運命とは、まだ呼べない

月居契斗

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 翌朝アトールが目を覚ました時、小さなテーブルの上には朝食が入れられた紙袋と服とアトールの剣が置かれているだけでスペルトはいなかった。覚束ない足取りで浴室まで全部見て回ったが、彼はどこにもいない。
 アトールは何となくしょんぼりとした気分のまま律儀に食事の挨拶をして、野菜が多めに挟んであるサンドイッチに口を付ける。肉が多めのサンドイッチよりも野菜が多いほうが好きだと言ってからアトールの分のサンドイッチだけ野菜の量が増えた。
 スペルトのそういうところが憎めなくて胸の辺りがきゅうきゅうと痛む。
「どこに行っちゃったのかな…」
 寂しささえ感じながら朝食を終えたアトールはテーブルの上に置かれた服を着た。裾の短いズボンは股がひんやりして若干心許ないが、すぐに慣れるだろうと楽観的に考えておく。
 チュニックのリボンの結び目を丁寧に整えて、腰のベルトに剣を差すと身が引き締まる思いがした。全身を鏡に映して乱れたところがないかをチェックするが、大丈夫なようだ。アトールはブーツの紐を結び直して何度か深呼吸をすると、初めてこの部屋のドアノブに手を伸ばした。
 ドアには鍵はかかっていなかった。何の抵抗もなくあっさりと開いたドアに拍子抜けしてしまう。恐る恐る廊下にまで出てみたが人の気配はなかった。
 迷いながらも階下に下りると、ふくよかな体型の女性がいくつか置かれているテーブルをせっせと拭いて回っていた。どうやらここは一階を食堂にしている宿屋のようだ。
「お、おはようございます…」
 アトールが声をかけると女性は驚いたように顔を上げ、それからふんわりと人懐こい笑みを浮かべた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「は、はい」
 小さく何度も頷きながら答えると、女性は「それは良かった」とますます笑みを深くした。
「体調はもう良くなったんですね」
「へっ? ぇ、あ、はい。大丈夫、です」
 どうやら部屋に引きこもりっぱなしだったアトールは体調不良で寝込んでいるということになっていたらしい。目を白黒させたアトールはどもりながらも外出する旨を伝え、一週間ぶりの外界へと踏み出した。
 胸がスッとするような空気を胸いっぱいに吸い込む。
 街の中の様子を見ることもできずに部屋に軟禁されたせいで見るものすべてが新鮮で、朝の光が燦々と降り注ぐ世界はどこもかしこもが煌いているように見える。
 人出はそう多くはないけれど閑散としすぎているわけでもなくて、アトールは適度な活気が満ちた街の様子にそわそわしながら商店が立ち並ぶ通りを歩き、あちこちに視線を巡らせていたが、ふと見覚えのある横顔を見つけた気がして足を止める。
 少しだけ躊躇いつつも、路地の奥へと消えてしまった人影を慌てて追いかけた。
「ジャック、さん…っ」
 人通りがなくなったところで思い切って呼び止めると、ジャックは飄々とした顔で片手を上げた。
「よお、アンタか。スペルトならテロサイラの実の収穫に行ってるぜ」
「あ、そうなんですか、だからいなかったんだ。…じゃなくて!」
 このままではきっとはぐらかされてしまう。そう悟ったアトールは気を引き締めて眉に力を込め、ジャックに詰め寄った。
「スペルトもジャックさんも、テロサイラが、その…ああいう植物だって知ってたんですよね?」
「そりゃあな。で、それがどうかしたかい?」
「どうかしたかって…それは…」
 あんなことに巻き込んだことを責め立てたいと思って声をかけたのに、こうも事も無げに聞き返されると逆にアトールのほうが狼狽えてしまう。
 少しの罪悪感も持っていないジャックにどういう言葉を向ければ理解してもらえるかとアトールが目まぐるしく考えている間に、ジャックは何かを思い付いたように手を打った。
「アンタには駄賃程度しか渡してなかったからな、悪い悪い」
「ちっ、違います! 僕はお金が欲しいわけじゃなくて!」
 握らされたのは簡単に数えただけでもおよそ五千ガル。家にいる時にはお金に困ったことのないアトールにとっても一度に手にするには大きすぎる額だ。
 さすがに慌てて突き返すが、ジャックは軽く笑うだけで受け取ろうとはしなかった。
「金じゃないなら、じゃあ何だってんだ? ああ、もしかしてこっちだったか?」
「ひぇ…ッ!」
 お金を持たされたせいで両手が塞がったアトールは無遠慮に尻を揉まれて飛び上がった。腰から背中にかけて広範囲に鳥肌が立つ。
「珍しくアイツが随分とのめり込んでるらしいな。ってことは、よっぽどイイ身体してるってことだろ? 男を抱く趣味はないが興味がないわけでもないし、味わわせてもらえるってんなら遠慮なくいただくぜ」
 無防備な短いズボンの裾からジャックの指が入り込み、尻の谷間に触れてくる。
