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『包丁とバッジとチョーカー』

第二十四話 『澪にはこうやって心配してくれる優しいお兄ちゃんがいるじゃない』

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「……澪、大丈夫かなぁ」

 もうすぐ決勝のレースが始まる。
 澪は既にトラックにいて、入念に身体をほぐしていた。
 その様子から気合十分であることが伺える。

「陸。あたしたちは澪を信じて、全力で応援するだけよ」

 僕の不安の呟きに、優しく微笑みかけてくる莉子。
 僕を安心させるかのようである。

「兄や姉とは、そういうものだと思っているわ」

 ……莉子もじつは不安に思っているのかもしれない。
 しかし、澪のために一生懸命、自身ができることを行っていた。
 本物の姉かのように。

 そのとき――。

「うひょー、JCじゃねーか!!」
「生足だぞ、おい!!」

 澪の決勝レース直前だというのに、男二人組が大声で騒ぎ立てていた。
 周りから白い目を向けられていることに気付く様子もなく、下品な会話を続けている。

「あいつら、……邪魔ね」
 ガラリと雰囲気の変わった莉子がポツリと言った。
 ……ヤバイかも。

「でも、ちょうど良いわ」
「――な、何が……かな?」

 僅かに口角を上げながら、男二人を睨み付ける莉子。

「折角の澪の花道、真っ赤に染め上げてあげましょう」

 ……いつの間に取り出したのだろうか?
 両手に包丁を握り締める莉子が淡々とした口調で言った。

(一体何を使って赤く染める気だ!?)

 僕はすぐに莉子の両手を掴み、できるだけ身体を近付ける。
 周りに包丁を見せないようにするためである。
 男二人組が目立っているせいで、今のところは周りに気付かれてはいないようだ。

「莉子。ここで暴れたら大会が中止になってしまうから、ちょっと我慢しような?」

 あくまで莉子は澪の邪魔となる奴らを排除しようとしているのである。
 説得方法としては間違っていないはず。

「陸、大丈夫よ。別に暴れることなんてしないわ」

 それなら良いんだけど――。

「急所を突けば一瞬よ! 声すら上げさせないわ!」

 それはダメだ!!

「あたしに任せて!!」
「任せられないから!!」

 そんなこんなで、暗殺的な何をしようとする莉子を僕は必死に押しとどめた。
 恐らくは観客の誰かが既に通報していたのだろう。
 僕らがもみ合う中、屈強な警備員が暴れる男二人組を連行して行った。
 それを見た莉子も何とか大人しくなったのである。



「……続きまして、第四レーン、雨宮澪さん」

 場内に響くアナウンスとともに、澪が一歩前へ出て手を挙げ、頭を下げる。
 それとともに、予選の時にはなかった大きな歓声が上がった。
 更に、澪はこちらへと軽く会釈した。
 莉子への感謝を示しているのだろう。
 いや、もしかしたら、決意かもしれない。

「――第五レーン、櫻井リサさん」

 ライバルのリサはすぐ隣のレーンだった。
 一歩前へ出て、観客へと笑顔を振りまく。
 同時に澪以上の大きな歓声が響き渡った。

 彼女はどうやら予選では本気を出さないタイプらしい。
 それは観客も理解していて、決勝で彼女の本気を見られることを期待しているようだった。

「On Your Marks…………Set……」

 合図の声とともにピストル音が鳴り響き、二人は同時にスタートした。
 どちらが抜け出すこともなく、二人はデッドヒートを繰り広げたまま、ほぼ同時にゴールを駆け抜けた。


 ◆ ◆ ◆


「あとほんの少しだったわね……」

 ほんのわずかな差だった。
 ほんのわずかな差で、電光掲示板には『1位:櫻井リサ、2位:雨宮澪』の文字が表示されていた。
 無情なる表示を見つめながら、莉子が言った。

