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第三章 月の眷属
マキリンと子アリ
しおりを挟むウユギワ迷宮の第18層で、酒場のマキリンは命の危機に瀕していた。
深い紺色の髪と黒い瞳。ギルドの酒場で支給されるメイド服は脱いで、黒革の鎧とマントを装備している。同僚のシュコニは防御偏重で鎧の上にあの服を着るが、マキリンは動きやすさを重視していた。
底の見えない深い落とし穴の途中で、彼女は黒豚の革を使った丈夫な鞭を握っていた。鞭の先は落とし穴の壁面に突き出た岩に絡まっている。
(くそっ……あのオッサン、裏切りやがった!)
心の中で毒を吐き、マキリンは少しずつ落とし穴を登った。16歳からギルドの酒屋でバイトし、昨日の朝の鍛錬でレベルも19になった彼女の腕力は確かだった。
同じ冒険者ギルドの職員にして黒髪・短髪のゴリは、5年前まではDランク冒険者のラヴァナと双璧をなす大剣使いとして知られていた。しかし息子を迷宮で亡くすと自身の冒険に関心を失い、むしろ新米冒険者のサポートがしたいと言ってギルドの職員に転職した。お節介なほど情に厚く、本名はゴドリーだったが、冒険者らは略してゴリと呼び親しんでいた。
そのゴリが、この落とし穴にマキリンをハメたのがつい5分前のことだ。
怪盗ナサティヤの急な求めでダンジョンに入ったマキリンたちは、第12層で地面の揺れに襲われ、崩落のせいで帰り道を塞がれた。ゴリは「村に帰ろう」と言い、ギルドマスターのフェネ村長に別の帰り道を探そうと提案したが、ナサティヤとマキリンは反対した。ナサティヤは、むしろすぐに旦那のパーティと合流すべきだと提案し、マキリンもそれに同調した。
剣閃の風はウユギワ村で最強パーティだ。そこには剣も魔法も使えるナンダカがいるし、村一番の盾使いで知られるムサもいる。下手に引き返すより合流したほうが安全だ。
(ゴリのやつ、それが不満で突き飛ばした? ……まさか)
一行はダンジョンを進み、深層を目指すことにした。剣閃の風を発見できないまま階段を降り続けたマキリンたちは、第18層で2体の白オークに出くわした。
全員が熟練の冒険者だ。見た瞬間に「勝てない」と確信した彼女たちは逃げ出した。
相手が1体なら勝てる。全員でゴリをサポートし、ゴリが大剣を振れば殺せただろう。もしくは星辰祭のように、数十人がかりで拘束し、絶食させ、弱らせたオークが2体なら勝てた。
マキリンたちは元気いっぱいのオーク2体に追いかけられ、第18層を駆け回り、斥候職のナサティヤが「前方に罠! ——落とし穴!」と叫んだ直後だった。
「死ね」
巨漢のゴリに背中を押されたマキリンは抵抗もできず落とし穴を踏み抜き、床が崩れて落下した。
急な裏切りの理由はわからない。ナサティヤと村長はあの後どうなったのだろう? それもわからなかった。
みんなオークに追われていたし、そのまま逃げたのだとは思うが……。
(——さすがにもう、助けに来てはくれないわよね)
フェネ村長もナサティヤも、熟練の冒険者だ。即座に助けられるならともかく、無理な救助でパーティ全体を危険に晒すような行動は取らない。
壁に突き出た岩の上に登ったマキリンは、さらに頭上を見上げ、鞭を引っ掛けられる場所を探した。わずかに突き出た岩を見つけて鞭を絡ませてみるが、少し体重をかけると崩れてしまう。
(ダメか……それにこの穴を抜け出したとして、その後は……? 18層にひとりきり……)
マキリンはさすがに怯えてきた。深い紺色の髪が汗をかいた頬に張り付く。彼女は左手の薬指につけた結婚指輪を見つめ、ずっと自分に言い寄っているムサが助けに来ないかなと無意味な願い事をした。
「——おいバウ、人がいる! いや、あの子じゃねえしマガウルのクソジジイでもない……」
急に男の声がした。驚いて見上げると、浅黒い肌をした狼の男二人がこちらを覗き込んでいる。どちらも酒場で何度も酒を運んだ顔だ。ルガウとかいう腹違いの弟がいて、年の離れたその子を可愛がっていて……。
「ウゴールと、バウ……? ——お願い、助けて!」
マキリンは叫んだ。道具屋の父と違って冒険者の道を選んだ二人は、すぐにロープを下ろしてくれた。
◇
「カッシェ。ごはん。早く。噛まれたい?」
最後に脅迫までされつつ、揺すられて目を覚ました。時計が無いので時間はわからない。
〈常世の倉庫の壁です——迷宮だし倉庫の中だからわからんだろうが、地上は朝9時だ〉
無詠唱で適当に鑑定するとアクシノが時間を教えてくれた。この女神サマは空気を読めるので、時間をと念じて既知のモノを鑑定すると伝えてくれる。
9時か——ずいぶん寝てしまったが、迷宮には朝も夜も無い。こうして寝過ごす冒険者は多いと父さんが言っていたっけ。
「……ミケ、HPはどう?」
「子猫は朝餉を作れとゆった」
起き上がると三毛猫は既にスカートとマントを装備していた。シュコニも——くそ——既にメイド服を着てしまっている。
メイドさんは俺が昨晩用意した黒いマントを翻していて、
「ねえカッシェ! このマントお姉さんに!?」
「それより三毛猫はメシを所望しているッ!」
俺はニャーニャーうるせえ小娘の口にできたてのベーグルカツサンドを突っ込み、朝食を済ませた。朝食中、シュコニはマントに大喜びで、俺を子供扱いして頭を撫でたりなんだり、ずっと面倒だった。照れくさいからやめてくれ。見た目は子供でも中身はカオスなんだ。
朝食の後も俺たちはまだ倉庫を出なかった。せっかくなので昼食の準備をしようと提案するとミケは大人しく従い、お昼のためにうどんの生地を練ってくれた。俺は前世で食ってウマかった卵料理の漬けダレを仕込み、村で買い込んだ野菜などを切り……料理が苦手なお姉さんは倉庫の外を偵察すると言って倉庫を出て、しばらくして戻ってきた。
「ツイてるよ子供たちっ、外に敵は居ない☆ それに警報として設置した罠も全部解除したが——お昼の準備はどうだい? それに、みんなトイレは済んだかっ!?」
「にゃ」
ミケが首から上以外の全身を隠していた桜色のマントを払った。壺にスライムを入れただけの簡易トイレは快適とは言いがたかったが、魔物の跋扈する外でするよりマシだ。
下水処理用のスライムが蠢く壺に蓋をして、子猫がシルフの短刀を構える。俺も自分の倉庫から〈ひのきのぼう〉を出した。
庫内には昨日手に入れた〈常世の切符〉も入っているが、切符のことは誰にも話していない。ミケには教えても良いだろうが、シュコニには知らせたくなかった。
靴を履き、倉庫を出ると外は昨日より明るかった。
光るコケのせいだ。床に飛び散ったオークの血や回収しなかった肉片はコケで真っ白になっていて、父さんたちに聞いた話では、このコケを放っておくと毒キノコの魔物が生まれてくる。
背中に日本刀をパイスラッシュした黒メイドが明るく笑った。
「お、死骸のコケが気になるかい? ならお姉さんに任せたまえっ☆ この白いコケどもは——トーツポテンは死肉を腐敗させるから、回復スキルの〈防腐〉が抜群に効くんだ。回復スキルは〈肉〉を癒やすからね」
シュコニは「愉快の神よ……」と早口に唱え、黄色みを帯びた淡い光が洞窟の床に降り注いだ。光が消えると腐敗して溶けた豚肉の表面が赤々とむき出しになったが、表面のコケが消えている。多少の経験値を得たようで、シュコニは耳に両手を当てて叡智からのアナウンスを聞いた。
現在俺たちがいるのはウユギワ迷宮第17層で、野球場程度の広い空間には、俺たちが3層から落ちてきた横穴に加え、4本の通路があった。
「——カッシェ、今朝キミが起きる前にミケには伝えておいたけど、ここから下層を目指すなら最短ルートは一番右の道だ。少なくとも私がギルドから買った情報ではそのはずだ」
シュコニが俺に小声で告げた。
「素直に教えるなんて意外かい? なにせ17層だからね……もう遠回りは無し。知ってる情報は教えることにしたんだ。ほんとは今すぐ帰りたいけど、私ひとりじゃとても帰れないし」
「にゃ♪ お乳はとても聞き分けが良くなりました☆」
「お乳って……ただしミケ、それでも最低限の地図は作りながら歩くぞ? 地図の情報を売りたいとかじゃなくって、崩落でルートが変わっていたら、我々がここから帰る時に迷う! で、そーなったらザコの私が超困るからだっ! カッシェもそれで良いよね?」
「ええと……」
俺は口を挟もうとしてやめた。
ここはウユギワ迷宮の17層で、村のギルドが捜索したのは10層までだ。父さんたちのパーティやそれを探しに行った母さんたちは、もしかしたらここより浅い階にいるかもしれない。
ただ、引き返そうとすればシュコニはそのままダンジョンを出たがるだろうし、〈剣閃の風〉は村で一番のパーティだ。17層の黒オークは俺とミケだけで余裕だったわけで、17層より敵が弱い上層の探索は後回しにしても良いだろう。
「にゃ。なら斥候は三毛猫に任せろ」
俺が同意するとミケが無い胸を張った。
「なにおう? お姉さんもある程度なら斥候を……」
「子猫の強さは昨日証明した。まずはこの階を調べる」
眠たい目をしたミケはそのまま詠唱に入り——呪文の内容から物音や気配を殺す斥候スキルだとわかった俺は、早口で子猫に告げた。
「ミケ、それなら〈教師〉経由で〈鑑定〉を渡しておく。やばかったら連打して!」
子猫は頷きながら「シーにゃ……☆」で詠唱を完了し、俺は黙って子猫のしっぽを追った。ミケが詠唱を始めた瞬間、シュコニも「この子、斥候スキルを……?」とだけつぶやいて沈黙する。それ以上喋ると三毛猫の〈秘匿〉スキルが無駄になるからだ。
「にゃ。きさまらは、黙っておれについてこいー☆」
桜色のマントを翻し、ミケはまず、4つある通路の一番左に入っていった。俺たちが続こうとするとすぐに引き返して来て、「行き止まり」を表すハンドサインを出す。これはウユギワ村の冒険者全員が使うサインなので、シュコニは黙って頷き、地図に書き入れた。
左から二番目に入るが、ここも崩落ですぐ行き止まりだった。しかし3つ目の先は細長い通路が続いている。
ミケは「先に行く」とつぶやいて俺たちの何倍もの速さで通路を突っ走り、
〈——蟻体術:ギ酸——〉
〈——豚氏太極剣:虎抱頭——〉
〈——豚氏八極拳:馬式衝捶——〉
スキル表示を見て驚いた俺たちが追いつく頃には知らない魔物の群れを死骸に変えていた。
「にゃ……固くて面倒だった。カッシェ、ナイフを修理して」
子猫に貸していたナイフはボロボロで、窯で炙って〈補修〉しながら魔物を鑑定すると、イビルアントという名前だった。胴体だけで全長2メートルを超す巨大な黒アリで、3匹の死骸はいずれも硬い殻に切り傷や刺し傷を負っている。
「イビルアントか……父さんが大昔、ラヴァナさんと倒した化物じゃねえか」
「にゃ! パパはナンダカおじさんと二人がかりで1匹と聞いてる」
「これで七年前のラヴァナさんには勝ったな?」
「にゃ☆ アクシノ様が〈切るな〉と教えてくれた。殴ったら弱かった」
ナイフの補修とミケが使った〈鑑定連打〉でMPが千近く消費されていたが、コストに見合う成果だっただろう。
アリの死骸が転がる場所の先は例によって崩落していたが、ミケが体術で蹴飛ばすと岩の合間に僅かな隙間ができた。覗いてみると階段が見える。
「上への階段だな。時間もないし、残った岩は後回しにしようぜ」
「にゃ……! 帰る時は、ここをパパに壊してもらう」
「だな。壁に〈ミケは下に行く〉とでも刻んでおこう。仮に父さんたちが通りがかったら俺たちがいるって伝わるはずだ」
「にゃ! それは良い考え」
ホーム画面を開き、〈作文アプリ〉で書いたメモを〈印刷アプリ〉でサクッと岩に刻み込むと、まだ読み書きに慣れない子猫はその文字をゆっくり読んで微笑んだ。
「嘘でしょ、イビルアント……? 出るのは20層からのはずだし、Dランクでも命がけの……!?」
そんな俺たちの背後ではシュコニがビビリ倒しながら〈防腐〉しようとしていて、俺は慌てて止めた。俺はもちろんミケには鑑定を貸出中だが、シュコニには無い。アリの肉は物好き以外には売れないと伝え、俺たちは魔石だけを回収して通路を引き返した。
「にゃ。最後の道……第18層に続く道」
「通路全部の探索に45分で、消費MPは千程度か……父さんの予想じゃこのダンジョンは25層から30層だから、この調子で16時間くらい探索できれば最下層まで行けるだろう。今日中か……悪くても明日までにはみんなと会えるはずだ」
予想を伝えると子猫は大興奮して再び斥候スキルを詠唱し、
「この子供たち、ワケわかんない……」
などと意味不明の供述をしていたお姉さんが黙る。
道中、再びアリに出くわしたがミケが文字通りワンパンし、俺たちは第18層に続く下り階段にたどり着いた。罠を確認したミケとシュコニがそれぞれ「なし」のハンドサインを出し、階段を下る。
しばらく歩いた俺たちは深い落とし穴を発見し——その傍らには、ひとりの男の亡骸があった。
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