月夜の陰で悪魔と踊る

月居契斗

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 アラームが鳴るよりも一瞬早く、優しく肩を揺さぶられた。
「安月、そろそろ起きる時間ですよ」
「んん…」
 週が明けて今日は月曜日。授業が三限からなのを心から喜ばしく感じるのは、だるさが抜けきらないせいだ。
 もう既に朝とは言えない時間で、すっかり高く昇った太陽がカーテン越しにも眩しく照っているのがわかる。アパートの周りに植えられた木では蝉がけたたましく騒いで暑さに拍車をかけた。
「身体は大丈夫ですか?」
「…大丈夫に見えるのかよ」
 ベッドから抜け出すこともできずにヴィクトルを恨めしく睨み付ける。異形の生き物に好かれすぎるニオイを誤魔化すにはそうするのだと教えられていたものの、腰にべっとりと染み付いた強いだるさには心底辟易した。
 あの時は傷心のあまり正常な判断ができない状態だったし血迷ったと言えばそれまでだが、史上最低の初デートとなった日の夜、この化け物に身体を許してしまったことを安月は今さら少しだけ後悔している。自分でもまさか本当にその手段を選ぶとも思っていなかった。
 しかもヴィクトルは意識を飛ばした安月を一晩中抱いたままでいたようで、翌朝とんでもない状況で目を覚ました挙句、文字どおり丸一日ベッドから出ることを許されなかったということも追加しておく。ほんの少しでも思い出すと顔から火を噴きそうだ。
 何とかベッドの上で身を起こして、腰を擦りながらヴィクトルが淹れた甘くてぬるめのミルクティーを飲むと、ようやく身体がいつものペースを取り戻せたような気がした。こんなことくらいで大学とバイトを休むわけにはいかない。
 携帯電話には昨日のうちにデートの続報を求める友人達からのメッセージが届いていたが、結局どれにも返信できていなかった。
(デートした相手が実は巨大な蜘蛛の化け物で、喰われそうになったところを助けてくれた男に抱いてもらいました…なんて言えるか!)
 声には出さずに盛大なツッコミを入れる。頬が熱いのは、どれもこれも機嫌の良い美貌の男のせいだ。
「少しでも食べていきなさい。バイトにも行くのでしょう?」
「はーい」
 ふわふわのスクランブルエッグとケチャップを乗せたトーストを齧り、合間にミルクティーを飲み、ちゃんとサラダに手を伸ばすのも忘れない。
 食事の用意はもちろんだが、昨夜は満足に動けない安月を風呂にまで入れてくれた。至れり尽くせりとはこのことだ。
 随分と甲斐甲斐しく世話してくれる綺麗な顔の化け物が何か企んでいるのではないかと疑っていた安月だが、そう言えば自分と彼は利害関係の一致の上で契約を交わしたことを思い出す。
(そうだよ、オレは餌でしかないんだ…)
 ニオイを上書きしてもらってその役目が果たせない今の自分は、ヴィクトルの食料となる体液の提供者に過ぎない。どぎまぎと騒いでいた心臓が急に冷えた。
 黙々と食事を済ませて出かける準備を整え、新たなメッセージが届いたことを知らせる携帯電話を見てため息を漏らす。
「…行ってくる」
「バイトが終わる頃に迎えに行きます」
「しばらくはニオイしないんだから別にいいよ」
 安月は不貞腐れたような口調になってしまったことに自己嫌悪しながら部屋を出る。
 腰を庇いながら駅まで歩き、電車の揺れに耐えて大学に着くとすぐに友人達に囲まれた。同じゼミの喜嶋は当然としても、波多と酒井までいることに驚きを隠せない安月は簡単に捕獲され、手近な椅子に座らされる。
「どうして返信しないんだよ」
「俺らずっと安月からの報告待ってたんだぜ?」
 答えるまでは逃がさない。三人の目はそう言っていた。
 安月は乾いた笑いを漏らしながら、電車の中で必死に考えた理由を口にする。
「あー…フられちゃった、みたいな?」
 間違っていないような気もするが当たってもいない。けれど本当のことなんてもっと言えるはずがない。
「何で? 安月は一途だし女の子が嫌がることだってしないし、フられる理由なんてないだろ」
 波多が憤慨したように息巻いた。そんなふうに肩を持たれると嬉しいような気まずいような、とにかく申し訳ない気持ちになって視線が泳ぐ。
「ちょっとイメージと違ったとか、そんな感じ…。ああもう、この話は終わり! フられたことは間違いないんだから」
 自棄になってそう言うと、逆にリアリティーがあったのか三人は顔を見合わせて黙り込んだ。
「今日の昼、プリン奢ってやるからな」
 同じ痛みを分かち合う仲間を見つけた酒井が安月の肩を叩く。喜嶋と波多からも肩を叩かれ、安月はしばらくの間、友人達から同情を向けられることを悟った。
 妙に優しい眼差しを向けてくる友人と共に授業をすべて終えてバイト先へと向かいながら、安月は約束どおり昼休みに奢ってもらったプリンの味を思い出していた。厳選された卵を使用したというプリンは濃厚で、苦めのカラメルソースとの相性は抜群だった。あれなら一個三百円も納得だ。
「お疲れ様です」
