運命の一射 那須与一

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第三章

琵琶法師

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     1

 義仲が後白河法皇を幽閉したーーその知らせに十郎と与一は、驚きを隠せない。
「十郎兄。一体、どうなっているんだ」
 声を上げる与一に十郎も戸惑いを隠せない。今や義仲の手元に残る兵は千騎程にとどまるのに対し、法皇は二万の僧兵を擁し、義仲に備え防備を固めていたはずなのだ。それが完全に立場が逆転し、後白河法皇は義仲の手中にあるという。
「誤報ではないか」
 十郎は疑ってはみるものの、その後の報告によればどうやら事実らしい。義仲は奇襲に打って出た上に恐れ多くも御所を焼き払い、土足で踏み込んで横暴に後白河法皇を拉致したとのことだった。
 一方、法皇を守るべき僧兵らは戦慣れした義仲の兵を前になす術もなく敗れ、逃げ去ったらしい。
「窮鼠猫を噛む。政略の才を持たぬ義仲だが、軍才は本物だったか」
 十郎は改めて義仲に警戒感を覚えている。同時に義仲の手に落ちた後白河法皇に同情の念を禁じ得ない。
「策士策に溺れたってところか?」
 与一の評に十郎は同意した。
「政略に長けるあまり、己を過信したきらいはあるな。だが、これで完全に情勢は固まった。これほどの暴挙を人は許すまい。鎌倉殿はひたすらこの機を待っておられたのだ」
 十郎の読み通り、頼朝は軍令を下す。大義名分を得たとばかりに義経と範頼の兵を増派し、京へと進軍を命じたのだ。
 その矢先、十郎は与一とともに義経に呼ばれた。
「何の用だろう」
 与一の問いに十郎も首を傾げている。
「分からんが、とにかく行ってみよう」
 二人は揃って義経の元を訪ねると、陣中では弁慶を筆頭に奥州平泉からの重鎮が脇を固めている。その面前に歩み出た十郎と与一に、義経は直々に任務を授けた。
「そなたらは、後白河法皇と面識がある。至急、接触をはかってくれ」
「しかし、法皇様は義仲の軍に……」
 懸念を述べる十郎に義経は、うなずきつつも事情を述べた。曰く、後白河法皇を手中におさめた義仲は、得意の絶頂にあるという。法皇さえ押さえておけば永遠に官軍を名乗れることが、義仲を強気にさせているようだ。
「なんとしてもお救いせねばなるまい。そこでそなたらに策を授ける」
 義経は、こそりと十郎らの耳元でその方策を囁いた。これに十郎は思わず膝を打つ。
「なんとも大胆な策にございますな」
「兄上の策だ。法皇様ならその真意がお分かりになるだろう。行けるか?」
「もちろん」「お任せを」
 二人は即答するや、義経の元を離れ京へと馬を走らせた。その馬上で十郎は言った。
「法皇様もそうだが、鎌倉殿もお人が悪い。この策は田舎武者の義仲には、特に効くだろう」
「確かに十郎兄が言う通りだ」
「法皇様が幽閉されている場所は判明している。あとは与一、そなたの弓の腕次第だぞ」
 焚き付ける十郎に与一は「任せてくれ」と弓を掲げた。
 その後、京に入った二人は、夜の闇に紛れて御所近辺の古屋敷へと馬を進めた。
「あそこか?」
 与一の問いに十郎がうなずく。
「間違いない。だが、これ以上近づけば、義仲の兵にバレる。与一、ここが限界だ」
「いいよ、十郎兄」
 与一は十郎に目配せするや、一封の書を矢に括り付ける。大きな深呼吸の後、その矢を弦にあてがうやキリキリと弓を引いた。
 ピンと空気が張り詰める中、最大限まで弦を引き絞った与一の手元から勢いよく矢文が放たれた。斜め上の天に向かって解き放たれた矢は、緩やかな放物線を描き、後白河法皇が幽閉された建屋の柱に寸分の狂いもなく刺さった。
「見事だ。与一!」
 思わず声を上げる十郎に与一は、得意げに拳を突き立てている。やがて、法皇の衛兵が矢文を引き抜き、室内へと駆け込む。しばし時が経過した後、屋内から法皇の側近と思しき男が現れ、十郎と与一に向かって手を振り上げた。
「十郎兄、どうやら通じたようだぜ」
「その様だな」
 十郎は満足げにうなずく。
「あとは、法皇様にお任せしよう。さ、バレないうちに俺達も去ろう」
 十郎は与一にささやくや、音もなくその場を離れ夜の闇の中へと消えた。