 アトールの背中に鳥肌を立てさせた気持ちの悪さはいよいよ強くなり、お金を握り締めたままの両手で必死にジャックを押し返すが混乱のせいもあってか力が入りきらない。
 不意にジャックが顔を近付けてきた瞬間、アトールの全身を耐え難い怖気が走り抜けた。
「や、やだッ! 助けてスペルト…!」
 気付けばアトールはそう叫んでいた。
 情けない自分の悲鳴が耳に届いた直後、強い力で後ろに引っ張られ、何か硬いものが背中にぶつかる。
「うぐ…ッ!」
 ついで聞こえたジャックの呻き声に目を開ければ、褐色の拳がジャックの顔面にめり込んでいるのが見えた。そのままの勢いでジャックは地面に転がる。
 派手に転げた彼を見て、痛そうと思うよりも先にアトールの頭にはたった一人が浮かんだ。
「……スペル、ト…?」
 瞬きを繰り返しながら肩越しに振り向けば、息を切らせたスペルトがいつになく鋭い目でジャックを睨み付けていた。
 胸の前に回された腕はまるでアトールを守るかのように力強く、おずおずと手を添えた肌の感触についつい涙腺が緩む。我慢できずにしゃくり上げたアトールをますます強く抱き込んだスペルトは、威嚇する獣のように鼻にシワを寄せた。
「コイツに勝手に触ってんじゃねぇよ!」
「いってぇな! ちょっとからかってやっただけだっつーの! 本気で殴りやがって!」
「俺が本気だったらテメェなんざ今の一発で死んでるぜ!」
 一触即発に睨み合う二人に挟まれ、しばらくは呆然と頭の上を飛び交う罵声を聞いていたアトールも少しずつ落ち着きを取り戻した。握り締めたままだったお金をズボンのポケットに捻じ込むと、スペルトの腕を軽く叩いて拘束を緩めてもらう。
 興奮の冷めていない金色の眼がアトールを鋭く見下ろしたけれど、アトールは刃のように突き刺さるその視線をもう怖いとは思わなかった。
「スペルトは殴っちゃダメだよ。僕が殴るんだから」
「はぁ?」
 毒気を抜かれたスペルトの腕から抜け出したアトールは深呼吸をして、立ち上がったばかりのジャックの顔面に向かって拳を振り上げた。
「うげっ!」
 想像していたよりも遥かに強い衝撃が骨にまで響く。
 悲鳴を上げたアトールは咄嗟にもう片方の手で撫で擦った。骨の髄まで痺れるような痛みに、目にはじんわりと涙が滲む。
 生まれて初めて人を殴ってはみたものの、あまりの痛みに情けなくアトールの眉尻が下がった。
「痛い……」
「何やってんだよ、馬鹿。見せてみろ」
 言われるままに手を差し出すと、スペルトは真剣な目付きで傷の有無を確認しはじめた。
 手の甲の骨の出っ張ったところは赤くはなっているものの、すぐに手当てしなければいけないような傷は付いていないようだ。スペルトは呆れた顔でアトールを見下ろした。
「人を殴るのって、すごく痛いんだね。…でも僕、スペルトのことも殴るから」
「はぁ? 何で俺まで…って、いきなり殴るなよ!」
「うるさいな! 僕にしたことを考えたら殴られるだけで済んで良かったって思えるはずだよ!」
 ついさっき体験したばかりの痛みを想像して大して力を込められなかったアトールの一撃を難なく受けたスペルトが眉を吊り上げる。
 けれどアトールも負けてられないとばかりに声を大きくした。人を騙してあんなことをしておいて、何ひとつお咎めなしだなんて許せない。せめてもの意趣返しにアトールは、スペルトとジャックを一回ずつ殴ると決めていたのだ。
 もし二人が誠意を持って謝ってくれたら許そうと思ってもいたのだが、この二人にそんな殊勝な気配はどこにもない。やはり制裁は必要だ。
「二人とも、テロサイラがああいうことをする植物だって知ってたんでしょ?」
 やや語気を荒げたアトールの問いかけに二人は顔を見合わせた。
「一番手っ取り早いだろ」
「男なら後腐れもねぇしな」
「テロサイラのことを知らなさそうなヤツを見つけるのも意外と苦労するんだぜ? テロサイラがヤバい植物ってことだけは広まっちまってるからなぁ。収穫自体も一般人の俺にはそこそこ危険なんだが、スペルトと組むようになってからは収穫率も跳ね上がってボロ儲けさ」
「植物にヤられました、なんて言えねぇしな。まあ、経験値も低そうな駆け出し冒険者って雰囲気丸出しのお前は、俺達にとっちゃ都合のイイ恰好のカモだったってことだ」
「おかげでまた大儲けだぜ、ありがとさん」
「おいジャック、分け前は寄越せよ」
「わかってるって」
 クズだ。この二人は人としてクズ過ぎる。
 何も知らない人を騙してテロサイラの受粉に利用して、しかもそれを少しも悪いことだと思ってもいない様子の二人に頭が痛んだ。
 確かに金に目が眩んだ自分も悪いとは思う。うまい話が簡単に舞い込んでくるはずがないと警戒心を持たなくてはいけなかったのだ。挙句こんな男達に騙されて、自分は散々テロサイラの受粉に使われて、さらにはスペルトなんていうケダモノにまで犯される羽目になったのか。
 アトールは沸々と込み上げる怒りのまま拳を握り締めた。