 七月も下旬となり、亜季の通う幼稚園は夏休みに入っている。だが亜季が一日中家にいることでかえって奈津美は毎日忙しそうで、安月は彼女の負担が減るのならと平日は今までどおりバイトをさせてもらうことにした。
「じゃあ、いつもどおりお願いね」
「任せてください」
 家事と亜季の世話の両立、そこに店での仕事が加わるとなると本当に大変だろう。自分がいる間に少しでもいいから身体を休めてほしいという気持ちを込めて、安月は奈津美を見送った。
 毎日のように店に来てくれる婦人達ともすっかり仲良くなったと思う。
「安月ちゃん、こんにちは」
「トミさん、こんにちは。今日は夏野菜の揚げびたしがオススメですよ」
「あら、おいしそうね。それをいただこうかしら」
「ありがとうございます」
 パックに入れた惣菜の重さを量って値段を伝えることにも慣れた。商品とお金を交換すると、トミさんがひそひそ話をするように顔を寄せてくる。
「あの外人さん、今日もお迎えに来てくれるの?」
「あー…はい、まあ、たぶん」
 安月は曖昧に苦笑いをする。
 毎日同じ時間に迎えに来るヴィクトルは何かと目立つ容姿をしていることもあって今やすっかり有名になってしまい、トミさんをはじめとする常連客だけでなく他の店の従業員にまで話が広がっているらしいと聞いて頭を抱えたくなった。
 実は未だにヴィクトルとは『ちょっとした知り合い』だと誤魔化し続けている。
 当の本人からは恋人だと言えばいいだなんて言われたが、そんなことそう簡単に吹聴するわけにもいかない。奈津美やトミさんの反応を見る限り、恋人だと言ったところで彼女達は嫌な態度はしないし、むしろ喜ばせるだけだとは思うが、安月としてはどうにも複雑で仕方ない。女性陣の大らかさを救いだと思っていいのか非常に悩んでしまう。
「あんな綺麗な男の人を惚れさせちゃうなんて、安月ちゃんもやるわねぇ」
「ははは…」
 女性陣の間では、毎日欠かさず迎えに来るくらいなのだからヴィクトルのほうが安月にベタ惚れしているという図式がすっかり出来上がっているらしい。本気か冗談かわからないからかいに、安月は適当に笑っておくしかなかった。
 惣菜を売るよりも会話をする時間のほうが長いような気がする。亜季を寝かし付け、家事を終えて店に戻ってきた奈津美と場所を入れ替わって洗い物をしながら、安月はちらりと時計を見た。そろそろヴィクトルが迎えに来る時間だ。
「安月君、お迎えに来てくれたわよ」
「あ、はい」
 奈津美の声に顔を上げると、ヴィクトルは店先でトミさん達に捕まっていた。化け物ながら相変わらず愛想が良い。
 いつもならヴィクトルが適当に会話を切り上げて、商店街の入り口で待っていると言い残して立ち去るのだが、今日は違った。だし巻き玉子を焼く手を止めた大将が珍しく店先へ姿を現す。
「兄さん、毎日この時間に顔を見るが、仕事は何してんだい」
 あまりにも直球すぎる質問に慌てた奈津美が大将の横腹を小突いた。
 自分とヴィクトルの本当の関係を誤魔化すための設定は考えたが、ヴィクトルが人間としてどんな生活をしているかの設定は考えていなかった。安月は目を白黒させて大人を納得させられそうな理由を探すものの良い案はすぐには浮かばない。
 そんな安月を後目に、ヴィクトルは動じることもなく微笑を浮かべた。
「宝石商をしています。最近は現地での買い付けも他の者に任せることが多いので、こうして好きなように彼の傍にいることができるのです。鉱山の採掘権も所有していますから、こう見えてもそこそこの収入はありますよ」
 咄嗟の嘘にしては流暢すぎる。思わずぽかんとする安月に視線を向けたヴィクトルは「いつもの場所で待っています」とだけ告げて颯爽と去って行った。
「宝石商ですって。なるほどって感じの人ね」
 トミさんが感心したように呟いた声に、どうしてか安月はうまく反応できなかった。
 それからしばらくしてバイトを上がらせてもらい、惣菜を入れた袋を揺らしながらいつもの待ち合わせ場所へと向かうと、ヴィクトルはテーブルの下で嫌味なほど長い脚をゆったりと組みながら本を読んでいた。
 いつも彼が凭れていた電柱の傍には昔からある古めかしい喫茶店があるのだが、ヴィクトルが現れるようになってからというもの、人だかりのせいでその時間帯だけ売り上げが悪くなってしまったらしい。それを小耳に挟んだ安月が「コーヒーの一杯でもいいから注文しろ」と言うと、その翌日からヴィクトルはコーヒーを注文して安月を待つようになった。店先には元々ガーデンテーブルが一組置いてあったのだが、今ではすっかりヴィクトルの特等席だ。
 それにしてもヴィクトル見たさに喫茶店に来る客もいるなんて聞いてしまった時には、随分と複雑な心境になってしまった。確かに顔は良いことは認めるしかないし、男女問わず人当たりも悪くない。
 だが、彼の本性が化け物だと知っているのは自分だけ。そう思うと不思議と溜飲が下がる。
「ヴィクトル」
 彼のことだ、安月が近寄らずとも気付いていただろう。しかし今日は何となく自分から声をかけてもいいと思った。
