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【一】
しおりを挟む「い、伊右衛門さまっ、それだけは・・・その鏡だけは!・・・母の形見なのでございます!だからどうか・・・」
「ええいっ!やかましいっ、邪魔立てをするなっ!亭主のすることに意見をするのかっ!」
伊右衛門は足元にすがるお岩を足蹴にすると、彼女が普段から大切にしている母の形見だという小さな銅製の姿見を握りしめ、戸を開け放って逃げるように外に飛び出してゆく・・・。
・・・一刻も早く、この忌まわしい屋敷から逃げ出したい、お岩の側を離れたい!・・・その一心だった。
伊右衛門はお岩の大切な鏡を質入れし、その金で今夜も場末の安女郎屋に入り浸り、苦くて不味い酒を浴びるように飲むのである。
「ううっ・・・うう・・・伊右衛門様、どうして・・・どうして・・・」
既に三ヶ月も続いている伊右衛門の乱行。
田宮家の家財はほとんど酒と女に変わり、ガランとした冷たい空気の流れる屋敷の中でお岩の忍び泣きの声だけがかすかに響く。
寡黙で真面目な性格の伊右衛門の突然の豹変、それにも増して祝言の夜からずっと続いている、伊右衛門とお岩夫婦の間に漂っているどこか冷たい空気・・・。
開け離れたままの戸から吹き込んでくる冷たい風を身に浴びて、お岩は肩を震わせて泣き崩れる。
それが、自分の容姿が原因であることは彼女自身がよく判っていたのだ・・・。
・・・・これが・・・俺の女房・・・この醜い女が・・・・
祝言を挙げた夜、初めてお岩を見た時の伊右衛門の偽らざる感想だった。
親の代からの浪人暮らし、貧乏神と義兄弟のような二十五歳の伊右衛門の元に、仲人が縁談を持ち込んできたのは半月前のことだった。
「お相手は御手先鉄砲組、田宮又左衛門様の一人娘でお岩さんと申す娘御でな、歳は二十七・・・ちょいと薹が立つておりますが・・・婿養子ですので親御様の跡を継いで鉄砲組仕官・・・とくれば、伊右衛門様にとっても悪い話ではないと思いますぞ・・・」
仲人は直接口には出さないが、貧乏浪人の伊右衛門が婿養子として田宮家に収まれば、行く末は家督を継いで仕官の道が開かれる、浪人暮らしの伊右衛門としてみれば破格の大出世であることを言いたいのである。
「・・・・歳は二十七でございますか・・・」
「・・・・え、ええ・・・ま、まあ、縁がなかったと申しますか・・・そ、それでもお相手は由緒あるお武家ですしな・・・お父上の又左衛門殿は厳しいお方ですから、お岩さんも武家の子女として、どこに出しても恥ずかしくないだけの躾けを受けておられる立派な娘御です。性格も控えめで貞淑であることは拙者が保証いたしますぞ・・・伊右衛門どの、いかがでございますかなぁ・・・この縁談話・・・」
伊右衛門がちょっとムツカシイ顔で考え込んでいるのを見て、仲人はやや焦り気味にまくしたてる。
「お父上の田宮又左衛門様も、もう五十を過ぎておりますし、早く娘に婿を取らせて家督を譲りたいと・・・奥様は数年前にお亡くなりになり、子供は一人娘でございます、武士は相身互い・・・・ここは田宮様を助けると思って・・・どうかこの縁談、お頼み申します」
手先鉄砲頭を務める、谷崎武右衛門というその仲人は、伊右衛門の顔色を伺いながら泣き落としのように頭を下げる。
・・・自分より身分が上の五十過ぎの立派な武士に頭を下げられ、困惑する伊右衛門。
役目柄、人脈も多く世話好きの彼は、こうして武家の子息の縁談を世話しているのであった。
それには、半分趣味のようなところもあるが、仲人としての謝礼も魅力だったのは言うまでもない。
「・・・そのお岩さんという娘御、二十七まで縁付かないとは・・・・なにか理由でもあるのでございましようか?」
・・・・伊右衛門は心に引っかかった最大の疑問点を率直に仲人にぶつける。
父は老年で一人娘、婿養子として入れば必然的に御手先鉄砲組の身分もついてくるという良縁・・・それなのに、二十七になるまで縁談が整わないという。
そこには何か理由がなければならないはずだ。
「・・・えっ・・・そ、それと言った理由はないのでござるが、ただちょっと・・・」
仲人の谷崎は言いづらそうに言葉を濁して、困惑した笑いを浮かべるだけだった。
「わたくしも武士の端くれでございます・・・・女子の器量の良し悪しで選り好みをするなどという、軽薄な考えは持ち合わせてはおりませんから、どうか正直におっしゃって頂きたい」
・・・その当時の武士は、結婚相手となる女性の容姿で選り好みするなどということは許されてはいなかった。
そもそも現代とは違い、結婚相手は自分の意志で選べるものではなく、祝言の夜になるまで互いに相手の顔を見たことがない、などという事もごく当たり前だったのだ。
「武家の娘として生まれ、相応の教育を受けた女性ならば、武士の妻として相応しくないはずがない」という建前がまかり通っていたのである。
まだ婚姻に際し、相手を容姿で選り好みをするような男は、武士としてあるまじき好色、と蔑まされたりもした。
「・・・うむ、それでは正直に申し上げますが・・・実は・・・お岩さんにはお気の毒に、幼少のころから肌の病がございまして、顔が赤く腫れて、いつも爛れたようになっているので・・・それでやや容貌が・・・いや、お気の毒なことで・・・」
現在で言う皮膚炎なのだろうか、彼女は目鼻立ちは悪くないものの、顔や手の皮膚が赤く爛れ、始終かさぶたが出来ており器量は良くない・・・・有り体に言うと「醜い」女性だというのだ。
・・・それが二十七まで縁談がまとまらず、仲人も苦心している瑕なのだという。
伊右衛門は考えた、今の極貧の浪人暮らしから御手先鉄砲組の身分へ・・・それは人生の一大転機となる僥倖だ。
彼も当時の武士らしく、「女性の容姿の醜美などというものはとるに足らないことである」という考えを持っていたので、この縁談に心が動いた。
さらに、自分よりも身分も年齢もずっと上の谷崎氏が、容姿のために行き遅れた愛娘に苦悩する父の田宮氏の苦衷を力説し、頭を畳に擦り付けるようにして懇願するに至り、ついに田宮家の娘婿となりお岩と夫婦になることを決心したのである。
・・・しかし、祝言の夜に初めて対面したお岩はやはり醜かった。
背格好は悪くないものの、顔全体が赤く腫れぼったく、頬などには引っかき傷のような跡と、所々剥がれかけたかさぶたも見える。
目も、瞼が腫れ気味で垂れ下がっているせいか、終始不機嫌そうにみえるその表情は、初対面の者にとって決して好印象を与えるものではなかった。
白無垢に純白の綿帽子を深く被った花嫁姿も、伊右衛門の心には響かなかった。
伊右衛門の心の内には、醜いお岩の顔よりもむしろ、この目出度い婚礼の夜に高揚した全く気分を感じられない自分自身に対する腹立ちのようなものが渦巻いていた。
婚礼の宴となり、お岩の父、田宮又左衛門は花婿衣装の伊右衛門の側に寄り、心底嬉しそうに言った。
「伊右衛門殿、この度は本当に有難う、このように器量の悪い娘じゃが、その分、躾は粗漏のないようしたつもりじゃ、どうか末永くお岩と添い遂げてやってくれ」
「・・・はい、お義父様、ご安心ください」
「・・・そうか、その言葉を聞いてわしも安心した。わしももう五十六じゃ、御手先鉄砲組のお役目ももう隠居したいと思ってた時分、お前さまのような立派な婿が来てくれて本当に安心じゃ、世帯も落ち着いたら、組頭の猪狩殿や組の者達にもお目通りして、早速見習いとして働いて貰おうと思っているので、よろしくお頼み申しますぞ・・・ささっ、堅い話はコレくらいにして、今日は目出度い婚姻の席じゃ、伊右衛門殿、飲んでくれ!」
お岩の父の田宮又左衛門は嬉しそうに、空になった伊右衛門の杯に酒をなみなみと注ぎ続けた。
傘張りや房楊枝作りなど、町人からもらう内職で糊口をしのぐ惨めな貧乏浪人から、江戸城や将軍の警護にあたる御手先鉄砲組へ・・・又左衛門の言葉を聞いて、伊右衛門は初めて気分が上向いた。
醜いお岩を嫁にすること、それを埋め合わせるに足りる仕官への道!
・・・・俺はこの女と夫婦となって・・・これで良かったのだ・・・・
伊右衛門は、自分自身に言い聞かせるように心の中でそう呟いた。
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