 この与一らが法皇に伝えた策ーーそれは、義仲を怪しく幻惑させる甘さを秘めたものだった。義仲を征夷大将軍に任じよ、というのである。この院宣を受けた義仲は声を上げ、涙を流して喜んだという。
 征夷大将軍とは、坂上田村麻呂が最初に任ぜられ藤原忠文と続くものの、以後数百年、与えられた者はいなかった。従ってこれは源氏で初の栄誉である。その名も旭将軍とせよとのあるのだ。ある意味、後白河法皇が取れる最大の札を切った形だ。
「頼朝に勝った」
 義仲は拳を握りしめ、その栄誉に浸ったと言う。もっとも義仲は、ここで慎重になるべきだった。そもそも拘束力のない征夷大将軍などに意味はない。だが、田舎武者の劣等感を払拭するこの院宣が義仲の判断力を大いに鈍らせた。
 その間、鎌倉が放った軍は、着々と京へ近づきつつある。その中でも義仲の想像を遥かに超越した存在が迫っていることに気づいていない。義経が率いる騎馬部隊である。
「速さこそ鍵であり肝なのだ」
 義経は、後々まで大いに衝突を繰り返す梶原景時らの忠告を無視して、兵に強行軍を強いた。無論、十郎と与一も随伴している。その常軌を逸した様は、まさに世紀の騎兵作戦と呼ぶに相応しいものである。
 やがて、宇治川北岸に達した義経は軍を幾つかに分け、京へと雪崩こませた。その先頭を義経が受け持ち、軍を率先して率いていく。随伴する与一と十郎は、もはや青色吐息だ。
 ーー何とも無理を強いる大将についたものだ。
 与一は何度、心の中で嘆いたか分からない。だが結果としてこれが義仲追討の決め手となった。驚異的な速度と勢いで義経が宇治川を制した報告に義仲は腰を抜かしたという。
 ことここに至り義仲は覚悟を固めている。
「かくなる上は法皇を引き連れ、北陸に戻るしかない」
 意を決した義仲は、法皇を幽閉した古屋敷へと向かった。固く閉ざされた門を前に義仲が吠える。
「余は旭将軍である。開門されたし」
 だが、反応がない。何度も呼びかけるものの、門が開く事はなかった。ここで義仲は、はじめて法皇に謀られ見捨てられたことを悟る。その後の転落は、あっという間であった。
「是非もなし」
 義仲は必死に戦った。だが健闘虚しく破れ去り、その後、再起を求めて逃走中に深田に馬の足を取られたところで矢を打ち込まれ、討死にして果てる。
 享年三十歳ーーその生涯は栄華と没落に彩られた太くも短い一生であった。



