運命とは、まだ呼べない

月居契斗

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 翌朝、全身が鉛になったかのようなだるさと重苦しさと共に目を覚ましたアトールは、自分を抱き枕のようにしている青年の顔を間近に見つけて心臓が止まるほど驚いた。重苦しさの原因はこれかと、昂る胸を手のひらで押さえる。
(びっくりした…。声が出ちゃわなくて良かった)
 口から心臓が飛び出しそうという表現をしたいほどだ。
 穏やかな静けさのおかげで驚愕が静まったアトールは目の前の青年にされたことをすっかり忘れて、あどけなくさえ見える褐色の寝顔を凝視した。寝息が触れ合うくらいの至近距離で他人の寝顔を見た経験なんて、子供の頃にもあったかどうかだ。
 浅黒い肌の色とは対照的に明るい色の髪、それと同じ色の睫毛は意外に長く、今は安らかに閉じられている。
 ふと、睫毛のすぐ際に古い傷跡があることに気付いた。
(切り傷…かな?)
 少し歪んだ直線的な傷跡は頬骨の上を横切っていて、負った当時はかなりの重傷だったのではないかと思われた。
 アトールが幼い頃に負った怪我よりも深いものだったのかもしれない。想像するだけで痛みが込み上げてきて、アトールは無意識に左の二の腕を擦った。
 アトールの腕にも古い傷跡がある。
 何かあるとすぐに泣くアトールを疎ましがった年上の友人に嗾けられて登った木から落ちた時に負った傷だ。
 その怪我はもうすっかり癒えているのに、心配性な兄はアトールが大きくなっても労わるようにその部分を撫でてくれることがあった。そうしてもらうとアトールはいつだって小さな子供の頃に戻ったみたいに素直に甘えられて、ものすごく満ち足りた気分になって、怖いものなんて何もないとさえ思えたものだ。
 彼にはそうして撫でてくれる人はいたのだろうか。
 何故だか急にそんなことが気になったアトールがシーツから手を出して傷跡に触れようとした時だった。
「何しようとした」
 濃い金色の双眸が開かれ、伸ばしかけた手が強い力で捕らえられた。
 何か言い返すよりも早く視界が回転し、掴まれた手が強い力でシーツに押し付けられる。骨が軋みそうなほどの強さに思わず顔を顰めたアトールにも気付かないのか、スペルトは目立つ犬歯でアトールの肌に噛み付いた。
「痛、い…っ」
 脳天まで一直線に貫く痛みに悲鳴を上げたアトールに構うことなく、スペルトは硬い鎖骨の辺りになおも容赦なく牙を突き立てる。
「痛い、痛いよぉ…!」
 悲痛な声を上げて足をばたつかせ、渾身の力で目の前の青年を押し退けたアトールは背中を丸めて痛みを訴える場所を庇うように手で隠した。またいつ飛びかかってくるかわからない獣人を怯えた目で見つめる。
 シーツをめちゃくちゃに乱しながらベッドの上を逃げるアトールを見据えたスペルトは苛立った様子で短く息を吐き出した。
 過剰に肩を揺らしたアトールはベッドヘッドに張り付くようにして身を縮める。乱暴に犯された昨日よりも今の彼のほうが怖かった。人間よりも圧倒的に筋力面で優れている獣人に本気で襲われたらひとたまりもない。
 顔を蒼褪めさせて激しく震えるアトールに手を伸ばしかけたスペルトは、しかし結局アトールに触れることなくベッドから降り、無言で部屋を出て行ってしまう。
 やや強めに閉められたドアの音を聞いた途端、アトールの涙腺は決壊した。食い殺されるかと本気で思うくらいに怖かった。
「うぅ…っ」
 噛まれた場所はまだ酷く痛んでいるし、そこを抑える手も震えたままだ。
 アトールは引き攣った嗚咽を小さく漏らしながらくしゃくしゃの毛布に潜り込む。身体は軋んで痛んだが、それよりも今は恐怖のほうが大きく上回っている。
 勝手に流れ落ちる涙を何度も手とシーツで拭いながら、出て行ったスペルトが少しでも長く戻ってこないことを心から願ってしまう。頬を拭う間にも、なんで、どうしてと疑問と理不尽さばかりが浮かんでは消えた。
