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第四章
屋島
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1
「鎌倉で恩賞が沙汰された。十郎兄の言う通りだ。義経様の名はなかった」
与一の報告に十郎は「やはりか」と天を仰いだ。あれほどの戦功をあげながら恩賞がないーーこれに義経は狼狽し、人目も憚らず罵り喚き散らしたという。
「これが義経様の義経様たる所以だ。軍才のみで世間を知らない」
十郎は、与一に一つ一つ分析してみせた。
「まず、戦功を確実な評価に結びつける政治工作を全くしていないだろう。まぁ賄賂であったり、付け届けであったりするのだが、その手の感覚が欠落している。さらに今回の戦功がどれほど頼朝を恐れさせたのかについて、ほとんど自覚がない」
「え、どういうことだよ?」
首を傾げる与一に十郎が説く。
「よいか与一、この勝利はな。あくまで鎌倉殿の覇と威でもたらされたものであり、義経の軍才にあらず……とせねば鎌倉殿の立つ瀬がない。統率を維持できない。ゆえに戦功を認めることができないのだ」
「いや、しかし十郎兄。それって、あんまりじゃないか」
感情論をぶつけるものの、十郎は「それが現実だ」と割り切っている。その上で与一に命じた。
「与一、今一つ働けるか?」
「もちろんっ!」
うなずく与一に、十郎は言った。
「至急、法皇様の動きを探ってくれ。おそらく焦っておられるはずだ。このままでは、鎌倉殿に京を奪られかねぬからな」
「分かった。任せてくれ」
与一はすぐさま席を立ち御所へと向かった。果たしてその様相は十郎の読み通りであった。これまで官位を巧みに匂わせ、平家を上手く抱き込んできた後白河法皇だが、頼朝はこれに見向きすらしていないという。やはり、狙いは京とは異なる武家による新政権樹立にあるようだ。
さらに与一は収集した情報を十郎に晒した。何と法皇様が鎌倉殿とは別に義経様に官位を与えられるという。
「十郎兄、これはどういう事だ?」
「決まっておろう。源氏を頼朝と義経に二分させようしておられるのだ。いわゆる〈分割して統治せよ〉さ。それで義経様は、どうだ?」
「固辞されている。鎌倉殿に何度もお伺いを立てられているらしいが、その全てが無視されているようだ」
十郎は、うなずきつつも断言した。
「与一、義経様は間違いなく折れる。大天狗殿の手に落ちるのは、時間の問題だ」
「なんで分かるんだよ?」
「義経様が、権力が持つ危うさを知らないからだ」
十郎は与一に向き直るや、その根拠を説いた。
「いいか? 法皇様は今、義経様から精神的な均衡を奪わんとしている。その心を絡めとるべく人格を翻弄し、自滅させんと図っておられるんだ。まぁ見てろ。言うとおりになるから」
果たして数日後、事は十郎の読み通りに動く。頼朝の冷たさに心が折れた義経は後白河法皇による官位を受け、さらには平家追討の院宣まで授かった。
これに激怒したのが、頼朝である。すぐさま義経から平家追討使を解任し、腹いせとばかりに鎌倉軍から追放した。ここに義経はその立場を失い、ただの一個人に成り果てることとなった。
「十郎兄、これからどうする?」
宿屋で朝飯をともにしながら与一が問う。今後の自分達の身の振り方である。
「鎌倉殿はご立腹だ。これ以上、義経様の元にいても軍功の機会すら与えられねぇぜ」
懸念を述べる与一に十郎は、考えている。確かに与一が言うことは正しい。今や誉れある華々しい平家追討軍の軸を凡将の範頼が担い、義経は蚊帳の外だ。
そのあまりの仕打ちに京では、同情論だけでなく義経に将来なしと見切りをつけている者すらいる有様だ。
だが、妙なことに肝心の義経に焦りは見られないという。その心の底を読んだ十郎が断言した。
「与一、このままだ。義経様の元からは離れない」
「だが、義経様の武運はもう……」
悲観する与一に十郎は、漬物を齧りながら言った。
「与一、お前も一ノ谷で平家の水軍を見たであろう。あの兵威は一朝一夕で出来たものではない。源氏はこれに対抗する水軍を持っていない」
聞き役に徹する与一に、十郎は続けた。
「いずれ源氏も水軍を得る必要はあろうが、当面は騎兵で凌ぐしかないのだ。困ったことにこの現実をあれほど政略に長けた鎌倉殿が、分かっておられぬ。いや、分かっているのだろうが、理解に実感が追いついていない」
「そうなのか?」
「そうさ。義経様の軍才は、俺達みたいに実際に間近でその戦いを共にしたものにしか分からない。結局、戦は勝ってなんぼだ。いかに鎌倉殿が武家政権という革命を目論もうとも、負けてしまえば絵に描いた餅に終わるのさ」
十郎の分析に与一が唸る。
「つまり、平家を倒せるのは、義経様しかいないってことか」
「そういうことだ。範頼様や鎌倉殿では無理だ。これは義経様にしか成し得ない事業なのだ。それが分かっておられるからこそ、義経様は落ち着いておられる。遠からず鎌倉殿は折れる。義経様を頼るべく平家追討を命じられるだろう。それまで待とう」
そう言い終えるや、十郎は箸を置き席を立った。
「ちょっと出かける」
そんな十郎に与一が呆れ気味に言った。
「響のところか? 十郎兄、ほどほどにしておけよ」
十郎を見送った与一は、床に転がるや天井を眺めながら考えた。
ーーそれにしても十郎兄の分析力には、叶わぬ……。
まるで日の本を盤上に遊戯でも行うが如く、情勢が見えているのだ。ただ一抹の不安を覚えるのは、十郎が足繁く通う響である。あくまで勘に過ぎないのだが、なぜか与一は違和感を覚えるのだ。
ーーあの人間観察に長けた十郎兄が、肝心の己のことには甘い。
一応、与一なりに響について調べてはみた。特段怪しい点はなかったものの、与一はどこか胸騒ぎを覚えている。
「気が進まねぇが、十郎兄のあとをつけてみるか」
与一は徐ろに起き上がると、宿屋を出た。馬を走らせれること約半刻、例の古寺が現れた。だが、なぜか響も十郎もいない。
「十郎兄、どこ行ったんだ?!」
与一は馬を降り、あたりを伺うもののその姿はどこにもなかった。そんな中、ふと背後に迫る気配を感じ振り返った与一は、息を飲んだ。大柄の僧兵の群れが四、五人ばかり薙刀を手に襲い掛かろうとしているのだ。
間一髪で兇刃を逃れた与一は、刀を引き抜き吠えた。
「何者だ!? なぜ我を襲う」
「ふん、知れたこと。己の胸に問うてみることだな」
小頭と思しき男が十郎に言い返す。だが、与一には心当たりがない。やむなく力任せに応戦するものの、あまりに多勢に無勢である。与一は必死に刃を交えつつ、同時に頭も働かせている。
ーーコイツら、おそらく平家傘下の水軍だな。
なりといい話し言葉といい、西国の海賊に通ずるものを感じるのだ。
「何が目的だ」
声を上げる与一に僧兵は、返答した。
「決まっておろう。あの琵琶の娘だ。何を聞いたか吐いてもらう。ついでにその方の命も頂こうか」
「させるかっ! 返り討ちにしてくれる」
与一は、巧みな体捌きで僧兵どもの刃をいなしつつ一人、また一人と討ち取っていく。
「ほぉ、流石は坂東武士。やるな」
僧兵の小頭は、ニヤリとほくそ笑む。何とか最後の一騎打ちまで持ち込んだ与一だが、力尽き不覚にも足払いを受けた。
ーーしまったっ……。
地面に叩きつけられた十郎は、喉元に突きつけられた刃に舌打ちする。
「さぁ、洗いざらい吐いてもらおうか。あの琵琶の娘から何を聞いた?」
「何も聞いてなどいねぇよ」
「ふんっ、小賢しい嘘を。ならばその命、頂こう!」
薙刀を振るう僧兵の小頭に与一が「もはや、ここまで」と覚悟を決めた矢先、どこからともなく矢が飛来し僧兵を射抜いた。
たちまち呻き声と共に崩れ落ちる僧兵の小頭だが、与一が振り返ると弓を手にした十郎が息を切らせた駆けつけてきた。