「もう一回ずつ殴っておこうかな」
「別にいいけどよ。お前に殴られても痛くねぇし」
「いやぁ俺は遠慮するわ。痛くなくても精神的にこう、情けなくなる」
 アトールの神経を逆撫でするようなことを口々に言い合う二人を睨んで、それでもアトールは深いため息をつくことで拳を下げた。
「もういいよ、とりあえず一回ずつは殴れたし、ちょっとはスッキリしたから」
 スペルトにははっきり「痛くなかった」と言われてしまったけれど、これはアトールの気持ちの問題なのだ。
「じゃあ僕、旅に戻るね。一人前の冒険者になるって決めたんだから、いつまでもここにはいられない」
「そうか、大した付き合いじゃなかったが、達者でな。またここに来ることがあったら顔見せてくれや。多少の融通は利かせてやるよ」
 ジャックはあっさりとアトールの別れの言葉を受け入れた。
 毒気のないあっけらかんとした応えに苦笑を浮かべたアトールも「気が向いたら」とだけ答え、今度はスペルトに視線を向ける。
「一週間、僕の世話をしてくれてありがとう。本当はありがとうなんて言う必要ないし、むしろ謝ってほしいことだらけだったと思うけど、でも…うん、ありがとう」
 ぎこちなく笑顔を向けたのに、石像にでもなってしまったのかスペルトは気難しげに顔を顰めたまま動かない。
 反応のない彼から目を逸らしたアトールは小さく息を吐き出す。共に過ごしたのはたった一週間なのに、随分と濃密な時間だったと思う。今まで誰とも、家族とでさえこんなにも密着して生活したことなんてない。
 僅かに思い出すだけでも頬が熱くなってしまったアトールは慌てて頬を手で隠し、妙な心残りが生まれてしまわないうちにさっさとこの街を出ようとスペルトの横を通り抜ける。
「え…っ?」
 驚きに目を大きくしてアトールが振り返った。
 褐色の手が自分の腕を捕まえている。
 しかもそれはまるで引き留めるかのような強さを持っていて簡単に外れそうにない。困惑を顔に浮かべたアトールがスペルトを見上げると、彼は僅かに眉間に力を入れて何かを考えているようだった。
「スペルト?」
 首を傾げながら呼びかけると、金色の目がゆっくりとアトールに焦点を合わせる。
 やはりその色は見惚れるほどに美しい。
「一緒に行ってやる」
 スペルトが発した言葉をすぐには理解できなくて、アトールはそのままさっきのスペルトのように固まった。
 予想していなかった発言にジャックまで目を丸くしている。
「おいおい、本気で言ってんのかよスペルト…」
「別に最初からここを定住の地って決めてたわけじゃねぇし、コイツと過ごしてる間に俺も冒険ってヤツに興味が湧いたんだよ」
 言っている間に腹を括ったのか、スペルトの表情からは思案の色が消えた。
 ジャックはアトールよりも先にそれを察し、やれやれと言わんばかりに肩を竦めた。何だかんだ既に数年の付き合いだ、本気か冗談かくらいは聞き分けられる。
「いつでも戻って来いよ、相棒」
「ああ、コイツに飽きたらな」
 軽口を交わす二人を後目にアトールはぽかんと口を開けたまま、まだ状況についていけない。
 スペルトはそんなアトールの頭をぐしゃぐしゃと撫で乱した。
「俺が一緒に冒険してやるよ。嬉しいだろ?」
 ニヤつくスペルトが囁くと、ようやく意識を取り戻したアトールは水を切る犬のように首を振った。
「ついてこなくていいってば!」
「何でだよ、お前めちゃくちゃ弱いんだから守ってやるって。それにお前、我慢できるのか?」
「我慢って何を…?」
「何って、ナニだよ。毎日ブチ込まれてたんだ、もうコレなしじゃいられねぇだろうが」
 押し付けられたのはスペルトの下腹部。その意味を理解したアトールの顔には一気に赤みが差した。
「ばっ、バカじゃないのっ? そんなのなくたってひとりでも冒険できるもん!」
 真っ赤な顔で叫んだアトールはスペルトを振り切って歩き出す。しかし三歩進んだところで大事なことを思い出して歩みを止めた。
「ジャックさん、さっきのお金は…」
「ああ、いいって。餞別代わりに持って行きな」
「あ、ありがとうございます」
 受け取るには些か複雑な心境になってしまうお金だが、それでも路銀としては大いに助かる金額だ。
 アトールは重くなったポケットを押さえながら宿屋に向かった。旅に戻るにしても、一旦宿屋に戻らなければいけない。スペルトが剣と一緒に回収しておいてくれた荷物は宿屋の部屋に置きっぱなしのままだ。
 早足で宿屋に向かうアトールの後ろをスペルトがのんびりとした歩調でついて来る。戻る場所が同じなだけなのだが、アトールは先程の発言もあって落ち着かない。
「あら、お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
 食堂のあちこちにささやかな花を飾っていた宿屋の女性に軽く会釈して、アトールは二階への階段を急ぎ足で駆け上がった。早くしないとスペルトに追いつかれてしまうのに、自分が軟禁されていた部屋がどこだったかを覚えておらず、おろおろと二の足を踏む。