 義仲に代わり上洛した義経だが、その人気たるや絶大なものがあった。まさに英雄に祭り上げられようとしているのだ。特に後白河法皇のはしゃぎぶりは、尋常ではない。この若き侍に己の未来を見ている様である。
 鎌倉集団の粛然とした規律も、その評価を吊り上げており、誰もがこの若き武者を称えている。
「まさか、こんな日が来るとはなぁ」
 義経傘下にある与一は、京の熱狂ぶりを受け感慨深げだ。十郎も同様である。誰もがこの新しき京の番人を、心から歓迎していた。
 やがて、行軍から解放された与一と十郎は寺社仏閣を回った。義経より視察を命じられているのだ。そんな最中、二人は思わぬ人物との再会を果たす。
「巴御前っ!?」
 突如として現れた女子に二人は声をあげた。かつて、義仲の息子である義高を人質に差し出したこの女武者は、本来の女装束に身を纏い、二人を人気のない路地裏に招き入れた。
「義仲殿から生前に命じられていることが、ございましてね。こうして内密に参上した次第です」
 頭を下げる巴御前に二人は礼で応じ、聞き耳を立てた。
「十郎殿、あなたは以前、こう仰いましたね。歴史は勝者が作る、と」
「確かに申しましたが」
「ご存知の通り、義仲様はあぁいう生き方しか出来ない方でした。どうかそれをありのままに……汚すことなく歴史に記していただきたいのです」
「え、や……待ってください。ただの一武者に過ぎない俺に言われても……」
 意を計りかねる十郎に巴御前が笑って言った。
「私には分かります。十郎殿は……なんというか、この時代を何かによって写実されようとされておられますね」
 これには十郎も声を失っている。与一が首を傾げつつ問うた。
「そうなのか十郎兄?」
「あぁ……まぁ、な……」
 十郎はしどろもどろしつつ、巴御前に言った。
「確かにその通りですが、そもそも歴史は皆に支持されてはじめて解釈が成立します。そんな大それたこと俺なんかに。買い被りも甚だしい……」
「いや、あなたなら出来るでしょう。私も色んな男を見てきましたからね。その辺は分かります」
 巴御前の断言にしばし閉口した十郎だが、恐る恐る言った。
「なぜ、巴殿はそこまで義仲殿を?」
「私にとって殿が全てだからです。殿と駆け抜けたあのひとときだけは誰にも汚されたくはない。最期までお供できなかったせめてもの慰めです」
 不意に巴御前は、一本の歌を誦じた。それは世の無情さをただ表現した歌である。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ」
「巴殿。それは?」
 興味深げに問う十郎に巴が言った。
「義仲様のもとで生きてきた私の歴史観です。残念ながら私にはここまでが限界……」
 巴御前は、静かな笑みを浮かべながら言った。
「この先は是非、十郎様が紡いでください」
 やがて、巴御前は深々を頭を下げた後、去っていく。その背中を見送りながら与一が言った。
「十郎兄、よく分かんねぇけど、随分と大役を押し付けられたみたいだな」
「あぁ、みたいだな……」
 十郎は与一にそううなずいて見せた。