「与一、大丈夫か!」
「あぁ十郎兄、助かった」
礼を述べる与一を引き起こした十郎は、僧兵に問うた。
「お前、平家の手の者か。なぜ与一を狙った。響はどこにいる」
「ふんっ、あの源氏の御曹司……義経に言っておくんだな。地獄で待っている、と……」
そこで絞り出したような呻き声と共に、その僧兵は息絶えた。見ると陰腹を切っている。
「死人に口無し、か……」
十郎は刀を鞘に納めると与一とともに僧兵の身なりを確かめ、そこで奇妙な紋様を見つけた。
「十郎兄、この紋様!」
「あぁ、熊野水軍のものだ」
二人は不穏な気配に舌打ちしている。この熊野水軍とは、紀伊半島南東部、熊野灘、枯木灘に面した地域を拠点とした水軍である。豊富な船材と良港に恵まれながらも、耕作地に乏しい熊野には海を舞台に跋扈する水軍が発達した。
その熊野水軍がなぜか京にいるのだ。
「十郎兄、どういうことだろう」
首を傾げる与一に十郎は、思い当たる節を述べた。
「どうやらこの一件、弁慶殿の絡みの様だな。俺達の預かり知らぬ何かが進行しているとみた。与一、行くぞ」
十郎は与一と共に義経らが控える陣内へと引き返した。丁度、弁慶は一人で作業にかかっている。
「おぉ、与一に十郎ではないか。どうしたのだ?」
声をかける弁慶に二人は、事の真相を投げかけた。するとこの大男の顔色がみるみるうちに変わった。どうやら十郎の図星の様だ。
「あの、弁慶殿は一体、熊野水軍とどのような関わりを?」
与一の素朴な疑問に弁慶は、苦々しく表情をしかめながら、思わぬ事実を打ち明けた。
「父なのだ」
「え、熊野水軍を率いる湛増が……でございますか?」
「あぁ、庶子だがな」
弁慶は与一にうなずき、説明をした。
「実は今、親父を源氏側に引き込むべく交渉をしておってな。何とか鞍替えを決めさせたものの、皆を納得させるまでには至らず、やむを得ず鶏を闘わせて神意を占う鶏合神事に委ねさせた」
「それで結果は?」
与一の問いに弁慶が笑う。
「そんなもの八百長に決まっておろう。ともかくこれを持ってして源氏へと寝返らせたのだが、快く思わない者達もいたらしい。その反乱分子が京に潜む平家の間諜と通じていたのだが、そこを運悪く琵琶の娘に見られてな。やむを得ず拉致に至ったらしい」
「つまり、響は平家方に連れ去られた、と?」
食いつく十郎に弁慶は苦々しくうなずく。これには二人とも返す言葉がない。特に十郎の落ち込みは激しかった。狼狽のあまり顔色を失い、その場にヘナヘナと尻餅をついたほどだ。
ーーあの冷静な十郎兄が我を失っている。
与一は驚きを隠せない。叱咤するものの、まさに心ここに在らずだ。これを機に十郎は少しずつ精彩を失い、その方向性を狂わせることとなる。
さて、京で与一らが一悶着起こしていた頃、頼朝より直々に平家追討軍の総大将を任された範頼は大変なことになっていた。意気揚々と京を出たものの、遠征軍ゆえの補給不足に陥り食糧難に晒されたのだ。
ーーやはり、西国は平家が有利か……。
与一は改めて実感した。何と言っても平家は瀬戸内海の制海権を持っているのだ。
仕方なく範頼は水路を諦め陸路から平家撲滅を試みるべく中国、さらには九州への上陸を目論んだが、その戦略が頓挫したことになる。
水上から沿岸の補給路を脅かされ、全軍の兵站は干上がり、もはや崩壊の危機にあるーー急使を送った範頼からの報告に激しく狼狽えたのが、鎌倉の頼朝である。
「至急、物資を送る」
と慌てて軍船をかき集め前線への物資を送ってはみたものの、あまりに稚拙でかぼそい効果しか得られなかった様である。
この補給戦の分断を狙う平家軍に対し、範頼は藤戸で応戦し、何とか補給線の崩壊を防いだものの、制海権を持たないだけにトドメが刺せない。
今や鎌倉遠征軍は、平家を前にただの物乞い集団と成り果てている。この危機を脱する方法は、一つしかない。
「義経を使わせれば……」
だが、頼朝はこれをためらっている。側近も同様に、反対だ。もしここで義経が一ノ谷に次ぐ戦果を上げれば、頼朝が大天狗と罵る後白河法皇がこれを利用し、源氏を二分することは目に見えている。それは源氏にとっても頼朝にとっても、また義経本人にとっても不幸な結果しか生まない。
だが、頼朝にはそれを懸念する時間すらも残されていなかった。ついに決断を下す。
「義経を起用せよ!」
そう高らかに宣言するや、京に飛脚を走らせた。
2
晴れて頼朝より平家追討の命令を受けた義経は、皆に一ノ谷につぐ作戦を語った。その攻撃先に与一らは目を剥いている。
「屋島をやるのか……」
平家が軍事拠点を置くこの屋島は、大坂湾を威圧すべく設けられたこの海上要塞だ。地形的に海域が狭まるこの屋島を押さえれば、海域の封鎖が可能になるだけでなく、瀬戸内海の制海権を手中におさめ、中国・四国・九州の連携を保つことができる。
さらにいえば、その延長線上に京奪還を目論む平家の野心がありありとうかがえた。これを義経は挫こうというのである。
「それはあまりに危険です」
軍議では皆が反対している。特に梶原景時とは逆櫓を設けるか否かで大いに揉めたのだが、義経はこれを一蹴した。
皆が不可能と称したこの作戦だが、与一は「これしかない」と感じている。その脳裏には一ノ谷で見た平家水軍の威容がある。
ーーあの強大な水軍に対し、正面からぶつかるのはあまりに危険だ。やるとすれば屋島を背後から脅かすしかない。
もっとも与一は、僅かではあるが成功の可能性ありと見ていた。響が拉致された一件で義経が弁慶に熊野水軍を引き入れる工作を施していることを知っている。
ーーこの熊野水軍がくれば、確かに勝算は見込めよう。
だが、この期待は裏切られることとなる。待てど暮らせど熊野水軍が来ないのだ。この誤算に対し、皆は待った。弁慶も、そして与一や十郎すらも同様である。だが、義経は違った。確かに熊野水軍も待ったが、その他の援軍も待っていたのである。
「時は来たり!」
義経は声を上げた。この援軍とは嵐である。これまで逆風であったが、突如、順風に転じ、雨足が激しく打ち付け始めたのだ。これを好機と義経は、自身の百騎程度の郎党を集め四国への渡海を宣言した。
ーー正気の沙汰ではない。
それが与一の本音だ。十郎も同様の面持ちである。さらに言えばこの作戦には、政治的な問題を抱えている。平家が有する三種の神器と安徳天皇を逃す可能性があるのだ。
国家の守護者たる立場を目論む頼朝としては、これを看過できない。だが、義経は戦機を優先した。
かくして、軍兵を積んだ五隻の船が出航した。強烈な突風を受け船は凄まじい速度で波の上を滑っていく。
「十郎兄、俺は生きた心地がまるでしねぇよ」
「奇遇だな与一。俺もだよ」
二人は敢えて笑って見せたものの、顔色は完全に失っている。高波に揺さぶられ、激しく壁に叩きつけられながらも必死に耐え忍んだ。
ある者は神に救いを求め、ある者は絶望と戦い、皆が皆、それぞれの手段でこの渡海を祈った。
さて、この強硬策だが、見事に吉と出た。三日かかるところをわずか四、五時間で渡り切ってしまったのである。
ーー奇跡だ。
フラフラで全身がままならないものの、軍馬とともに浜辺へとなだれでた与一らは、その無事を一応に実感している。
だが、そこは働き者の義経である。すぐさま皆を叱咤し、情報収集と現地勢力からの協力を求め、与一らを送り出した。
「全く人使いの荒い大将だぜ」
嘆く与一を十郎は、笑う。もっともかなり無理を強いた義経だが、その見返りはあった。どうやら屋島の平家軍は、長い海岸線の守備と伊予の敵対勢力鎮圧で、戦力を大きく分散しているようなのだ。
さらに与一らは、現地で屋島への案内人の協力を得ることに成功した。
「でかしたぞ、与一」
満足した義経は、渡海したばかりの全軍に再び強硬軍を命じた。その凄まじい任務に誰もが閉口している。
ーー休息なしかよっ!