「ここだ」
 アトールを追い抜いたスペルトが開けたのは奥から二番目のドアだった。
 滑り込むようにドアの隙間から部屋に入ったアトールは、財布の中にジャックからの餞別をしっかりと詰めた。財布をカバンの中に戻してから、大きく深呼吸をして気持ちを切り替える。
 振り返ってもスペルトは変わらずそこに立っていた。
「……本気、なの?」
「一緒に行くってヤツか?」
「それ以外にないでしょ…」
 何となくスペルトを真っ直ぐに見ることが難しい。しかしスペルトはアトールを真っ直ぐに見つめていて、突き刺さるような真っ直ぐすぎる視線から先に目を逸らしたのはアトールだった。どうしたことか頬が熱くて、自覚すると耳まで熱くなっていく。
 確かに昨夜は彼が一緒に来てくれたらいいのにと考えたけれど、いざ望んだ通りになると途端に不安が込み上げてきて、何となく落ち着かなくて視線がさっきから虚空を泳いでいる。
「アトール」
「な、何…?」
 褐色の手に頬が包まれ、引き寄せられ、すかさず唇を塞がれる。突然のキスに目を丸くしたアトールを極近い距離からスペルトの金色の目が見つめていた。
 無防備な唇を割って舌が入り込んでくる。舌先だけでなく頬の内側も満遍なく舐められて、すっかり慣れた刺激にぞくぞくと背中が震えた。さっきジャックに触られた時に感じた冷たい感覚ではなくて、身体の芯から燃え上がるような熱さだ。
 腰を抱かれると身長差で背中が仰け反る。舌が動くたびに聞こえる濡れた音がいたたまれなくて、アトールはスペルトの胸に縋り付いた。
「んぅ、ふ、苦し…っ」
 しつこいキスから逃げたくてもスペルトの拘束はなかなか緩まない。
 酸欠の一歩手前でようやく解放されたアトールは思い切り酸素を吸い込んだが、呼吸を整えきる前にスペルトに再び唇を塞がれた。
「んっ、むっ」
 唇の表面が触れる程度のキスでさえ心臓が跳ねて騒ぐのに、こんなにも深くキスをされてはたまらない。腰を引き寄せるスペルトの手のひらの熱さにも胸が高鳴る。
 既にスペルトとのキスには心地良さしかなくて、アトールが夢中になっている間に足元を掬われ、すぐ後ろにあったベッドに押し倒された。唇が離れた僅かな隙間を埋めるように赤い舌が這う。
「す、スペルト…?」
 高鳴る胸を押さえつつ、この体勢はちょっと危険だとアトールは察した。静かに逃げ出そうと試みるが、膝の間に居座っているスペルトの膝が邪魔で思うように動くことができない。
 本来の目的のために旅に戻りたいとはっきり伝えてあるしスペルトだってそれは承知しているはずなのに、どうして昨日までのふしだらな行為をする直前みたいな体勢になっているのだろう。
 アトールがこの状況に混乱している間にスペルトは乱雑に脱いだ服を床に落とすと、なにやら妙に機嫌が良さそうな顔で今度はアトールのチュニックの胸元に手を伸ばす。共布のリボンが容易く解かれ、ベルトもズボンのウエストもあっという間に緩められた。
 脱がしやすい服だと彼が言った通りだが、あまりの早業にアトールは言葉をなくす。
「す…する、の?」
「お前を見てるとヤりたくなるんだよ」
「ぁ、ぅ」
 肌着の上から乳首を抓まれたアトールが小さな悲鳴を上げると、スペルトは飢えた獣のように口の端を舐めた。この顔をもう何度も見てきた。
 彼に味わわされた快楽の予感に速まった鼓動は治まる気配がない。このままでは恥ずかしいと感じる余裕さえ奪われて我を失うほど乱れてしまうのに、スペルトによって教え込まれた性感はすっかりアトールの身体に馴染んでしまっている。
「いや…」
 間違いなく乱れてしまう自分を想像して思わず口から零れてしまった声を聞き咎めたスペルトが金色の瞳を鋭く細める。
「何をされるのが嫌なのか教えろよ」
 従わなければいけないと思ってしまうような低い声色に唇が戦慄く。
 目を合わせていたら否応なく従わされてしまうと思ったアトールは咄嗟に顔ごと目を逸らしたが、意地悪なスペルトの手に顎を掴まれて戻されて至近距離で視線を合わせられる。
 わざとそうやって拒めない雰囲気を作るスペルトは酷い男だ。
 けれどアトールは彼を憎んでもいなければ嫌いでもない。今日までのことは非力な一発で水に流してしまったし、元々いつまでもくよくよと考えることが苦手な性格でもある。
 それに、おこがましくもスペルトを守りたいだなんて願ってしまった。つまりそれは、彼の傍にいたいと思っているのと同義。
 アトールはこの一週間で目まぐるしく変化した自分の心に振り回されて戸惑った。
 押し黙っている間にもスペルトの膝に股間を緩く押し上げられ、もどかしくて切なくて泣きそうになる。
「恥ずかしいのは嫌…」
「お前は何をされるのが一番恥ずかしいんだ?」
 薄笑いながら肌着がたくし上げられ、露わになった素肌に尖った犬歯が柔らかく押し付けられる。痛みはなく、くすぐったいような感覚に肩が小さく跳ねた。
「言えよ。お前が嫌がること、全部してやるから」
 加虐心の塊みたいな言葉にもアトールの身体は熱くなるばかりだ。
 答えられないアトールをいたぶるように大きな手のひらが肌の上を滑る。スペルトに触られる場所全部が敏感になっているような気がして、アトールは強くシーツに爪を立てた。
 その手はすぐにスペルトの背中に縋るよう促される。
 熱く火照った肌のあちこちを甘噛みされ、吸われて、そのたびに敏感に腰が跳ねた。どこもかしこもスペルトの小さな動きに反応してしまうのが恥ずかしい。
「ァん、ぅ…」
 アトールは甘く声を漏らして足先をもぞつかせた。
 スペルトの手はアトールの全身をくまなく撫でているのに、芯を持ちはじめた場所だけをわざと避けている。いつもは無理矢理に快感を引きずり出す手のひらは、アトールが恥ずかしがりながらも甘ったるくすすり泣く場所を見逃すまいとしているかのようにじれったいくらいゆっくりと動く。
 性感帯に変えられてしまった乳首は歯と舌で転がされ続け、もう片方は指先で捏ねられて、追い討ちのようにスペルトの膝が股間を緩く押し上げてくる。
「あ…っンん…!」
 胸の上で揺らめく不思議な色合いの髪に埋めた指先を過敏に震わせながら、アトールは弱々しくシーツを蹴って波打たせた。
 スペルトと触れ合うのは気持ちがいい。はりのある褐色の肌が自分と同じように汗で湿っているのをことに喜びが込み上げる。
 でも、だからこそ恥ずかしい。
 窓の外はまだ明るく昼間の騒がしさが溢れているというのに、この部屋にだけは植物さえも息を潜める真夜中に似た秘密めいた空気が充満していて、その空気をスペルトと分け合っているという事実がアトールを焦がし、居たたまれない気分にさせた。
「スペルト…」
 そろそろ胸に執着するのをやめてほしくて呼びかけてもスペルトは反応せず、アトールの乳首を弄り回し続けている。
 アトールが欲しがっているものがなんなのかわかっているくせに、わからないふりをするなんて意地悪がすぎる。昨日まではアトールが泣いて拒んでも嫌がっても押し付けてきたくせに。
「スペルトってば…っ」
 沸々と怒りが湧いたアトールは、語気を強くしても反応してくれないスペルトの耳を引っ張った。
 動物の耳は繊細だから乱暴に扱ってはいけないということを幼い頃から知っているアトールだったが、今まで散々スペルトのいいように扱われてきたのだから、この程度の仕返しをしたっていいはずだと自分に言い訳をした。
 ジャック共々一発ずつ殴ってやったけれど、あれはテロサイラについて騙したことへの報復だ。
「痛ぇな。耳を引っ張るんじゃねぇよ」
「返事してくれないスペルトが悪いんだから!」
 不機嫌に睨まれてもアトールだって負けてはいられない。
 アトールはスペルトの下から這い出すと、中途半端に腕に残ったままだったチュニックを手早く脱ぎ捨てた。肌着はもちろん、ズボンも下着ごと脱いでベッドの下に落としてしまう。
 そうしてすっかり裸になったアトールは改めてスペルトに向き直った。
「…するなら、ちゃんとしてよ…」
 消え入りそうな声で告げられたスペルトがきょとんと金色の目を瞬かせる。
 その顔は思いがけず子供っぽくて、アトールの中には彼を撫で回して可愛がりたい気持ちがむくむくと膨らんだ。
 でも今から彼としたいと思っていることは子供がやるような可愛らしい遊びではない。
「ったく…お前には敵わねぇな」
 苦笑交じりに言いながら、スペルトはアトールをもう一度ベッドに倒した。隙間なく重なる体温が心地良い。
 アトールは耳まで赤らめてはにかみ、スペルトの首に回した腕で彼を引き寄せる。触れるだけのキスが少しずつ深く絡み合い、呼吸さえ飲み込まれてしまうほど深くなった口付けに翻弄され、アトールは泣き声のような吐息を漏らした。
 自分の胸の中に溢れる熱を帯びた感情にどんな名前が付くのかアトール自身にもわからない。それでもスペルトに向かって伸ばしたこの手をいつまでも離したくないと思っているのは事実だ。
 キスの合間に目を開ければ、血の通う金色の瞳が真っ直ぐに自分を見下ろしている。そこに情欲と、相反する優しさを見つけてしまったのは気のせいだろうか。
 アトールは美しい金色にどうしようもなく焦がれて、この時だけは恥らうことを忘れて自らキスを強請った。しかしすぐに息が苦しくなって唇を離すと、それを咎めるようにスペルトの手がアトールの股間を強めに握り込む。
「ン、ぁ、あ…ッ!」
 そこはずっと触れることを待っていて、やっと与えられた刺激にますます硬さを増した。
 芯を育てるように手のひらに包まれて擦られると腰が激しく震えて、あっという間に高みへと追い詰められる。
「ぇ、なんで…?」
 上り詰める寸前で刺激を取り上げられたアトールが不満の声を上げると、スペルトは枕の下に手を突っ込みながらアトールが零した涙を舐めた。
 枕の下から取り出されたボトルに見覚えがないアトールは首を傾げる。
