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「そうか、あの子はこちらにも来ていないのか」
はっきりと心配を滲ませた声を出したのはジュリウスだ。茹だるような暑さにもかかわらず彼は相変わらず暑苦しい姿をしていて、安月は思わずエアコンの設定温度を二度下げた。
一週間ほど前に姿を消したセシリオは、あれから一度も姿を見せていない。もちろんジュリウスのところにも戻っていないようで、少年の気まぐれには慣れているはずの彼もさすがに疑問を抱きはじめている様子だ。
セシリオがヴィクトルに頼んでいた連絡とやらはどうなったのか安月は知らない。ヴィクトルが単独で出かけている様子もなければ手紙や電話を使った気配もなかった。
「今日は大学のやつらと図書館に行くことになってるから、そろそろ行くよ」
安月が立ち上がると、すかさずニーロが左の手首と両足首に巻き付いてきた。いつもよりも少し厳重な護衛に、安月は今日はヴィクトルの迎えがないことを察する。
大学が夏休みになるとバイト以外でも出かけることが増えたのだが、いちいちヴィクトルに迎えに来られるのも外聞が悪いと言ったらこうなった。化け物のくせに過保護というか心配性というか、でも悪い気はしないから困る。
「あまり遅くならないように気を付けなさい」
「わかってるって」
安月はくすぐったい気分で笑いながら、玄関ドアの横、室内側の壁のフックにかかる合鍵を取って部屋を出た。
友人達とは大学の前で待ち合わせをしている。それほど時間もかからず合流して図書館へ向かった。よく利いた空調に揃ってホッと息をつき、館内の奥にある閲覧席を陣取る。
「酒井はさ、最近どうしてんの。新しいカノジョできた?」
ノートと教科書から目を離さない喜嶋を見る酒井の顔に、にんまりと笑みが浮かぶ。
「今度S女大と合コンすることになった」
「S女大ってすげー女の子のレベル高いって聞いてるけど、よくメンバーに入れたな」
「高校の時のダチがS女大のカノジョ作ったらしくて、そのツテで」
「マジかぁ。酒井、俺もメンバーに入れてくれよー」
食い付いた波多は横から喜嶋に小突かれた。
「お前はカノジョいるじゃん」
「そーそー。ってか、安月も一緒にどうよ? まだ参加できると思うけど」
「えっ?」
「S女大ならきっと可愛いカノジョ見つかるぞ」
安月は突然話を振られて目を白黒させる。自分には関係のない話だと勝手に思い込んでいたが、そう言われてみたら友人達にはフられたと言ったままで終わっていたのだ。
「あー…オレはいいや」
安月は首を横に振った。
紗奈のことを思い出すと胸が痛くなる。ちゃんと好きになりはじめていたところでのあの出来事は今も尾を引いているし、元々そういうことに慎重だった性格は臆病と言えるほどになった。
(それに今は…)
安月はぼんやりと、自分の肩を抱いてくれる大きな手のひらの感触を思い出した。もしこの手が離れてしまったらと考えただけでぞくりと背中が震える。愛しているから離れるのだと泣いたセシリオと同じ選択を自分ができるとは思えなかった。
化け物よりも人間のほうが強欲だなんて笑えない冗談だ。
「他に好きな人でもできたか?」
「へっ?」
「マジかよ安月! どんな子?」
「どこで知り合ったんだ? 同じ大学?」
顔上げると、にやにやと喜嶋が笑っていた。波多と酒井は勉強を放り出し、興味津々で身を乗り出している。
「まあまあ、落ち着けよ。安月がこういうの得意じゃないのわかってるだろ。しばらくは見守っててやろうぜ」
喜嶋はそう言って二人を制したが、先につついたのは彼だ。頬を赤くしたまま安月はじとりと喜嶋を睨む。そうしながら、頭を抱えたくなった。
考えていたのは銀の髪と金の眼をした綺麗な顔の化け物のことだった。その時の顔を見て、喜嶋は好きな人ができたのかと聞いてきた。ということは…。
(これじゃまるで、オレがあいつのこと、好き、みたいな…)
自分で考えたことなのに叫び声を上げたくなった。
あの化け物にとって自分は単なる撒き餌であり食糧で、今もそれは変わっていないのに、いつの間にか一緒に過ごすことが当たり前になっている。ヴィクトルが用意してくれた食事をするのも、バイト終わりに迎えに来てもらうのも、今ではすっかり日常の一部。毎日同じベッドで抱き締められて眠ることだって、照れはするが嫌な気持ちは少しもない。
人面蜘蛛を寄り付かせないなんて彼にとってはデメリットだけなはずなのに、ニオイを上書きしてほしいと願った安月を、ヴィクトルはとびきり優しく抱いてくれた。食事としてのキスも食事じゃないキスもした。
(ダメだ…オレ……)
縋り付いた広い背中の感触が、欲望に光る金色の双眸が、君が欲しいと囁いた声が鮮明に蘇る。頬が熱い。胸が痛くて、それが酷く甘ったるくて、涙が出そうになる。
長身な化け物が傍にいないと落ち着かない。あの男の温もりを知ってしまった今、もしも突然一人にされたら今までのようには生きていけない。きっと寂しくて潰れて壊れてしまう。
「…安月? どうした?」
酒井がおろおろ手を宙で彷徨わせている。何でもないと言おうとして、安月は不器用に笑った。
「オレ…好きな人、いるみたいだ」
とうとう自覚してしまった気持ちに白旗を揚げる。
友人達はそれぞれ驚いた顔をしたものの、すぐに笑ってくれた。
「やっぱり安月は純情だな」
閉館時間よりも早く図書館を出た四人は安月のバイト先がある商店街へと向かっていた。そこで夕食を済ませてから解散する予定だ。いつもは従業員側の自分が客としてここに来るのは何だか不思議な感覚だった。
商店街の奥まったところに若者向けのカフェがあるから、そこに行こうと歩き出したところで安月は声をかけられた。
「あらぁ、安月ちゃん」
「あ、トミさん、こんにちは」
見慣れた女性に安月は小さく頭を下げる。
「今日はいつもの外人さんは一緒じゃないのね」
「ああ、えっと、まあ…。今日は友人と勉強してたんで」
「あらまぁ、偉いわね。でも、あの人が心配しないうちに帰るのよ」
「は、はい…」
苦笑いを浮かべた安月に気付かず手を振ったトミさんは、意気揚々と買い物という戦いへ繰り出していった。
「あーつーきーくーん」
「なあ、いつも一緒にいる外人さんって、誰?」
「メシ食いながらゆっくり聞かせてもらおうか」
三人からの視線が痛い。
カフェのテーブル席に通された安月は喜嶋の隣に座らされた。これではまるで尋問される犯人の気分だと思いながらトマトソースパスタを注文する。
「で、さっきの話なんだけど」
「さっきのおばさんが言ってた外人さんってのが、安月の好きな人?」
「ああ、うん…まあ…」
椅子に埋もれるように小さくなりながら曖昧に頷く。
少しだけトミさんを恨みたい。いくらなんでも友人にはヴィクトルのことを紹介できないと思っていたからだ。ヴィクトルの本性がどうであれ、男同士に変わりはないのだから。
「前に付き合うかもって言ってた女の子にフられた後で知り合ったのか?」
「いや…知り合ったのは、ほぼ同時」
「相手は年上か? それとも年下?」
「年上」
実年齢は知らないが見た目の年齢なら年上で間違いない。
「どこの国の人なんだ? 何で日本に…まあ、年上なら仕事とかか」
「えーっと…確か、ロシア…。仕事で来てるって言ってた気がする」
「ロシア人かよ! すげー…」
何がすごいのかわからないが酒井はしきりに感心している。
安月は内心冷や汗が止まらない。ヴィクトルの現在の仕事は宝石商だと知ってはいるが、元はどこの国にいたのか、なぜ日本に来たのかは知らなかった。話してくれるかどうか少しだけ心配ではあるが、今のヴィクトルなら教えてくれそうな気もする。
「で、何でその年上のロシア人と知り合ったんだよ?」
「えー、と…変なやつに絡まれてるところを…」
「助けたのか! まあ、そりゃあ惚れられちゃうよな」
波多がテーブルの向こうから冷やかしてくる。適当に誤魔化すにもボロが出そうで、もうこれ以上聞かないでほしいと安月は切実に願った。
そこでようやく注文した料理が運ばれてきて、空腹だった四人は恋バナよりも食欲を満たすほうを優先し、無言で口を動かしはじめる。あちこちから食器の音と話し声が聞こえる店内は心地良い騒がしさだった。
「そういえば波多は合コン行きたがってたけど、カノジョいるんだろ?」
安月は熱い紅茶に息を吹きかけながら話題を逸らそうと必死だ。食後に注文した紅茶はヴィクトルが淹れてくれるものより味が薄いのにやけに渋くて、砂糖とミルクをたっぷりと混ぜなければ飲めそうにない。
「まーねぇ、いるにはいるって感じかな。マンネリっての? 最近は向こうも遠慮がないしさ」
カフェオレの氷をストローでつつきながら波多がボヤいた。
「その点、喜嶋はすげーよな。高校時代から付き合ってる子って、幼馴染なんだろ?」
「え、そうなの?」
そこまでは知らなかったと安月が視線を向けると、喜嶋は彼には珍しく少し照れた顔をした。見せてもらった携帯電話の待ち受け画面では、目が大きくて八重歯が少し目立つ仔犬のような雰囲気の少女が薄茶色のコーギー犬を抱っこして機嫌良さそうに笑っている。