思わず心の底で罵る与一だが、異議を唱える元気すら残っていない。まさに血を吐くような強行軍を繰り返してきた義経軍だが、それに見合った成果は現れつつある。
海に向かって構えを敷く平家軍から、見事に無防備な裏を取ったのだ。この動きをある程度想定していた平家軍だったが、まさかこの悪環境の中をこんなに早く来るとは、思っていなかったようである。
「皆の者、かかれっ!」
義経を筆頭に与一らは、一気に強襲に出た。次々に火を放ち周囲を焼き払って炎の勢いを見せつけ、あたかも大軍の来襲であるかを装ったのだ。
これに度肝を抜かれたのが平家である。もっとも一度、冷静になるべきであったのだろうが、一度恐怖の火がついた集団心理というのは簡単にはおさまらない。
次々に持ち場を離れ、慌てて屋島の本営を捨て海へと逃れていく。やがて、これに幼帝や婦人が続いた。
その様子を見た義経が吠えた。
「今だ。本陣を焼き払え!」
号令一下、与一らはもぬけの殻となった屋島本営に火を放っていく。この時点で平家はまだ奇襲の兵がどのくらいの規模なのか把握が出来ていない。目の前で燃え盛る炎に踊らされ、数万の源氏が襲撃したかのイメージを頭の中に描き錯覚してしまっている。
だが、義経の奇襲が完成を見たところでようやく、目の前の源氏が百騎足らずであることを悟り大いに悔やんだ。だが、時すでに遅し、本営は火に包まれほとんど抵抗しないまま陥落してしまった。その腹立たしさたるや言葉に尽くせぬほどである。
「浜辺の源氏を追い払え!」
平家の総大将である宗盛は反撃へと命じたものの、勝敗はいずれともつかず、やがて陽が西へと傾き始めた。ここで戦場に小休止が訪れる。海と陸、ぞれぞれへと戻った両軍が休息に入る中、与一は十郎の手当てに追われていた。
「すまんな与一、これしきのかすり傷……」
「何言ってんだよ十郎兄」
与一は悔やむ十郎に笑ってみせるや、海へと逃れた平家の船に目を転じた。
ーーおそらく今日の戦闘はここまでの様だな。
そう見当をつけた与一だが、ここで奇妙な光景に遭遇する。なんと沖の船団の中から、戦さの場に似つかわさぬ豪華に飾られた一艘の小舟が現れたのだ。
「何だあれは」
与一は思わず声を上げた。源平双方の軍が海と陸を挟んで対峙する中、その小舟に乗る二十歳前と思しき女官が扇を開いて立てかけ、手招きしている。
「どうやらこの扇を射ってみよ、という挑発らしいな」
その意を読んで見せる十郎に与一は眉を顰めた。
ーーあの距離を、しかもこの潮風と波に揺れ動く的を射よというのか。やる奴は大変だな……。
どうなるのか成り行きを見守る与一だが、はたと義経を見るとこちらを見て盛んに手招きしている。その意を察しかねる与一に十郎が言った。
「与一……そなたが指名されておる様だぞ」
「え、俺!?」
慌てて人差し指を己に向け確認を取る与一に、義経は「早く致せ」とばかりに扇の的を盛んに指差している。ここで初めて己の状況を察した与一は、クラクラする思いで頭を抱えた。
「……十郎兄、行ってくる」
「あぁ、健闘を祈る」
十郎に送り出された与一は、やむを得ず弓を手に馬へとまたがるや、浅瀬へと乗り入れた。季節は早春とはいえ、まだ風は冷たく波も荒い。沖には平家の船が、浜辺には源氏が馬の轡を並べ、その固唾を飲んで見守っている。双方の視線を一身に浴びながら、与一は徐ろに弓を構え鏑矢をつがえた。
ちなみに与一は、これがどのくらい戦さに影響を及ぼすかを知っている。何と言っても男達が己の肉体を武器にぶつかり合う時代である。ちょっとした些細なことが士気を大いに高め、逆に落とすことがありうるのだ。
さらに言えば、これは源平合戦の行き先を占う意味もこもっている。
ーー何としても決めねばな。とはいえ酷な話だぜ。
与一は、ふんっと鼻を鳴らすや強弓を思い切り引き絞った。必死に狙いを定めようと試みる与一だが、いかんせん狙いの的は波に揺れ動く小舟に掲げられている。さらに潮風がこれに加わり、与一の狙いを阻んだ。
基本的に神を信じない与一だが、流石にこの時ばかりは大いにすがった。
「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神……」
まずは知ってるあらん限りの神々を並べた。その上でこう続けた。
「お願いだ。あの扇の真ん中を射させてくれ。これを射損じたら弓を折るしかねぇ」
そんな与一の意を汲んだのかはともかく、これまで吹き付けていた潮風が若干弱まった。ここで「今だ」とばかりに与一は鏑矢を放った。やや頭上に狙いを定めた鏑矢は、空を切り裂き鋭い音を放ちながら、緩やかな放物線を描いて落下していく。その行先には鮮やかに彩られた扇があった。
たちまち鏑矢は海へ落ち、射抜かれた扇は空へと弾かれしばらく虚空をひらひらと舞ったのち、春風に揉まれながら海へと散った。これには源平双方の兵がどっと沸き上がった。何よりこの奇跡の射抜きを見せた与一自身が信じられない思いでいる。
ーー本当に俺はやったのか? 夢ではないのか?
