13 / 16
『潮流』
1
しおりを挟む
「これ以上のものは世界のどこにもないであろう」
地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェンの『支那旅行日記』より
潮の匂いがする。
不規則に揺れる新幹線の窓に頭を預け、私は目を閉じた。
東京から目的地の広島まで新幹線で約四時間。駅弁を買って乗り込んでからまだ1時間半ほどしか経っていない。
大学進学で東京へ出て以来、実家へ帰るのは、年にお盆と正月の二回だけ。
それが三年目ともなれば、今どのあたりを走っているのか、窓の外を見なくても体の感覚で大体は判る。
山とトンネルの応酬、延々と続く田園風景。
それらを見る度、自分がとても遠い場所へ行ってしまったのだということを痛感する。
『おばあちゃん、もう危ないんよ』
大学三年生の夏は、バイトと就活で忙しく、今年の盆の帰省は見送ろうかと考えていた矢先のことだった。
母は電話口でいつもより声の調子を落とし、申し訳なさげにそう告げた。
母も私の事情を気遣い、それまであまり祖母の容態について話さないようにしてくれていたのだろう。
春先に体調を崩して入院したことは聞いていたが、それほど深刻な様子でもなさそうだったので、すっかり忘れてしまっていた。
帰ってきなさい、とは言われなかった。
ただ、どうする、とだけ聞かれたので、私は一瞬迷った末に、今週末に帰ると答えた。
バイト先に事情を話すと、快くすぐに代わりの人を手配してくれたので、私はとりあえず一週間ほど休みをもらうことにした。
帰ってきた。
そう強く感じるのは、駅のホームに降り立った時に肌で感じる瀬戸内海特有の湿気を含んだ空気でも、駅中のお土産屋さんで売っているもみじ饅頭でも、お好み焼きの匂いでもない。
閉じた瞼の裏にじわりと熱を持って浮かび上がる黒い塊。
静かだが、その存在を確かに主張する耳障りな音。
ねっとりと肌に纏わりつき、ざらりと舌の上で砂が転がるような匂い。
それらは、私が実家のことを考えたり思い出す時、必ず私の身に再現される。
訳もなく感じる静かな苛立ちとともに。
私の実家は、山を切り崩して作った高台にあり、海は見えないが、家の裏手にある坂道を下った先に入江になった小さな湾が現れる。
普段は潮の匂いなどしないのに、時折海から吹く風に乗ってやってくるその香りが私は嫌いだ。
どこかの釣り人が捨てていった魚の死骸を見つけた時のような気分になる。
私は、ペットボトルに入ったお茶と共にその感覚を飲み下すと、座席に深く身を沈めた。
新幹線の揺れは不規則だが穏やかで優しく、いつしか私は眠りに落ちていた。
「おかえり」
新幹線の改札を出たところで母の笑顔が私を迎えてくれた。
半年ぶりに娘に会えた嬉しさと、それを素直に喜んでいいのか複雑な面持ちでいる。
それでも、不安げな表情の中にどこかほっとした顔を見つけると、ここへ帰ってくることを一瞬でも迷ったことに少し胸が痛んだ。
病院を訪れると、祖母の意識はなく、ただ静かに病室のベッドで仰向けに横たわっていた。
身体から延びる幾本もの管やコードがなければ、ただ眠っているだけにしか見えない。
穏やかな寝顔だった。
今にでも起きて、よく帰ってきたね、といつもの優しい笑顔で私を迎えてくれそうな気さえする。
ただ、久しぶりに見た祖母の顔は、記憶のものより白く痩せ細っていた。
祖母の容態は一旦落ち着いてはいるが、いつどうなるかわからない状態らしい。
だからと言って、このままずっと病院にいるわけにもいかない。
そこで、何かあったらすぐに連絡をもらえるよう家で待機することになっている、そう母から説明を聞かされた私は、後ろ髪を引かれながら再び家へと戻った。
「就職活動はどう? 順調に進んどる?」
少し早めの夕食に、母が作ってくれたお好み焼きを味わっていると、母が唐突にそう切り出した。
父は仕事で帰りが遅くなると連絡があったため、今は母と二人きりだ。
他に話題もないので致し方ない。
私は、急に味のしなくなったお好み焼きのそばを飲み込むと、うん、まあぼちぼちね、と箸を動かしながら答えた。
「今はどこも就職難じゃろう。
やっぱり母さんは、公務員の試験を受けるのが一番良いと思うんよね。
幸乃は、昔から勉強がよう出来とったし、父さんに似て責任感も強いマメな子じぇけえ、きちんと勉強すればきっと受かるんじゃないかねぇ」
リビングのテレビからは、最近人気が出てきた芸人がつまらないギャクで笑いを取っている。
反応のない私に何かを察したのか、それか、と母は続けた。
「もし、そっちでうまくいかんようなら、いつでも帰ってきてええんよ」
私はテレビの音で聞こえないフリをした。
夜の九時を過ぎた頃、妹の舞が制服姿で帰って来た。
今年中学三年生になる舞は、夏休み中も高校受験のために塾へ通っているらしい。
こんな時でも、周りの人の時間はいつも通りに進んでいくことに私は軽い空虚感を覚えた。
おばあちゃんは、と舞が訊くと、母は眉尻を下げて首を振った。
今のところ家の電話は沈黙を守っている。
舞は、夕飯に塾で食べたらしい空のお弁当箱を出すと、台所で洗い物をしている母に聞こえないよう私のすぐ耳元まで来て言った。
「お姉、ちょっと話があるんじゃけど」
そのただならぬ様子に私が目で頷くと、舞は二階にある自分の部屋へと上がっていった。
続いて私も、二階にある自分の部屋へ行くフリをして、舞の部屋をノックする。
中からどうぞ、と声がするのを待って中へ入ると、舞は制服姿のまま勉強机に向かって腰かけていた。
地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェンの『支那旅行日記』より
潮の匂いがする。
不規則に揺れる新幹線の窓に頭を預け、私は目を閉じた。
東京から目的地の広島まで新幹線で約四時間。駅弁を買って乗り込んでからまだ1時間半ほどしか経っていない。
大学進学で東京へ出て以来、実家へ帰るのは、年にお盆と正月の二回だけ。
それが三年目ともなれば、今どのあたりを走っているのか、窓の外を見なくても体の感覚で大体は判る。
山とトンネルの応酬、延々と続く田園風景。
それらを見る度、自分がとても遠い場所へ行ってしまったのだということを痛感する。
『おばあちゃん、もう危ないんよ』
大学三年生の夏は、バイトと就活で忙しく、今年の盆の帰省は見送ろうかと考えていた矢先のことだった。
母は電話口でいつもより声の調子を落とし、申し訳なさげにそう告げた。
母も私の事情を気遣い、それまであまり祖母の容態について話さないようにしてくれていたのだろう。
春先に体調を崩して入院したことは聞いていたが、それほど深刻な様子でもなさそうだったので、すっかり忘れてしまっていた。
帰ってきなさい、とは言われなかった。
ただ、どうする、とだけ聞かれたので、私は一瞬迷った末に、今週末に帰ると答えた。
バイト先に事情を話すと、快くすぐに代わりの人を手配してくれたので、私はとりあえず一週間ほど休みをもらうことにした。
帰ってきた。
そう強く感じるのは、駅のホームに降り立った時に肌で感じる瀬戸内海特有の湿気を含んだ空気でも、駅中のお土産屋さんで売っているもみじ饅頭でも、お好み焼きの匂いでもない。
閉じた瞼の裏にじわりと熱を持って浮かび上がる黒い塊。
静かだが、その存在を確かに主張する耳障りな音。
ねっとりと肌に纏わりつき、ざらりと舌の上で砂が転がるような匂い。
それらは、私が実家のことを考えたり思い出す時、必ず私の身に再現される。
訳もなく感じる静かな苛立ちとともに。
私の実家は、山を切り崩して作った高台にあり、海は見えないが、家の裏手にある坂道を下った先に入江になった小さな湾が現れる。
普段は潮の匂いなどしないのに、時折海から吹く風に乗ってやってくるその香りが私は嫌いだ。
どこかの釣り人が捨てていった魚の死骸を見つけた時のような気分になる。
私は、ペットボトルに入ったお茶と共にその感覚を飲み下すと、座席に深く身を沈めた。
新幹線の揺れは不規則だが穏やかで優しく、いつしか私は眠りに落ちていた。
「おかえり」
新幹線の改札を出たところで母の笑顔が私を迎えてくれた。
半年ぶりに娘に会えた嬉しさと、それを素直に喜んでいいのか複雑な面持ちでいる。
それでも、不安げな表情の中にどこかほっとした顔を見つけると、ここへ帰ってくることを一瞬でも迷ったことに少し胸が痛んだ。
病院を訪れると、祖母の意識はなく、ただ静かに病室のベッドで仰向けに横たわっていた。
身体から延びる幾本もの管やコードがなければ、ただ眠っているだけにしか見えない。
穏やかな寝顔だった。
今にでも起きて、よく帰ってきたね、といつもの優しい笑顔で私を迎えてくれそうな気さえする。
ただ、久しぶりに見た祖母の顔は、記憶のものより白く痩せ細っていた。
祖母の容態は一旦落ち着いてはいるが、いつどうなるかわからない状態らしい。
だからと言って、このままずっと病院にいるわけにもいかない。
そこで、何かあったらすぐに連絡をもらえるよう家で待機することになっている、そう母から説明を聞かされた私は、後ろ髪を引かれながら再び家へと戻った。
「就職活動はどう? 順調に進んどる?」
少し早めの夕食に、母が作ってくれたお好み焼きを味わっていると、母が唐突にそう切り出した。