「類子っての。ガキくさいところもあるけど、まあ…そういうところが可愛くてさ」
そこから話題は安月から喜嶋と彼の恋人へと移った。
喜嶋は照れながらも、幼馴染の少女のことが小学生の頃からずっと好きだったこと、中学生の時に先輩から告白されて付き合ったものの幼馴染を優先しすぎてフられたこと、高校入学直後に幼馴染が先輩から告白されそうだと聞いて慌ててそれまでの気持ちを打ち明けて付き合うことになったことを話してくれた。そっくりそのままドラマかマンガにできそうな話だ。
「喜嶋のほうがよっぽど純情じゃん」
「いやいや、安月に言われたくねーわ」
「俺からしたら三人とも爆発しろって感じだからな」
酒井の恨めしそうな言葉に、三人は顔を見合わせて笑った。
はじまったばかりの夏休みを満喫した四人は適度な頃合を見て解散することにした。商店街の外に出ると既に陽は沈みきり、思っていたよりも暗くなっている。
「喜嶋、今度はカノジョちゃん連れてこいよな」
「そうだよ、俺達にも紹介しろよ」
「わかったわかった。伝えとくって」
「安月も、好きな人とうまくいったら今度こそ教えろよ。絶対だぞ」
「う、ん…」
お盆前にもう一度会おうと決めて、徒歩で帰る波多と自転車で帰る喜嶋とは駅の前で別れた。酒井は電車で帰るが安月とは反対方向だ。
「俺にもいい出会いないかなぁ…」
「そのうち出会えるって、きっと」
安月はしょんぼりと呟く酒井の肩を励ますように叩いてやる。
いつどこで好きになれる人と出会えるかなんて誰にもわかりっこない。安月だってあんな出会い方をしたヴィクトルを好きになると思ってもいなかった。相容れない存在だと思っていたのに、いつの間にか傍にいてくれなくてはいけない人になっていた。
しかし自分の気持ちに気付くよりも先に肉体関係を持ってしまっただなんて友人には言えない。
「じゃあな」
「ああ、またな」
ホームへと下りる階段の前で酒井と別れ、五分と経たないうちにやって来た電車に乗り込む。あまり遅くなるなと言われていたのについつい話に花を咲かせてしまって、気付けばバイトの上がり時間と同じ時刻になってしまった。
近隣の学校が一斉に夏休みになったおかげか車内は空いている。たった三駅分の距離で座るのも面倒だと思った安月は、いつもと同じドアのすぐ横に立ったまま窓の外をぼんやりと眺めた。
ヴィクトルが好きだと気付いてしまったことで、彼のいる部屋に帰ることが今は少し気恥ずかしく感じる。昨日とは逆に今度は安月がただいまと言ったら、彼はおかえりと言ってくれるだろうか。じわりと頬が熱くなる。これからは些細な挨拶も、食事でしかないキスだって大切にしよう。ヴィクトルにとってはたくさんいる人間のうちの一人だとしても、今の彼の傍にいることを自分だけが許されているのだから、その特権は有効活用するべきだ。
(そうだ、帰ったら紅茶を淹れてほしいってお願いしよう)
カフェで飲んだ紅茶の何倍もおいしいと褒めてみたら彼はどんな顔をするのだろう。照れはしないだろうけれど、笑ってくれたら嬉しいと思う。想像するだけでも胸が高鳴った。
それから、先日言われた言葉を思い出す。
『次は君が声を気にせずに済む場所でしましょうか』
たとえそれが食事としての意味しかなくても、あんなものを美味だとのたまった化け物から二度目を求められていることに違いはない。安月は初めて、呪われているとさえ思っていた自分の体質を好ましく思うことができた。
ふと、何かが気になって顔を上げる。車内の明るさと夜の暗さとで鏡のようになった窓ガラスに、安月の背中側の座席に座っている男が視線を向けているのが見て取れた。バイトの帰りにほぼ毎回遭遇する会社員風の男だ。
ヴィクトルがいないからか、それとも安月が背中を向けているからか、彼は不快に思うほどに安月のことを凝視している。粘ついた視線に晒された背中に鳥肌が立ちそうだ。どんな理由があるにせよ、ここまで見つめられると気味が悪い。
安月は視線に気が付いていないふりをして電車を降り、二人で歩くのに慣れた帰り道のルートを一人で辿る。ロータリーを横切って、銀行の前を通り過ぎ、公園へ続く路地へと足を進める。
最近はめっきり通り抜けることがなくなった公園を、数秒だけ悩んでから突っ切ることに決めた。
たぶんまだヴィクトルに上書きしてもらったニオイの効力は切れていないはずだし、ニーロもいるから人面蜘蛛に遭ってしまったとしても振り切れる。それでもドクドクと心臓は大きな音を立てていた。
耳を澄ましてみても砂利だらけの通路を歩く足音はひとつしか聞こえない。短く息を吐き出したところで、安月は突然走り寄ってきた足音に気付いて振り向いた。突き飛ばされて地面に転がる。アスファルト舗装された通路から少し外れた地面の上に受身も取れずに倒れ込んだせいで呼吸が詰まった。
「…っ!」
一気にパニックに陥った頭で必死に何が起こったかを確かめる。
まず荒い息遣いが耳につく。獣みたいな口呼吸の音だが、そこにいたのは獣などではなかった。
(こいつ、電車でオレのこと見てた…!)
外灯の明かりにうっすらと浮かぶ顔は電車内で見た会社員風の男だった。
男は目を見開き、狂気じみた顔で歪な笑みを浮かべている。
「き、君…男が好きなんだろ? いつも見てたんだよ、あの外国人と帰ってくところ、毎日見てたんだ」
「ひ…ッ!」
汗ばんだ生温い手がシャツの裾を掻い潜って侵入してきた。無遠慮に弄る手の温度が気持ち悪い。
「離せ!」
「どうせあの男にも、こんなふうにされてるんだろ? だったら僕とだっていいじゃないか」
「やめ…っ」
どんなに必死にもがいても、理性を失った男の手から逃げられない。本当に人間かと疑いたくなるくらい強い力におぞましさと恐れが膨らんでいく。人面蜘蛛に襲われるのはニオイのせいだと諦めもついたが、自分と同じ人間に襲われるなんて考えたこともない。ましてや相手は同性だ。
「ああ、可愛い、可愛いよ」
「くそっ…離せよ!」
ますます興奮した様子の男は拒絶の声など聞こえておらず、無心で安月の胸を手のひらで撫で回している。乳首を遠慮のない力で摘まれて、鋭い痛みに身体が竦んだ。
「痛…っ!」
「敏感なんだね」
シャツを捲り上げられて露出した肌に男の湿った息が触れる。恐ろしくて、気持ち悪くて、涙が溢れた。
「助けて、ヴィクトル…!」
安月は悲痛な声を上げた。いつものように助けてほしい。安心させるように抱き締めてほしい。
触れてほしいと思うのは、人間を憎んだ果てに化け物になったと教えてくれた金色の瞳の彼だけだ。
「貴様、何をしている」
凛とした声に当たり一帯が凍り付いた。あまりに研ぎ澄まされた声色に、興奮に息を荒げていた男はもちろん、安月までも呼吸が止まってしまったような気分になる。
小さな足音がすぐ傍でピタリと止まった。
「今すぐに、その者を解放しろ。でなければ即刻、この場で貴様の首を落とすぞ」
大袈裟な冗談でも嘘でもないと思わせる声だった。
動きを止めた男の手から力が抜けたのを感じた安月は暴漢を突き飛ばして距離を取る。滲んでいた涙が粒となって頬を伝い、顎から滴り落ちた。
さらに距離を取ろうと後退ったところで背中が何かにぶつかり、過敏なほど全身が震えてしまった。
「恐ろしい目に遭ってしまったな、坊や。だが、もう大丈夫だ。安心せい」
やや老齢な口調だが声は若い。
恐る恐る振り向いた安月の後ろに立っていたのは真白の髪を長く伸ばした青年だった。着物の上に薄いストールのようなものを羽織っている姿は古代の神のようだが、彼は気さくに安月と目線を合わせるようにしゃがみ込み、よしよしと頭を撫でてくる。
安月は状況も混乱も忘れてきょとんとしてしまった。
「ニオイが…君があんまりにもいいニオイをさせてるから」
取り押さえられた暴漢が震える声で囁く。まるですべて安月が悪いとでも言っているかのような口振りだ。
「ニオイ程度で我を失うなど蟲以下だ」
暴漢の言い訳を鋭く切り捨てたのは、細身のスーツを着込んだ青年だった。安月と同じくらいの年齢に見える彼は神経質そうな短めの眉をつり上げると、暴漢の首に手刀を落として黙らせ、意識をなくした男を乱暴に引き摺って公園の敷地外へ運んでいく。
しかし、助けられたという安堵よりも先に込み上げた怯えが安月の身体を再び強ばらせた。
安月のニオイは人面蜘蛛や化け物は引き寄せてしまうが人間には感じ取れないはずだ、少なくとも今まで一度だってニオイを指摘されたことなんてない。どうしてと声にならずに呟いた安月に応えてくれたのは真白の髪の青年だった。
「うーむ、何と言ったらいいか…。香合わせのようなものだと言えばわかるかのう。ふとしたことでニオイの質が変わってしまったりしてな、こう、波長が合うというか…」
「ああ…何となくわかります」
「おお、そうかそうか。坊やは頭が良いのだなぁ」
またもや頭を撫でられる。随分とフランクな行動に呆気に取られた安月は思うように動けない。
「狗神様、戯れはその辺りでお止めください」