「このまま突っ込んだら痛がるだろ」
 言葉をなくしたアトールの鼻先に軽く噛み付いたスペルトは片手だけで器用に蓋を開け、中身を指先に乗せるとアトールの後孔へと塗り付ける。冷たい感触に引き攣るように震えたそこは、それでも抵抗なくスペルトの指を受け入れた。
「あ、ぁ…」
「痛くねぇか?」
 問いかけに何度も首を縦に振る。
 付け根まで押し込まれた指では痛くないどころか物足りないとさえ思ってしまって、アトールは自分のはしたなさに顔を覆い隠した。
「痛くないから……」
 焦らされ続けた身体は切ないけれど、早く指よりも立派なスペルト自身を入れてほしいだなんて口に出すことはできなかった。
 アトールは言葉にできない代わりに、力が抜けそうになる膝でスペルトの腰を撫でる。
 それが男の劣情を煽る仕草だなんてアトールは知らない。まんまと煽られたスペルトは舌打ちをして指を引き抜き、すっかり快楽の虜になったアトールの腰を抱え上げた。
「くそッ…覚悟しとけよ」
「え?」
 恐ろしい囁きにアトールが理性を取り戻すより一瞬早く、充分に解されてもまだ狭い場所へスペルトが踏み込んでくる。
 一週間ずっと抱かれ続けた身体は押し広げられる痛みよりも満たされる充足感を拾い上げてアトールを震え上がらせた。
「ァ、はッ…! いき、なり、こんなのひど、ぃ!」
「何言ってんだ、早くブチ込んでほしかったんだろ?」
「違、ぁ、ぁん」
 わざと粘着質な音が立つように細かく抜き差しされて、ついつい恨みがましい目でスペルトを睨む。その視線も、弱いところを刺激されればあっという間に揺らいだ。
 待ち望んだ刺激をもっと欲しがる粘膜がさらに奥へと誘うように蠢いてスペルトを誘う。引いて、そして再び押し込まれるたびに骨の髄まで快感が満ちていく。あまりにも強い快楽で自分がどうにかなってしまいそうな気がして、アトールは汗で滑る手で必死にスペルトの逞しい背中に縋った。
「スペルト…っ」
 力が抜けそうになる両腕でしがみ付き、触れれば安心する褐色の肌に額を押し付ける。抱き返してくれる腕の力強さに涙が出るほど心が震えた。最初はあんなにもスペルトを怖いと思っていたはずなのに、今は正反対の感情に振り回されている。
 瞬きで涙を散らしながら、アトールはスペルトの頬の古傷を撫でた。
「スペルト、僕と一緒に来て…。あなたに、傍にいてほしい」
 零れ落ちた言葉はアトールの本心だった。
 いっそ恋と言ってもいいほどの熱量がアトールの全身に息づいていて、少しも誤魔化せそうにない。
 守りたい、慈しみたい。自分の傍にいてほしい。
 それから、また笑ってほしい。
 勝手な願いだとわかっているけれど自分の気持ちに嘘なんてつけなかった。
 しかしスペルトは束縛されるのを嫌う性質だ。そんなことはこの一週間で充分すぎるほど理解できている。
 アトールは別れの予感に呼吸を震わせ、何も言わず動きも止めたスペルトの広い背中に回した腕に力を込めた。そんなアトールの真上からため息が降ってくる。
「アトール」
「はい…」
 涙に濡れた顔を上げると、スペルトが思いっきり呆れた表情でアトールを見つめていた。
「一緒に行ってやるって言ったろ」
「…うん、でも…」
 スペルトの言葉は嬉しいけれど、まだまだ一人前には程遠い冒険者の旅に同行しても、すぐに退屈になってしまうに決まっている。
「俺はな、こう見えても気に入ったものは長く手元に置いておくタチだ。…だから……まあ、その…」
 スペルトは気まずげに言葉を切り、アトールの目元を拭う。
「仕方ねぇから傍にいてやるよ」
「ほんと…?」
「こんなつまんねぇ嘘言ってどうするってんだよ」
 呆れ顔のままのスペルトに鼻を抓まれたアトールの顔には笑みが浮かぶ。それと同時に目尻の涙が零れ落ちた。
 スペルトの傍にいられる、たったそれだけのことがこんなにも嬉しい。
 でもそれを素直に伝えるのは何となく悔しくもあった。
「さっきも言ったが、お前ほんとに弱っちいからな。それに、いかにも怪しいって見た目しかしてねぇジャックに騙されるくらいだし」
「こ、これからは気を付けるもん」
「ほんとかよ」
 スペルトが笑っている。正確な年齢は知らないままだが、その笑顔は歳相応に見える。嬉しくなったアトールは彼の首に腕を回し直して強く抱き付いた。
「っつーかお前、自分が今どんな状況か忘れてるだろ」
 笑みから再び呆れを顔に浮かべたスペルトの腕がアトールを強引に膝の上に抱き上げた。途端に結合が深まって、息を詰まらせたアトールは思わず目の前の肩にしがみ付く。
「っ、ふ、深い…っ」
「お前、隙がありすぎて目が離せねぇんだよ、馬鹿」
「そ、なこと、言われてもっ」
 さっきまでの和やかな雰囲気が一気に色めいたものへと変わり、スペルトの口元にはいつもの人を食ったような笑みが浮かぶ。
 アトールは強く突き上げられて視界を揺らしながらも、自分をしっかりと支えているスペルトの腕にすべてを委ねることにした。