頬をつねりたくなる気分である。やがて、浜辺に振り返った与一は、十郎に拳を突き上げて見せた。もはや屋島は源平問わず、お祭り騒ぎである。敵である平家に至っては、伊賀十郎兵衛家員と名乗る五十歳ほどと思しき男が扇の立てていた場所で舞を踊り始めた。
まさに人生の一大仕事を成し遂げ感無量の与一だが、事はこれで終わらない。義経からことづかった伊勢三郎義盛と名乗る武者が与一の後ろに馬を歩ませ、おどけて舞を続ける平家の男を指差し言った。
「ご命令であるぞ、射よ」
「え……あの人を、ですか!?」
これには与一も言葉を失った。念を押すべく、義経を見ると大いにうなずいている。やむなく与一は二本目の矢をつがえるやこれを射た。果たして舞にくれる平家の男は、与一によって見事に射抜かれ船底へと真っ逆様に転げ落ちていく。盛り上がっていた平家方はしんと静まり返ってしまった。
これがお前達を待っている将来だーーそう言いたげな義経を前に平家の兵はただ、黙り込むしかなかった。
日没後、源平双方は休息に入るべく沖と浜辺から引き上げ宿営した。刃を交えた争いが中断したとはいえ、すべての戦いがやんだ訳ではない。ここからは調略戦である。
「与一が起こした奇跡の効果が醒めぬうちに平家を骨抜きにしてしまえ」
義経の命令により放たれた者どもは、次々と平家諸子を源氏に寝返らせるべく勧誘へと赴いた。冷静に考えればこの屋島での兵力差は歴然としており、本来ならば平家が寝返る道理はない。
だが、夕暮れ時に起きたあのあまりにも鮮やか過ぎる与一の一矢が、平家の兵の脳裏から離れず冷静さを奪っている。
いずれ平家は滅びるーーそれを肌で感じているがゆえに、兵理を説かず心理に訴えた。
「与一を見たであろう。あの扇がそなたら平家の行く末だ。今ならまだ間に合う。源氏へと寝返るのだ」
盛んに沈む船からの脱出を促したのだが、これが思いのほか決まった。離脱者や内応者がどんどんと現れたのだ。
「源氏にお味方致す」
次々に軍門に下る平家だが、どの兵も大なり小なり、源氏へと傾く止めようのない時勢を感じている様である。
そんな中、義経は思わぬ情報を入手する。
「内通者だと?!」
思わず声を上げる義経に、弁慶が源氏に転じた投降兵からの情報を伝えた。どうやらその内通者が範頼を中心とした討伐軍を苦しめているらしい、との事である。
はじめ義経はこれを信じなかった。だが、弁慶に諭され、やむなく内密に調査を命じている。
なお、翌朝に再開した屋島の戦いであるが、ここで平家軍は意外な動きを見せる。海を迂回し志度へと上陸し、義経軍の側背を突こうとしたのだ。
ーーまずいっ……。
この動きをいち早く知った与一は、すぐさま義経にその事実を伝えた。これに対する義経の対応は、早かった。自ら軍勢を率いて志度へ迎撃に向かったのだ。
ーーこの辺が、義経様の義経様たる所以だな。
与一は改めて義経を評した。全ての状況判断が実に早いのだ。まさに兵は拙速を尊ぶである。
その後も獅子奮迅の戦いを続ける義経軍に対し、平家軍は明らかに覇気を失っていく。やがて、この戦いの勝敗を決定づける事態が起こった。
「援軍だ!」
物見に向かった与一は、思わず声を上げる。遅れて馳せ参じた源氏の水軍がようやく訪れたのだ。
無論、その背後には熊野水軍が続いている。これを知った平家は、ついにこの地を諦めた。
与一らが鬨の声を上げる中、平家の船団は四国を離れ九州へと落ち延びていく。そこにかつての威容は、見る影もない。
一方、軍事的に勝利した義経軍だが、政治的な戦果は逃した。三種の神器と安徳天皇を押さえることが出来なかったのだ。
「やはり平家のトドメをさすには、水軍がいるな」
与一は改めてその事実を痛感した。
「与一。そなた、名を上げたのう」
屋島での戦勝の思わぬ立役者となった与一は、十郎を中心に皆から乱暴な歓迎を受け、浴びるほど酒を飲まされた。今や義経軍は増援や平家からの投降もあり、大所帯に膨れ上がっている。
ーー風は明らかに源氏に吹いている。
与一はそう感じざるを得ない。誰もが勝ち馬に乗るべく源氏に馳せ参じ士気も高い。陣内が活気で沸く中、与一はついに酔い潰れてしまった。
それからどれほどの時が経ったであろう。はたと与一が目を覚ますと十郎がいない。
ーーあれ。十郎兄、どうしたんだ?
抜けない酒に頭を押さえながら与一が探るものの、その姿は見当たらない。不審に感じ上体を起こした与一は、はたと傍らに一封の書が置かれていることに気付いた。
ーーこれは、十郎兄?
内容を確認すべく与一は、文面に目を走らせ息を飲んだ。何と平家への内通者は自分であり、平家に下る旨が記されていたのだ。ことの深刻さを理解した与一は、よろけつつも立ち上がり、馬を走らせた。
ーーおそらくまだ遠くへは行ってねぇはずだ。
与一は月光に照らされた砂浜を単騎で駆けていくものの、その心中は決して穏やかではない。馬を飛ばすこと約半刻、ついに十郎が数人の武士とともに小舟に乗り出そうとしている姿を確認した。
「十郎兄!」
叫ぶ与一に十郎は、こちらを振り返った。傍らの武士が刀を手にかけるものの、十郎はそれを手で制し、与一の元へと歩み寄る。
「十郎兄。どう言うことだよ。一体、なんで……」
息を切らせながら迫る与一に、十郎は苦渋の思いを吐いた。
「響を人質に取られた」
「ちょっと待ってくれ。十郎兄はあの琵琶の娘で人生を棒に振るのか!? いつもの冷静な十郎兄はどこへ行ったんだよ」
「与一、それ以上は申すな」
直視する与一から視線を逸らしつつ、十郎はかぶりを振った。だが与一は納得しない。
「十郎兄も武士だろう。女と武功、どっちを取るんだよ?」
「女だ」
十郎の即答に与一は言葉を失っている。
ーーこの十郎兄をして、ここまで言わしめるとは……。
そんな与一の心中を察した十郎が言った。
「与一、武功は他所でも立てられるが、響の代わりはいない。今、はからずもそなたとは敵同士となった。一切の手加減は無用だ。覚悟は出来ておる。この兄に全力でかかってまいれ」
「そんなこと、出来るわけねぇだろう!」
刃を引き抜く十郎に与一が吠える。だが十郎の決意は固いようだ。
「与一、次の戦場でいざ相見えん」
「待ってくれ。十郎兄!」
必死に食い止めようとするものの、刀に手をかける周りの武士に阻まれ与一は、手を出すことが出来ない。
「さらばだ。与一」
十郎はそう言い残し、海へと去って行った。その背中を呆然と見送った与一の心境たるや尋常ではない。あれほど情を排し理で動く十郎が一時の欲情に溺れ、道を踏み外そうとしている。それを止める手段を与一は持たないのだ。
ーー何て事だ……。
与一は愕然としつつ宿営地へと引き返した。早速、義経の元に訪れると、弁慶と次の策を練っているところだった。
「おぉ、与一。いかがした?」
機嫌がよさげに要件を問う義経に与一は、ありのままを伝えていく。当初は黙って聞いていた義経だが、結論に至るところでたまらず声を上げた。
「十郎が平家にくだっただと!? 内通者は奴だったのか」
十郎をよく知る義経は、信じられない思いだ。
「まさか、あの十郎が裏切者とは……弁慶、そなたは知っておったか?」
「はっ、女を取られたらしい旨、手短には聞いておりましたが、まさかこの状況下で平家に走るとは」
「ふむ。いかがしたものか……」
義経の表情は実に険しい。やがて考慮の後、与一に釘を刺した。
「与一。此度の件、そなたの功ゆえに目くじらは立てぬが裏切りは裏切りだ。将として十郎の罪を罰せねばならぬ。ただ、事が事だけに公に出来ぬ。よって緘口令を敷く。この一件、口外することまかりならん。よいな」
「御意」
与一はひざまずき、口を一文字につぐんだ。
