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第二十六話 「お奉行様、犯人取り押さえ事件」 根岸鎮衛(本人)×松浦静山

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  根岸鎮衛やすもり著「耳嚢みみぶくろ」× 松浦静山著「甲子夜話かっしやわ


 寛政七(1795)年、当時公事方(裁判担当)の勘定奉行だった根岸鎮衛が、村の名主で、しかも自分の親である者を刀で疵つけた万太郎という男の事件の取り調べをしている最中、突然万太郎が近くにあった燭台を手にして、調書を読み上げていた評定所の留役(書記官)に殴りかかり怪我をさせるという事件が発生しました。

 その時、一番近くにいたのでしょうか、お奉行様である根岸鎮衛が万太郎の背中に乗りかかり、燭台を奪って首筋を押さえて制圧しました。

 この「遠山の金さん」ばりの大活躍は、当時話題になり、また賛否両論あったようです。

 実は、この事件の事を、当の本人である根岸鎮衛が随筆「耳嚢」に記述しています。
 また、肥前国平戸藩、第九代藩主松浦静山(松浦清)もその随筆、「甲子夜話」の中で取り上げています。
 静山は鎮衛より23歳も若いのですが、鎮衛の古くからの知り合いだそうです。
 
 この同じ事件についての二つの記述がなかなか面白いのでご紹介します。


 【甲子夜話】巻二、(二四)より

 現在の町奉行、根岸肥前守(鎮衛)は、御徒士より勤め上げて、奉行にまでなった。
 私(静山)の旧知の者である。

 この人が、勘定奉行の公事方(裁判担当)だった時の話である。
ある日、自宅のお白州で罪人を取り調べている最中、なにか不満な事があったのだろうか、罪人がいきなり側に座っていた留役に飛びかかって、その場にあった燭台を掴んで殴りつけた。

 その時、根岸肥前守が立ち上がって、罪人を押さえつけ、その背中に膝をかけて制圧した。
 その場は大騒ぎになった。

 根岸肥前守は、このことを自慢に思い、ある時、松平伊豆守殿に裁判の報告をした際に、このことを自慢げに話した。
 
 松平伊豆守殿は、「さても不用心な事だ・・・・」と一言言ったきり、後は何も言わなかった。
 根岸肥前守は、自分の余計な発言を悔いたという。

 松平伊豆守殿は、

「奉行所の吟味の際は、奉行は常に落ち着いて堂々としていなければならないのに、慌てて罪人を取り押さえに行ったなどとは、普段の心構えが出来ていない証拠である」

 そう言いたかったのである。

 根岸肥前守は、性格が野卑で、礼法などに疎い面があるので、それを戒めての発言だったようだ。
 いかにも、人の上に立って重要な職についているお方の言葉であると、人々が感心した。

 
 【耳嚢】巻之四「不時之異変心得可有あるべき事」より

 ※事件を起こした万太郎が、金銭面でのいざこざから、親であり名主である市之丞を傷つけた事件の経緯については割愛します。
 
 ・・・・十一月二十四日、容疑者・万太郎は言うに及ばす、長い供述調書を読み上げている席には、私(鎮衛)も出席していたが、家来、足軽も警護し、留役(評定所の書記官)も四、五人並んで、お白州の場は威厳に満ちたものだった。

 調書が読み上げられている最中、突然容疑者の万太郎が、落椽おちえん(白州より一段上がった部分)にあった燭台を掴んで、調書を読み上げている留役(書記官)の左吉に殴り掛かった。
 万太郎は勢いでその場でうつ伏せに倒れた。
私(鎮衛)は、取り押さえるつもりはなかったのだが、つい体が動いて万太郎の背中に飛び乗り、持っていた燭台を奪い取って万太郎の首筋を押さえつけた。

直ぐに、他の留役達や家来が飛びかかって万太郎を引きずり下ろしたが、殴られた左吉は額から月代さかやきまでかなりの打ち疵が出来、血が流れていたのでその治療を命じた。

 しばらくは何も考えられなかったが、ややあって、この騒動で取り調べが中断してしまうと、後々「奉行も怪我をしたのだ」等と噂がたつと思い、残っていた調書を読み上げさせ取り調べを続行した。

 さて、奉行という者はその職責もあり、下役へ指示する身分である。
 それが自分自身で暴れる容疑者を取り押さえに行ったりして、もし怪我でもしたら済まされないだろう・・・と批判する人もあるかもしれない。

 今度の事件を振り返って、色々と考えた。
 事件の翌日から、巷の噂や評判なども広まっているが、このように白州で暴れる者を前にして何もしなければ「奉行は怖くなって逃げた」等と言いふらす者も出てくるだろう。
 それは、武士として大変無念である。

 軽率な行いであった・・・と批判されたにしても、よく容疑者を取り押さえたものだと自分では思っている。

 なお、この万太郎という者は、松平伊豆守様へ申し立てて、後日死罪という裁きとなった。


 現在で言えば、裁判中に容疑者が暴れ出したのを、裁判官自身が取り押さえた・・・というイメージでしょうか。
 根岸鎮衛が58歳の時の出来事です。

本人は、けっこう自慢に思って例の大きな声で(根岸鎮衛は声が大きいので有名だったとか)松平伊豆守に報告したのが、「いや、上に立つものが軽々しく取り押さえにいってどうする・・・」と言われてしまったというお話。

 「・・・でも、巷の噂で、奉行は何もせずに逃げた、と言われるのも癪だしなぁ・・これで良かったのだ」

 鎮衛はそんな風に考えたようです。
 それにしても、お奉行様直々に、お白州で暴れる容疑者を取り押さえるなどとは、時代劇のようで面白いです。
 なお当時、人情味があり、下々の気持ちもよく斟酌してくれる、庶民に人気の根岸鎮衛は、実は腕に若気の至りで入れた彫り物がある・・・等という噂もあった様です。
これは後に「遠山の金さん」などの逸話に収斂しゅうれんされていったのでしょう。



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