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第五十七話 「精心にて家業盛んなる事」

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 根岸鎮衛著「耳嚢」 巻之三


 「精心にて家業盛んなる事」より


 江戸は四谷の松屋何某という刀の拵え(外装)を商売とする者があった。

 彼の生い立ちを尋ねると、昔は武家奉公等をしていたが、どういう理由か町人となって、四谷の道端で古包丁、古小刀、その他古道具を筵の上に並べて商売をしていたという。
 しかし元来器用な性分であるので、刀や脇差などのつかを巻いたり、刀を研いだりすることを習い覚え、四、五年も経つと九尺店の拵え屋の店を出すまでになった。

 ある時ふと思いついて、五匁の束巻つかまき代を三匁に、十匁の刀の研ぎ代を七匁へと値下げすることにした。
 また、近所の武家へ引き札(チラシ)を配るなど熱心に宣伝もしたため、自然と注文が多くなり店は大いに繁盛することになった。

 しかし、四谷や糀町の同業者達が大いに怒り「他の店の商売を邪魔している」という理由で奉行所へ訴え訴訟となった。

 お奉行から呼び出されて吟味を受けた松屋何某は、

 「格安の値段で注文を受けると、定めて荒い仕事、悪い仕上がりなのだろうとお思いでしょうが、出来が悪い、仕上げか粗悪な店にはお武家方からご注文は続きません。私共がこの値段で注文を頂いても随分利益が出るものでございます、理由もなく値段を高くすることはお得意様に損をさせることになります」

 松屋何某は続ける。

 「たとえ、今この場でお奉行所よりご注文を頂いても、私共はこの価格にて承ります」

 それを聞いた町奉行も松屋に理があることと判断し、松屋の勝訴となったので、いよいよ商売に力を入れ、翌春の年始に以前一、二度注文を受けた四百件ほどの武家宅を回り、挨拶と宣伝をするなど営業活動も熱心に行ったため、その後は尾州家の家来からも注文が入るようになった。

 そして、ついには尾州侯から直々に拵えを仰せつけられるまでになり、今は「尾州家御用達」の札も掲げ、弟子も四、五人抱える大きな拵え屋となったという。


 商売の基本と言いましょうか、そう言えば大手百貨店「三越」の前身である、呉服屋の「越後屋」等も、当時としては全く斬新な販売方法である現金売買、定価販売、対面販売を打ち出し大繁盛しました。

 また、今ではコンビニ等で当たり前に見られる「フランチャイズ」は、1,800年代にミシンの「シンガー社」が始めたビジネスモデルだとか・・・・。

 
 ネット全盛時代、まだまだ斬新なビジネスモデルが現れる余地は有りそうです。
 「yout〇be」なんて、あれが商売になるなんて誰が思ったでしょうか(笑)

 
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