 傍にいると言ってくれた彼のことを信じたいし、彼のことをもっと知りたい。身体からはじまってしまった関係だけれど、それもちょっと変わった冒険のはじまりだと思えばいい。
 持ち前の前向きさで割り切ったアトールはスペルトが与えてくれる快感に集中する。
 こんなに奥深くに居座られていて簡単には逃げることもできないのだから仕方がないし、弱いところを狙って突かれるたびに甘えるような声が出てしまうのが恥ずかしくて、それ以上に気持ち良くて頭がおかしくなりそうだ。
「す、スペルト…いや、そこ嫌ぁ!」
「わかってる。お前の嫌はイイってことだろ?」
「ち、がぅ、違うのにぃ」
 何度も否定するが、語尾が蕩けていては説得力なんてこれっぽっちもない。
 少しずつスペルトの呼吸も荒さが目立つようになり、金色の瞳にも野性味が増す。それを間近で見つめながら、アトールは何度も彼に唇を寄せた。
 最初のキスは無残に奪われ、二度目のキスも強引に奪われた。
 しかし自分からキスしたいと思ったのはスペルトにだけだ。
 スペルトもそれを理解してくれていると思う。だからこそアトールの拙すぎるキスに応えてくれる唇は熱くて優しい。
「ぁ、あぅ、きも、ちぃ…スペルト、僕…っ」
 恐る恐る自分からも腰を揺らしたアトールが限界を訴える。
 さっきから軽く何度も高められているが、もうそろそろいつものような脳天まで突き上げる快感がほしい。そしてそれをアトールに齎してくれるのは遠慮も手加減もなくアトールを喘がせている金色の瞳と褐色の肌の獣人だけだ。
「ははッ、お前はほんとに頭を抱えたくなるくらい馬鹿で、お人好しで、なのにこんなに感じやすくて…可愛いな」
 耳に直接吹き込まれた声に心臓が一際強く跳ねる。
 何を言われたのか理解するとアトールの頬には赤みがじわりと浮かんだ。
(え、えっ? かわ、いい…って)
 突然のことに思考まで停止させたアトールは再度ベッドに押し倒された。
 体内を穿たれる角度が変わって悲鳴を上げる様子を食い入るように見つめたスペルトは、ひとつ大きく息を吸うと律動を再開する。
「ぁあ、っや、ダメ、いやぁ…!」
「そうだ、そうやって嫌がる顔をもっと俺に見せろ」
 酷いことを言われているのにスペルトを突き離せないどころか、二人の間に少しの隙間もできてほしくないとばかりにアトールはしがみ付く腕に力を込めた。
 腰と膝を抱えられて、また少し突き上げる力が強さを増す。おなかが破れてしまうのではないかと怖くなるよりも、目の奥に火花が飛ぶような強烈な快感のほうが怖い。
 スペルトが言ったとおり、心まで溺れてしまうほどの快感を知ってしまったら、もう普通には戻れないかもしれない。
(スペルトには僕をこんなふうにした責任を取ってもらわなくちゃ)
 ただ旅に同行してもらうだけでは足りない気がするが、具体的にどうやって責任を取ってもらえばいいのかもわからない。ただでさえ今は頭の芯まで甘く蕩けてしまって、まもとなことなんて考えられないのだ。
「アトール、イきたいか?」
「ん、んっ! イ、きた、ぃ…!」
「俺も、そろそろだ」
 スペルトは熱い息を吐き出しながらアトールの耳朶を甘噛みする。微かな痛みさえ今のアトールには快感を高めるスパイスだった。
「あ、っんぁ、あぁ…ッ」
 ようやく求めていた一番の高みへと押し上げられたアトールはスペルトの背中に爪を立てながら白濁を吐き出し、スペルトも僅かに息を詰めてアトールの中に精を放つ。
 互いに汗を滴らせ息を切らしながらベッドの上で身を寄せ合うと、まるで二人の境界線がなくなってひとつに溶け合えるような気がして、不思議になるほど満ち足りた心地良さに包まれた。
 幸せな気分で擦り寄れば、スペルトも同じなのか気だるそうな手付きでアトールの髪を撫でてくれる。
「…ねえスペルト」
「何だ?」
 アトールが呼べば、あくびを噛み殺しながらスペルトが応える。
 いつまでもこんなふうに気楽に呼び合っていられる関係でいられたら、どんなに楽しいだろう。
「あのね、僕どうしても行きたい場所があるんだ。スペルトも付き合ってくれる?」
「…仕方ねぇな」
 めんどくさそうにしているがスペルトの手はアトールの髪の先を弄んだままで、機嫌を損ねた気配はない。
 安心したせいか目蓋が重くなってきた。アトールはふわりとあくびを漏らす。
 この一週間ひたすらスペルトに抱き潰されてきたせいで、まだ体力は回復しきっていない。今も腰が抜けるほど抱かれてしまったし、残念だが出立は明日の朝になりそうだ。
 冒険は楽しいだけではないだろう。
 それでもスペルトとの旅を想像するとアトールの胸は躍った。
 

 翌朝、アトールはスペルトの腕に抱き込まれた状態で目を覚ました。
 この部屋で初めて朝を迎えた時も今と同じく抱き枕のようにされていたことを思い出したアトールは思わず頬を緩めてしまう。
(もしかして、スペルトって結構甘えたがりなのかな?)