     2

 義仲を討ち取った義経らにとって、次の標的こそ平家だ。だが、義経は焦っている。平家追討の院宣がおりないのだ。ヤキモキするのは、与一らも同様である。
「十郎兄。一体、法皇様は何を考えておられるんだ?」
 苛立ちを隠せない与一を、十郎がなだめるように言った。
「おそらく、三種の神器を気にかけておられるのだろう」
 目下、これらは平家の手中にあり、追い詰めればどう反応が返ってくるか見当がつかないものがある。
「あんなもの、所詮飾りだろう」
「飾りでも必要な象徴なのだ」
 十郎は懇々と諭すものの、いつおりるか分からない院宣を待つのは、実に苦痛である。暇を持て余す二人は、やむなく街へと繰り出した。義仲が去ったとはいえ、京の街は荒廃から立ち直れていない。だが、それでも復興は着々と進みつつあるようだ。
 街の至るところで活気がみなぎる中、二人はふと古寺の前で人集りができていることに気付いた。
「何の騒動だ?」
 怪訝に思った十郎は、与一とともに人集りの中へと入っていく。見ると一人の若者を武者達が囲んでいる。どこの所属の兵かは分からないが、京の民と揉めているようである。
「十郎兄!」
「あぁ」
 二人は顔を見合わすや、ずかずかと人集りの中に割って入った。
「おい、その辺にしておけよ。鎌倉殿に知れたら命はないぞ」
 吠える十郎に武者達の顔が引きつる。事実、頼朝は上洛に際し民へのあらゆる武力行為を禁じ、厳しい処罰を命じている。これを盾に脅す十郎に、与一が弓を手に加わった。
「どこの部隊だ? 俺が相手をしてやる」
 そんな二人に男達は、バツが悪そうな顔でその若人を突き飛ばすと、何も言わずに去って行った。与一はふと視線を解放された若者へと移す。齢は与一と同じくらいといったところか。汚れた身なりながらも、その表情はどこか大人びている。
「大丈夫か?」
 心配して見せる十郎だが、その若者は黙ってそっぽ向いてしまった。これを与一がなじる。
「何だ。随分と礼儀を知らねぇ野郎だな」
「いや与一、野郎……ではなかろう」
 十郎の指摘に与一が改めてその若人をよく見ると、確かに娘の様である。やがて、その娘は手持ちの琵琶を大切そうに抱え階段に腰かけた。その傍らには、銭の入った容器が置かれている。
 ーー琵琶師、か……。
 与一はうなずき十郎に「去ろう」と手前招きするものの、十郎はあろうことか手持ちの銭を琵琶の娘に投じた。
「一曲、頼むよ」
「ちょっ……十郎兄!」
 与一が驚く中、十郎に娘は琵琶を構える。そこから始まったのは、二人が声も出ないほどの演奏である。時に甘く、時に激しくも心を大いに揺さぶる琵琶の音に二人は、完全に飲まれてしまった。
 ーー琵琶って、こんなに攻撃的なのか!?
 撥を手に弦を弾く娘の奏でる音色に与一は固まっている。一曲聴き終えた頃には、二人共々完全に度肝を抜かれてしまった。
「そなた、名前は何と申す?」
 名を問う十郎に、娘はぶっきらぼうに名乗った。
「響」
「響か……実によい名だ。その方、親は?」
「いない。武士に殺された」
 そう告げる響に与一は納得する。どうやら響の武士嫌いは、この辺に由来しているようだ。なんでも信濃前司行長と名乗る僧の娘として生まれたらしい。目下、琵琶を生活の糧に旅を続けている、とのことだった。さらに十郎は問う。
「響、なんで男のナリをしてる?」
「その方が何かと都合がよいからな」
 響はうつむきつつも返答した。そんな響に俄然、興味を覚えた十郎は徐ろに切り出す。
「響、実は相談があるんだ」
 与一が何事かと怪訝な表情を浮かべる中、十郎はかねてより温めてきたらしい構想を打ち明かした。案の定、響はキョトンとしている。
「平家物語? 何だそれは?」
「今、時代は貴族社会から武家社会への転換期にあるだろう。来たるべき新たな世に向け産みの苦しみにある。その事の顛末を語り部として、時を超えた琵琶の弾き語りでゆくゆくまで演じさせたいんだ」
 これに無愛想だった響が、いち早く反応した。
「十郎。お前、面白いな」
 響は瞳を光らせながら、さらに問うた。
「その物語は、十郎が書くのか?」
「いや。皆で書く。煌めく才に彩られたこの世の輝きを、散り際の儚さを形にしたいんだ」
「分かった。その語り部とやら、わらわがやろう!」
 身を乗り出す響に十郎は、満足げだ。一方、傍らの与一は困惑気味だ。これまでこれと言った異性と交流のなかった十郎が、鉢合わせたばかりの琵琶弾きと意気投合し、すっかり夢中になっているのである。
 ーー俺は今、邪魔なのか?
 そんな居心地の悪さすら感じつつ、与一はただ二人が作ろうとしている何かを前に呆然と立ち尽くした。