「鎌倉で恩賞が沙汰された。十郎兄の言う通りだ。義経様の名はなかった」
与一の報告に十郎は「やはりか」と天を仰いだ。あれほどの戦功をあげながら恩賞がないーーこれに義経は狼狽し、人目も憚らず罵り喚き散らしたという。
「これが義経様の義経様たる所以だ。軍才のみで世間を知らない」
十郎は、与一に一つ一つ分析してみせた。
「まず、戦功を確実な評価に結びつける政治工作を全くしていないだろう。まぁ賄賂であったり、付け届けであったりするのだが、その手の感覚が欠落している。さらに今回の戦功がどれほど頼朝を恐れさせたのかについて、ほとんど自覚がない」
「え、どういうことだよ?」
首を傾げる与一に十郎が説く。
「よいか与一、この勝利はな。あくまで鎌倉殿の覇と威でもたらされたものであり、義経の軍才にあらず……とせねば鎌倉殿の立つ瀬がない。統率を維持できない。ゆえに戦功を認めることができないのだ」
「いや、しかし十郎兄。それって、あんまりじゃないか」
感情論をぶつけるものの、十郎は「それが現実だ」と割り切っている。その上で与一に命じた。
「与一、今一つ働けるか?」
「もちろんっ!」
うなずく与一に、十郎は言った。
「至急、法皇様の動きを探ってくれ。おそらく焦っておられるはずだ。このままでは、鎌倉殿に京を奪られかねぬからな」
「分かった。任せてくれ」
与一はすぐさま席を立ち御所へと向かった。果たしてその様相は十郎の読み通りであった。これまで官位を巧みに匂わせ、平家を上手く抱き込んできた後白河法皇だが、頼朝はこれに見向きすらしていないという。やはり、狙いは京とは異なる武家による新政権樹立にあるようだ。
さらに与一は収集した情報を十郎に晒した。何と法皇様が鎌倉殿とは別に義経様に官位を与えられるという。
「十郎兄、これはどういう事だ?」
「決まっておろう。源氏を頼朝と義経に二分させようしておられるのだ。いわゆる〈分割して統治せよ〉さ。それで義経様は、どうだ?」
「固辞されている。鎌倉殿に何度もお伺いを立てられているらしいが、その全てが無視されているようだ」
十郎は、うなずきつつも断言した。
「与一、義経様は間違いなく折れる。大天狗殿の手に落ちるのは、時間の問題だ」
「なんで分かるんだよ?」
「義経様が、権力が持つ危うさを知らないからだ」
十郎は与一に向き直るや、その根拠を説いた。
「いいか? 法皇様は今、義経様から精神的な均衡を奪わんとしている。その心を絡めとるべく人格を翻弄し、自滅させんと図っておられるんだ。まぁ見てろ。言うとおりになるから」
果たして数日後、事は十郎の読み通りに動く。頼朝の冷たさに心が折れた義経は後白河法皇による官位を受け、さらには平家追討の院宣まで授かった。
これに激怒したのが、頼朝である。すぐさま義経から平家追討使を解任し、腹いせとばかりに鎌倉軍から追放した。ここに義経はその立場を失い、ただの一個人に成り果てることとなった。
「十郎兄、これからどうする?」
宿屋で朝飯をともにしながら与一が問う。今後の自分達の身の振り方である。
「鎌倉殿はご立腹だ。これ以上、義経様の元にいても軍功の機会すら与えられねぇぜ」
懸念を述べる与一に十郎は、考えている。確かに与一が言うことは正しい。今や誉れある華々しい平家追討軍の軸を凡将の範頼が担い、義経は蚊帳の外だ。
そのあまりの仕打ちに京では、同情論だけでなく義経に将来なしと見切りをつけている者すらいる有様だ。
だが、妙なことに肝心の義経に焦りは見られないという。その心の底を読んだ十郎が断言した。
「与一、このままだ。義経様の元からは離れない」
「だが、義経様の武運はもう……」
悲観する与一に十郎は、漬物を齧りながら言った。
「与一、お前も一ノ谷で平家の水軍を見たであろう。あの兵威は一朝一夕で出来たものではない。源氏はこれに対抗する水軍を持っていない」
聞き役に徹する与一に、十郎は続けた。
「いずれ源氏も水軍を得る必要はあろうが、当面は騎兵で凌ぐしかないのだ。困ったことにこの現実をあれほど政略に長けた鎌倉殿が、分かっておられぬ。いや、分かっているのだろうが、理解に実感が追いついていない」
「そうなのか?」
「そうさ。義経様の軍才は、俺達みたいに実際に間近でその戦いを共にしたものにしか分からない。結局、戦は勝ってなんぼだ。いかに鎌倉殿が武家政権という革命を目論もうとも、負けてしまえば絵に描いた餅に終わるのさ」
十郎の分析に与一が唸る。
「つまり、平家を倒せるのは、義経様しかいないってことか」
「そういうことだ。範頼様や鎌倉殿では無理だ。これは義経様にしか成し得ない事業なのだ。それが分かっておられるからこそ、義経様は落ち着いておられる。遠からず鎌倉殿は折れる。義経様を頼るべく平家追討を命じられるだろう。それまで待とう」
そう言い終えるや、十郎は箸を置き席を立った。
「ちょっと出かける」
そんな十郎に与一が呆れ気味に言った。
「響のところか? 十郎兄、ほどほどにしておけよ」
十郎を見送った与一は、床に転がるや天井を眺めながら考えた。
ーーそれにしても十郎兄の分析力には、叶わぬ……。
まるで日の本を盤上に遊戯でも行うが如く、情勢が見えているのだ。ただ一抹の不安を覚えるのは、十郎が足繁く通う響である。あくまで勘に過ぎないのだが、なぜか与一は違和感を覚えるのだ。
ーーあの人間観察に長けた十郎兄が、肝心の己のことには甘い。
一応、与一なりに響について調べてはみた。特段怪しい点はなかったものの、与一はどこか胸騒ぎを覚えている。
「気が進まねぇが、十郎兄のあとをつけてみるか」
与一は徐ろに起き上がると、宿屋を出た。馬を走らせれること約半刻、例の古寺が現れた。だが、なぜか響も十郎もいない。
「十郎兄、どこ行ったんだ?!」
与一は馬を降り、あたりを伺うもののその姿はどこにもなかった。そんな中、ふと背後に迫る気配を感じ振り返った与一は、息を飲んだ。大柄の僧兵の群れが四、五人ばかり薙刀を手に襲い掛かろうとしているのだ。
間一髪で兇刃を逃れた与一は、刀を引き抜き吠えた。
「何者だ!? なぜ我を襲う」
「ふん、知れたこと。己の胸に問うてみることだな」
小頭と思しき男が十郎に言い返す。だが、与一には心当たりがない。やむなく力任せに応戦するものの、あまりに多勢に無勢である。与一は必死に刃を交えつつ、同時に頭も働かせている。
ーーコイツら、おそらく平家傘下の水軍だな。
なりといい話し言葉といい、西国の海賊に通ずるものを感じるのだ。
「何が目的だ」
声を上げる与一に僧兵は、返答した。
「決まっておろう。あの琵琶の娘だ。何を聞いたか吐いてもらう。ついでにその方の命も頂こうか」
「させるかっ! 返り討ちにしてくれる」
与一は、巧みな体捌きで僧兵どもの刃をいなしつつ一人、また一人と討ち取っていく。
「ほぉ、流石は坂東武士。やるな」
僧兵の小頭は、ニヤリとほくそ笑む。何とか最後の一騎打ちまで持ち込んだ与一だが、力尽き不覚にも足払いを受けた。
ーーしまったっ……。
地面に叩きつけられた十郎は、喉元に突きつけられた刃に舌打ちする。
「さぁ、洗いざらい吐いてもらおうか。あの琵琶の娘から何を聞いた?」
「何も聞いてなどいねぇよ」
「ふんっ、小賢しい嘘を。ならばその命、頂こう!」
薙刀を振るう僧兵の小頭に与一が「もはや、ここまで」と覚悟を決めた矢先、どこからともなく矢が飛来し僧兵を射抜いた。
たちまち呻き声と共に崩れ落ちる僧兵の小頭だが、与一が振り返ると弓を手にした十郎が息を切らせた駆けつけてきた。
「与一、大丈夫か!」
「あぁ十郎兄、助かった」
礼を述べる与一を引き起こした十郎は、僧兵に問うた。