「お前は本当に堅いのう。しかし、この坊やを放ってもおけんだろう?」
「わたくしが送り届けます故。これ以上斯様なところで足を止めていたら、あの蛇めにどのような嫌味を言われるか」
黒いスーツ姿の青年が忌々しげに顔を顰めた。
しかし安月は、はたと顔を上げる。
「もしかして…銀白狗神?」
「様を付けろ無礼者! この御方をどなたと心得る!」
気色ばんだ少年の一喝に安月はびくりと肩を震わせた。時代がかった口調は時代劇の役者のようで聞き慣れないし、怒鳴られると迫力がありすぎて怖い。
「永峯、良い。わしの名を知っているということは、この坊やはあの者の縁者であろう」
驚きすぎて答えられない安月の手首に巻き付いていたニーロがおずおずと小さな蛇の形になる。
「ニーロ! そう言えばお前がいたんだった」
襲われていた時にどうして助けてくれなかったんだと責めると、ニーロは申し訳なさそうに細く小さな身体で項垂れた。
「そう怒ってやるな。これは人間には危害を加えるなと、よくよく言い聞かせられておるようだぞ」
「そう、なのか?」
問いかけられたニーロは頷くように安月の手の甲に頭を擦り付ける。ニーロにそんなことを言い付けられるのは飼い主であるヴィクトルだけだ。
(ヴィクトルが人間に危害を加えるなって、わざわざ言ったのか…)
人面蜘蛛を容易く切り裂ける力を持ったニーロが力を振るえば、生身の人間なんてあっという間に肉の塊になってしまう。なのに、人間を憎んで化け物になったはずのヴィクトルがそう気遣ってくれた。
ついついにやけた安月は自分が襲われたことなど忘れてしまいそうになった。
「直接手を出せぬからこそ懸命に助けを求めておったのが聞こえてな。おかげでわしらは駆け付けることができたのだよ」
「そうだったんだ…ありがとな、ニーロ。怒ってごめん」
安月が謝ると、ニーロは気にしていないと言いたげに鎌首を揺らした。
「うむ、これにて一件落着。で、そろそろ出てきたらどうなんだ、ウワバミよ」
銀白狗神の言うウワバミが何のことだかわからない安月の視界の隅で影が揺らめく。
「っ、ヴィクトル…」
安月の呼びかけに表情を動かさない男は間違いなくヴィクトルだった。
彼は無言で近付いてくると、へたり込んだままだった安月を立たせて服に付いた砂を静かに払ってくれた。ついでに目立つ怪我がないかも確認され、それから、ぎゅうっと強く抱き締められる。
慣れ親しんだ体温がじんわりと沁みて、ようやく自分が救われたのだという実感が全身を包んだ。安堵の涙が勝手に湧いてきて、ほろりと頬に零れ落ちる。
「助けに来るのが遅くなってすみません」
静かな憤りを秘めた声に胸が高鳴った。帰りが遅くなったことに対して怒っているのかと思ったが、どうも違うらしい。心配してくれたと思っていいのだろうか。
いくら何でも都合の良すぎる考えだと何度も否定するものの、もしそうだとしたらこんなに嬉しいことはない。安月はおずおずとヴィクトルの背中に腕を回した。
「ニーロからの知らせを受けてすぐに来たのですが一歩遅かったようです」
つまり一匹がヴィクトルの元へと助けを呼びに行き、一匹が偶然近くにいた銀白狗神に知らせ、もう一匹は万が一のために残っていてくれたということか。
直接助けてくれたのは銀白狗神達だったが、それでもヴィクトルはニーロの知らせを受けてすぐに助けに来てくれた。自覚したばかりの恋心が胸の中できゅうきゅうと音を立てる。安月を守ろうという行為が契約上だけのことだとしても、今はこの喜びを素直に受け止めておきたかった。
「わしらが先に助けてしまったから、こやつは年甲斐もなく拗ねておるのだよ」
「え…?」
銀白狗神の耳打ちに、思わず安月は顔を上げてヴィクトルの美しい顔を見た。金色の眼はいつもの微笑もなく安月に向くこともなかったが、それが逆に銀白狗神の言葉を肯定しているような気がしてしまう。
「余計なことは言わなくて結構です。それよりもさっさと移動しましょう」
言うなり、ヴィクトルは胸にへばり付いていた安月を横抱きに抱え上げた。重心が崩れて慌てた安月は、咄嗟に目の前の肩に縋り付く。
「ヴィクトルっ、歩けるから!」
「いいえ、少しですが血のニオイがします。どこか怪我をしているはずですから大人しくなさい」
確かにズボンに擦れている膝が少しだけ痛いような気もするが、歩けないほどでもない。しかし安月は胸を高鳴らせる感情に従ってヴィクトルの首に腕を回した。
過保護なのは以前からだったけれど、今日は特別に甘やかされている気がする。ヴィクトルをそうさせるような何かがあったのかもしれないと直近のことをひとつずつ思い出すが、重要な切欠になりえる出来事はなかった。大きな事件と言えば女郎蜘蛛に襲われた日のことくらいだ。
(ああ、そっか…)
安月は少しだけ落胆した自分に苦く笑う。
ヴィクトルは安月の精液が美味だと言っていたし、その直後にもそれを欲しがっていた。やっと気に入る味を見つけられたことで独占欲か何かが生まれたのだろう。自分達の間には利害関係しかなく、個として欲しがられているわけではない。
そう考えてしまうと、ふわふわと高鳴っていた胸は一気に冷たい風が吹き込んだように縮こまる。
(ヴィクトルもオレのこと好きになってくれないかな…)
安月は切ない願いを込めて逞しい肩に頬を押し付けた。その肩越しに銀白狗神がにこにこと笑っているのが見える。
彼が人間ではないのは一目でわかったが、かと言ってヴィクトルやセシリオのような魔性は感じない。それどころか、間違いなく神なのだと思わせる清雅な空気を漂わせているのだからわかって当然だ。
そんな銀白狗神の一歩後ろを黒いスーツの青年が歩いているのだが、彼は仏頂面が地顔なのかと思ってしまいそうはほどに不機嫌を隠しもしない。先ほどの発言から、ヴィクトルにあまり好意的ではないことも容易に予想できた。
(神様と悪魔が仲良しなわけないか)
アパートの部屋に着くなりヴィクトルは安月を風呂場へと追いやった。
「手当てをしますから、出たら声をかけなさい」
「う、うん」
整いすぎた顔は、いつもの微笑がないだけで有無を言わせない迫力がある。安月は言われたとおりにシャワーで全身の汚れを流し、擦り剥いていた膝は特に念入りに洗った。ついでに髪を洗いながらハッとする。
自分とヴィクトル、それからジュリウスに加えて銀白狗神と永峯。
「…ワンルームに男五人って……」
なかなかにシュールな図ではないだろうか。ただ、集っている面子の約半数が整った顔立ちをしているおかげで、むさ苦しさがないことだけが救いだった。
風呂場から出て部屋着に着替え、まだ水気が残る髪をタオルで押さえながら安月は廊下に顔を出す。
「ヴィクトル…出た、けど」
声をかけるとヴィクトルは救急箱を手にして、なんと安月の前に膝をついた。
「私の膝に足を乗せて。ちゃんと見せなさい」
「う、うん…」
片膝を立てたヴィクトルに言われるがままに安月はそっと足を乗せる。何というか、倒錯的なポーズだと思った。
ヴィクトルは僅かに滲んだ血を舐めるでもなく、清潔なガーゼで水分と血を拭い、怪我の具合を確認すると手早く絆創膏を貼り付ける。傷が早く綺麗に治るという触れ込みの絆創膏なんて一体いつの間にこの部屋に置かれていたんだろう。
「他に痛むところは?」
「ううん、特にない」
立ち上がったヴィクトルが流れるような動きで安月の唇を塞いだ。食事かと思ったが、唇は僅かに触れただけで離れていく。不意打ちのキスなんて心臓に悪い。
「助けに行けなかったお詫びです」
キスがお詫びになるのかとは、今の安月には言えなかった。
部屋に戻るとベッドの上に銀白狗神が座り、ヴィクトル用のクッションの上にジュリウスがいて、軍人のように背中側で腕を組んだ永峯は相変わらずの仏頂面でベッドの傍に立っている。
どこに座ればいいんだと悩んだ安月はヴィクトルに手を引かれ、そうすることがさも当然だとばかりの表情をしている彼の膝の上に乗せられてしまった。
(え、何だこれ…)
羞恥心に顔が赤くなる。座るスペースがないからだと言われれば否定はできないが、何もこの状況でしなくても。
だが誰もそれを気にした様子もはなく、安月は自分の感性がおかしいのかと本気で疑ったほどだ。
「ヴィクトル、こちらの方々は?」
ジュリウスは明らかに神性を感じる銀白狗神のことが気になるようだった。
ここ数日の間に、ジュリウスはヴィクトルのことを安月と同じように呼ぶようになった。理由を聞けば彼はヴィクトルの真名を知らないらしく、実は長年どう呼べばいいかと困っていたらしい。
「わしは銀白狗神。この国に住まう神よ」
「やはり…聖なる力を感じていたのでもしやと思っていました。日本には八百万の神がおられると聞いていましたが、実際にお会いすることができて光栄です」
「うむ。そのように畏まらずとも良いぞ」
銀白狗神の言葉に、ジュリウスは胸に手を当てて祈るようなポーズをする。当然だがそれが様になっていて、まるで宗教画を見ているようだった。
「では全員揃ったので話をしましょうか」
ヴィクトルの声に、部屋には静かな緊張が走った。