「お疲れ様でした。帰りましょうか」
「うん」
 とっくに飲み干されて空になったカップを残して席を立ったヴィクトルが、安月の持つ袋を自然な動きで奪う。
 微かに触れた指先に一昨日のことを思い出して熱くなった頬は、肩を抱かれてますます温度を上げた。
 背中に幾つも刺さる視線になぜか優越感を覚えながら、安月は駅までの道を何となく無言で歩いた。少し遅れて到着した電車に乗ると、ヴィクトルが片手を壁につけて適度な空間を確保してくれる。
「ありがとな」
「どういたしまして」
 会社員風の男からの視線が今日はいやに不躾に感じるほど強い気がした。男の二人連れがそんなに珍しいのかと首を傾げたくなる気持ちを堪えて、気にしていない態度を貫く。そのうち向こうも慣れるだろう。
 電車を降りてから、安月はふと思い付いてヴィクトルの袖を引っ張った。
「なあ、今日は何か甘いもの食べたいんだけど」
「では店に寄りましょうか」
 方向転換してスーパーへと足を向ける。一時期は毎日のように聞いていた閉店を知らせる音楽が何だか懐かしい。
「何でも好きなものをどうぞ」
 安月はあれこれと迷ってから、今まであまり食べる機会がなかったエッグタルトを手に取った。それだけを買って店から出る。いよいよ夏本番の夜風は少しだけ湿っていた。
 駅のロータリーと銀行を通り過ぎ、路地に入って公園が見えたところで、安月は横目でヴィクトルを見た。
「寄る…?」
「いえ、今の君からは私のニオイがしますから蜘蛛は近付いてこないでしょう」
 改めてそう言われると、自分が彼と何をしたかまざまざと思い出してしまう。
「それに今は蜘蛛よりも安月を食べたい」
「え……」
 食事としての意味しかないとわかっていながら、心臓が跳ねてしまったのがちょっとだけ腹立たしい。
「そういえば、バイトの時に言ってた仕事って…」
「あれは本当のことですよ。鉱山は知人から継いだもので、小規模ですが今も何かしら採掘されているようです。宝石がお好きなら何かプレゼントしましょうか?」
「いらない。オレには似合わないし。ヴィクトルには似合うと思うけどな」
「おや、安月の口から褒め言葉を聞けるとは珍しい」
 茶化すヴィクトルを安月は軽く睨んだ。
 アパートの玄関を開けてもらっていると、隣の部屋のドアが内側から開く音がした。安月が住みはじめてからほとんど顔を合わせたことのない隣人は大学院生だと大家から聞いていたのだが、青年は無精髭を生やし、身形にも気を使っていないせいでかなり老けて見えた。
「こ、こんばんは…」
「……どうも」
 安月が引き攣った愛想笑いを浮かべると、隣人はどこか澱んだ目を向けながら小さく呻くような声で答え、そそくさと廊下を通り過ぎていく。
 見た目以上に不審な態度に首を捻りかけた安月はサッと顔を青くし、ヴィクトルの腕を掴んで部屋へと引きずり込んだ。こんな大変なことを失念していたなんてどうかしている。
「ここだけじゃないけど、アパートってのは大体どこも壁が薄いんだ。だからその…っ」
「あの時の声を聞かれたかもしれないということですか」
「そうだよ!」
 勢いに任せて吠えた安月は頭を抱える。
「そりゃ黒崎さんのことはショックだったけど、だからと言って壁が薄いなんて当たり前のことを忘れるなんて…」
「禁欲的な人間には少し刺激が強かったかもしれませんね」
 安月はいけしゃあしゃあとそんなことを言う男を強く睨んだものの、ああしてほしいと言い出したのは自分だという事実が変わらないことに落ち込む。もし次に顔を合わせることがあったら気まずいことこの上ない。
「安月」
「…何だよ」
「次は君が声を気にせずに済む場所でしましょうか」
「は?」
 何を言われたのか理解しきれなかった安月が間抜けな声と共に顔を上げると、ヴィクトルは金色の目を細めて微笑していた。
「君の精液があまりにも美味だったので、ぜひまた味わわせていただきたいと思いまして」
「せ、せ…っ!」
 あまりの羞恥に全身が燃える。きっと首まで真っ赤になっているはずだ。
 確かにあれも間違いなく体液だが、だからと言って「じゃあどうぞ」と気軽に提供できるものではない。
 壁際に追い込まれて、逃げることもできず酸欠の魚のように口をパクパクさせる安月の赤く染まった頬をヴィクトルが舐め上げる。
「君はニオイの上書き、私は極上の食事。互いにとってメリットしかありません」
 反論する前に顎を掬い上げられて口を塞がれた。逃げる舌を簡単に絡め取られると、この先にある強い快感を知っている身体は今にも陥落してしまいそうだ。
「ッ…」
 頚動脈の上を甘ったるく食まれ、シャツの上から器用に乳首を探り当てられた。安月は肩を竦ませながら胸に付けられた赤い跡のことを思い出す。
 女郎蜘蛛によって付けられた蚯蚓腫れは一日と経たず僅かな出血の痕だけを残してほぼ消えたが、その代わりに胸には小さな赤い点が残されていた。最初はそれが何かわからなかった安月は、ヴィクトルによって風呂に入れられた際に同じ場所を吸われて、正体不明の跡の正体が俗にキスマークと呼ばれるものだと知った。
 ヴィクトルに身を任せたのは、あまりにも悲しい現実を一時でも忘れるため。それから蟲を引き付けるニオイを消してもらうために縋っただけで、そこに熱を孕んだ感情は一切含まれていない。
 そのはずなのに、こうして力強く抱き寄せられて唇を奪われていると全身が熱く燃え上がる。
「君が欲しい」
 耳元でそんなことを言わないでほしい。食糧としてではなく自分自身を欲しがられていると勘違いしてしまうではないか。
 手際の良すぎる指先がズボンのウエストボタンを外し、一方では入り組んだ耳の隆起をなぞるように舌先が這い、濡れた音が鼓膜を淫靡に刺激する。たった一晩で肉欲を教え込まれた身体を大きく震わせた安月は目の前の身体を押し退けた。
「あ、明日は一限から授業あるからダメだ!」
 必死の思いでヴィクトルを振り切って風呂場へと逃げ、全速力で走った直後みたいに跳ねる胸を押さえてへたり込む。
(……ヤバかった)
 あのまま流されていたら明日の遅刻は確実だった。その場に蹲って深いため息を吐き出した安月は、僅かに反応しかけている下半身が情けなくて泣きたくなった。
(オレはあいつにとって食事でしかないのに…)
 たとえもし安月が今以上を望んだとしても食糧以外の何かになれるとも思えないし、自分がそんなことを思うわけがないと力いっぱい首を横に振った。
 足元をふらつかせながら服を脱ぎ捨てて頭からシャワーを浴びる。考えたところで解決なんてしないのもわかっているし、さっきまでのもやもやした不可解な気持ちは一旦忘れてしまおう。
 風呂から出る頃には気分も落ち着き、用意された夕食を適度に腹に詰め込んだ安月は、エッグタルトと無糖の紅茶を楽しんだ。ヴィクトルは簡易のティーバッグではなく茶葉を使い、面倒そうな手順をきちんと守って淹れている。
 カレーを作ってもらった時にも思ったが、化け物のくせに笑ってしまいそうなくらいまめまめしい。
 静かな手付きで食器を洗っているヴィクトルを見ながら膝の上で犬か猫のように甘えてくるニーロを撫でていると、鬱々とした気分も少しは晴れるような気がした。
 ふと、すっかり寛いでいる様子だったニーロが首を持ち上げる。
「ニーロ? どうかしたのか?」
 しきりに窓のほうを気にしているのを見て、安月の脳裏には窓ガラスに張り付いた人面蜘蛛の薄気味悪い顔が蘇る。トラウマと言うほどでもないけれど、あれ以来カーテンは昼夜問わず開けられないままだ。
「な、何かいるのか…?」
 ぶるりと肩を震わせた安月は、お守りか何かのようにニーロを抱き寄せる。
「安心なさい、蜘蛛ではありませんよ」
 落ち着いた声に振り向けば、食器を片付け終わったヴィクトルがニーロと同じく窓の向こうを気にしながら服を整えていた。
「少し出ます。念のためにニーロを置いていくので、君は先に休みなさい」
「お、オレも行く!」
「明日は早いのでしょう?」
「早い、けど…一人にされるのもちょっと、怖いし」
 ニーロの能力を軽く見ているわけではない。ただの人面蜘蛛が相手なら引けを取るわけがないことも充分理解しているが、ニーロがぼろぼろになって崩れていく姿が今も忘れられなかった。あれで死ななかったのはさすが化け物のペットだと言えるけれど、万が一を考えるだけで安月の背筋は冷える。
「わかりました」
 彼にしては珍しく渋るような表情だったが、それでも了承をくれたヴィクトルと連れ立って安月は部屋を出た。
 夜になっても気温はあまり下がっていない。すぐにうっすらと汗が浮かんだ。
「で、どこに行くんだ?」
「いつもの公園です」
 アパートの敷地を出た途端に肩を抱き寄せられる。離れるなと言われているみたいな気がして不安が生まれ、警戒しているらしいヴィクトルの姿なんて今まで一度たりとも見たことがなくて、ますます不安は大きくなった。
 公園までは無言だった。
 足を踏み入れた安月は敏感に人面蜘蛛とは違う何かの気配を感じ取るが、それが何かまではわからなくて、不安を隠すようにヴィクトルのベストの端を握り締める。
 暗い場所は相変わらず苦手だ。心臓が強く脈打っているせいで息苦しい。安月はいつどこから何が現れても逃げられるように警戒しながら辺りに視線を走らせる。
「久しぶりですね」
 ヴィクトルが僅かに植えられた木の向こうに声をかけると、その陰から一人の男が現れた。
 真夏だというのに全身黒尽くめで、窮屈そうな詰襟に地面を擦りそうな長い衣を着込んだ姿は教会にいるのが似合いそうな雰囲気だ。気なったのはただそれだけで、他には特に変わったところは見受けられない。
 何となく拍子抜けした安月はヴィクトルのベストを握っていた手を離した。
「ヴィクトルの知り合い?」
「ええ。正確には、知人の連れという関係です」
 外灯の下に立った青年はそれ以上動かず、こちらとは一定の距離を保っている。
「お一人ですか?」
「…コンビニに寄ってから来るそうだ」
 ヴィクトルの問いかけに青年が答えた。化け物の知り合いにしては世間慣れしていると安月は呆れてしまう。それ以上の話はまったく弾まずに気まずい沈黙が広がった。
「今どきのコンビニって侮れないね。すぐ新しいものが出るから目移りしちゃう」
 不意に、皮肉を含んだ少年の声が沈黙を裂いた。
 夜目にもわかるほど明るい金髪の少年が両手に丸々と膨らんだコンビニの袋を持って公園に入ってくるのを見ながら、安月はヴィクトルに向かって囁く。
「ヴィクトルの知人って…」
「彼ですよ」
 事も無げに頷かれても、状況の把握が追い付かない安月は首を傾げるばかりだ。少し前のヴィクトルといいあの少年といい、化け物の間ではコンビニで買い物をするのが流行しているのかもしれない。
 少年は袋から適当なスナック菓子を取り出すと、さっさと封を破って中身を頬張り出した。
「えーっと、ヴィクトルの知り合いってことは…」
「厳密に言えば人間ではありません。二人ともね」
「そうなんだ…」
 それ以上どう言えばいいのかわからず、安月は曖昧に頷いて口を閉ざした。
 化け物の外見設定はどうなっているのだろうか。見た目だけならヴィクトルと黒尽くめの青年は二十代後半くらいだし、金髪の少年は安月よりも年下の高校生か中学生にも見える。彼ら全員が化け物だと言ったとして信じてくれる人は皆無だろう。
 ヴィクトルと少年は人間離れした綺麗な顔立ちをしているが、黒尽くめの青年は精悍な顔付きではあっても飛び抜けて美しいと言うほどでもなく、おかしな言い方かもしれないが人間臭さを感じてしまう。
 何となく落ち着くものを感じながら青年を見ていると金髪の少年から鋭い視線が投げかけられ、安月は思わずヴィクトルの後ろに隠れたくなるほどの鋭利さに怯んで慌てて目を逸らした。気に触るようなことをしたのかと考えても思い当たる節はこれっぽちもない。
「その…立ち話もなんだし、部屋に戻らないか?」
 冷や汗を浮かばせた安月の提案で四人は連れ立って夜道を歩き出す。
 途中、パトカーと救急車がものすごい勢いで走っていくのがやや遠目に見えた。
「君がやったのか」
 咎める音を含んだ声を出したのは黒尽くめの青年で、それに答えたのは金髪の少年だった。
「悪魔の誘惑に勝てない人間が悪いんだよ」
 彼らの正体が人間じゃないと知っているだけで何とも恐ろしい会話に聞こえてしまう。
 つい震えた安月の肩をヴィクトルの手が引き寄せた。たったそれだけで安心できてしまった自分をあまりにも現金だと思うのと同時に、もしかしたら一緒に出かけたいと言い出した時にヴィクトルが渋ったのは、自分を彼らに会わせることを躊躇したからかもしれないと思い付く。
 黒尽くめの青年ならまだしも、あの少年は人間に危害を加えることに罪悪感を抱いていない様子だ。
(オレのことを心配した、とか? まさかな…)
 安月は自分の考えを否定した。
 彼らが人間でないと知っているからこそ深夜まで営業しているファミレスに行くわけにもいかなかったが、ワンルームの部屋に四人はさすがに狭い。
 ヴィクトルの知人だという二人にはベッドを椅子代わりにしてもらい、安月は床に置いたクッションの上に座った。先日ひとつ買い足したクッションはヴィクトルの足の下にある。
「わざわざ顔を見せに来た理由は何です?」
 単刀直入な質問に黒尽くめの青年は口を開かない。
「お前が珍しく同じ場所に留まってるって聞いたから見に来てあげたんだよ。でもまさか、人間といるとは思ってなかったけどさ」
 答えたのは少年だった。この二人の間で主導権を握っているのは少年のほうらしい。
 薄ら笑う少年の瞳は鮮血みたいな毒々しい赤色で、無遠慮に突き刺さる視線は値踏みされているようで落ち着かない。
 ここまで敵意を向けられなければいけない理由は少しも思い至らない。自分が人間で、向こうが化け物だからという理由だけでは納得できないほど明確な敵意だ。
「紹介がまだでしたね。こちらはセシリオ。付き合いは…まあ、それなりに長くなりましたか」
「もう何百年になるかなんて覚えてないけど、お前は相変わらず胡散臭いままだよね」
 セシリオは黙っていれば人形のように整った顔立ちをしているが、口を開くとすべて台無しになるらしい。吐き出す言葉すべてに棘か毒が含まれているのではないかと思いたくなるくらいだ。
「それから、こちらはジュリウス。彼は元人間です」
「えっ?」
 遠慮なしに突き刺さるセシリオからの視線を避けて俯いていた安月は思わず勢い良く顔を上げて、黒尽くめの青年ジュリウスをまじまじと見つめてしまう。
 やや癖のあるダークブラウンの髪に灰色が混じったグリーンの瞳は外国人的な色だが魔性を秘めているようには見えず、もちろん元人間だと言われて驚いたけれど、頭のどこかで納得もできた。公園で顔を合わせた時に感じた人間くささは気のせいではなかったらしい。
「酷いなぁ、ボクだって元は人間です~ぅ。ま、今はそんなことどうでもいいけど」
 茶化す声色で言いながらも、ちっとも笑っていない血色の瞳が安月を一瞥する。
「ていうか、お前こそなんで人間と一緒にいるのさ。暇潰しに飼ってるの? それとも太らせてから食べるつもりとか?」
「私は生肉は好みません。それと、彼のことは協力者と言ってください」
「協力ぅ? 悪魔と人間が? 長生きしすぎて、とうとう頭イカれたんじゃない?」
 セシリオは顔を顰め、信じられないとばかりに目を剥いた。
 安月も違う意味で目を丸くする。利害の一致からはじまった共同生活に間違いないが、ヴィクトルにその意識があったことは驚きだ。
「あなたにも共に居たいと思える相手ができたのか。それは良かった」
 この部屋に来てから初めて言葉を発した黒尽くめの青年は悪意のない、それどころか衣装も相俟って神々しく見えてしまうほどの微笑を浮かべていた。化け物と一緒にいるにしては性格が良すぎて違和感すら覚えてしまう。
 それはセシリオも同じなのか、悔しそうにも腹立たしそうにも受け取れる複雑な視線で青年を睨んだ。
「ねえジュリウス、甘いもの買ってきて」
「…このタイミングで言うことか? それにさっきたくさん買っていたじゃないか」
「うるさいな。何でもいいから今すぐに買ってきてよ!」
 ヒステリックに叫んだセシリオは、癇癪を起こした子供のように両手を振り上げてジュリウスをベッドから押し退ける。ジュリウスは突然すぎる我が儘に慣れているのか、細いため息をついたものの、そのまま振り返ることもなく出かけていった。
 この時間に甘いものを買える店と言えばコンビニだが、ここから一番近い店舗は生憎と駅の裏手の一軒のみだ。徒歩で往復すれば二十分ほどかかる。
 しかし、真夏の夜にあの恰好で出歩く青年を見たら、自分なら確実にお化けか何かかと勘違いしてしまいそうだと安月はついつい遠い目をした。
「それで、彼を遠ざけてから話したかった本題は何ですか」
「なぁんだ、バレてた?」
 軽口を返しながらもヴィクトルを強く睨んだセシリオはすぐに視線を逸らすと、さっきまでの高飛車な態度はどこへ行ったのか見た目どおりの少年らしいしおらしさで目を伏せて指先をもぞつかせ、顔を上げないまま話しづらそうに口を開いては閉じる。
 それを何度か繰り返してから大きく深呼吸をした。
「……あの人を、人間側に返してあげようかと思って…」
「おや、彼をこちら側に連れ込んだのは君でしょう? 何故それを今になって返す気になったのですか?」
 問われて再びセシリオの眼は力を取り戻したが、やはりそれもすぐに消える。セシリオのことを今日初めて知った安月は、どちらの態度が彼の本性かわからず困惑するばかりだ。
「見てたんだからわかるでしょ。あの人は何年経ってもボクを正そうとする。ボクを人間として扱おうとする。…ボクはもう今さら戻れやしないのに」
「そうですね、私達はもう無理でしょうね。あまりにも永い間、化け物で居すぎた」
 安月はヴィクトルの言葉に引っかかるものを感じ取る。今の言い方だとヴィクトルまで元人間だったように聞こえるのだが気のせいだろうか。
「ヴィクトル…その、良ければ、オレにもわかるように話してほしいんだけど…」
 相談相手の一人に数えられていない自分だけが取り残されているのは何だか寂しい。安月が置いて行かないでと縋る子供のような心境でヴィクトルの袖を掴むと、彼はその手を驚くほど優しく握ってくれた。
「私もセシリオも元々は人間として生きていました。ですが私達はそれぞれに悪魔と結合して永く、先ほど彼が言ったように、もう分離することはできません」
「ヴィクトルは…なんで悪魔に…?」
 答えてくれないかもしれないと思ったが、ヴィクトルは安月の手を握ったまま口を開いた。
「憎しみです。人間への憎悪が私を悪魔にしました」
「ボクも同じだよ。人間なんて今でも大嫌い。あんまりにも憎くて、憎みすぎて…だからボク達は人間を喰う化け物になったんだ」
 セシリオの言葉にも瞳にも激しい憎悪が揺らめいている。それを見ていると何故か急に泣きたくなった。
 今までの人生の中で悪魔になるほどの憎しみなんて感じたことはなくて、二人がどんな生き方の末に悪魔になってしまったのかを想像することさえ難しい。安月は彼らを理解できないことが無性に悲しいと思った。
 ヴィクトルには人面蜘蛛をおびき寄せるための囮として使われて、死を覚悟するくらい危険な目に遭ったこともある。正直あの時はヴィクトルのことを憎らしく感じたし、こんな化け物とは絶対に理解し合えないとも思った。利用されるなら利用し返してやると打算的に考えたことだってある。
 紗奈のことで自暴自棄になって身も蓋もなく彼に縋り、自分一人では消化することのできない遣る瀬無い気持ちの捌け口にすらしたのに、それでもヴィクトルは呆れることも冷たくすることもなく始終優しくて、人間の体液を食糧として啜る化け物のくせに食事ではなくあやすためだけのキスをくれた。
 守るという契約を誓いのように間違いなく果たしてくれたのは紛れもない事実だ。あの日から、不安を感じても肩を抱かれるだけで安心できるようになった。
 ヴィクトルにとっては自分など食事の提供者なだけかもしれないが、寄り添いたいと思う気持ちがいつの間にか安月の中で生まれていた。それを今、このタイミングで自覚するなんて。
 黙り込んだ安月を見てセシリオが小さく笑う。その笑みは何もかもを諦めきった老人のように見えた。
「悪魔になってすぐの頃のボクはそりゃあもう、あちこちで好き勝手やってたんだ。だって悪魔になってからはものすごく自由だったもの。人間が作った法律になんて縛られないし、命令を聞く必要もない。すごく晴れやかな気分で、気が向くままに殺して、壊して回ってた」
 歌うように言ったセシリオが徐にベッドの上から安月に顔を近付ける。
「お前、エクソシストってわかる?」
「あー…うん、少しなら」
「ジュリウスはボクに差し向けられた悪魔祓い師。本物の聖職者なんだよ」
 なるほど、だからあの出で立ちなのかと安月は納得した。
 一目でわかる十字架や装飾こそないが、確かにあの服は神父が着ているものとよく似ている。セシリオと一緒にいるにしては高潔な雰囲気も、聖職者だと言われれば頷けた。
「悪魔を祓えって言われて来てるんだから、ボクが悪魔だなんて最初からわかってるはずなのに、ジュリウスはボクの話を根気強く聞こうとしてくれた。本物の悪魔はもっと醜悪な見た目をしてるから、ボクは悪魔じゃないって本気でそう言うんだもん、笑っちゃったよ」
 くすくすと笑うあどけないその顔は悪魔には見えない。
「ジュリウスは悪魔のボクでも呆れるくらい気が長くて、三年以上も付きっきりでボクに取り憑いた悪魔を追い出そうとしてた。その頃にはボクはとっくに悪魔と結合しきっちゃってたから全部ムダだったんだけどさ」
 あまりにもあっけらかんと言われて、安月は複雑に顔を顰める。
 それにしても、この捻くれた子供に三年以上も気をかけ続けられる忍耐力は凄まじい。聖職者というのは皆そうなのだろうか。
「でも、そうやって真剣にボクと向き合ってくれたのは、あの人だけだったんだ。ボクは悪魔だけど、いつの間にかあの人のことが好きになってた。だからあの人のことが欲しくて、どうしても独り占めしたくて、ボクはあの人を自分と同じ生き物にしたんだよ」
 罪の意識もなく、そうすることが当然だったと言わんばかりの口調に、ぞくりと背中が冷える。あまりにも身勝手な振る舞いはさすがに悪魔だ。ジュリウスを人間側に返したいと思っていることが些か信じられないくらい、セシリオの中には未だに人間への果てしない憎悪と狂気が染み付いているのは確かだった。
「悪魔にしてから結構経つけど、あの人は今まで一度も化け物としての食事をしてないんだ。だからきっと、まだ人間に戻せると思って」
「その間の食事はどうしていたのですか」
「あの人が飢えるたびにボクの精気を分けてた」
「悪魔になってからの飢えはつらいでしょうに、彼はよく耐えられましたね」
「そこはほら、元は聖職者だから。己を律するのは得意分野なんじゃない?」
「なるほど」
 ヴィクトルが得心して頷いた。
 化け物同士の会話に安月はおずおずと口を挟む。
「どうして人間側に返そうと思ったのか、改めて聞いてもいいか?」
「そうだ、その話してたんだっけ」
 セシリオが目を瞬かせた。
「さっきも言ったけどさ、ボク、あの人のことが大好きなんだ。たぶんほんとに愛してるんだと思う。だからあの人が他の人間に優しくしてるのとか見ちゃうと耐えられなくて、殺したくなっちゃうんだ。ここに来る途中でサイレンが聞こえたでしょ? あれもそう。あの人間はあの人に親切にされたから許せなかった」
 まったく悪びれもせずに人に害意を向けて薄笑うセシリオを見ると全身が総毛立つ。安月には理解のできない感情だった。
 最初セシリオが安月に対して敵意を剥き出しにしていたのも、安月がジュリウスに関心を持ったと思ったから。つまり、嫉妬だ。嫉妬しただけで殺すのかと、鳥肌が立った肩を抱いて思わず息を飲んだ安月の様子に気付いたセシリオが表情を曇らせる。
「だけどね、ボクはこういうのをやめたいんだよ。だってこんなことしても、あの人が喜ぶわけないし…笑ってくれるわけないし。あの人といられてボクは幸せだけど、ボクといたってあの人は幸せになんてなれないから…」
 言葉を切って俯いたセシリオは泣いているようだった。しばしの沈黙のあと、息を整えた彼は潤んだ瞳でヴィクトルを見つめる。
「お前、あの…なんて言ったっけ、小うるさい犬神と連絡取れるでしょ?」
銀白狗神ぎんぱくくしんのことですか?」
「そう、そいつ! あの人を人間に戻しきれないとしても、あいつのところでなら人間と同じ生活をさせてあげられると思うんだ」
「連絡は取ってみますが、向こうが了解するとまでは保証できませんよ」
「別にいいよ。あの人に会わせさえすれば、向こうから保護したいって言い出すと思うし」
 早口で捲くし立てたセシリオはやおら立ち上がると、狭いベランダに通じるガラス戸を開けた。生温い風がカーテンを僅かに揺らす。
「ボクは自分の気が変わらないうちにあの人から離れるから、連絡がつくまでの間、あの人のことよろしくね!」
 言うが早いか、セシリオは夜の真っ黒な闇に溶けるように姿を消した。
「って、ちょっと待てよ! よろしくったって、ここに住まわせられる余裕なんてないぞ!」
 家主である安月が叫ぶのと、玄関ドアが開くのはほぼ同時だった。
 見渡しやすい部屋の間取り的にもセシリオの姿がないことにジュリウスはすぐに気付いたらしい。
「あの子はどこに行ったんだ?」
「さあ。気まぐれな方ですし、私には見当もつきません」
 安月は平気な顔でとぼけるヴィクトルの顔を横目で見上げた。
 他人からの頼みを素直に引き受けるようには思えない性格のヴィクトルが、こんなにもすんなりとセシリオの希望を叶えようとするなんて驚きだ。人間を憎んだ末に悪魔になった者同士で何か通じ合うものがあるかもしれないが、どうしたことか安月は面白くない気持ちになって、不快感の理由がわからずにますます気分が塞ぐ。
 そんな気分ではあるけれど、セシリオの行動は悪魔の純愛とでも言うべきかもしれないと安月は考えた。願いを叶えてあげたい気もするが、しかし安月にはどうすることもできない話だ。安月はこっそりヴィクトルの様子を窺う。
「彼がいつ戻ってくるかわかりませんし、今日はもう休んではいかがですか? 近くに、この時間からでも入れる宿がありますよ」
「そう、だな…そこで待つことにしよう」
「では案内しましょう。安月、今度こそ留守番で構いませんか?」
 聞かれた安月は手持ち無沙汰にクッションを握りながら渋々頷いた。
「…ニーロは置いてけよな」
「ええ、もちろん」
 頷いたヴィクトルが指先を僅かに揺らすと、彼の影から離れたニーロが安月の足元でとぐろを巻く。それを見ていたジュリウスが灰色がかったグリーンの目を丸くした。
「あなたは随分と器用なことができるんだな」
「ただの年の功ですよ」
 二人が出て行くと部屋は一気に静かになる。
 もうすっかり二人分の気配が染み付いてしまった部屋の静けさが怖いと感じてしまう自分を誤魔化すように、安月は膝の上にニーロを引っ張り上げて撫で回した。今のニーロはクッションか安眠枕代わりのぬいぐるみのようなもちもちとした感触で、触り心地は抜群だ。
「あ、そうだ…明日は一限からなんだし早く寝ないといけないんだ」
 立ち上がろうとした安月の首に、身体をより細長くしたニーロが巻き付いてくる。
 ヴィクトルのニオイを付けてもらった日から人面蜘蛛に遭ったことはないし、物陰に不穏な気配を感じたこともないが、この蛇はいつだって気遣いを忘れない。安月は首にニーロを巻き付けたまま歯を磨き、寝支度を整え、いざベッドに入ろうとして少し躊躇う。
 閉めたままのカーテンの向こうが怖い。変な音も気配もないし、何もいないと思うのだが、見えないようにしているからこその恐怖が足元から這い上がってくるような感じがする。
 ニーロもいるのだから不安になることなんてないはずなのにと安月が葛藤していると、玄関ドアの鍵が外れる音が聞こえ、思わず弾かれたように顔を上げた。
「お、おかえりっ」
 声をかけてから、そう言えばヴィクトルに向かっておかえりと言ったのはこれが初めてだと気付く。いつも安月のバイト先まで迎えに来てくれる彼と同時に帰宅するから言うタイミングがなかったのだが、改めて言うと照れ臭いものだ。
 言われたほうとしても意外だったのか、ヴィクトルは金色の目を僅かに瞠り、それから柔らかく口元を緩ませた。
「ただいま戻りました」
 獰猛な本性を隠すいつもの微笑ではなく、ごくごく自然に浮かんだ笑みに見えて、安月はどぎまぎと騒ぐ心臓を必死で隠しながらベッドに潜り込んだ。さっきまではあんなに窓の外が怖いと思っていたのに、今はすっかり別のことに気を取られている。ブランケットを蹴飛ばしたいくらい身体が熱い。
 ベッドの中で安月が都道府県を暗唱している間にヴィクトルがシャワーを使う音が聞こえてきた。水音が止むとすぐ風呂場のドアを開く音がする。それからドライヤーの音、それを片付ける音、廊下へと続くドアが開く音。素足の足音がこちらに近付いてくる。自分以外の誰かが立てる物音は、自分が一人ぼっちじゃないと確認できるから好きだ。
 その頃には騒いでいた心臓もすっかり落ち着いて、心地良い眠気の波間を漂っている安月を跨いだ気配がベッドに潜り込んできた。安いベッドは大きく揺れて安月の意識を僅かに浮上させる。それを詫びるように、窓側に入った相手は安月を胸に抱き寄せて、前髪の隙間に柔らかい感触を押し付けてきた。唇を合わせて唾液を啜られる動きさえも安月に眠気を催させるほどで、昂りを呼び起こさないキスは奪われるのではなくて自分から与えている気分になる。
 やけに優しい腕に包まれて意識が再び眠りの海へと沈んでいく。
「おやすみなさい、安月」
 その声にちゃんと返せたのか考えられないまま、安月は意識を手離した。




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