「お前、平家の手の者か。なぜ与一を狙った。響はどこにいる」
「ふんっ、あの源氏の御曹司……義経に言っておくんだな。地獄で待っている、と……」
そこで絞り出したような呻き声と共に、その僧兵は息絶えた。見ると陰腹を切っている。
「死人に口無し、か……」
十郎は刀を鞘に納めると与一とともに僧兵の身なりを確かめ、そこで奇妙な紋様を見つけた。
「十郎兄、この紋様!」
「あぁ、熊野水軍のものだ」
二人は不穏な気配に舌打ちしている。この熊野水軍とは、紀伊半島南東部、熊野灘、枯木灘に面した地域を拠点とした水軍である。豊富な船材と良港に恵まれながらも、耕作地に乏しい熊野には海を舞台に跋扈する水軍が発達した。
その熊野水軍がなぜか京にいるのだ。
「十郎兄、どういうことだろう」
首を傾げる与一に十郎は、思い当たる節を述べた。
「どうやらこの一件、弁慶殿の絡みの様だな。俺達の預かり知らぬ何かが進行しているとみた。与一、行くぞ」
十郎は与一と共に義経らが控える陣内へと引き返した。丁度、弁慶は一人で作業にかかっている。
「おぉ、与一に十郎ではないか。どうしたのだ?」
声をかける弁慶に二人は、事の真相を投げかけた。するとこの大男の顔色がみるみるうちに変わった。どうやら十郎の図星の様だ。
「あの、弁慶殿は一体、熊野水軍とどのような関わりを?」
与一の素朴な疑問に弁慶は、苦々しく表情をしかめながら、思わぬ事実を打ち明けた。
「父なのだ」
「え、熊野水軍を率いる湛増が……でございますか?」
「あぁ、庶子だがな」
弁慶は与一にうなずき、説明をした。
「実は今、親父を源氏側に引き込むべく交渉をしておってな。何とか鞍替えを決めさせたものの、皆を納得させるまでには至らず、やむを得ず鶏を闘わせて神意を占う鶏合神事に委ねさせた」
「それで結果は?」
与一の問いに弁慶が笑う。
「そんなもの八百長に決まっておろう。ともかくこれを持ってして源氏へと寝返らせたのだが、快く思わない者達もいたらしい。その反乱分子が京に潜む平家の間諜と通じていたのだが、そこを運悪く琵琶の娘に見られてな。やむを得ず拉致に至ったらしい」
「つまり、響は平家方に連れ去られた、と?」
食いつく十郎に弁慶は苦々しくうなずく。これには二人とも返す言葉がない。特に十郎の落ち込みは激しかった。狼狽のあまり顔色を失い、その場にヘナヘナと尻餅をついたほどだ。
ーーあの冷静な十郎兄が我を失っている。
与一は驚きを隠せない。叱咤するものの、まさに心ここに在らずだ。これを機に十郎は少しずつ精彩を失い、その方向性を狂わせることとなる。
さて、京で与一らが一悶着起こしていた頃、頼朝より直々に平家追討軍の総大将を任された範頼は大変なことになっていた。意気揚々と京を出たものの、遠征軍ゆえの補給不足に陥り食糧難に晒されたのだ。
ーーやはり、西国は平家が有利か……。
与一は改めて実感した。何と言っても平家は瀬戸内海の制海権を持っているのだ。
仕方なく範頼は水路を諦め陸路から平家撲滅を試みるべく中国、さらには九州への上陸を目論んだが、その戦略が頓挫したことになる。
水上から沿岸の補給路を脅かされ、全軍の兵站は干上がり、もはや崩壊の危機にあるーー急使を送った範頼からの報告に激しく狼狽えたのが、鎌倉の頼朝である。
「至急、物資を送る」
と慌てて軍船をかき集め前線への物資を送ってはみたものの、あまりに稚拙でかぼそい効果しか得られなかった様である。
この補給戦の分断を狙う平家軍に対し、範頼は藤戸で応戦し、何とか補給線の崩壊を防いだものの、制海権を持たないだけにトドメが刺せない。
今や鎌倉遠征軍は、平家を前にただの物乞い集団と成り果てている。この危機を脱する方法は、一つしかない。
「義経を使わせれば……」
だが、頼朝はこれをためらっている。側近も同様に、反対だ。もしここで義経が一ノ谷に次ぐ戦果を上げれば、頼朝が大天狗と罵る後白河法皇がこれを利用し、源氏を二分することは目に見えている。それは源氏にとっても頼朝にとっても、また義経本人にとっても不幸な結果しか生まない。
だが、頼朝にはそれを懸念する時間すらも残されていなかった。ついに決断を下す。
「義経を起用せよ!」
そう高らかに宣言するや、京に飛脚を走らせた。
2
晴れて頼朝より平家追討の命令を受けた義経は、皆に一ノ谷につぐ作戦を語った。その攻撃先に与一らは目を剥いている。
「屋島をやるのか……」
平家が軍事拠点を置くこの屋島は、大坂湾を威圧すべく設けられたこの海上要塞だ。地形的に海域が狭まるこの屋島を押さえれば、海域の封鎖が可能になるだけでなく、瀬戸内海の制海権を手中におさめ、中国・四国・九州の連携を保つことができる。
さらにいえば、その延長線上に京奪還を目論む平家の野心がありありとうかがえた。これを義経は挫こうというのである。
「それはあまりに危険です」
軍議では皆が反対している。特に梶原景時とは逆櫓を設けるか否かで大いに揉めたのだが、義経はこれを一蹴した。
皆が不可能と称したこの作戦だが、与一は「これしかない」と感じている。その脳裏には一ノ谷で見た平家水軍の威容がある。
ーーあの強大な水軍に対し、正面からぶつかるのはあまりに危険だ。やるとすれば屋島を背後から脅かすしかない。
もっとも与一は、僅かではあるが成功の可能性ありと見ていた。響が拉致された一件で義経が弁慶に熊野水軍を引き入れる工作を施していることを知っている。
ーーこの熊野水軍がくれば、確かに勝算は見込めよう。
だが、この期待は裏切られることとなる。待てど暮らせど熊野水軍が来ないのだ。この誤算に対し、皆は待った。弁慶も、そして与一や十郎すらも同様である。だが、義経は違った。確かに熊野水軍も待ったが、その他の援軍も待っていたのである。
「時は来たり!」
義経は声を上げた。この援軍とは嵐である。これまで逆風であったが、突如、順風に転じ、雨足が激しく打ち付け始めたのだ。これを好機と義経は、自身の百騎程度の郎党を集め四国への渡海を宣言した。
ーー正気の沙汰ではない。
それが与一の本音だ。十郎も同様の面持ちである。さらに言えばこの作戦には、政治的な問題を抱えている。平家が有する三種の神器と安徳天皇を逃す可能性があるのだ。
国家の守護者たる立場を目論む頼朝としては、これを看過できない。だが、義経は戦機を優先した。
かくして、軍兵を積んだ五隻の船が出航した。強烈な突風を受け船は凄まじい速度で波の上を滑っていく。
「十郎兄、俺は生きた心地がまるでしねぇよ」
「奇遇だな与一。俺もだよ」
二人は敢えて笑って見せたものの、顔色は完全に失っている。高波に揺さぶられ、激しく壁に叩きつけられながらも必死に耐え忍んだ。
ある者は神に救いを求め、ある者は絶望と戦い、皆が皆、それぞれの手段でこの渡海を祈った。
さて、この強硬策だが、見事に吉と出た。三日かかるところをわずか四、五時間で渡り切ってしまったのである。
ーー奇跡だ。
フラフラで全身がままならないものの、軍馬とともに浜辺へとなだれでた与一らは、その無事を一応に実感している。
だが、そこは働き者の義経である。すぐさま皆を叱咤し、情報収集と現地勢力からの協力を求め、与一らを送り出した。
「全く人使いの荒い大将だぜ」
嘆く与一を十郎は、笑う。もっともかなり無理を強いた義経だが、その見返りはあった。どうやら屋島の平家軍は、長い海岸線の守備と伊予の敵対勢力鎮圧で、戦力を大きく分散しているようなのだ。
さらに与一らは、現地で屋島への案内人の協力を得ることに成功した。
「でかしたぞ、与一」
満足した義経は、渡海したばかりの全軍に再び強硬軍を命じた。その凄まじい任務に誰もが閉口している。
ーー休息なしかよっ!