     3

 平家討伐の院宣がおりた。ここで頼朝はこの任務を二人の弟に任せた。平家討伐軍の総大将である源範頼と源義経だ。対する平家の状況だが、義仲に一度は敗れ九州に逃れたものの、その後、勢力を回復させ平家がかつて都を置いた福原に持てる多くの軍を集中させている。そこには京を奪還し返り咲かんと虎視眈々と狙う意図が読み解けた。
 これを撃滅すべく、範頼と義経は京から進軍した。総勢七万とも言われる大軍だが、二人はこれを互いに分け合い、二方面からそれぞれのルートで平家へと迫った。範頼を含む主力はそのまま西へ向かい、残りの戦力を率いる義経は北方の山地をぐるりと迂回し、平家軍の背後を奇襲し挟撃を目論んでいる。
 一方の平家軍は福原周辺に防御の陣を構えた。そもそも福原という地は、北に峻険な山地を有し南は海と接するわずかな平地に築かれた街だ。無論、出入り口を東の生田と西の一ノ谷という隘路に有するものの、実に防御に適している。ここに平家は軍を配置し、堅固な防御陣地を築いた。福原への全ての出入り口に蓋をしたのだ。さらに奇襲を警戒し、北の三草にも部隊を配置している。
 そんな中、待っていたとばかりに義経とその配下は進軍した。驚くべきはその構成である。全てが騎兵なのだ。
「いざ行かん」
 義経の軍は先を急いでいる。無論、与一や十郎も随伴している。
「与一、覚悟せよ」
「分かってるさ。十郎兄」
 二人は互いにうなずき合った。というのも義経の戦は常にこうなのだ。何よりもまず速度を求め、皆にそれを強いるのである。
 ーー騎兵による長距離遠征軍か。目指す地は、一ノ谷だな。
 与一は義経の意を察し、必死に行軍にしがみついている。機動力で敵の意表を突き、懐に潜り込んで全滅を覚悟した遠距離からの奇襲を敵の急所にぶつけるーーこれが義経の最も得意とする戦いの型だ。その構想を形にすべく、全軍が泥に塗れ先を急いでいる。
 ちなみにこの戦略を軍議で披露した際、義経は頼朝傘下の梶原景時とぶつかったらしい。「理解できぬ」と一蹴した景時は、義経と揉めた後、その指揮下を離れ源範頼の軍に所属することになった。
 ーー無理もない。
 与一は改めて景時に同情した。それほどまでに義経の戦略は突飛であり、現実に即していない。ある種の天才に属するもので万人には理解し得ず、側で行動をともにする与一らが肌感覚でようやく分かり得る類のものなのだ。
 そんな義経だが、さすがの与一らも首を傾げる行動に打って出る。平家の拠点である一ノ谷が近づいたところでさらに軍を分けたのだ。一つは本軍として配下に託し平家の背後に向かわせ、自身はわずかな数十騎とともに山中から南下させた。
 ーーそもそもこの軍自体が別働隊なのだ。それをさらに細分化し新たな別働隊を設けようというのか……。
 口にこそ出さないものの、皆が同じことを思っている。与一はこそっと十郎につぶやく。
「相変わらず、義経様の機動思想は飛躍しているな」
「それでこそ義経様なのさ」
 十郎が笑って応じた。もっともこれには義経なりの理由がある。軍を分けることで行軍速度を上げようとしたのだ。だがその反面、攻撃力は落ちることとなるが、義経はここに賭けた。
 かくして義経を筆頭とした別働隊は山中へと馬を進めていく。十郎と与一も参加している。そこでこの地に明るい現地の者に奇襲の要となる場所を問うた。すると誰からも同じ答えが返ってきた。
 曰く〈鵯越〉だと。俗に言う「鵯越の逆落とし」である。その場所は須磨区と垂水区の境界にある鉄拐山の南東斜面にあたるとのされている。この答えを得た義経は、すぐさま皆を連れて鵯越へと馬を進めた。道なき道を進み峻険な坂を登りつめた与一らは、丘から一望できる光景に息を飲んだ。
 夜明け前の暗がりの中に凄まじい数の船篝火が浮かんでいるのだ。一ノ谷は言わずもがな、はるか先にまで連なるその光景は、圧巻の一言に尽きた。
 ーーあれが平家……。
 言葉を失う与一だが、なんとか声を出して問うた。
「十郎兄、平家はあれだけの水軍を擁しているのか」
「そのようだな。流石は清盛が作った軍……と言えよう」
 今、二人は改めて敵の威容に圧倒されている。だがぼんやりともしていられない。空は明るさを帯び始めて明朝に差し掛かっている。範頼ら本隊と示し合わせた刻限までさほど余裕はない。平家の多くを引きつける役目を担う本軍にとって、背後を強襲する義経の軍は必要不可欠な戦力なのだ。
 義経は眼下の断崖絶壁を見下ろしながら、連れて来た現地の者に問うた。
「ここを鹿は通うのか?」
「通います」
 その答えを得た義経は、皆に言った。
「皆、聞いたか。鹿すら通う。なら馬が通えぬ道理はない。皆の者、行くぞ!」
 意を決した義経は、我先に鵯越から馬を進め、曲芸のような手綱捌きで岩場を下っていく。それを見た配下の兵が「我も我も」と後に続いた。これが世に名高い鵯越の逆落としである。馬に急勾配の坂をくだらせながら、嘆くのは十郎だ。
「相変わらず義経様は、無茶をなさる……」
「今更だぜ。十郎兄」
 与一が笑いながら、義経に追いつかんと先を急いだ。まさに義経の別働隊は滑り落ちるが如く一ノ谷へと距離を縮めていく。これにようやく気付いた平家の驚きたるや、只事ではない。
 突如、頭上から敵が現れたーーまさにそんな感覚である。皆が意表を突かれ狼狽し恐怖の声を上げている。そこへ坂を降り切った義経らが、得意の騎射を始めたものだから、一帯は大混乱に陥った。
「火を放て!」
 義経の命令に皆が、火矢を平家の本営に放っていく。たちまち平家の陣地は炎に飲まれた。立ち上る黒煙は、平家の戦意を哀れなほどに打ち砕く。ここに平家軍がこれまで必死に守ってきたバランスが大いに崩れた。待っていたのは、平家軍の大敗走である。
 かくして義経の奇襲は成功し、源氏は空前の大勝利を得ることとなった。