「なるほど…セシリオは僕を解放するつもりだった、ということか」
銀白狗神が管理する神域の中でならジュリウスは悪魔になった肉体とは言え、うまく飢えを凌ぐことができるらしい。そして彼がそう過ごせるようになることを望んでいるのがセシリオだということも。
小さく呟いたジュリウスが神妙な面持ちで視線を落とす。
ただ、ヴィクトルはセシリオがどう考えてジュリウスの許から離れたのかまでは話さなかった。
ジュリウスを想うが故に今も姿を現さないのだと言われたら、きっとジュリウスはあの少年を見捨てられなくなるだろう。同情めいた気持ちでその選択をされてもセシリオは喜んだりしないし、もしかしたらもっと酷い方法での別離を考える可能性だってある。化け物の、特にセシリオの極端な考え方は計り知れない。
安月はどうしても、もし自分がセシリオの立場ならと考えてしまって成り行きが心配で仕方がなかった。
「今まで悪さばかりしておった小悪魔がどんな風の吹き回しかわからぬが…。何にせよ、そなたがどちらを選ぼうとも、わしは間違いなく力を貸そうぞ」
ベッドの上からにこりと笑みを浮かべる銀白狗神とは対照的に、ドーベルマンみたいに厳しい表情の永峯はさらに眉間にシワを寄せる。
「狗神様、わたくしは反対です。元は聖職者とは言え悪魔に力を貸すなど…。伊琉守様に知られたら、どのような咎を受けるかわかりませぬ」
「伊琉守殿はそう狭量な御方ではないよ。それにな永峯、ここはお前が『きゃー! くー様ってば優しい大好き! 惚れ直しちゃう!』と言うところだ。ほれ言うてみよ」
「わたくしは斯様な世迷言は言いませぬ」
真顔で拒否する永峯と、拗ねて口を尖らせる銀白狗神。
何を見せ付けられているんだろうか、これは。安月はヴィクトルの膝の上に乗せられている自分の現状さえも忘れて呆気にとられっぱなしだ。ふと安月はセシリオが銀白狗神のことを「小うるさい犬神」と言っていたのを思い出し、少しだけ同意したくなった。
「つれないのう。昔は素直に『くー様だーいすき』とハートマーク付きで言うてくれたのに…」
「昔は昔、今は今ですので」
泣き真似をする銀白狗神の胡散臭いこと。
大きなため息をひとつ吐き出した永峯はそんな主人を後目にスーツの内ポケットから手帳を取り出した。
「…これが今回の件に関係あるかはわかりませぬが」
そう前置きをしながらも手帳を捲る指先はきびきびしている。刑事ドラマでよく見る仕草に、安月は場違いにも感動してしまった。
「表向きは世界各国のアンティーク雑貨や調度品の輸入販売をしているベンチャー企業の代表取締役社長、名は山岸健吾。四十五歳。この者について気になる情報を得ております」
ページに書かれた文字を読む彼の表情は相変わらず仏頂面だ。
「取り扱っている物品からもわかるとおり、この男は新興カルトもしくは悪魔崇拝に傾倒しているようです。以前より悪魔や魔物と言った存在に憧れに近い感情を抱いている様子もあったとか。さらに、ここ最近になって周囲に『本物の悪魔を手に入れた』と自慢している…と」
「ヒトの手に落ちるような未熟者。まあ、間違いなくあの小悪魔だろうな」
それが誰のことを示しているのかをその場の誰もが言外に察した。精悍な顔立ちを強張らせたジュリウスが立ち上がる。
「あの子を助けに行かなくては…!」
「まあ待て待て、おぬしはこの国のことはあまり知らぬだろう。その山岸なる男にも、どのようにして会うつもりだ?」
「そ、れは…」
銀白狗神の指摘にジュリウスは悔しさを隠しもせずに唇を噛み締める。
「なに、蛇の道は蛇と言うだろう。この国でのことならば、わしに任せておくが良い」
にんまりと笑った銀白狗神は渋い顔の永峯をせっついて安月と連絡先の交換をさせると、数日だけ時間が欲しいと言い残して永峯を伴い帰っていった。それから間を開けず、ジュリウスも連泊している宿へ戻ると言って静かに帰っていく。
二人きりの沈黙が満ちる部屋で、安月は自分が未だにヴィクトルの膝の上にいることを思い出した。
「お、降りる、から」
安月はおずおずとヴィクトルの膝から腰を上げるが、逃がさないとばかりに捕まえられて元の位置に戻される。
「…安月、今日は何故あのようなことになったのですか」
「あのような…? あ、ああ、公園でのあれか」
襲われたことは思い出すだけでも鳥肌が立ちそうなほど不快でしかなかったけれど、今はヴィクトルの膝の上にいるからなのか冷静さを失わずに済んだ。
安月は銀白狗神から聞かされた話をそのまま繰り返して聞かせた。自分のニオイが変化した理由については明言を避けたけれど、原因となることなどひとつしかないのは明らかで、ヴィクトルもそれを考えたのか安月の首筋に顔を近付ける。
「上書きしてから二週間ほど経っていますし、ニオイが馴染みすぎたか、効果が切れかけているのかもしれませんね」
「でも蜘蛛は寄ってきてないけど…」
「蜘蛛の嗅覚は敏感ですから、私のニオイがもう少し薄れるまでは近付かないでしょう」
「そっか。それにしても人間でもニオイがわかるやつがいるなんて…」
思わずため息が漏れた。今日は運良く銀白狗神と永峯に助けてもらえたが、もし次に同じことがあったら、そう考えるだけで寒気がする。
「安月」
ヴィクトルに呼ばれて顔を上げると、金色の目と真っ直ぐに視線がぶつかった。
「もう一度ニオイの上書きをしましょうか」
「…っ」
思わず息を飲む。それはつまり、なんて考えなくてもわかってしまった。じわりと血が上った安月の頬をヴィクトルの指先がくすぐっている。反対側の頬は小鳥がするみたいにそっと啄ばまれた。
「少々準備があるので今すぐは無理ですが、明日か明後日にでも」
「ぁ…うん…」
妙な緊張感に畏まった安月の唇にヴィクトルが触れる。慣れたように口を開けば舌が入り込んできた。舌先を刺激され、滲んだ唾液を啜られる。
キスにもそれ以上の行為にも食事としての意味しかないはずなのに高鳴る胸を抑えきれない。この化け物のことを好きだと気付いてしまった。女の子でもなく、人間ですらないのに、好きになってしまった。
シャツの裾から忍び込んできた指に肌を辿られると、恥ずかしくなるくらい敏感に足先が跳ねる。
「ん…っ」
くすぐるくらいの力で乳首を撫でられて声が漏れた。腰の辺りに疼きが生まれ、この先のさらに強い刺激を求めて身体が熱くなる。ついさっき上書きするのは明日か明後日だと言っていたその口は、まだ安月の舌を執拗に追い回している。
全身を巡る血が一点に集まってくる感覚に焦った安月は必死に口を離して、胸を弄るヴィクトルの手を捕まえた。
「す、するのは、明日か明後日って…!」
「そうでしたね」
ヴィクトルはあっさりと手を引いた。
しかしとっくに腰が抜けた安月はうまく動けずにもじもじと膝を擦り合わせ、情けなくて涙の滲んだ目で涼しい顔の男を睨み付ける。
「ヴィクトルのせいだからな…」
「では責任を取りましょう」
微笑と共にベッドに転がされ、パジャマ代わりのハーフパンツを下着ごと一気に引き下ろされた。まだ兆しを残したそこにヴィクトルが触れ、手のひらで包み込まれる。
「や、やだ…声が…っ」
隣に聞こえてしまうと羞恥に怯える安月の口をヴィクトルが塞いだ。舌を絡められて吸われると、頭に霞がかかったみたいに気持ちいいことだけしか考えられなくなる。ゆっくりと手のひらで擦り上げられて、また少し熱が篭った。
口内と下腹部から湿った音が聞こえてくるのが恥ずかしくて、なのに溶けるほど気持ちが良くて、安月は自分からも求めて銀色の髪に指を埋める。
(好き…)
心の中に湧き上がる想いのままに熱を求め、解放を促す手の動きに合わせて僅かに腰を揺らすと、見計らったように手の動きが激しくなった。
「んんぅ…ッ」
導くというよりも追い詰める強さに腰が戦慄いた。強制的に高みへと昇らされる。閉じた目蓋の裏で火花が散るような感覚に陥り、それと同時に腹の上に滴り落ちる雫を認識した。
呼吸を遮っていた唇が離れたと思えば、赤い舌に吐き出したばかりの体液を舐め取られる。
「ヴィクトル…それ、恥ずかしいから…」
今でも一日中部屋の電気は点けたままだ。何をどうされているのかすべてが見えてしまい、安月は目を閉じることでしか逃げられない。
「…甘い」
興奮を隠さない声に恐る恐る目を開けると、左目を異形の色に変えたヴィクトルと視線が交わった。手に付いた退役でさえ惜しむように舐める彼の姿は酷く淫猥だ。
「前回よりも甘くなりましたが、何か変わったことでもありましたか?」
「別に、っん…ない、けど…」
舐めながら聞かないでほしいし、言わせないでほしい。一滴残らずすべてを舐め取られて、さらにそれを見せられて、安月は今にも恥ずかしさのあまり爆発しそうだった。
そんなものが前回よりも甘くなったなんて信じられない。むしろ甘いとか知らない。安月は火を噴きそうな顔を両手で覆った。
ヴィクトルはもうすべてを舐め取ったのに、残り香ですら惜しいと言わんばかりに丹念に舌を這わせている。それ以上舐め続けられたら非常に困った事態になるからやめてほしい。
(変わったことなんてない……ことも、ない…のか?)