思わず心の底で罵る与一だが、異議を唱える元気すら残っていない。まさに血を吐くような強行軍を繰り返してきた義経軍だが、それに見合った成果は現れつつある。
海に向かって構えを敷く平家軍から、見事に無防備な裏を取ったのだ。この動きをある程度想定していた平家軍だったが、まさかこの悪環境の中をこんなに早く来るとは、思っていなかったようである。
「皆の者、かかれっ!」
義経を筆頭に与一らは、一気に強襲に出た。次々に火を放ち周囲を焼き払って炎の勢いを見せつけ、あたかも大軍の来襲であるかを装ったのだ。
これに度肝を抜かれたのが平家である。もっとも一度、冷静になるべきであったのだろうが、一度恐怖の火がついた集団心理というのは簡単にはおさまらない。
次々に持ち場を離れ、慌てて屋島の本営を捨て海へと逃れていく。やがて、これに幼帝や婦人が続いた。
その様子を見た義経が吠えた。
「今だ。本陣を焼き払え!」
号令一下、与一らはもぬけの殻となった屋島本営に火を放っていく。この時点で平家はまだ奇襲の兵がどのくらいの規模なのか把握が出来ていない。目の前で燃え盛る炎に踊らされ、数万の源氏が襲撃したかのイメージを頭の中に描き錯覚してしまっている。
だが、義経の奇襲が完成を見たところでようやく、目の前の源氏が百騎足らずであることを悟り大いに悔やんだ。だが、時すでに遅し、本営は火に包まれほとんど抵抗しないまま陥落してしまった。その腹立たしさたるや言葉に尽くせぬほどである。
「浜辺の源氏を追い払え!」
平家の総大将である宗盛は反撃へと命じたものの、勝敗はいずれともつかず、やがて陽が西へと傾き始めた。ここで戦場に小休止が訪れる。海と陸、ぞれぞれへと戻った両軍が休息に入る中、与一は十郎の手当てに追われていた。
「すまんな与一、これしきのかすり傷……」
「何言ってんだよ十郎兄」
与一は悔やむ十郎に笑ってみせるや、海へと逃れた平家の船に目を転じた。
ーーおそらく今日の戦闘はここまでの様だな。
そう見当をつけた与一だが、ここで奇妙な光景に遭遇する。なんと沖の船団の中から、戦さの場に似つかわさぬ豪華に飾られた一艘の小舟が現れたのだ。
「何だあれは」
与一は思わず声を上げた。源平双方の軍が海と陸を挟んで対峙する中、その小舟に乗る二十歳前と思しき女官が扇を開いて立てかけ、手招きしている。
「どうやらこの扇を射ってみよ、という挑発らしいな」
その意を読んで見せる十郎に与一は眉を顰めた。
ーーあの距離を、しかもこの潮風と波に揺れ動く的を射よというのか。やる奴は大変だな……。
どうなるのか成り行きを見守る与一だが、はたと義経を見るとこちらを見て盛んに手招きしている。その意を察しかねる与一に十郎が言った。
「与一……そなたが指名されておる様だぞ」
「え、俺!?」
慌てて人差し指を己に向け確認を取る与一に、義経は「早く致せ」とばかりに扇の的を盛んに指差している。ここで初めて己の状況を察した与一は、クラクラする思いで頭を抱えた。
「……十郎兄、行ってくる」
「あぁ、健闘を祈る」
十郎に送り出された与一は、やむを得ず弓を手に馬へとまたがるや、浅瀬へと乗り入れた。季節は早春とはいえ、まだ風は冷たく波も荒い。沖には平家の船が、浜辺には源氏が馬の轡を並べ、その固唾を飲んで見守っている。双方の視線を一身に浴びながら、与一は徐ろに弓を構え鏑矢をつがえた。
ちなみに与一は、これがどのくらい戦さに影響を及ぼすかを知っている。何と言っても男達が己の肉体を武器にぶつかり合う時代である。ちょっとした些細なことが士気を大いに高め、逆に落とすことがありうるのだ。
さらに言えば、これは源平合戦の行き先を占う意味もこもっている。
ーー何としても決めねばな。とはいえ酷な話だぜ。
与一は、ふんっと鼻を鳴らすや強弓を思い切り引き絞った。必死に狙いを定めようと試みる与一だが、いかんせん狙いの的は波に揺れ動く小舟に掲げられている。さらに潮風がこれに加わり、与一の狙いを阻んだ。
基本的に神を信じない与一だが、流石にこの時ばかりは大いにすがった。
「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神……」
まずは知ってるあらん限りの神々を並べた。その上でこう続けた。
「お願いだ。あの扇の真ん中を射させてくれ。これを射損じたら弓を折るしかねぇ」
そんな与一の意を汲んだのかはともかく、これまで吹き付けていた潮風が若干弱まった。ここで「今だ」とばかりに与一は鏑矢を放った。やや頭上に狙いを定めた鏑矢は、空を切り裂き鋭い音を放ちながら、緩やかな放物線を描いて落下していく。その行先には鮮やかに彩られた扇があった。
たちまち鏑矢は海へ落ち、射抜かれた扇は空へと弾かれしばらく虚空をひらひらと舞ったのち、春風に揉まれながら海へと散った。これには源平双方の兵がどっと沸き上がった。何よりこの奇跡の射抜きを見せた与一自身が信じられない思いでいる。
ーー本当に俺はやったのか? 夢ではないのか?