     3

 源氏が寡兵で平家の大軍を破ったーーその報はすぐさま京へ伝わった。伝騎曰く、大勝利の立役者は義経にあるという。もっとも平家棟梁の宗盛を逃し、三種の神器は奪還できなかったが、それを割り引いても大勝利には、違いがない。
 京の民は口々に誇張された噂を広げ、空前の勝利をもたらした義経に喝采を送っている。後白河法皇に至っては、手を叩いてその勝利を喜んだという。
 都じゅうが湧き立つ中、義経は意気揚々と凱旋した。その熱狂ぶりたるや凄まじいものがあった。誰もがこの若武者を手放しで褒め称え、歓迎している。その凱旋軍の中に十郎と与一がいる。
「十郎兄。俺達、英雄になっちまったなぁ」
 馬上の与一は、急騰する評価に興奮を隠せない。十郎も同様だが、一抹の不安を覚えていると言う。
「与一。俺達は勝ち過ぎた」
 ポツリと懸念を述べる十郎を与一が、笑った。
「何言ってんだよ十郎兄。勝利に勝ち過ぎもへったくれもなかろう」
 もっとも十郎が言わんとしているのは、史に名を刻むほどの大勝利はかえって人を狂わせるとの言うことだ。さらに言えばそこに乗ずる御仁がこの都にいる。言わずもがな、日の本一の大天狗、後白河法皇だ。
 案の定、戦勝報告に訪れた義経の心を法皇は絡め取りにきた。
「見事である」
 まずは褒めた。その上で三種の神器の奪還がならなかったことを咎めて見せた。これに怯んだ義経は恐縮のあまり、平伏をしている。その様子に満足した後白河法皇は、間髪入れず再び義経を称えた。
 手を替え品を替え、硬軟織り交ぜてあやす法皇に義経は幼児の如く感激し、涙すら見せている。肩を震わせる義経の後ろ姿に、従来よりつき従えていた家臣はもらい泣きを禁じ得ない。与一も同様だ。
 そんな中、十郎は懸念を覚えている。法皇との対面から解放された後、すかさず与一に言った。
「与一。義経様は今、政治的に微妙な立ち位置だ」
「え、どう言うことだよ。十郎兄?」
 キョトンとする与一に十郎は言った。
「かつて平家を京から追い出し、征夷大将軍となった義仲は増長し自滅した。今、義経様も周りが見えなくなっている。この勝利を歓迎しつつ、内心で警戒を覚える御仁がいることが見えていない」
「それって、鎌倉殿のことか?」
 確認する与一に十郎はうなずく。曰く、恐るべきは鎌倉殿であり、法皇様は間違いなく義経様をその対抗勢力になさるだろうと。
「与一。義経様だがな、長くは生きられぬ御仁かもしれぬ」
 縁起でもないことを口にする十郎を、与一は逆に嘆いた。
 ーー十郎兄は、大層すぎる。
 もっともそれが十郎の思い過ごしではないことを、この時の与一はまだ知らない。
 