 カーテンの隙間から射し込む朝日のおかげで部屋の中は薄明るく、アトールは思う存分、旅の道連れの寝顔を観察することにした。
 金と銀と灰色を混ぜた独特な色合いの髪、思いのほか長い睫毛。褐色の肌ははりがあって男らしい。
 まだ閉じたままの目蓋の際にある古い傷跡に目を向けると少しだけ胸は痛んだけれど、これからは絶対に彼をそんな目に遭わせないと誓いを込めて触れるだけのキスをする。
「俺の寝込みを襲うとは度胸があるじゃねぇか」
「っ! い、いつの間に起きてたの?」
「そんなもん、お前が起きた時に決まってんだろ。気配には敏感なんだよ」
 言いながらスペルトが大きなあくびをする。
 ふとした仕草に実家の愛犬を思い出してしまうのは彼の耳のせいだ。三角形の獣の耳は小刻みによく動くし、彼の言うとおり小さな音や気配を拾うことに長けているだろう。
「で、キスは頬にだけか?」
 にやにやと笑みを浮かべたスペルトがあっという間にアトールを組み敷いた。
 このままではまたベッドから出してもらえなくなってしまうと察したアトールは何とかスペルトを押し退けようと抵抗するが、獣人の筋力には敵わない。幾つも赤い跡が散っている首筋を柔らかく食まれ、まだ裸のままの腰を背中へと撫で上げる指に情けない悲鳴を上げる。
「だ、ダメだってば…っ」
 身支度を整えるためにベッドから降りたくても、アトールを抱き込む褐色の腕は頑強でびくともしない。
「ちゃんとキスしたら離してやるよ」
 アトールは真剣に困っているのに、スペルトはこの状況を楽しんでいる。薄笑う顔が心底から憎らしい。
 見返してやりたいという気持ちに突き動かされたアトールは目を閉じ、どうにでもなれとばかりに唇を押し付けた。子供っぽいリップ音がやたらと恥ずかしい。理性がしっかりと残っているせいで居たたまれなくて、すぐには目を開けられなかった。
 すぐ傍でため息をつく気配。呆れられてしまったのかとアトールがびくつかせた肩に力がかかる。
 簡単にベッドに倒され、そこでやっとアトールは目を開けることができた。
「ガキくせぇキスだな」
 そう言うわりにスペルトの顔は満足そうだ。
「これからゆっくり仕込んでやるよ」
「もう充分だよ!」
 アトールはベッドから逃げ出して、手早く身支度を整えた。その間もスペルトの視線は遠慮なく向けられていて、少しでも意識してしまうと全身が真っ赤になってしまいそうだ。
 腰のベルトに剣を固定すると、いよいよはじまる冒険を実感できて緊張と期待が膨らんでいく。
 スペルトもいつの間にか身支度を整え終わっていて、彼はアトールよりも大きく膨らんだ荷物を軽々と背負っていた。
「宿代の清算は昨夜のうちに済ませてあるから、行きたきゃすぐに行けるぜ」
「そうなんだ。ありがとう」
 少しでも代金を渡そうかと考えたが、この部屋でされたことを考えると、むしろ慰謝料を請求したい気分になる。
 階下に下りると、昨日も見かけた女性がせっせと働いていた。彼女は随分と働き者のようだ。
 アトールがスペルトと連れ立って姿を現したことに気付いた彼女は、やはり人懐こそうな笑みを浮かべた。
「お客さん、冒険者さんだったんですね。道中お気を付けて」
「ありがとうございます。お世話になりました」
 女性に軽く会釈をして、アトールはとうとう宿を出た。
 街の外れまで歩くと、木の陰に隠れるようにしてジャックが立っていた。頬にはまだくっきりと痣が残っている。
 昨日はあっさりとスペルトの出立を認めた彼だったが、やはりテロサイラの実を収穫するにはスペルトの協力が必要だと思い直してしまったのかとアトールは少し不安になった。
 もしジャックがやり直そうと持ちかけたら、とてもではないがアトールに勝ち目はない。
 正直なところ、アトールの冒険には大きな目標がないのだ。
 読み耽った小説の元になった冒険者が実際に訪れた国や土地を見てみたい、それが目的ではじまった旅だ。もちろん冒険者として少しでも誰かの役に立ちたいという希望はあるけれど、それが如何に困難かということは短い一人旅の間で嫌というほど思い知った。
「本気でその坊やについていくつもりなんだな」
「ああ」
「昨日も言ったが、気が向いたら顔でも見せろよ」
 気楽にそう言ったジャックはスペルトに向かって革袋を放る。
「いつもの分け前に色を付けておいたぜ。旅立つ相棒へ、俺からの餞別だ」
「そうか、気が利くじゃねぇか」
「せいぜい旅を楽しめよ。ま、坊やは俺みたいなヤツにも騙されるくらいだから、違う意味でも目が離せないだろうがなぁ」
「まったくだ。先が思いやられるぜ」
 確実に馬鹿にされている。この二人には遠慮や配慮は少しも必要ないことがこれではっきりした。
 二人の間に割り込んだアトールはそれぞれの脇腹に拳を叩き込んだ。
 不意を突かれたジャックは息を詰めて腹を抱えたが、スペルトにはまったく効いた様子がない。それどころか飄々とアトールの腰を抱いてくるからたちが悪い。アトールは不埒な動きをするスペルトの手を容赦なく叩いて追い払った。
「何だよ、拗ねてんのか?」
「拗ねてないっ」
 アトールは子供っぽく言い捨てて街と森の境界を潜った。
 この先はあまり開拓が進んでいない道がしばらく続いているが、次の街では馬車を拾えると聞いている。一先ずはその街を目指して森を歩くしかない。
「待てよ、アトール」
「待たない! 僕は森の中で野宿なんてしたくないの!」
 ただでさえ地面は硬くて寝心地が悪いのに、虫が出るかもしれないと思うと寒気がする。
「もし野宿することになったら、スペルトをマットレス代わりにするからね!」
 つんとそっぽを向きながら言い放つと、何故かスペルトは口の端を吊り上げた。その顔は悪人そのものだ。
「マットレスか、そりゃあおもしろい。寝かし付けるだけじゃなくて、気持ちイイことまでしてくれる特注品ってわけだな」
「……っ、そ、そういう意味で言ったんじゃないからっ! もう、スペルトのバカ!」
 耳まで赤く染め上げたアトールと、それをからかいながらも声を上げて笑うスペルト。木漏れ日が注ぐ森に賑やかな声が響き渡る。
ちぐはぐなようで噛み合っている二人の旅は、たった今はじまったばかり。



【end】
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