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【画像あり】大空武左衛門 ~江戸時代の優しい巨人~
しおりを挟む曲亭馬琴 編 「兎園小説 余録」より
文政十(1827)年五月、江戸にやってきた大男、二十五歳になる大空武左衛門は、肥後の国、益城郡矢部、庄田所村という所の農民の子であるという。
身長 七尺三分(2m13cm)
手のひら 一尺(30cm)
跖(足の裏) 一尺一寸五分(35cm)
体重 三十二貫(120kg)
衣類丈 五尺一寸(155cm)
身幅 前九寸(27cm) 後一尺(30cm)
袖 一尺五寸五分(47cm)
肩行 二尺二寸五分(68cm)
全身やせ型で頭が小さく、帯より上がたいへん長く見える。
この武左衛門は熊本藩、細川候のお供として、当年五月十一日に江戸屋敷に到着した。
当時の巷の噂では、牛を跨いだので「牛股」という号(通称)であると言っているのは虚説で、「大空」の号が正しい。
「大空」の号(通称)は大阪で相撲取り達から願い出て細川候より給わったということだ。
武左衛門の父母や兄弟はごく普通の身長で、父は既に他界して今は母親だけだという。
力量はいまだ試したことはないが、性格は生まれつき温厚で小心者とのことだ。
これは、同年六月二十五日、亡き友、関東陽が柳河候の下谷の邸宅で本人より直接聞いた話である。
下に示す武左衛門の手のひらの図は、その席上で紙に記したのを模写したものである。
当時、「武左衛門の手形」という触れ込みで瓦版売りが売っていたものが三枚あるが、全てこれとは違うものである。
また、武左衛門の肖像画の錦絵が数十種類も売られていた。
手拭に染め出した物も十二種類も出た。
後には、春画めいた猥褻な図画も出回りはじめたので、その筋のお役人から禁止令が出て、猥らな物に限らず、武左衛門の姿絵は全て出版禁止になってしまった。
当時、いかに武左衛門が人口に膾炙し、江戸で大流行したかが想像できる。
しかし、当の武左衛門はただ故郷を懐かしがって、江戸で相撲取りになる事を欲しなかった。
そのため江戸には長く滞在せず、細川候に願い出て肥後の故郷に帰ったという。
当時、儒学者の林述斎(林祭酒)がこの武左衛門を一度見てみたいと思い、八代洲彼岸の邸宅に招いた時、私(馬琴)の友である渡辺崋山もその末席にいて、彼がオランダ製の鏡を使って武左衛門の全身を詳細に写し取った図画がある。
この肖像はオランダの技術を使い二面の水晶鏡を掛け照らして写し取ったもので実物と寸分も違う所はないものだ。
それを亡友、文宝(亀屋久右衛門)が持ってきて私(馬琴)に見せてくれた、私(馬琴)は彼にその写しを作ってもらい保存しているが、大き過ぎて掛けるところがない。
錦絵として売られていたものは似ていない物も多い。
亡友、海棠庵(関思亮)は好事家だったので、このような図も漏らさず書き写して保存している。
以下は、その記録である。
熊本から二十里ほど東にある矢部村の出生の武左衛門のことは、自然と細川候のお耳に達し、候が一度その男を見てみたいと仰せになったので、武左衛門に上下の衣類が贈られた。
お城に呼ばれた武左衛門に酒食が供され、どのくらい食べるのか試してみよとの仰せで彼が欲するだけの酒食が出された。
まず、酒五升、米五升、種々の料理が供された。
武左衛門が食べる様子を細川候がこっそりと覗き見されたという。
武左衛門は酒三升、米は五升を半部食べ、一尺五六寸(約47cm)の鯛を二尾は刺身で、一尾は煮着けにしたものを残らず食べたという。
お側集が、まだ食べられるか聞いたところ、武左衛門は「父母より、暴食は体に毒であると教えられていますが、今日は大変なご馳走を頂き、父母の教えに背いて食べ過ぎてしまいました」と答えたという。
その後、細川候が狩りに出られる際、武左衛門を連れてくるよう仰せがあった。
細川候は、御前所で武左衛門の様子を遠見されて「にこやかな男であるな」とおっしゃった。
候の一言で武左衛門には、米一升で五人扶持を給わることになったという。
武左衛門は候のお慰みにと、色々な力業をご覧にいれ、その中で一頭の牛を立たせておいて、その背中をまたぎ越したという。
候は大変喜ばれ、以後、名を「牛股」と名乗るようにせよと仰せになり、武左衛門に脇差を給わったという。
文政十(1827)年五月、市中で売り歩いていた瓦版を購入した。
下に示した図は、世に「サゲ」と呼ばれている、取るに足らない商人たちが市中を叫びながら売り歩いているものである。
このような瓦版が三種ほど出ている、また六、七月には錦絵が多く出回った。
それは、最初は「牛股」と書かれていたが、後にはみな「大空」と訂正されて売られている。
身長などは推測や伝聞をもって書かれており正確ではない、上に書いた身長が正確なものである。
江戸で一大ブームを巻き起こした「大空武左衛門」さんの記録でした。
瓦版はおろか、錦絵や手ぬぐいなどの「キャラクターグッズ」、果てはちょっとアヤしい図画まで出たといいますから、当時の商人も商魂たくましいというか・・・。
渡辺崋山が描いた精密な肖像画と、瓦版の絵が全然似てないのもなんとも・・・この漫画チックな瓦版描いた絵師、絶対本人を見て描いてないですよね。
武左衛門さん自身は、とても大人しくて優しい性格のようですが、現代人より身長が低かったと言われる江戸時代の人達にとっては、まさに空を突く驚異的な巨人という印象でしょう。
どこに行っても目立つことこの上ない身長は、本人にとっては迷惑だったのかもしれません。
ただ、細川候から目をかけてもらって、37歳と短命でしたが幸せな一生だったのではないでしょうか。
なお、蛮社の獄で自死することになった渡辺崋山が使ったというオランダ製の機械は、現在のカメラの元祖である「カメラ・オブスキュラ」というものだったのでしょう。
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