 さて、総じて保守的で物事を深く追求するあまり悲観的になりがちな十郎だが、実は他の誰よりもこの勝利を喜んでいる。
「響、勝ったぞ!」
 与一とともに戦勝の報告にきた十郎に、響が笑って応じた。
「聞き及んでおる。一ノ谷で平家を圧倒したようだな」
「いかにも。大勝利だ」
「ならもう平家の力は衰えたのか?」
「いや、そうは簡単に行くまい」
 そこは慎重な十郎である。腕を組み考え込む中、与一がその懸念を言葉にした。
「あの水軍だよな。十郎兄?」
「いかにも」
 十郎は即答でうなずく。二人の脳裏から夜の海に浮かぶ凄まじい数の船篝火が今も頭から離れないのだ。
「制海権を取られているからな。一朝一夕には行くまい。それに別の戦いも始まっておる」
「別の戦いとな?」
 聞き耳を立てる響に十郎が言った。
「鎌倉殿と法皇様の戦いだ」
「妙なことを言う。十郎、此度の戦さの官軍はそなたらであろう。鎌倉殿も法皇様もともに味方同士ではないか」
 もっともな指摘を述べる響に十郎は、うなずきつつ言った。
「実はな。鎌倉殿が早速、上奏をしかけられた。此度の戦さの賞罰は鎌倉が行うと公言されたのだ。あろうことか法皇様もこれを許してしまわれた」
「それがそんなにマズいことのか?」
「あぁ、俺が思うに鎌倉殿は幕府を樹立されようとしているきらいがある。これはそのための布石と見ている」
 十郎の見立てに与一が首を傾げながら言った。
「意外だよな、十郎兄の読みが事実なら、法皇様は王権の没落に繋がる何かを見落とされたことになる」
「ふむ。十郎、与一。その方らの話を聞くかぎり鎌倉殿は随分としたたかなお方のようだな」
 響の分析に与一が苦笑する。
「と言うか、そうならざるを得ないんだろうさ」
「あぁ、与一のいう通りだ。人というのは己からこれまでのやり方を変えようとはしない。他者から無理を強いられ、いやいや変化に対応すべくしたたかになるのだ」
 二人の哲学に、響が大いに食いつく。
「十郎、与一。そなたの話を聞いていると、わらわまで熱くなってくるぞよ。それはそうとそなたに見てもらいたいものがある」
 響は徐ろに紙の束を取り出した。それを読んだ十郎は、たちまち目を輝かせた。
「十郎が申しておった平家物語とやらの続きを、同じ寺でよしみのある僧の助けを得て書いてもらったのだが、どうかの?」
 評を求める響に十郎は、興奮気味に言った。
「響。今、ここでこの弾き語りを試してもらえぬか?」
「そう申すと思って、そらんじてきた。行くぞよ」
 響は笑みとともに琵琶を立て撥を取った。朗々と読み上げ弦を弾く響に十郎は、感極まっている。終わりに差し掛かる頃には、不覚にも涙すら浮かべてしまった。
 そんな十郎に響は言った。
「十郎、そなたはわらわの目であり耳だ。史に歪曲は否めないが、そなたなら正しく史を刻めよう。先の展開を待っている。ともにこの物語を紡ごうぞ」
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「合衆国海軍ハ 六〇〇〇〇トン級戦艦ノ建造ヲ計画セリ」 米国駐在武官からもたらされた一報は帝国海軍に激震をもたらす。 新型戦艦の質的アドバンテージを失ったと判断した帝国海軍上層部はその設計を大幅に変更することを決意。 六四〇〇〇トンで建造されるはずだった「大和」は、しかしさらなる巨艦として誕生する。 だがしかし、米海軍の六〇〇〇〇トン級戦艦は誤報だったことが後に判明。 情報におけるミスが組織に致命的な結果をもたらすことを悟った帝国海軍はこれまでの態度を一変、貪欲に情報を収集・分析するようになる。 そして、その情報重視への転換は、帝国海軍の戦備ならびに戦術に大いなる変化をもたらす。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

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