 しばらくは恐怖と緊張で身体を強張らせていたアトールだったが、三十分以上経ってもスペルトが帰ってくる気配がないことに安堵し、やっと肩から力を抜くことができた。
 現金なもので途端にふわりとあくびが漏れる。
 昨日の名残なのか腹の奥には違和感が残っているし、牙を立てられた鎖骨の辺りもまだ痛んでいるが、それよりも強い眠気が思考に靄をかける。
 開き直って寝ることにしたアトールは毛布でしっかりと肩まで覆い隠してから、もう一度あくびをして滲んだ涙を緩い動きで拭った。眠気はすぐにアトールの全身を包み込んで目蓋を重くする。ふわふわと意識が遠退いていくと、静まり返った部屋にまで届く部屋の外の朝の喧騒さえまるで子守唄のように思えた。
(そういえば、ベッドで寝るのってどのくらいぶりだっけ)
 冒険者を目指したアトールがベッドで眠れたのは家を出てすぐの頃だけだった。
 浪費したつもりはなかったが、一年間無駄遣いせずにせっせと貯めた小遣いはあっという間に底をつき、野宿する以外の選択肢もなくなって民家の軒下を借りたり街道沿いの木の根を枕にしたりと、今まで体験したことのないことに興奮できたのも最初のうちだけ。
 その間に冒険者として何をしたのかと問われてもアトールは答えられなかった。情けないことに何もできていないのが実情だ。
 納屋の片付けを手伝う代わりにベッドを貸してくれた老夫婦がいたが、あんなに親切にしてくれたのは後にも先にもあの夫婦しかいなかった。
 大抵は冒険者を名乗るアトールを不審な目で見て、「他所へ行ってくれ」と犬を追い払うみたいに手を振った。家にいた頃はそんなふうに邪険にされることなんてなかったアトールは酷く落ち込んだものだ。
 こんなことで挫けていては一人前の冒険者にはなれないとわかっていても、次第にまばらになる民家に少しだけ安堵してしまった気持ちも否定できない。
(でも、さすがにこんなことになるなんて思ってなかったな…)
 冒険者として初めての依頼がアレだなんて、ついていないにも程がある。悪夢であったならどれほど良かっただろうと思いながら筋肉痛に似た違和感を訴える下腹部をやわやわと撫で、呼吸を深くする。
 とにかく今は疲れきった身体を回復させるのが優先だ。
 逃げ出すにも身体がまともに動かなければ行動を起こすことはできないし、どんなに危機的な状況でも感情に流されて後先を考えず行動するなと兄から重々言い聞かせられていたアトールはその言葉に素直に従うことにした。
 朗らかな人の声や通りを行き交う荷車の音、たまに小鳥の囀りまで聞こえてきて、ささくれ立っていた気分も凪いでいく。
 体力が回復したら隙を見て逃げ出せばいい。そのくらいならきっと自分にだってできるはずだ。
 元来の前向きさでそう考えたのを最後に、アトールの意識はぷつりと途切れた。



 どのくらい眠っていたのかはわからないが、アトールは頬を触れられているくすぐったさに目を覚ました。ぼんやりとした視線を巡らせて自分に触れているものを確認する。
 頬に触れていたのは褐色の手だった。
 ゆっくりと視線を上げたアトールは銀と金と灰色を混ぜた毛並みを見つけて一気に覚醒した。
「っ…!」
 弾かれた弦のように飛び起き、身体の奥が痛むのも無視してベッドの端へと必死で逃げる。噛み付かれた時の痛みはまだあまりにも鮮烈に記憶に残っていて、無意識にそこを庇って手のひらを押し付けた。
 テロサイラの受粉を助けるために使っただけでなく、これ以上の何をするつもりだろう。
 スペルトは警戒心を露わにするアトールをしばらく見つめていたが、やがてこの世の何もかもがつまらないと言いたげに鼻を鳴らすとベッドから離れたところに置いてあるテーブルのほうへと行ってしまった。
 テーブルには膨らんだ紙袋が置かれていて、スペルトはその中を漁って分厚いサンドイッチを取り出すと見せ付けるように齧り付く。
 薄切り肉がぎっちりと詰まっているサンドイッチは見るからにおいしそうで、容赦なく食欲を刺激する。しかしアトールは思わず喉を鳴らしてしまったことを心底から恥じた。
