69 / 100
第六十九話 「深切の祈誓其しるしある事」
しおりを挟む根岸鎮衛著「耳嚢」 巻之三
「深切の祈誓其しるしある事」より
最近の事だという。
浅草並木辺りに、薬などの原料を商う生薬屋があった。
生薬屋は、砒霜や斑猫などという劇薬・毒薬も腫れもの、その他の病状によっては処方することもあるため扱ってはいるが、これらは容易に販売することはなかった。
また、トリカブトの根である「烏頭」なども漢方薬の材料として使われる為、取り扱ってはいるが人を殺すことも出来る毒薬の為、その販売には慎重を期していた。
ある日、主人が近所に出かけている間に、女がその「烏頭」を買い求めに来た。
留守番をしていた店の小僧が何も気に留めず、ついうっかりと販売してしまった。
主人が店に帰ってきて、小僧からその話を聞き大変に驚く。
「おまえ、それはどういうお方にお売りしたのだ?名前や居所はお聞きしなかったのか?」
「・・・・はい・・・つい、お名前も居所も聞くのを忘れてしまいまして・・・知っている方でありませんでした、歳は三十ほどの女の方が丁稚を一人連れて買いにこられました・・・」
「なんという事だ・・・・あの薬は人を殺すこともできるのに・・・・」
しかし今更小僧を叱っても仕方がない、生薬屋はかねてから信仰している浅草観音に詣でて、一心不乱に祈った。
「どうかあの薬が人を害することに使われませんように・・・人の為になりますように・・・」
生薬屋の主人が肝胆を砕き祈っている様子を、隣で歳の頃四十ばかりの、これも信者とみえる男が読経しながら見ていたが、二人は帰り道で道連れとなる。
「貴方も、浅草の観音様を熱心に信仰されているようですね・・・私も数年来信仰し、こうして日参しております」
「あの観音様は霊験著しいとお聞きしておりますので」
「ときに、貴方は先ほど大変熱心に祈りを捧げていましたが、なにがご心願でもおありなのですか・・・・」
生薬屋の主人は、顔を暗くして答える。
「・・・実は現在、大難が降りかかっておりまして、その義で観音様におすがりしておるのです」
「・・・・観音様の境内でお会いしたのも何かの縁、お力になれる事かもしれませんので、事情を教えて頂けますか」
生薬屋の主人は、周りに誰もいないのを確認して、男に今日あった事件のことを説明する。
毒薬である「烏頭」を買って行った女の年頃、人相、着物の柄などを詳しく話した。
「・・・・そうでしたか、自分の店で売った薬が人を害さないように・・・その願い、きっと観音様もお助けくださいましょう」
生薬屋と男は、互いに名前や居所などを教え合って別れた。
男が、自分の家に帰り、ふと庭を見ると物干し竿に着物が干してあった、それは男の妻の着物であった。
・・・何気なくそれを見て、男はふと生薬屋の言った話を思い出す。
彼から聞いた、毒薬を買っていったという女の着物と、干してある妻の着物の柄が似ているのである。
そう言えば、生薬屋から聞いた 女の年恰好なども自分の妻に似ているような気がしてきた。
家に入ると、妻が茶と餅菓子のような茶菓子を出してきた。
「美味そうな菓子だが、これから湯に行ってくる」
男は、そう言って丁稚に浴衣や手ぬぐい等を持たせて湯屋に行き、人気のない所で丁稚に聞いてみた。
いつも通り供をしていっただけの年端もいかない丁稚は、今日行った場所や買ったものを全て正直に話す。
やはり、生薬屋で烏頭を買ったのは、自分の妻であった。
男が平静を装って自宅に戻ると、妻が再び例の餅菓子を持ち出してくる。
「せっかくですから、召し上がってくださいな」
男は静かに妻の顔を見て言った。
「・・・いや、まずお前が食べてみよ」
妻は、すこし狼狽えて、
「・・・い、いえ・・・私はこの菓子は好きじゃありませんので」
それだけ言ったが、顔面は蒼白になっていた。
「今日は、思うところがあるので、お前はこれからすぐに実家に行きなさい」
そう言って、その餅菓子を重箱に入れ、「離縁の理由はこの重箱の中の菓子である」と手紙を添えて、離縁状を書き、人を付けて妻を実家へと戻した。
妻は、一言もなく夫の言葉に従い離縁された。
命拾いした男は、その後生薬屋の主人と懇意となり、義兄弟の約束をして、観音菩薩の御利益に感謝してますます信心を深めたという。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
4
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる