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2.花と緑と弾丸と
9.
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私の国〈ティル・ナ・ノーグ〉は、妖精たちが住まう平和で自然豊かな美しい国だ。
妖精と言っても、その種類は多岐に渡る。身体の大きい巨人のような姿をしている者から、目に見えない程小さな者もいれば、人間と同じくらいの身体を持っている者もいる。彼らの容姿や性格も実に様々で、一概に妖精とひとくくりに説明できるものではない。かつてミレー族との戦いに敗れて移り住んだダーナ神族を祖にもつと言われており、つまるところ妖精とは、神の血を継いでいる者、ということになる。
妖精の国は、〈フェート・フィアダ〉という魔法の霧で人間界の目から隠されているため、生きている人間が入りこむことはできない。
しかし、その国の住人から招待を受けると、人間も生きたまま足を踏み入れることが可能なのだ。
私は、たまたま気まぐれに訪れた人間界で、美しい一人の女性と出会った。それが麗良の母、胡蝶だ。その時、胡蝶はまだ十六歳で、ほころびかけた蕾のような年頃だった。
私たち二人は、一目で恋に落ちた。
私は、胡蝶に自分の住む美しい《妖精の国》の話をした。胡蝶は、それを喜んで聞いて、自分も《妖精の国》へ行ってみたいと言ってくれた。
私は、胡蝶の喜ぶ顔が見たくて、彼女を《妖精の国》へ招待した。初めは、見るもの全てが珍しく美しい《妖精の国》での生活に、胡蝶は喜び、満足しているように見えた。
だが、やがて月日が経つにつれ、次第に父母や友人が恋しくなり、家へ帰りたいと泣く日々が続いた。段々とやつれていく彼女を見ていられず、私は、胡蝶を家へと帰してやることにした。
だが、私は大事なことを彼女に伝えていなかった。
《妖精の国》と人間界では時間の流れが違う。《妖精の国》での一年が人間界では十年以上も経ってしまうことがあるのだ。
人間界へ帰った時、胡蝶はまだ十七歳だったが、同級生たちは皆、大人になっていた。両親はすっかり老いてしまっていたが、母親は泣いて胡蝶の無事を喜んだ。だが、彼女の父親は、全く歳をとっていない娘をまるで化け物でも見るような目で見ていた。
胡蝶は、その時差に心が耐えられなかった。日本では、失踪して七年が経つと、法律上死亡したとみなされるそうだ。若いままの姿で今更友人らに顔を見せに行くこともできず、世間的に父母の子とするには若すぎる。胡蝶の居場所は、人間界のどこにもなかった。しかもその時、彼女のお腹の中には、私との間にできた新しい命が宿っていた。
《妖精の国》へと戻るかどうか胡蝶が悩んでいる間に冬が過ぎ、春がきた。ちょうどその頃、《妖精の国》では、大きな戦争が勃発しようとしていた。
平和な《妖精の国》にも争いの火種というのがある。残念なことに、私は王として、それを未然に防ぐことが出来なかった。
そこで私は、国へ帰らなくてはならなくなった。だが、不安定な状態の胡蝶と、まだ生まれてもない赤子を危険な目に遭うかもしれない場所へ連れて行くわけにはいかない。
私は悩んだ末、胡蝶と生まれてくる赤子の安全を優先させたのだ。
戦争を終わらせて、国が安定したら、必ず再び戻ってくると約束をして――。
ただ一つだけ心配だったのは、それまで胡蝶の心が保つかどうかが分からなかった。
さっきも言ったように、《妖精の国》と人間界では時の流れが違う。戦争を終わらせることは容易ではない。何年……何十年も彼女を待たせることになるかもしれない。その間、生きて戻るかどうかも分からない私を待ち続ける辛さを彼女に与えたくはなかった。
私は、彼女の笑顔を守るため、胡蝶から私と《妖精の国》の記憶を消すことにした。
「それじゃあ……母さんは、あなたのことを全く覚えていないの?」
そうだ、と頷くラムファの瞳は、悲しむことを諦めているかのような色をしていた。
「…………だから母さんは、私のことを娘だと分からないのね」
「レイラには、本当に申し訳なく思っている。
まさか自分が産んだ娘のことまで忘れてしまうとは思わなかったんだ。
でも、よく考えたら、父親が誰かということを覚えていないのだから、
自分が子供を身籠っているという事実が彼女の記憶の中に矛盾を産んだのだろう」
自分の考えが足りず申し訳ない、と頭を下げるラムファを、麗良は静かな目で見つめる。
麗良には、ラムファを恨む気持ちよりも、これまで不思議に思っていた様々なことの理由がやっと解って安堵する気持ちの方が大きかった。
胡蝶が麗良を見る時に不思議そうな顔をすること、父親の話題を出すと錯乱状態になること、そして何より、胡蝶が部屋から一歩も外を出ず、あの閉ざされた庭でずっと誰かを待っているように見えたのは間違いではなかったのだ。
胡蝶は待っていたのだ。記憶を消されても尚、消えることのなかった強い想いが彼女をそうさせていた。
ラムファが自分を迎えて来てくれるのをずっとずっと待っていたのだ。
「お願い、母さんに会ってあげて」
嫌っていた筈なのに、麗良は気が付けば、自然とそう口にしていた。
ずっと待っていた人が迎えて来てくれた、これがハッピーエンドでなければ、何だと言うのだろうか。
涙を流して喜ぶ胡蝶の顔が目に浮かぶようで、麗良の頬は紅潮していた。
だが、それに反してラムファの表情は暗い。固い口調で首を横に振った。
「それはできない」
「どうして」
「もし、私を見て思い出すようなことがあれば、彼女の中に記憶の矛盾が生まれる。
それは、胡蝶の心を壊すことにもなるんだ」
「でも、母さんは、ずっとあなたのことを待っているのよ。
記憶がなくても、覚えているのよ。
それだけあなたのことを想っている証拠じゃない」
わからないんだ、とラムファは救いを求めるように呟いた。
「それが正しいことなのかどうか、私には、まだわからないんだ……」
ラムファの視線が空になったアイスクリームの容器に注がれている。
大きな大人がまるで迷子になった幼い子供のようだ。
ラムファは迷っているのだ。《妖精の国》から胡蝶を家へ帰した時からずっと。
このまま自分のことを忘れて人間界で暮らしていくのが胡蝶のためなのではないか、と。
麗良は、膝の上で両手をきつく握りしめた。
「そんなの……納得できない」
会いたい人がすぐ傍にいるというのに、何故会うことが正しくないと言えるのか、麗良には、分からなかった。
妖精と言っても、その種類は多岐に渡る。身体の大きい巨人のような姿をしている者から、目に見えない程小さな者もいれば、人間と同じくらいの身体を持っている者もいる。彼らの容姿や性格も実に様々で、一概に妖精とひとくくりに説明できるものではない。かつてミレー族との戦いに敗れて移り住んだダーナ神族を祖にもつと言われており、つまるところ妖精とは、神の血を継いでいる者、ということになる。
妖精の国は、〈フェート・フィアダ〉という魔法の霧で人間界の目から隠されているため、生きている人間が入りこむことはできない。
しかし、その国の住人から招待を受けると、人間も生きたまま足を踏み入れることが可能なのだ。
私は、たまたま気まぐれに訪れた人間界で、美しい一人の女性と出会った。それが麗良の母、胡蝶だ。その時、胡蝶はまだ十六歳で、ほころびかけた蕾のような年頃だった。
私たち二人は、一目で恋に落ちた。
私は、胡蝶に自分の住む美しい《妖精の国》の話をした。胡蝶は、それを喜んで聞いて、自分も《妖精の国》へ行ってみたいと言ってくれた。
私は、胡蝶の喜ぶ顔が見たくて、彼女を《妖精の国》へ招待した。初めは、見るもの全てが珍しく美しい《妖精の国》での生活に、胡蝶は喜び、満足しているように見えた。
だが、やがて月日が経つにつれ、次第に父母や友人が恋しくなり、家へ帰りたいと泣く日々が続いた。段々とやつれていく彼女を見ていられず、私は、胡蝶を家へと帰してやることにした。
だが、私は大事なことを彼女に伝えていなかった。
《妖精の国》と人間界では時間の流れが違う。《妖精の国》での一年が人間界では十年以上も経ってしまうことがあるのだ。
人間界へ帰った時、胡蝶はまだ十七歳だったが、同級生たちは皆、大人になっていた。両親はすっかり老いてしまっていたが、母親は泣いて胡蝶の無事を喜んだ。だが、彼女の父親は、全く歳をとっていない娘をまるで化け物でも見るような目で見ていた。
胡蝶は、その時差に心が耐えられなかった。日本では、失踪して七年が経つと、法律上死亡したとみなされるそうだ。若いままの姿で今更友人らに顔を見せに行くこともできず、世間的に父母の子とするには若すぎる。胡蝶の居場所は、人間界のどこにもなかった。しかもその時、彼女のお腹の中には、私との間にできた新しい命が宿っていた。
《妖精の国》へと戻るかどうか胡蝶が悩んでいる間に冬が過ぎ、春がきた。ちょうどその頃、《妖精の国》では、大きな戦争が勃発しようとしていた。
平和な《妖精の国》にも争いの火種というのがある。残念なことに、私は王として、それを未然に防ぐことが出来なかった。
そこで私は、国へ帰らなくてはならなくなった。だが、不安定な状態の胡蝶と、まだ生まれてもない赤子を危険な目に遭うかもしれない場所へ連れて行くわけにはいかない。
私は悩んだ末、胡蝶と生まれてくる赤子の安全を優先させたのだ。
戦争を終わらせて、国が安定したら、必ず再び戻ってくると約束をして――。
ただ一つだけ心配だったのは、それまで胡蝶の心が保つかどうかが分からなかった。
さっきも言ったように、《妖精の国》と人間界では時の流れが違う。戦争を終わらせることは容易ではない。何年……何十年も彼女を待たせることになるかもしれない。その間、生きて戻るかどうかも分からない私を待ち続ける辛さを彼女に与えたくはなかった。
私は、彼女の笑顔を守るため、胡蝶から私と《妖精の国》の記憶を消すことにした。
「それじゃあ……母さんは、あなたのことを全く覚えていないの?」
そうだ、と頷くラムファの瞳は、悲しむことを諦めているかのような色をしていた。
「…………だから母さんは、私のことを娘だと分からないのね」
「レイラには、本当に申し訳なく思っている。
まさか自分が産んだ娘のことまで忘れてしまうとは思わなかったんだ。
でも、よく考えたら、父親が誰かということを覚えていないのだから、
自分が子供を身籠っているという事実が彼女の記憶の中に矛盾を産んだのだろう」
自分の考えが足りず申し訳ない、と頭を下げるラムファを、麗良は静かな目で見つめる。
麗良には、ラムファを恨む気持ちよりも、これまで不思議に思っていた様々なことの理由がやっと解って安堵する気持ちの方が大きかった。
胡蝶が麗良を見る時に不思議そうな顔をすること、父親の話題を出すと錯乱状態になること、そして何より、胡蝶が部屋から一歩も外を出ず、あの閉ざされた庭でずっと誰かを待っているように見えたのは間違いではなかったのだ。
胡蝶は待っていたのだ。記憶を消されても尚、消えることのなかった強い想いが彼女をそうさせていた。
ラムファが自分を迎えて来てくれるのをずっとずっと待っていたのだ。
「お願い、母さんに会ってあげて」
嫌っていた筈なのに、麗良は気が付けば、自然とそう口にしていた。
ずっと待っていた人が迎えて来てくれた、これがハッピーエンドでなければ、何だと言うのだろうか。
涙を流して喜ぶ胡蝶の顔が目に浮かぶようで、麗良の頬は紅潮していた。
だが、それに反してラムファの表情は暗い。固い口調で首を横に振った。
「それはできない」
「どうして」
「もし、私を見て思い出すようなことがあれば、彼女の中に記憶の矛盾が生まれる。
それは、胡蝶の心を壊すことにもなるんだ」
「でも、母さんは、ずっとあなたのことを待っているのよ。
記憶がなくても、覚えているのよ。
それだけあなたのことを想っている証拠じゃない」
わからないんだ、とラムファは救いを求めるように呟いた。
「それが正しいことなのかどうか、私には、まだわからないんだ……」
ラムファの視線が空になったアイスクリームの容器に注がれている。
大きな大人がまるで迷子になった幼い子供のようだ。
ラムファは迷っているのだ。《妖精の国》から胡蝶を家へ帰した時からずっと。
このまま自分のことを忘れて人間界で暮らしていくのが胡蝶のためなのではないか、と。
麗良は、膝の上で両手をきつく握りしめた。
「そんなの……納得できない」
会いたい人がすぐ傍にいるというのに、何故会うことが正しくないと言えるのか、麗良には、分からなかった。
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