父は仕事で帰りが遅くなると連絡があったため、今は母と二人きりだ。
他に話題もないので致し方ない。
私は、急に味のしなくなったお好み焼きのそばを飲み込むと、うん、まあぼちぼちね、と箸を動かしながら答えた。
「今はどこも就職難じゃろう。
やっぱり母さんは、公務員の試験を受けるのが一番良いと思うんよね。
幸乃は、昔から勉強がよう出来とったし、父さんに似て責任感も強いマメな子じぇけえ、きちんと勉強すればきっと受かるんじゃないかねぇ」
リビングのテレビからは、最近人気が出てきた芸人がつまらないギャクで笑いを取っている。
反応のない私に何かを察したのか、それか、と母は続けた。
「もし、そっちでうまくいかんようなら、いつでも帰ってきてええんよ」
私はテレビの音で聞こえないフリをした。
夜の九時を過ぎた頃、妹の舞が制服姿で帰って来た。
今年中学三年生になる舞は、夏休み中も高校受験のために塾へ通っているらしい。
こんな時でも、周りの人の時間はいつも通りに進んでいくことに私は軽い空虚感を覚えた。
おばあちゃんは、と舞が訊くと、母は眉尻を下げて首を振った。
今のところ家の電話は沈黙を守っている。
舞は、夕飯に塾で食べたらしい空のお弁当箱を出すと、台所で洗い物をしている母に聞こえないよう私のすぐ耳元まで来て言った。
「お姉、ちょっと話があるんじゃけど」
そのただならぬ様子に私が目で頷くと、舞は二階にある自分の部屋へと上がっていった。
続いて私も、二階にある自分の部屋へ行くフリをして、舞の部屋をノックする。
中からどうぞ、と声がするのを待って中へ入ると、舞は制服姿のまま勉強机に向かって腰かけていた。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
サンドアートナイトメア
shiori
ライト文芸
(最初に)
今を生きる人々に勇気を与えるような作品を作りたい。
もっと視野を広げて社会を見つめ直してほしい。
そんなことを思いながら、自分に書けるものを書こうと思って書いたのが、今回のサンドアートナイトメアです。
物語を通して、何か心に響くものがあればと思っています。
(あらすじ)
産まれて間もない頃からの全盲で、色のない世界で生きてきた少女、前田郁恵は病院生活の中で、年齢の近い少女、三由真美と出合う。
ある日、郁恵の元に届けられた父からの手紙とプレゼント。
看護師の佐々倉奈美と三由真美、二人に見守られながら開いたプレゼントの中身は額縁に入れられた砂絵だった。
砂絵に初めて触れた郁恵はなぜ目の見えない自分に父は砂絵を送ったのか、その意図を考え始める。
砂絵に描かれているという海と太陽と砂浜、その光景に思いを馳せる郁恵に真美は二人で病院を抜け出し、砂浜を目指すことを提案する。
不可能に思えた願望に向かって突き進んでいく二人、そして訪れた運命の日、まだ日の昇らない明朝に二人は手をつなぎ病院を抜け出して、砂絵に描かれていたような砂浜を目指して旅に出る。
諦めていた外の世界へと歩みだす郁恵、その傍に寄り添い支える真美。
見えない視界の中を勇気を振り絞り、歩みだす道のりは、遥か先の未来へと続く一歩へと変わり始めていた。
思い出せてよかった
みつ光男
ライト文芸
この物語は実在する"ある曲"の世界観を
自分なりに解釈して綴ったものです。
~思い出せてよかった…
もし君と出会わなければ
自分の気持ちに気づかないまま
時の波に流されていただろう~
ごくごく平凡なネガティブ男子、小林巽は
自身がフラれた女子、山本亜弓の親友
野中純玲と少しずつ距離が縮まるも
もう高校卒業の日はすぐそこまで来ていた。
例えば時間と距離が二人を隔てようとも
気づくこと、待つことさえ出来れば
その壁は容易く超えられるのだろうか?
幾つかの偶然が運命の糸のように絡まった時
次第に二人の想いはひとつになってゆく。
"気になる" から"好きかも?" へ
"好きかも?"から "好き"へと。
もどかしくもどこかほんわりした
二人の物語の行方は?
抱きたい・・・急に意欲的になる旦那をベッドの上で指導していたのは親友だった!?裏切りには裏切りを
白崎アイド
大衆娯楽
旦那の抱き方がいまいち下手で困っていると、親友に打ち明けた。
「そのうちうまくなるよ」と、親友が親身に悩みを聞いてくれたことで、私の気持ちは軽くなった。
しかし、その後の裏切り行為に怒りがこみ上げてきた私は、裏切りで仕返しをすることに。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる