸から我先にと橋の中央目指して走り出したのである。
気の短い江戸っ子達である、まず威勢のいい男共が競争するかのようにバラバラと駆け出し、老人や女子供もそれにつられるように塊となって足早に橋の中央に殺到し始める。
橋の上は、お祭り気分も重なって一種の興奮状態となっていた。
真っ先に駆け出した先頭の数十人は難を逃れ橋を渡り切った。
しかし、両側から向こう岸へ渡ろうとする群衆が橋の中央付近で鉢合わせとなり、橋の上が足の踏み場もないくらい人で埋まった時に前述の個所の橋板が重みに耐えきれずに抜け落ちたのだ。
この橋板の崩落個所、一坪(六尺四方)に五十人と見積もっても、崩落した十間の空間に、四、五百人はいたことになる。
これらの人々がまず最初に隅田川に落下したのである。
しかし、悲劇はこれだけでは終わらなかった、橋板の崩落を知らずに両岸から押し寄せる群衆に押し出され、次から次へと雪崩のように数メートル下の隅田川へと人が落下しはじめたのだ。
橋の崩落現場では、悲鳴や怒号が渦巻いていたが、両岸から押し寄せる人々には、崩落個所で何が起こっているか一向に分からなかったのである。
この人間の雪崩の重みに耐えかねて、当初、橋板の部分だけが抜け落ちていた永代橋の崩落個所はどんどんと連鎖的に広がってゆき、とうとう橋桁までが次々と折れて泥の中へ落ちてゆく。
みるみるうちに拡大してゆく崩落個所の下は、川底に泥が深く積み重なった部分だったので、大勢の人を巻き込みながらバリバリと乾いた音を立てて崩壊してゆく橋桁は、ズブズブと隅田川の泥の中へと埋まっていった。
この地盤の悪さは、その後永代橋の架け替えが決定した際も問題視され、杭は三四尺打ち込んでも安定せずに、工事関係者を不安にさせた。
永代橋はもう架け替えが出来ず、後々まで渡し船になるのではないかと囁かれもした。
以下の証言は、通油町の書店経営、鶴屋喜右衛門方で長年飯炊きとして奉公している老齢の某が話してくれた内容である。
彼は、店では「おじい」と呼ばれている、いかにも温厚そうな老人であった。
「おじい」は、この三十数年振りの深川八幡の大祭を、当時三歳だった主人の娘にも見せてやりたいと思い、祭りを見物に行く途中この事故に遭遇し九死に一生を得たのである。
・・・・はい、大変恐ろしい出来事でございました。
今思い出しても、背中が震える思いがいたします・・・・。
その日は、八幡様の三十年振りの大祭ということで、日頃私が信仰しております八幡様のお祭りを御主人の三歳になるお嬢様にもお見せしたいと思いましてご主人にお願いしたところ、喜んで承知して下さったのでございます。
私は、お嬢様を背中に背負って、人でごった返す永代橋付近まで歩きました。
それはもう、見渡す限りの人で大変驚きました。
人の波にもみくちゃにされ、やっとのことで永代橋にたどり着きましたが、橋はご将軍家縁の方がお船で橋の下をお通りになるとかで通行が差し止めとなっておりました。
背負っているお嬢様を退屈させないように、色々と話ながら待っておりますと橋の両岸にはどんどんと人が集まってまいります。
私は、その余りの人の多さに驚くとともに、さすが八幡様の大祭だと感心したりもいたしました。
周囲の人と世間話をしながら気長に四半時ほども待ちましたでしょうか、お船も通過し終わって通行が許されますと、前にいた者から次々と橋の真ん中めがけて駆け出してゆくのが見えました。
私も、後からゆっくりと歩きながら橋を渡りはじめました。
橋の中ほどにかかった時でございましょうか・・・・少し先を歩いておりました風車を商っている商人の姿が目に入りました。
いや、風車売りの頭は見えなかったのですが、彼が背中に背負っている荷に差していた売り物の赤い風車が、晴れた秋空を背景にカラカラと回っているのが大変印象に残りました。
私が、背中に背負っているお嬢様の方を振り向いて
「お嬢様、ごらんなさい、あれ、風車が回っておりますよ、後であの風車を買って差し上げましょう・・・・」
そう言って、再びその風車売りに目をやった時のことでございます。
澄み切った青空を背景にクルクルと回っていた風車か急にフラフラと揺れたかと思うと、突然消えたのでございます!・・・・ええ、ほんの一瞬の出来事でございました!
私は一瞬なにが起きたのが分りませんでしたが、そのすぐ後に絹を引き裂くような女の悲鳴や叫び声、男達の怒号が次々と聞こえてまいりました。
私も含めて橋を渡ろうとしている者達には、数間先で何が起きているのか全く分かりませんでしだか、なにか異変があった事は察知しました、喧嘩でも始まったのかと思ったのでございます。
悲鳴や絶叫は次第に大きくなってゆき、「橋が落ちたぞ」「下がれ」という声も聞こえてまいりました・・・・。
私は、とっさに危険を感じて引き返そうとしましたが、後ろの人達にはその悲鳴や怒号も聞こえないらしく、後ろからどんどんと人が押し出されてきます。
私もその人の波に押されてジリジリと前に押し出されてゆきました。
背中に背負ったお嬢様が潰されてはいけないと思い、必死で背中のお嬢様をかばうようにして、私も「なにかあった様だぞ」「下がれ下がれ」と叫びましたが、人の波は一団となってグングンと橋の中央へと進んでまいります・・・・。
私は必死で、人の波の中を泳ぐようにして後ろに逃げようとしましたが、なかなか思うようにはいきません。
人々も口々に「押すな」「橋が落ちたぞ」等と叫び、橋の上は阿鼻叫喚の巷と化したのでございます。
万事休すと思ったその時でした、少し離れたところで大声で「刀だ」「抜いたぞ」「危ない」等と絶叫する声が聞こえました。
これは後から聞いたのでございますが、前の方でどこかのお侍様が、橋の崩落を知らずに前へ前へと押し寄せてくる群衆を後戻りさせるために、刀を抜いて振り回したとのことでございます。
お侍様の刀は恐ろしいものでございます、私ども町人は、とにかく刀が抜かれたらまずは逃げ出すものでございます。
この時も、お侍様が刀を抜いたのを見て慌てて町人達が逃げ出し始め、それで私達も後へ引き返すことが出来たのでございます。
今から思いますと、このお侍様が機転を利かせて刀を振り回したおかげで、慌てて岸に引き返して難を免れた者も大勢いたのではないでしょうか。
どこのお侍様かは存ませんが、私どもの恩人だと思っております。
やっと永代橋から逃げ出すことが出来ましたが、川岸では大勢の人ががやがやと立ち騒いで、「永代橋が落ちた」と半狂乱になって叫ぶ者や右往左往している者もおりました。
その後、野次馬や遭難者を助けに行く者、家路を急ぐ者達で蜂の巣をつついたような騒ぎとなっている通りを歩いて、やっとのことで家に帰り着きましたが、とにもかくにも、私もお嬢様も無事でほっと胸をなでおろしたのでございます。
この「おじい」と呼ばれている飯炊きは、そう語った。
なお、下男の背中に背負われてこの災害に遭遇した主人の娘は、主人の後妻の初子で、現在は両国の薬屋に嫁いでいるとのことであった。
また、殺到する群衆に機転を利かせて刀を抜いて振り回し、多くの人の命を救ったというお侍様の話は、事故後、江戸庶民の噂にも上り話題になったが、当人は決して名乗り出ようとしなかった。
一説にはこの方は、南町奉行の同心を勤めている方であるという。
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