安月は手をずらして、しつこく肌を舐めているヴィクトルを見た。
前回はただ傷心の痛みから目を逸らしたくて縋った。そこにはヴィクトルへの気持ちなんて少しもなく、ひたすら自分を哀れんでいただけだったが今回は傷心なんてしていない。求められたから捧げただけ。
(…違う)
安月は自分の考えを否定した。
捧げたかったから、そうしただけだ。彼に触れてほしかったから、触れてもらえて嬉しいと思った。好きだという想いを込めて自分から差し出した。
「…たぶん」
口を開いた安月をヴィクトルの金色の眼が見つめる。その眼差しは熱く濡れていて、身体の奥の残り火を再び燃え上がらせてしまいそうだった。
「ヴィクトルのこと、考えてたから…」
はっきり好きだと伝えられるほどの勇気はさすがに出なかったが、味が変わった理由を少しでも知ってほしいと思った。
金色の瞳が近付いて、ほんのりと汗で湿った額に優しい口付けが落とされる。
「なるほど。ではこれからは毎日私のことを考えていてくださいね」
見惚れるくらいの微笑みと共に唇が重なった。
出会ってから今日まで良い意味でも悪い意味でもヴィクトルのことを考えなかった日なんてないのに。安月は面映く笑い、自分からもキスに応えた。
はっきりと心配を滲ませた声を出したのはジュリウスだ。茹だるような暑さにもかかわらず彼は相変わらず暑苦しい姿をしていて、安月は思わずエアコンの設定温度を二度下げた。
一週間ほど前に姿を消したセシリオは、あれから一度も姿を見せていない。もちろんジュリウスのところにも戻っていないようで、少年の気まぐれには慣れているはずの彼もさすがに疑問を抱きはじめている様子だ。
セシリオがヴィクトルに頼んでいた連絡とやらはどうなったのか安月は知らない。ヴィクトルが単独で出かけている様子もなければ手紙や電話を使った気配もなかった。
「今日は大学のやつらと図書館に行くことになってるから、そろそろ行くよ」
安月が立ち上がると、すかさずニーロが左の手首と両足首に巻き付いてきた。いつもよりも少し厳重な護衛に、安月は今日はヴィクトルの迎えがないことを察する。
大学が夏休みになるとバイト以外でも出かけることが増えたのだが、いちいちヴィクトルに迎えに来られるのも外聞が悪いと言ったらこうなった。化け物のくせに過保護というか心配性というか、でも悪い気はしないから困る。
「あまり遅くならないように気を付けなさい」
「わかってるって」
安月はくすぐったい気分で笑いながら、玄関ドアの横、室内側の壁のフックにかかる合鍵を取って部屋を出た。
友人達とは大学の前で待ち合わせをしている。それほど時間もかからず合流して図書館へ向かった。よく利いた空調に揃ってホッと息をつき、館内の奥にある閲覧席を陣取る。
「酒井はさ、最近どうしてんの。新しいカノジョできた?」
ノートと教科書から目を離さない喜嶋を見る酒井の顔に、にんまりと笑みが浮かぶ。
「今度S女大と合コンすることになった」
「S女大ってすげー女の子のレベル高いって聞いてるけど、よくメンバーに入れたな」
「高校の時のダチがS女大のカノジョ作ったらしくて、そのツテで」
「マジかぁ。酒井、俺もメンバーに入れてくれよー」
食い付いた波多は横から喜嶋に小突かれた。
「お前はカノジョいるじゃん」
「そーそー。ってか、安月も一緒にどうよ? まだ参加できると思うけど」
「えっ?」
「S女大ならきっと可愛いカノジョ見つかるぞ」
安月は突然話を振られて目を白黒させる。自分には関係のない話だと勝手に思い込んでいたが、そう言われてみたら友人達にはフられたと言ったままで終わっていたのだ。
「あー…オレはいいや」
安月は首を横に振った。
紗奈のことを思い出すと胸が痛くなる。ちゃんと好きになりはじめていたところでのあの出来事は今も尾を引いているし、元々そういうことに慎重だった性格は臆病と言えるほどになった。
(それに今は…)
安月はぼんやりと、自分の肩を抱いてくれる大きな手のひらの感触を思い出した。もしこの手が離れてしまったらと考えただけでぞくりと背中が震える。愛しているから離れるのだと泣いたセシリオと同じ選択を自分ができるとは思えなかった。
化け物よりも人間のほうが強欲だなんて笑えない冗談だ。
「他に好きな人でもできたか?」
「へっ?」
「マジかよ安月! どんな子?」
「どこで知り合ったんだ? 同じ大学?」
顔上げると、にやにやと喜嶋が笑っていた。波多と酒井は勉強を放り出し、興味津々で身を乗り出している。
「まあまあ、落ち着けよ。安月がこういうの得意じゃないのわかってるだろ。しばらくは見守っててやろうぜ」
喜嶋はそう言って二人を制したが、先につついたのは彼だ。頬を赤くしたまま安月はじとりと喜嶋を睨む。そうしながら、頭を抱えたくなった。
考えていたのは銀の髪と金の眼をした綺麗な顔の化け物のことだった。その時の顔を見て、喜嶋は好きな人ができたのかと聞いてきた。ということは…。
(これじゃまるで、オレがあいつのこと、好き、みたいな…)
自分で考えたことなのに叫び声を上げたくなった。
あの化け物にとって自分は単なる撒き餌であり食糧で、今もそれは変わっていないのに、いつの間にか一緒に過ごすことが当たり前になっている。ヴィクトルが用意してくれた食事をするのも、バイト終わりに迎えに来てもらうのも、今ではすっかり日常の一部。毎日同じベッドで抱き締められて眠ることだって、照れはするが嫌な気持ちは少しもない。
人面蜘蛛を寄り付かせないなんて彼にとってはデメリットだけなはずなのに、ニオイを上書きしてほしいと願った安月を、ヴィクトルはとびきり優しく抱いてくれた。食事としてのキスも食事じゃないキスもした。
(ダメだ…オレ……)
縋り付いた広い背中の感触が、欲望に光る金色の双眸が、君が欲しいと囁いた声が鮮明に蘇る。頬が熱い。胸が痛くて、それが酷く甘ったるくて、涙が出そうになる。
長身な化け物が傍にいないと落ち着かない。あの男の温もりを知ってしまった今、もしも突然一人にされたら今までのようには生きていけない。きっと寂しくて潰れて壊れてしまう。
「…安月? どうした?」
酒井がおろおろ手を宙で彷徨わせている。何でもないと言おうとして、安月は不器用に笑った。
「オレ…好きな人、いるみたいだ」
とうとう自覚してしまった気持ちに白旗を揚げる。
友人達はそれぞれ驚いた顔をしたものの、すぐに笑ってくれた。
「やっぱり安月は純情だな」
閉館時間よりも早く図書館を出た四人は安月のバイト先がある商店街へと向かっていた。そこで夕食を済ませてから解散する予定だ。いつもは従業員側の自分が客としてここに来るのは何だか不思議な感覚だった。
商店街の奥まったところに若者向けのカフェがあるから、そこに行こうと歩き出したところで安月は声をかけられた。
「あらぁ、安月ちゃん」
「あ、トミさん、こんにちは」
見慣れた女性に安月は小さく頭を下げる。
「今日はいつもの外人さんは一緒じゃないのね」
「ああ、えっと、まあ…。今日は友人と勉強してたんで」
「あらまぁ、偉いわね。でも、あの人が心配しないうちに帰るのよ」
「は、はい…」
苦笑いを浮かべた安月に気付かず手を振ったトミさんは、意気揚々と買い物という戦いへ繰り出していった。
「あーつーきーくーん」
「なあ、いつも一緒にいる外人さんって、誰?」
「メシ食いながらゆっくり聞かせてもらおうか」
三人からの視線が痛い。
カフェのテーブル席に通された安月は喜嶋の隣に座らされた。これではまるで尋問される犯人の気分だと思いながらトマトソースパスタを注文する。
「で、さっきの話なんだけど」
「さっきのおばさんが言ってた外人さんってのが、安月の好きな人?」
「ああ、うん…まあ…」
椅子に埋もれるように小さくなりながら曖昧に頷く。
少しだけトミさんを恨みたい。いくらなんでも友人にはヴィクトルのことを紹介できないと思っていたからだ。ヴィクトルの本性がどうであれ、男同士に変わりはないのだから。
「前に付き合うかもって言ってた女の子にフられた後で知り合ったのか?」
「いや…知り合ったのは、ほぼ同時」
「相手は年上か? それとも年下?」
「年上」
実年齢は知らないが見た目の年齢なら年上で間違いない。
「どこの国の人なんだ? 何で日本に…まあ、年上なら仕事とかか」
「えーっと…確か、ロシア…。仕事で来てるって言ってた気がする」
「ロシア人かよ! すげー…」
何がすごいのかわからないが酒井はしきりに感心している。
安月は内心冷や汗が止まらない。ヴィクトルの現在の仕事は宝石商だと知ってはいるが、元はどこの国にいたのか、なぜ日本に来たのかは知らなかった。話してくれるかどうか少しだけ心配ではあるが、今のヴィクトルなら教えてくれそうな気もする。
「で、何でその年上のロシア人と知り合ったんだよ?」
「えー、と…変なやつに絡まれてるところを…」
「助けたのか! まあ、そりゃあ惚れられちゃうよな」
波多がテーブルの向こうから冷やかしてくる。適当に誤魔化すにもボロが出そうで、もうこれ以上聞かないでほしいと安月は切実に願った。
そこでようやく注文した料理が運ばれてきて、空腹だった四人は恋バナよりも食欲を満たすほうを優先し、無言で口を動かしはじめる。あちこちから食器の音と話し声が聞こえる店内は心地良い騒がしさだった。
「そういえば波多は合コン行きたがってたけど、カノジョいるんだろ?」
安月は熱い紅茶に息を吹きかけながら話題を逸らそうと必死だ。食後に注文した紅茶はヴィクトルが淹れてくれるものより味が薄いのにやけに渋くて、砂糖とミルクをたっぷりと混ぜなければ飲めそうにない。
