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第七章 悪役令嬢と誰でもない男神

残飯と聖書

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 アクラ・ロコック男爵は広大なダラサ王国のうち荒涼とした湿地帯を支配していたが、城下町ロコックの経済規模はイギリスのど田舎にも劣る寒村だったし、男爵領には、さらにその下を行くような村が5つあるだけだ。

 湿地帯の大部分は薬品臭い泥炭で、農業にも畜産にも適していない。冬の収入は特に悲惨で、夏の間に掘って乾かしておいた泥炭が貧民にも領主にも貴重な収入源になっている。

 わたしの義父アクラはそんなわずかな税を必死にやりくりしていたが、彼には「叡智」の加護がなかった。

「今日、子爵が来る」

 食堂の騎士たちにそれだけ告げたアクラはハッセを目線で呼び寄せ、小声で言った。

「——ハッセ、書類仕事を手伝ってくれ。急すぎる来客だが、歓迎会をしないわけにも行かん……予算の計算が追いつかない」

 カネの話を大っぴらにするのは貴族の恥とされている。アニキは無言で小さく頷き、義父と食堂から退出した。わたしも四則計算くらいできるんだけどな。

 男爵から来客の知らせを聞いただけの下級貴族たちはざわざわと食堂から離れ、壁際に直立していた使用人たちが食べ残しの後始末を始める。生ゴミとして捨てるのではない。使用人には原則として朝食も夕食も無く、彼らは貴族が食べ残した料理で腹を満たしていた。

 わたしは貴族のうちで唯一その場に留まり、幼名馴染みのハチワレに声をかけた。

「今日はお腹いっぱいになれそうだね」
「にゃ。アクラ様が急にゃ話をしたから、みんないっぱい残してる!」

 ハチワレ柄の少年は嬉しそうに笑い、白ウサギのピピンや茶色いハムスターのクワイセも手早く残飯を集めた。3人のうちクワイセだけが少女で、自分で縫った可愛いドレスを着ている。

 わたしも大人たちが飲み残したエールを樽に集め、わたしは飲むことを許されていないが、大人の従者に樽を渡す。

 貴族たちが朝食を取る間ずっと我慢していた使用人たちはいっせいに残飯を食べ、わたしはみんなが腹を満たすのを待った。今日も大量に下賜した干し肉やパンのお礼を口々に言われ、照れくさい気持ちになる。

「お嬢様」

 と、使用人のひとりが言った。

 彼は使用人のうち唯一の「鬼族」で、犯罪奴隷ではあったが、生まれが高貴なため他の使用人らを指揮する役を得ていた。ただでさえ立場の弱い奴隷にもこうした身分の差があった。

 頭頂部のハゲた鬼は、まばらに残った髪を黄色く染めてわたしに警告した。

「恐れながら、本日はアクラ様の書斎でお過ごしください」
「どうして? 昨日お父様に許可を得たけど、わたし——」
「ニョキシー様もお聞きになったでしょう。高名な貴族が屋敷にいらっしゃるし、旦那様は『粗相をするな』と……こういう時は書斎で読書でもしてやり過ごすのが一番でございます」
「なるほど、それはそうかもね……残念だな。今日はハチワレたちとロコック村まで散歩に行く予定だったのに」

 それまで嬉しそうに干し肉を噛んでいたハチワレやピピンが耳をしならせた。頬袋にたっぷりパンを詰め込んでいたクワイセも頬を下げる。

「明日も子供らに食べさせるためです。どうか……」

 ハチワレの母でキジ猫のモモがわたしに願った。

「例えば仮に、お嬢様が『食事抜き』を命じられてしまうと……以前、お嬢様が婚約の件でハッセ様と言い争い、屋敷を抜け出した時なんて、」
「よせ、卑しいぞモモ」

 ハゲた犯罪奴隷が鋭く警告したが、彼もそれを恐れているように見えた。

「わかったよ。おいハチワレ、ピピンとクワイセも来い! おまえらが今日すべき仕事は、わたしの名においてサボって良いとする……今日は父上の書斎で本を読んで過ごそう」

 わたしは幼名馴染みたちに偉そうに命令した。

 地球のころはこんな性格ではなかったと思うのだが、犬の娘に産まれたわたしは、目下に命令すると妙に良い気分がする。この感覚は本能から来るもので、わたしには抗うことができなかった。

 思い返すとそれもひとつの差別だったかもしれないが、ハチワレ、ピピン、クワイセは嬉しそうに「お嬢様」の背後につき、わたしはクワイセにジュースの瓶を持たせてからみんなで父の書斎に向かった。ネズミ系の少女は使用人の中でも〈倉庫〉スキルのために一目置かれていて、40インチほどのインベントリにたくさんの荷物を格納できる。

 本当は村で遊ぶつもりだったが、書斎でも例の遊びができるはずだ。


  ◇


 部下を引き連れて廊下を闊歩したわたしは父上の書斎に入り、四畳半ほどの狭い図書室に置かれたソファに腰掛けた。

 ハチワレ、ピピン、クワイセはわたしが教えた地球の「じゃんけん」をして、敗北したハチワレ以外がわたしの隣に腰掛ける。書斎のソファは小さく、子供でも3人座ると限界だった。

「にゃ。負けた……」

 ハチワレはまったりとした眠たげな口調でチョキによる敗北を悔しがった。

「にゃ。仕方ない……今日はおれが本を取ってくる係か」
「ニョキシー様、おれ、聖書の続きを読んで欲しいピョン!」

 ピピンが興奮して叫んだ。どういうわけかうさぎ系の獣人は語尾に「ピョン」をつける。

「チ……オレも生命様の言葉を知りたい」

 ピピンと同じ14歳のクワイセも男言葉で同意し、ハチワレはにゃーにゃー言いながら書斎の本棚を見回した。地球の英国とこの世界とで教育を受けているわたしと違って「文字を読む」という行為は獣人たちには難しい仕事で、ハチワレは猫耳をかきむしりながら書名を確認し、書斎でも一番分厚い羊皮紙の本をわたしの元に運んできた。

「にゃ。これで合ってるよね、ニョキシー?」
「……ハチワレ、背表紙のタイトルは読んだ?」
「にゃ。読んだ。『生命様の福音』と書いてある……はずだけど、違った?」
「いや正しい。ずいぶん文字を覚えたね。ハチワレはあのハゲより何倍も賢いぞ!」
「……にゃ☆」

 使用人頭を引き合いに出すとハチワレは嬉しそうに笑い、石畳の床に正座して座った。この子猫はわたしと同じロリコンに加護されているので鑑定不能だが、教えればなんでも覚えるし地球式の分数や小数点の計算はわたしより早いくらいなので、知性のステータスはかなり高いと予想している。

 ソファを獲得したピピンが言った。

「ニョキシー様。先日読んでいただいた聖句には、レファラド様が竜も鬼も、我らうさぎも同じだピョンと言ったと……もう一度聞かせてください!」
「そうだよピピン。知りたいならまた読んでやるけど、おまえもハチワレのようにダラサ語の文字を覚えろ。覚えてしまえばピピンにも読めるはずなんだ」

 生命の神を称える聖書の言葉を——個人的に要約して——読み上げてやると、わたしと同じ獣人の幼名馴染みたちは種族ごとに違う雄叫びを上げ、子犬のわたしも遠吠えを上げた。

「チ、やっぱりだ。レファラド様はすべての命が同じだと言ってる!」

 クワイセが頬袋に確保したパンを噛みながら言った。

「チ、なのにどうして竜や鬼たちは……」
「やめるピョン。不満を吐いても仕方無いだろ? ニョキシー様の言葉を信じろ。聖書によると、生命様は『戦え』と言ってる」

 わたしはピピンの言葉に肝を冷やした。実のところわたしは聖書の文句を都合よくピックアップしていて、大英帝国の常識たる「人権」について獣人たちを教化していた。

〈——おやおや、私の子は今日も順調にイカれているね。ところで、おまえが語る「神」とやらの名前を教えてくれないか。そのような曲解、レファラド様に知られたら天罰もあり得るぞ?〉

 脳内でノー・ワンが皮肉ってきたが、当時のわたしは自分が間違っていると思わなかった。ていうか今も間違いとは思っていない。

「にゃ。こんにゃの変だ。にゃんでおれたちは永久に奴隷にゃのか。貴族たちは、おれたちに神様の本当の言葉を隠していた!」

 ハチワレが叫んだ。子猫はわたしが意訳した「生命の聖書」に興奮しきっていた。

「おれは、ハッセ様じゃなくニョキシーがこの家を継いでくれたら嬉しい。ニョキシーは正義の貴族様だから!」

 ハチワレ柄の7歳の子猫はわたしをじっと見つめて言い、ピピンとクワイセがその言葉に賛同した。脳内に少し楽しそうな声が響く。

〈正義か……残念ながら、生命たるレファラド様の土地にも、魔女ファレシラの土地にも「正義の神」は居ない。世界を統べる神々は、誰も「正義」の定義なんて知らぬから当然だな〉
(へえ、そうなの? ……まあいいわ。今日もハチワレたちといろんな本で“遊ぶ”から、ロリコンは大人しくしててよね)
〈当然だ。私はそのために——〉

 ——と、そこで書斎のドアがノックされた。

 代表してわたしが開くと前髪を黄色くしたアニキがいて、隣にブロンドの少女がいた。少女といってもわたしより全然年上だったが、

「……これが妹です。私の、ただの妹に過ぎません」

 父親に似て整った顔の義理の兄が妙に「妹だ」と強調して紹介すると、普通に美形な兄を超越し、ほとんどお人形のように美しい少女は破顔して頬を桃色に染めた。

「わあ、あなたがニョキシー? かつて我が国の、第ニ継承権を持っていた女性……」

 なんて可愛らしい笑顔だろう。

 黒犬のわたしがこの世界の脇役だとすれば、ブロンドの少女にはヒロインの風格があった。

 少女はひと目で高級な生地と分かる青いスカートの裾を持ち上げ、優雅に頭を下げて完璧すぎる微笑みを浮かべた。背中には蝙蝠のような可愛らしい羽が生えていて、パタパタと空気を扇いでいる。

「おっと失礼、つい素が出てしまいました☆ あらためて……えへん」

 少女は小さく咳払いして、貴族らしく堅苦しい挨拶を披露した。

「わたくしは亡きダラサ王の第二夫人たる鬼族・ルグレアの娘で、ダラサ=ネヴァンリンナと申します。年齢こそニョキシー様より8つ上ですが、どうぞ気安く、リンナとお呼びくださいませ」

 15歳のリンナは仰々しい挨拶をしながら小さく舌を出してウィンクしてみせ、いたずらっぽい笑みにアニキが赤面した。角が少し生えてる。

 ——読めたぞ。あいつこの子に惚れたな。

 しかし義妹のわたしにしても、この可愛らしい生き物をどう扱って良いかわからなかった。


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