「澪のことを心配しているのね?」
「……莉子は、心配していないの?」

 澪があれだけ気合を入れて、今度こそと臨んだレースだったのだ。
 わずかな差だったとはいえ、結果は二位。
 ショックを受けていないはずがない。

 中一の頃に部屋に閉じこもって泣いていた澪を、僕は思い浮かべていた。
 あんな澪の姿はもう見たくない。

「あたしは心配していないわよ」
「……え!?」
「だって、澪にはこうやって心配してくれる優しいお兄ちゃんがいるじゃない」

 そう言って微笑む莉子。

「以前、陸がプレゼントしたサボテンを見せてもらったわ。小さなサボテンなのに、凄い力と温かさを感じたの。きっと陸の想いがこもっていたのね」

 莉子は嬉しそうに語っていた。

「そして、妹想いの陸がずっと見守っていることを澪も気付いているわよ」

 まるで自分のことのように語り続ける莉子。

「そんな澪が、こんなことくらいでへこたれるわけがないじゃない。澪なら大丈夫よ」
「そう……なのかな??」
「そうよ。……ほら、澪が報告に来たわよ」

 見ると、澪がこちらに走って向かってくるところだった。

 僕と莉子の前まで来た澪は――。

「二人ともごめん。負けちゃった」

 澪は心底悔しそうな表情をしていた。
 しかし、以前のような悲壮感は全く感じられなかった。

「でも、次こそは必ず勝つから、また応援よろしくね」

 笑顔を作りながら、そう言う澪。

「次って……引退するんじゃないのか?」

 僕は驚いて尋ねた。
 今日で最後とばかり思っていたのだ。

「中学では引退ってこと。しばらくは受験勉強に専念して、高校からまた再開する予定よ? 私、走るの好きだし」

 キョトンとした顔をして、答える澪である。


 ◆ ◆ ◆


「ね? あたしが言った通りでしょう?」

 そう言って得意げな表情を見せた莉子。
 今は澪のすぐ傍にいる。
 ランチで僕に取り上げられたおにぎりを止まることなくガツガツ食べ続ける澪。
 そんな澪をニコニコ顔で眺めている。

 確かに、莉子の言う通り、澪は僕の影響を受けているかもしれない。
 僕をもう心配させないように……とかも考えているかもしれない。
 でも、それだけではない気がする。

「一番影響を与えてるのは莉子だと思うんだよなぁ……」

 僕は一人呟いた。
 澪は莉子にとてもよく懐いている。
 しかも、憧れすら抱いているようだ。

 例えば、莉子が何かショックなことに遭遇したとして、恐らく部屋に閉じこもったりはしないだろう。
 何らかの行動を起こすはずだ。
 澪はそういう莉子を真似したんじゃないだろうか?


 ふと二人の様子を見ると、おにぎりでいっぱいだった重箱はほとんど空となっていた。
 白米でできたシンプルなおにぎりがひとつ、残っているだけである。
 莉子が心を込めて握ってくれたおにぎりだ。
 最後くらいはと、そのおにぎりを掴むと澪も同じくおにぎりを掴んだ。

「お兄ちゃん、このおにぎりは私のよ?」
「お前、ほとんど一人で食べてただろう?」

 睨み合う澪と僕。
 どうやら、最後のおにぎりを譲るつもりはお互いないらしい。

「莉子ちゃんは、私のためにおにぎりを作ってくれたのよ?」
「別に澪のためだけではないぞ? 莉子の彼氏である僕も食べる権利がある」

 ……今更ながらに僕は気付いた。
 澪はどうやら僕のであるらしい。
 しかも、なかなか強力なライバルだ。
 だが、しかし、こればかりは澪であっても二位に甘んじてもらうしかない。

「絶対に莉子の一位は譲らないからな!」
「お兄ちゃん、ちょっとー!?」

 決意を固めた僕は、崩れかかったおにぎりを強引に澪の手からもぎ取ったのだった。
 なお、そのときの頬を染めた莉子の姿は、最高に可愛かったことだけは記しておこうと思う。
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