頬をつねりたくなる気分である。やがて、浜辺に振り返った与一は、十郎に拳を突き上げて見せた。もはや屋島は源平問わず、お祭り騒ぎである。敵である平家に至っては、伊賀十郎兵衛家員と名乗る五十歳ほどと思しき男が扇の立てていた場所で舞を踊り始めた。
まさに人生の一大仕事を成し遂げ感無量の与一だが、事はこれで終わらない。義経からことづかった伊勢三郎義盛と名乗る武者が与一の後ろに馬を歩ませ、おどけて舞を続ける平家の男を指差し言った。
「ご命令であるぞ、射よ」
「え……あの人を、ですか!?」
これには与一も言葉を失った。念を押すべく、義経を見ると大いにうなずいている。やむなく与一は二本目の矢をつがえるやこれを射た。果たして舞にくれる平家の男は、与一によって見事に射抜かれ船底へと真っ逆様に転げ落ちていく。盛り上がっていた平家方はしんと静まり返ってしまった。
これがお前達を待っている将来だーーそう言いたげな義経を前に平家の兵はただ、黙り込むしかなかった。
日没後、源平双方は休息に入るべく沖と浜辺から引き上げ宿営した。刃を交えた争いが中断したとはいえ、すべての戦いがやんだ訳ではない。ここからは調略戦である。
「与一が起こした奇跡の効果が醒めぬうちに平家を骨抜きにしてしまえ」
義経の命令により放たれた者どもは、次々と平家諸子を源氏に寝返らせるべく勧誘へと赴いた。冷静に考えればこの屋島での兵力差は歴然としており、本来ならば平家が寝返る道理はない。
だが、夕暮れ時に起きたあのあまりにも鮮やか過ぎる与一の一矢が、平家の兵の脳裏から離れず冷静さを奪っている。
いずれ平家は滅びるーーそれを肌で感じているがゆえに、兵理を説かず心理に訴えた。
「与一を見たであろう。あの扇がそなたら平家の行く末だ。今ならまだ間に合う。源氏へと寝返るのだ」
盛んに沈む船からの脱出を促したのだが、これが思いのほか決まった。離脱者や内応者がどんどんと現れたのだ。
「源氏にお味方致す」
次々に軍門に下る平家だが、どの兵も大なり小なり、源氏へと傾く止めようのない時勢を感じている様である。
そんな中、義経は思わぬ情報を入手する。
「内通者だと?!」
思わず声を上げる義経に、弁慶が源氏に転じた投降兵からの情報を伝えた。どうやらその内通者が範頼を中心とした討伐軍を苦しめているらしい、との事である。
はじめ義経はこれを信じなかった。だが、弁慶に諭され、やむなく内密に調査を命じている。
なお、翌朝に再開した屋島の戦いであるが、ここで平家軍は意外な動きを見せる。海を迂回し志度へと上陸し、義経軍の側背を突こうとしたのだ。
ーーまずいっ……。
この動きをいち早く知った与一は、すぐさま義経にその事実を伝えた。これに対する義経の対応は、早かった。自ら軍勢を率いて志度へ迎撃に向かったのだ。
ーーこの辺が、義経様の義経様たる所以だな。
与一は改めて義経を評した。全ての状況判断が実に早いのだ。まさに兵は拙速を尊ぶである。
その後も獅子奮迅の戦いを続ける義経軍に対し、平家軍は明らかに覇気を失っていく。やがて、この戦いの勝敗を決定づける事態が起こった。
「援軍だ!」
物見に向かった与一は、思わず声を上げる。遅れて馳せ参じた源氏の水軍がようやく訪れたのだ。
無論、その背後には熊野水軍が続いている。これを知った平家は、ついにこの地を諦めた。
与一らが鬨の声を上げる中、平家の船団は四国を離れ九州へと落ち延びていく。そこにかつての威容は、見る影もない。
一方、軍事的に勝利した義経軍だが、政治的な戦果は逃した。三種の神器と安徳天皇を押さえることが出来なかったのだ。
「やはり平家のトドメをさすには、水軍がいるな」
与一は改めてその事実を痛感した。
「与一。そなた、名を上げたのう」
屋島での戦勝の思わぬ立役者となった与一は、十郎を中心に皆から乱暴な歓迎を受け、浴びるほど酒を飲まされた。今や義経軍は増援や平家からの投降もあり、大所帯に膨れ上がっている。
ーー風は明らかに源氏に吹いている。
与一はそう感じざるを得ない。誰もが勝ち馬に乗るべく源氏に馳せ参じ士気も高い。陣内が活気で沸く中、与一はついに酔い潰れてしまった。
それからどれほどの時が経ったであろう。はたと与一が目を覚ますと十郎がいない。
ーーあれ。十郎兄、どうしたんだ?
抜けない酒に頭を押さえながら与一が探るものの、その姿は見当たらない。不審に感じ上体を起こした与一は、はたと傍らに一封の書が置かれていることに気付いた。
ーーこれは、十郎兄?
内容を確認すべく与一は、文面に目を走らせ息を飲んだ。何と平家への内通者は自分であり、平家に下る旨が記されていたのだ。ことの深刻さを理解した与一は、よろけつつも立ち上がり、馬を走らせた。
ーーおそらくまだ遠くへは行ってねぇはずだ。
与一は月光に照らされた砂浜を単騎で駆けていくものの、その心中は決して穏やかではない。馬を飛ばすこと約半刻、ついに十郎が数人の武士とともに小舟に乗り出そうとしている姿を確認した。
「十郎兄!」
叫ぶ与一に十郎は、こちらを振り返った。傍らの武士が刀を手にかけるものの、十郎はそれを手で制し、与一の元へと歩み寄る。
「十郎兄。どう言うことだよ。一体、なんで……」
息を切らせながら迫る与一に、十郎は苦渋の思いを吐いた。
「響を人質に取られた」
「ちょっと待ってくれ。十郎兄はあの琵琶の娘で人生を棒に振るのか!? いつもの冷静な十郎兄はどこへ行ったんだよ」
「与一、それ以上は申すな」
直視する与一から視線を逸らしつつ、十郎はかぶりを振った。だが与一は納得しない。
「十郎兄も武士だろう。女と武功、どっちを取るんだよ?」
「女だ」
十郎の即答に与一は言葉を失っている。
ーーこの十郎兄をして、ここまで言わしめるとは……。
そんな与一の心中を察した十郎が言った。
「与一、武功は他所でも立てられるが、響の代わりはいない。今、はからずもそなたとは敵同士となった。一切の手加減は無用だ。覚悟は出来ておる。この兄に全力でかかってまいれ」
「そんなこと、出来るわけねぇだろう!」
刃を引き抜く十郎に与一が吠える。だが十郎の決意は固いようだ。
「与一、次の戦場でいざ相見えん」
「待ってくれ。十郎兄!」
必死に食い止めようとするものの、刀に手をかける周りの武士に阻まれ与一は、手を出すことが出来ない。
「さらばだ。与一」
十郎はそう言い残し、海へと去って行った。その背中を呆然と見送った与一の心境たるや尋常ではない。あれほど情を排し理で動く十郎が一時の欲情に溺れ、道を踏み外そうとしている。それを止める手段を与一は持たないのだ。
ーー何て事だ……。
与一は愕然としつつ宿営地へと引き返した。早速、義経の元に訪れると、弁慶と次の策を練っているところだった。
「おぉ、与一。いかがした?」
機嫌がよさげに要件を問う義経に与一は、ありのままを伝えていく。当初は黙って聞いていた義経だが、結論に至るところでたまらず声を上げた。
「十郎が平家にくだっただと!? 内通者は奴だったのか」
十郎をよく知る義経は、信じられない思いだ。
「まさか、あの十郎が裏切者とは……弁慶、そなたは知っておったか?」
「はっ、女を取られたらしい旨、手短には聞いておりましたが、まさかこの状況下で平家に走るとは」
「ふむ。いかがしたものか……」
義経の表情は実に険しい。やがて考慮の後、与一に釘を刺した。
「与一。此度の件、そなたの功ゆえに目くじらは立てぬが裏切りは裏切りだ。将として十郎の罪を罰せねばならぬ。ただ、事が事だけに公に出来ぬ。よって緘口令を敷く。この一件、口外することまかりならん。よいな」
「御意」
与一はひざまずき、口を一文字につぐんだ。
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