「腹減っただろ?」
 スペルトが気安く声をかけてくる。
 だがアトールは何も答えなかった。本当は今にも腹の虫が騒ぎ出しそうなほど空腹を感じているけれど、スペルトにされた仕打ちを思えば素直に飛び付くことなんてできない。
「……いらない」
 たったその一言を返すのに多大な労力を使った気がした。
「そうか、ならコイツは俺が食うしかねぇな」
 スペルトはアトールに見せ付けるように紙袋の中から取り出した大きなサンドイッチに齧り付く。ローストビーフをたっぷりと挟んだサンドイッチは柑橘を使ったソースと粗挽き胡椒の風味が効いた一品でスペルトの好物だ。
 二口、三口と齧られ、サンドイッチは見る間に小さくなっていく。
最 後の一口がスペルトの口に入るかという瞬間、耐え切れなくなったアトールの腹の虫は盛大に雄叫びを上げた。咄嗟に腹を押さえたものの腹の音はなかなか止まらない。
 部屋中に響くかと思えるほどの音量にさすがのスペルトも目を丸くしている。それがまたアトールの羞恥心を強く刺激した。
「っく、はははは…ッ!」
 気まずい沈黙を裂いたのは笑い声だった。
 スペルトの笑いっぷりは激しくて、アトールは恥ずかしさに頬を赤くしたままおずおずと視線だけを上げる。自分に噛み付いて傷を付けた鋭い犬歯が見えているが、さっきのような身体が竦むほどの恐怖心はもう湧いてこなかった。
 腹を抱えて笑い転げていたスペルトはやがて必死に笑いを噛み殺し、殺し切れずに口を押さえながらアトールを見る。
「……食うか?」
 紙袋から二つ目の包みが取り出された。サンドイッチは最初から二人分あったらしい。
 もしかしたらそちらもスペルトの分かもしれないが、分けてくれる気があることには違いなかった。
「食べたい…」
 今度こそアトールは躊躇わずに頷いた。
 空腹は限界で、サンドイッチの味を勝手に想像して口の中に唾液が溢れてしまう。早く食べ物を寄越せと節操なしの腹の虫がまた声を上げそうだ。
 アトールは慌ててベッドから降りようとしたが、それよりも早くスペルトが紙袋を片手にベッドの端に座った。
 情報屋と結託して何も知らなかったアトールを罠に嵌めた悪人なのに、手を伸ばせば触れられるくらいの距離まで近付いたスペルトをもう怖いとは感じなかった。彼が笑ってくれたからだ。
「ほらよ」
「ありがとう。いただきます」
 包みを受け取り、早速サンドイッチに齧り付いたアトールはリスのように頬を丸く膨らませる。
(この人…本当は悪い人じゃないのかも)
 さすがに楽観的すぎるかもしれないと自分でも呆れてしまうが、本当にどうしようもない悪人だったらこうしてわざわざアトールの食事を用意するわけがない。
 必死にサンドイッチを齧る姿を見つめられているのが気まずくて視線を上げることもできず、アトールはせっせとサンドイッチを咀嚼した。
「美味いだろ?」
 聞かれて素直に何度も首を縦に振る。ローストビーフは柔らかいし、少し酸味のある柑橘のソースがよく絡んでおいしい。
 アトールとしてはもっと野菜が多く入っているサンドイッチのほうが好みなのだが、スペルトは見るからに肉を好みそうな見た目をしているし、買ってきてくれただけでもありがたい。
「ごちそうさまでした」
 あっという間にサンドイッチを完食したアトールは機嫌良く微笑んだ。睡眠も充分に足り、空腹も満たされて、昨日のような無体をされなければ言うことなしの待遇だ。
 スペルトが何とも言えない表情で手を伸ばしてアトールの口の横を拭う。
「ありがとう。ソースか何かが付いてたんだね」
 アトールがはにかんで礼を言うとスペルトはますます表情を渋くしたが、無言を貫いた彼はさっさと身を翻して部屋の奥に向かいながら昨日と同じように床に点々と服を落としていく。
「服を散らかすなんて行儀が悪いよ。畳むのが嫌なら、せめてハンガーにかけるとかすればいいのに」
 ついアトールが口を出すと、スペルトは鋭く視線を返してきた。