「まーねぇ、いるにはいるって感じかな。マンネリっての? 最近は向こうも遠慮がないしさ」
カフェオレの氷をストローでつつきながら波多がボヤいた。
「その点、喜嶋はすげーよな。高校時代から付き合ってる子って、幼馴染なんだろ?」
「え、そうなの?」
そこまでは知らなかったと安月が視線を向けると、喜嶋は彼には珍しく少し照れた顔をした。見せてもらった携帯電話の待ち受け画面では、目が大きくて八重歯が少し目立つ仔犬のような雰囲気の少女が薄茶色のコーギー犬を抱っこして機嫌良さそうに笑っている。
「類子っての。ガキくさいところもあるけど、まあ…そういうところが可愛くてさ」
そこから話題は安月から喜嶋と彼の恋人へと移った。
喜嶋は照れながらも、幼馴染の少女のことが小学生の頃からずっと好きだったこと、中学生の時に先輩から告白されて付き合ったものの幼馴染を優先しすぎてフられたこと、高校入学直後に幼馴染が先輩から告白されそうだと聞いて慌ててそれまでの気持ちを打ち明けて付き合うことになったことを話してくれた。そっくりそのままドラマかマンガにできそうな話だ。
「喜嶋のほうがよっぽど純情じゃん」
「いやいや、安月に言われたくねーわ」
「俺からしたら三人とも爆発しろって感じだからな」
酒井の恨めしそうな言葉に、三人は顔を見合わせて笑った。
はじまったばかりの夏休みを満喫した四人は適度な頃合を見て解散することにした。商店街の外に出ると既に陽は沈みきり、思っていたよりも暗くなっている。
「喜嶋、今度はカノジョちゃん連れてこいよな」
「そうだよ、俺達にも紹介しろよ」
「わかったわかった。伝えとくって」
「安月も、好きな人とうまくいったら今度こそ教えろよ。絶対だぞ」
「う、ん…」
お盆前にもう一度会おうと決めて、徒歩で帰る波多と自転車で帰る喜嶋とは駅の前で別れた。酒井は電車で帰るが安月とは反対方向だ。
「俺にもいい出会いないかなぁ…」
「そのうち出会えるって、きっと」
安月はしょんぼりと呟く酒井の肩を励ますように叩いてやる。
いつどこで好きになれる人と出会えるかなんて誰にもわかりっこない。安月だってあんな出会い方をしたヴィクトルを好きになると思ってもいなかった。相容れない存在だと思っていたのに、いつの間にか傍にいてくれなくてはいけない人になっていた。
しかし自分の気持ちに気付くよりも先に肉体関係を持ってしまっただなんて友人には言えない。
「じゃあな」
「ああ、またな」
ホームへと下りる階段の前で酒井と別れ、五分と経たないうちにやって来た電車に乗り込む。あまり遅くなるなと言われていたのについつい話に花を咲かせてしまって、気付けばバイトの上がり時間と同じ時刻になってしまった。
近隣の学校が一斉に夏休みになったおかげか車内は空いている。たった三駅分の距離で座るのも面倒だと思った安月は、いつもと同じドアのすぐ横に立ったまま窓の外をぼんやりと眺めた。
ヴィクトルが好きだと気付いてしまったことで、彼のいる部屋に帰ることが今は少し気恥ずかしく感じる。昨日とは逆に今度は安月がただいまと言ったら、彼はおかえりと言ってくれるだろうか。じわりと頬が熱くなる。これからは些細な挨拶も、食事でしかないキスだって大切にしよう。ヴィクトルにとってはたくさんいる人間のうちの一人だとしても、今の彼の傍にいることを自分だけが許されているのだから、その特権は有効活用するべきだ。
(そうだ、帰ったら紅茶を淹れてほしいってお願いしよう)
カフェで飲んだ紅茶の何倍もおいしいと褒めてみたら彼はどんな顔をするのだろう。照れはしないだろうけれど、笑ってくれたら嬉しいと思う。想像するだけでも胸が高鳴った。
それから、先日言われた言葉を思い出す。
『次は君が声を気にせずに済む場所でしましょうか』
たとえそれが食事としての意味しかなくても、あんなものを美味だとのたまった化け物から二度目を求められていることに違いはない。安月は初めて、呪われているとさえ思っていた自分の体質を好ましく思うことができた。
ふと、何かが気になって顔を上げる。車内の明るさと夜の暗さとで鏡のようになった窓ガラスに、安月の背中側の座席に座っている男が視線を向けているのが見て取れた。バイトの帰りにほぼ毎回遭遇する会社員風の男だ。
ヴィクトルがいないからか、それとも安月が背中を向けているからか、彼は不快に思うほどに安月のことを凝視している。粘ついた視線に晒された背中に鳥肌が立ちそうだ。どんな理由があるにせよ、ここまで見つめられると気味が悪い。
安月は視線に気が付いていないふりをして電車を降り、二人で歩くのに慣れた帰り道のルートを一人で辿る。ロータリーを横切って、銀行の前を通り過ぎ、公園へ続く路地へと足を進める。
最近はめっきり通り抜けることがなくなった公園を、数秒だけ悩んでから突っ切ることに決めた。
たぶんまだヴィクトルに上書きしてもらったニオイの効力は切れていないはずだし、ニーロもいるから人面蜘蛛に遭ってしまったとしても振り切れる。それでもドクドクと心臓は大きな音を立てていた。
耳を澄ましてみても砂利だらけの通路を歩く足音はひとつしか聞こえない。短く息を吐き出したところで、安月は突然走り寄ってきた足音に気付いて振り向いた。突き飛ばされて地面に転がる。アスファルト舗装された通路から少し外れた地面の上に受身も取れずに倒れ込んだせいで呼吸が詰まった。
「…っ!」
一気にパニックに陥った頭で必死に何が起こったかを確かめる。
まず荒い息遣いが耳につく。獣みたいな口呼吸の音だが、そこにいたのは獣などではなかった。
(こいつ、電車でオレのこと見てた…!)
外灯の明かりにうっすらと浮かぶ顔は電車内で見た会社員風の男だった。
男は目を見開き、狂気じみた顔で歪な笑みを浮かべている。
「き、君…男が好きなんだろ? いつも見てたんだよ、あの外国人と帰ってくところ、毎日見てたんだ」
「ひ…ッ!」
汗ばんだ生温い手がシャツの裾を掻い潜って侵入してきた。無遠慮に弄る手の温度が気持ち悪い。
「離せ!」
「どうせあの男にも、こんなふうにされてるんだろ? だったら僕とだっていいじゃないか」
「やめ…っ」
どんなに必死にもがいても、理性を失った男の手から逃げられない。本当に人間かと疑いたくなるくらい強い力におぞましさと恐れが膨らんでいく。人面蜘蛛に襲われるのはニオイのせいだと諦めもついたが、自分と同じ人間に襲われるなんて考えたこともない。ましてや相手は同性だ。
「ああ、可愛い、可愛いよ」
「くそっ…離せよ!」
ますます興奮した様子の男は拒絶の声など聞こえておらず、無心で安月の胸を手のひらで撫で回している。乳首を遠慮のない力で摘まれて、鋭い痛みに身体が竦んだ。
「痛…っ!」
「敏感なんだね」
シャツを捲り上げられて露出した肌に男の湿った息が触れる。恐ろしくて、気持ち悪くて、涙が溢れた。
「助けて、ヴィクトル…!」
安月は悲痛な声を上げた。いつものように助けてほしい。安心させるように抱き締めてほしい。
触れてほしいと思うのは、人間を憎んだ果てに化け物になったと教えてくれた金色の瞳の彼だけだ。
「貴様、何をしている」
凛とした声に当たり一帯が凍り付いた。あまりに研ぎ澄まされた声色に、興奮に息を荒げていた男はもちろん、安月までも呼吸が止まってしまったような気分になる。
小さな足音がすぐ傍でピタリと止まった。
「今すぐに、その者を解放しろ。でなければ即刻、この場で貴様の首を落とすぞ」
大袈裟な冗談でも嘘でもないと思わせる声だった。
動きを止めた男の手から力が抜けたのを感じた安月は暴漢を突き飛ばして距離を取る。滲んでいた涙が粒となって頬を伝い、顎から滴り落ちた。
さらに距離を取ろうと後退ったところで背中が何かにぶつかり、過敏なほど全身が震えてしまった。
「恐ろしい目に遭ってしまったな、坊や。だが、もう大丈夫だ。安心せい」
やや老齢な口調だが声は若い。
恐る恐る振り向いた安月の後ろに立っていたのは真白の髪を長く伸ばした青年だった。着物の上に薄いストールのようなものを羽織っている姿は古代の神のようだが、彼は気さくに安月と目線を合わせるようにしゃがみ込み、よしよしと頭を撫でてくる。
安月は状況も混乱も忘れてきょとんとしてしまった。
「ニオイが…君があんまりにもいいニオイをさせてるから」
取り押さえられた暴漢が震える声で囁く。まるですべて安月が悪いとでも言っているかのような口振りだ。
「ニオイ程度で我を失うなど蟲以下だ」
暴漢の言い訳を鋭く切り捨てたのは、細身のスーツを着込んだ青年だった。安月と同じくらいの年齢に見える彼は神経質そうな短めの眉をつり上げると、暴漢の首に手刀を落として黙らせ、意識をなくした男を乱暴に引き摺って公園の敷地外へ運んでいく。
しかし、助けられたという安堵よりも先に込み上げた怯えが安月の身体を再び強ばらせた。
安月のニオイは人面蜘蛛や化け物は引き寄せてしまうが人間には感じ取れないはずだ、少なくとも今まで一度だってニオイを指摘されたことなんてない。どうしてと声にならずに呟いた安月に応えてくれたのは真白の髪の青年だった。
「うーむ、何と言ったらいいか…。香合わせのようなものだと言えばわかるかのう。ふとしたことでニオイの質が変わってしまったりしてな、こう、波長が合うというか…」
「ああ…何となくわかります」
「おお、そうかそうか。坊やは頭が良いのだなぁ」
またもや頭を撫でられる。随分とフランクな行動に呆気に取られた安月は思うように動けない。
「狗神様、戯れはその辺りでお止めください」
「お前は本当に堅いのう。しかし、この坊やを放ってもおけんだろう?」
「わたくしが送り届けます故。これ以上斯様なところで足を止めていたら、あの蛇めにどのような嫌味を言われるか」
黒いスーツ姿の青年が忌々しげに顔を顰めた。
しかし安月は、はたと顔を上げる。
「もしかして…銀白狗神?」
「様を付けろ無礼者! この御方をどなたと心得る!」
気色ばんだ少年の一喝に安月はびくりと肩を震わせた。時代がかった口調は時代劇の役者のようで聞き慣れないし、怒鳴られると迫力がありすぎて怖い。
「永峯、良い。わしの名を知っているということは、この坊やはあの者の縁者であろう」
驚きすぎて答えられない安月の手首に巻き付いていたニーロがおずおずと小さな蛇の形になる。
「ニーロ! そう言えばお前がいたんだった」
襲われていた時にどうして助けてくれなかったんだと責めると、ニーロは申し訳なさそうに細く小さな身体で項垂れた。
「そう怒ってやるな。これは人間には危害を加えるなと、よくよく言い聞かせられておるようだぞ」
「そう、なのか?」
問いかけられたニーロは頷くように安月の手の甲に頭を擦り付ける。ニーロにそんなことを言い付けられるのは飼い主であるヴィクトルだけだ。
(ヴィクトルが人間に危害を加えるなって、わざわざ言ったのか…)
人面蜘蛛を容易く切り裂ける力を持ったニーロが力を振るえば、生身の人間なんてあっという間に肉の塊になってしまう。なのに、人間を憎んで化け物になったはずのヴィクトルがそう気遣ってくれた。
ついついにやけた安月は自分が襲われたことなど忘れてしまいそうになった。
「直接手を出せぬからこそ懸命に助けを求めておったのが聞こえてな。おかげでわしらは駆け付けることができたのだよ」
「そうだったんだ…ありがとな、ニーロ。怒ってごめん」
安月が謝ると、ニーロは気にしていないと言いたげに鎌首を揺らした。
「うむ、これにて一件落着。で、そろそろ出てきたらどうなんだ、ウワバミよ」
銀白狗神の言うウワバミが何のことだかわからない安月の視界の隅で影が揺らめく。
「っ、ヴィクトル…」
安月の呼びかけに表情を動かさない男は間違いなくヴィクトルだった。
彼は無言で近付いてくると、へたり込んだままだった安月を立たせて服に付いた砂を静かに払ってくれた。ついでに目立つ怪我がないかも確認され、それから、ぎゅうっと強く抱き締められる。
慣れ親しんだ体温がじんわりと沁みて、ようやく自分が救われたのだという実感が全身を包んだ。安堵の涙が勝手に湧いてきて、ほろりと頬に零れ落ちる。
「助けに来るのが遅くなってすみません」
静かな憤りを秘めた声に胸が高鳴った。帰りが遅くなったことに対して怒っているのかと思ったが、どうも違うらしい。心配してくれたと思っていいのだろうか。
いくら何でも都合の良すぎる考えだと何度も否定するものの、もしそうだとしたらこんなに嬉しいことはない。安月はおずおずとヴィクトルの背中に腕を回した。
「ニーロからの知らせを受けてすぐに来たのですが一歩遅かったようです」
つまり一匹がヴィクトルの元へと助けを呼びに行き、一匹が偶然近くにいた銀白狗神に知らせ、もう一匹は万が一のために残っていてくれたということか。
直接助けてくれたのは銀白狗神達だったが、それでもヴィクトルはニーロの知らせを受けてすぐに助けに来てくれた。自覚したばかりの恋心が胸の中できゅうきゅうと音を立てる。安月を守ろうという行為が契約上だけのことだとしても、今はこの喜びを素直に受け止めておきたかった。
「わしらが先に助けてしまったから、こやつは年甲斐もなく拗ねておるのだよ」
「え…?」
銀白狗神の耳打ちに、思わず安月は顔を上げてヴィクトルの美しい顔を見た。金色の眼はいつもの微笑もなく安月に向くこともなかったが、それが逆に銀白狗神の言葉を肯定しているような気がしてしまう。
「余計なことは言わなくて結構です。それよりもさっさと移動しましょう」
言うなり、ヴィクトルは胸にへばり付いていた安月を横抱きに抱え上げた。重心が崩れて慌てた安月は、咄嗟に目の前の肩に縋り付く。
「ヴィクトルっ、歩けるから!」
「いいえ、少しですが血のニオイがします。どこか怪我をしているはずですから大人しくなさい」
確かにズボンに擦れている膝が少しだけ痛いような気もするが、歩けないほどでもない。しかし安月は胸を高鳴らせる感情に従ってヴィクトルの首に腕を回した。
過保護なのは以前からだったけれど、今日は特別に甘やかされている気がする。ヴィクトルをそうさせるような何かがあったのかもしれないと直近のことをひとつずつ思い出すが、重要な切欠になりえる出来事はなかった。大きな事件と言えば女郎蜘蛛に襲われた日のことくらいだ。
(ああ、そっか…)
安月は少しだけ落胆した自分に苦く笑う。
ヴィクトルは安月の精液が美味だと言っていたし、その直後にもそれを欲しがっていた。やっと気に入る味を見つけられたことで独占欲か何かが生まれたのだろう。自分達の間には利害関係しかなく、個として欲しがられているわけではない。
そう考えてしまうと、ふわふわと高鳴っていた胸は一気に冷たい風が吹き込んだように縮こまる。
(ヴィクトルもオレのこと好きになってくれないかな…)
安月は切ない願いを込めて逞しい肩に頬を押し付けた。その肩越しに銀白狗神がにこにこと笑っているのが見える。
彼が人間ではないのは一目でわかったが、かと言ってヴィクトルやセシリオのような魔性は感じない。それどころか、間違いなく神なのだと思わせる清雅な空気を漂わせているのだからわかって当然だ。
そんな銀白狗神の一歩後ろを黒いスーツの青年が歩いているのだが、彼は仏頂面が地顔なのかと思ってしまいそうはほどに不機嫌を隠しもしない。先ほどの発言から、ヴィクトルにあまり好意的ではないことも容易に予想できた。
(神様と悪魔が仲良しなわけないか)
アパートの部屋に着くなりヴィクトルは安月を風呂場へと追いやった。
「手当てをしますから、出たら声をかけなさい」
「う、うん」
整いすぎた顔は、いつもの微笑がないだけで有無を言わせない迫力がある。安月は言われたとおりにシャワーで全身の汚れを流し、擦り剥いていた膝は特に念入りに洗った。ついでに髪を洗いながらハッとする。
自分とヴィクトル、それからジュリウスに加えて銀白狗神と永峯。
「…ワンルームに男五人って……」
なかなかにシュールな図ではないだろうか。ただ、集っている面子の約半数が整った顔立ちをしているおかげで、むさ苦しさがないことだけが救いだった。
風呂場から出て部屋着に着替え、まだ水気が残る髪をタオルで押さえながら安月は廊下に顔を出す。
「ヴィクトル…出た、けど」
声をかけるとヴィクトルは救急箱を手にして、なんと安月の前に膝をついた。
「私の膝に足を乗せて。ちゃんと見せなさい」
「う、うん…」
片膝を立てたヴィクトルに言われるがままに安月はそっと足を乗せる。何というか、倒錯的なポーズだと思った。
ヴィクトルは僅かに滲んだ血を舐めるでもなく、清潔なガーゼで水分と血を拭い、怪我の具合を確認すると手早く絆創膏を貼り付ける。傷が早く綺麗に治るという触れ込みの絆創膏なんて一体いつの間にこの部屋に置かれていたんだろう。
「他に痛むところは?」
「ううん、特にない」
立ち上がったヴィクトルが流れるような動きで安月の唇を塞いだ。食事かと思ったが、唇は僅かに触れただけで離れていく。不意打ちのキスなんて心臓に悪い。
「助けに行けなかったお詫びです」
キスがお詫びになるのかとは、今の安月には言えなかった。
部屋に戻るとベッドの上に銀白狗神が座り、ヴィクトル用のクッションの上にジュリウスがいて、軍人のように背中側で腕を組んだ永峯は相変わらずの仏頂面でベッドの傍に立っている。
どこに座ればいいんだと悩んだ安月はヴィクトルに手を引かれ、そうすることがさも当然だとばかりの表情をしている彼の膝の上に乗せられてしまった。
(え、何だこれ…)
羞恥心に顔が赤くなる。座るスペースがないからだと言われれば否定はできないが、何もこの状況でしなくても。
だが誰もそれを気にした様子もはなく、安月は自分の感性がおかしいのかと本気で疑ったほどだ。
「ヴィクトル、こちらの方々は?」
ジュリウスは明らかに神性を感じる銀白狗神のことが気になるようだった。
ここ数日の間に、ジュリウスはヴィクトルのことを安月と同じように呼ぶようになった。理由を聞けば彼はヴィクトルの真名を知らないらしく、実は長年どう呼べばいいかと困っていたらしい。
「わしは銀白狗神。この国に住まう神よ」
「やはり…聖なる力を感じていたのでもしやと思っていました。日本には八百万の神がおられると聞いていましたが、実際にお会いすることができて光栄です」
「うむ。そのように畏まらずとも良いぞ」
銀白狗神の言葉に、ジュリウスは胸に手を当てて祈るようなポーズをする。当然だがそれが様になっていて、まるで宗教画を見ているようだった。
「では全員揃ったので話をしましょうか」
ヴィクトルの声に、部屋には静かな緊張が走った。
「なるほど…セシリオは僕を解放するつもりだった、ということか」
銀白狗神が管理する神域の中でならジュリウスは悪魔になった肉体とは言え、うまく飢えを凌ぐことができるらしい。そして彼がそう過ごせるようになることを望んでいるのがセシリオだということも。
小さく呟いたジュリウスが神妙な面持ちで視線を落とす。
ただ、ヴィクトルはセシリオがどう考えてジュリウスの許から離れたのかまでは話さなかった。
ジュリウスを想うが故に今も姿を現さないのだと言われたら、きっとジュリウスはあの少年を見捨てられなくなるだろう。同情めいた気持ちでその選択をされてもセシリオは喜んだりしないし、もしかしたらもっと酷い方法での別離を考える可能性だってある。化け物の、特にセシリオの極端な考え方は計り知れない。
安月はどうしても、もし自分がセシリオの立場ならと考えてしまって成り行きが心配で仕方がなかった。
「今まで悪さばかりしておった小悪魔がどんな風の吹き回しかわからぬが…。何にせよ、そなたがどちらを選ぼうとも、わしは間違いなく力を貸そうぞ」
ベッドの上からにこりと笑みを浮かべる銀白狗神とは対照的に、ドーベルマンみたいに厳しい表情の永峯はさらに眉間にシワを寄せる。
「狗神様、わたくしは反対です。元は聖職者とは言え悪魔に力を貸すなど…。伊琉守様に知られたら、どのような咎を受けるかわかりませぬ」
「伊琉守殿はそう狭量な御方ではないよ。それにな永峯、ここはお前が『きゃー! くー様ってば優しい大好き! 惚れ直しちゃう!』と言うところだ。ほれ言うてみよ」
「わたくしは斯様な世迷言は言いませぬ」
真顔で拒否する永峯と、拗ねて口を尖らせる銀白狗神。
何を見せ付けられているんだろうか、これは。安月はヴィクトルの膝の上に乗せられている自分の現状さえも忘れて呆気にとられっぱなしだ。ふと安月はセシリオが銀白狗神のことを「小うるさい犬神」と言っていたのを思い出し、少しだけ同意したくなった。
「つれないのう。昔は素直に『くー様だーいすき』とハートマーク付きで言うてくれたのに…」
「昔は昔、今は今ですので」
泣き真似をする銀白狗神の胡散臭いこと。
大きなため息をひとつ吐き出した永峯はそんな主人を後目にスーツの内ポケットから手帳を取り出した。
「…これが今回の件に関係あるかはわかりませぬが」
そう前置きをしながらも手帳を捲る指先はきびきびしている。刑事ドラマでよく見る仕草に、安月は場違いにも感動してしまった。
「表向きは世界各国のアンティーク雑貨や調度品の輸入販売をしているベンチャー企業の代表取締役社長、名は山岸健吾。四十五歳。この者について気になる情報を得ております」
ページに書かれた文字を読む彼の表情は相変わらず仏頂面だ。
「取り扱っている物品からもわかるとおり、この男は新興カルトもしくは悪魔崇拝に傾倒しているようです。以前より悪魔や魔物と言った存在に憧れに近い感情を抱いている様子もあったとか。さらに、ここ最近になって周囲に『本物の悪魔を手に入れた』と自慢している…と」
「ヒトの手に落ちるような未熟者。まあ、間違いなくあの小悪魔だろうな」
それが誰のことを示しているのかをその場の誰もが言外に察した。精悍な顔立ちを強張らせたジュリウスが立ち上がる。
「あの子を助けに行かなくては…!」
「まあ待て待て、おぬしはこの国のことはあまり知らぬだろう。その山岸なる男にも、どのようにして会うつもりだ?」
「そ、れは…」
銀白狗神の指摘にジュリウスは悔しさを隠しもせずに唇を噛み締める。
「なに、蛇の道は蛇と言うだろう。この国でのことならば、わしに任せておくが良い」
にんまりと笑った銀白狗神は渋い顔の永峯をせっついて安月と連絡先の交換をさせると、数日だけ時間が欲しいと言い残して永峯を伴い帰っていった。それから間を開けず、ジュリウスも連泊している宿へ戻ると言って静かに帰っていく。
二人きりの沈黙が満ちる部屋で、安月は自分が未だにヴィクトルの膝の上にいることを思い出した。
「お、降りる、から」
安月はおずおずとヴィクトルの膝から腰を上げるが、逃がさないとばかりに捕まえられて元の位置に戻される。
「…安月、今日は何故あのようなことになったのですか」
「あのような…? あ、ああ、公園でのあれか」
襲われたことは思い出すだけでも鳥肌が立ちそうなほど不快でしかなかったけれど、今はヴィクトルの膝の上にいるからなのか冷静さを失わずに済んだ。
安月は銀白狗神から聞かされた話をそのまま繰り返して聞かせた。自分のニオイが変化した理由については明言を避けたけれど、原因となることなどひとつしかないのは明らかで、ヴィクトルもそれを考えたのか安月の首筋に顔を近付ける。
「上書きしてから二週間ほど経っていますし、ニオイが馴染みすぎたか、効果が切れかけているのかもしれませんね」
「でも蜘蛛は寄ってきてないけど…」
「蜘蛛の嗅覚は敏感ですから、私のニオイがもう少し薄れるまでは近付かないでしょう」
「そっか。それにしても人間でもニオイがわかるやつがいるなんて…」
思わずため息が漏れた。今日は運良く銀白狗神と永峯に助けてもらえたが、もし次に同じことがあったら、そう考えるだけで寒気がする。
「安月」
ヴィクトルに呼ばれて顔を上げると、金色の目と真っ直ぐに視線がぶつかった。
「もう一度ニオイの上書きをしましょうか」
「…っ」
思わず息を飲む。それはつまり、なんて考えなくてもわかってしまった。じわりと血が上った安月の頬をヴィクトルの指先がくすぐっている。反対側の頬は小鳥がするみたいにそっと啄ばまれた。
「少々準備があるので今すぐは無理ですが、明日か明後日にでも」
「ぁ…うん…」
妙な緊張感に畏まった安月の唇にヴィクトルが触れる。慣れたように口を開けば舌が入り込んできた。舌先を刺激され、滲んだ唾液を啜られる。
キスにもそれ以上の行為にも食事としての意味しかないはずなのに高鳴る胸を抑えきれない。この化け物のことを好きだと気付いてしまった。女の子でもなく、人間ですらないのに、好きになってしまった。
シャツの裾から忍び込んできた指に肌を辿られると、恥ずかしくなるくらい敏感に足先が跳ねる。
「ん…っ」
くすぐるくらいの力で乳首を撫でられて声が漏れた。腰の辺りに疼きが生まれ、この先のさらに強い刺激を求めて身体が熱くなる。ついさっき上書きするのは明日か明後日だと言っていたその口は、まだ安月の舌を執拗に追い回している。
全身を巡る血が一点に集まってくる感覚に焦った安月は必死に口を離して、胸を弄るヴィクトルの手を捕まえた。
「す、するのは、明日か明後日って…!」
「そうでしたね」
ヴィクトルはあっさりと手を引いた。
しかしとっくに腰が抜けた安月はうまく動けずにもじもじと膝を擦り合わせ、情けなくて涙の滲んだ目で涼しい顔の男を睨み付ける。
「ヴィクトルのせいだからな…」
「では責任を取りましょう」
微笑と共にベッドに転がされ、パジャマ代わりのハーフパンツを下着ごと一気に引き下ろされた。まだ兆しを残したそこにヴィクトルが触れ、手のひらで包み込まれる。
「や、やだ…声が…っ」
隣に聞こえてしまうと羞恥に怯える安月の口をヴィクトルが塞いだ。舌を絡められて吸われると、頭に霞がかかったみたいに気持ちいいことだけしか考えられなくなる。ゆっくりと手のひらで擦り上げられて、また少し熱が篭った。
口内と下腹部から湿った音が聞こえてくるのが恥ずかしくて、なのに溶けるほど気持ちが良くて、安月は自分からも求めて銀色の髪に指を埋める。
(好き…)
心の中に湧き上がる想いのままに熱を求め、解放を促す手の動きに合わせて僅かに腰を揺らすと、見計らったように手の動きが激しくなった。
「んんぅ…ッ」
導くというよりも追い詰める強さに腰が戦慄いた。強制的に高みへと昇らされる。閉じた目蓋の裏で火花が散るような感覚に陥り、それと同時に腹の上に滴り落ちる雫を認識した。
呼吸を遮っていた唇が離れたと思えば、赤い舌に吐き出したばかりの体液を舐め取られる。
「ヴィクトル…それ、恥ずかしいから…」
今でも一日中部屋の電気は点けたままだ。何をどうされているのかすべてが見えてしまい、安月は目を閉じることでしか逃げられない。
「…甘い」
興奮を隠さない声に恐る恐る目を開けると、左目を異形の色に変えたヴィクトルと視線が交わった。手に付いた退役でさえ惜しむように舐める彼の姿は酷く淫猥だ。
「前回よりも甘くなりましたが、何か変わったことでもありましたか?」
「別に、っん…ない、けど…」
舐めながら聞かないでほしいし、言わせないでほしい。一滴残らずすべてを舐め取られて、さらにそれを見せられて、安月は今にも恥ずかしさのあまり爆発しそうだった。
そんなものが前回よりも甘くなったなんて信じられない。むしろ甘いとか知らない。安月は火を噴きそうな顔を両手で覆った。
ヴィクトルはもうすべてを舐め取ったのに、残り香ですら惜しいと言わんばかりに丹念に舌を這わせている。それ以上舐め続けられたら非常に困った事態になるからやめてほしい。
(変わったことなんてない……ことも、ない…のか?)
安月は手をずらして、しつこく肌を舐めているヴィクトルを見た。
前回はただ傷心の痛みから目を逸らしたくて縋った。そこにはヴィクトルへの気持ちなんて少しもなく、ひたすら自分を哀れんでいただけだったが今回は傷心なんてしていない。求められたから捧げただけ。
(…違う)
安月は自分の考えを否定した。
捧げたかったから、そうしただけだ。彼に触れてほしかったから、触れてもらえて嬉しいと思った。好きだという想いを込めて自分から差し出した。
「…たぶん」
口を開いた安月をヴィクトルの金色の眼が見つめる。その眼差しは熱く濡れていて、身体の奥の残り火を再び燃え上がらせてしまいそうだった。
「ヴィクトルのこと、考えてたから…」
はっきり好きだと伝えられるほどの勇気はさすがに出なかったが、味が変わった理由を少しでも知ってほしいと思った。
金色の瞳が近付いて、ほんのりと汗で湿った額に優しい口付けが落とされる。
「なるほど。ではこれからは毎日私のことを考えていてくださいね」
見惚れるくらいの微笑みと共に唇が重なった。
出会ってから今日まで良い意味でも悪い意味でもヴィクトルのことを考えなかった日なんてないのに。安月は面映く笑い、自分からもキスに応えた。
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