「じゃあ、お前が畳んどけ」
 そう言って放られた服が次々にアトールの上に降ってくる。すべてを受け止めて顔を上げた時には既にスペルトの後ろ姿は浴室へと消えかかっていた。
「待って! お風呂なら僕も入りた…ふぎゃっ!」
 慌てたせいでシーツと服に手を滑らせたアトールは無様な悲鳴を上げて床に転げ落ち、強かにぶつけた額を押さえて蹲る。
 ついでに腰が痛んで唸っていると、ため息をついて戻ってきたスペルトが手を差し伸べた。
「何やってんだよ」
「あ、足に力が入らなくて…」
 おずおずと伸ばした手を引っ張られて荷物のようにスペルトの肩に担ぎ上げられ、浴室に運び込まれて浴槽の中に下ろされる。
 風呂に入りたいと言った自分の要望を聞いてくれたのだと妙に嬉しくなったアトールを見下ろしたスペルトの視線は呆れを含んで冷ややかだった。小さな音を立てて腹の奥が縮こまる。根っから悪い人ではないかもしれないが、良い人でもないのだと改めて思い出した。
「昨日あんだけヤりまくったんだ、腰も抜けるだろうよ」
 自分が何をされたのかを思い出すと、返す言葉はひとつも見つけられなかった。
 スペルトは黙り込んだアトールの頭にまるで犬でも洗うみたいに雑な手付きで湯をかけて石鹸を擦り付ける。
 アトールはただ必死に目を閉じて、気まずい時間が一刻でも早く終わることを願うしかなかった。
 立てと言われて素直に従い、背中を向けろと言われてそれにも従う。意外にも丁寧に洗われて、ますます困惑が広がっていく。
「ひゃあっ!」
 思わず声を上げてしまったのはスペルトの指が尻に触れたからだ。何をするつもりだと振り向くと、呆れを含んだ金色の眼差しと視線がぶつかった。
「お前さ、もう少し警戒心ってのを持ったほうがいいんじゃねぇの?」
「ひ…ッ」
 昨日散々弄ばれた部分にスペルトの指が潜り込んだ。反射的に喉が引き攣る。
 悪夢のような行為を思い出して心は悲鳴を上げているのに、指が入っている部分は緩んでしまって戻らなくなったのか、奥に進む動きを拒みきれていない。
「や、やだ…あんなのもうしたくない!」
「お前に拒否権なんかねぇよ。俺が飽きるまで抱くって言っておいただろ」
「ほ、本気、だったの…?」
 声を震わせるアトールに返されたのは、言葉よりも雄弁な無慈悲な笑みだった。
 どうしたらこの状況から逃げ出せるだろうかと必死に考えても体内で蠢く感触に思考は千々に乱れ、肩に牙が押し付けられると痛みを思い出し、身体は勝手に硬直する。
 その間にさらに奥への侵入を許してしまったアトールは膝を震わせ、されるがまま受け入れるしかなかった。
「やだ…もう、あんなの、やだ…」
「だから、お前に拒否権なんかねぇって。むしろ大人しくさっさとヤらせて早く俺が飽きるようにしたほうがいいんじゃねぇの?」
「ぁ、う…っ!」
 怯える腰を抱えられ、中途半端に解されただけの後孔に太いものが突き入れられる。
 昨日はテロサイラの粘液で挿入を助けられ痛みを感じることはなかったが、乾いてしまった今は粘膜を押し広げられる痛みに息が詰まった。
「痛い…ぃ、たいよ…」
「早く慣れろ」
 無情な言葉と共に揺さぶられるアトールの目からは大粒の涙が零れ落ちる。
 アトールは噛み切れるほどきつく唇を噛み締め、泣き声を喉の奥に押し込む代わりに幾つも涙を粒を零しながらタイルを掻き毟った。
 他人に排泄器官を広げられる感覚は嫌になるほど鮮明で、喉から漏れるのは耳障りな呻き声ばかり。痛くて苦しくて、気持ちが悪い。力ずくで突き上げられると吐き気さえする。
 昨日のような自分ではどうしようもない快感も今の苦痛も、どちらも拷問に違いない。
(お願い、早く…早く終わって…)
 逃げる体力もない今のアトールにできることは、血の気を失った指でタイルの壁に縋りながら少しでも早くこの行為が終わることを願うことだけだった。
 アトールがベッドの上で目覚めた時、部屋は薄暗かった。いつの間にか気を失って、それから随分と長く眠ってしまったらしい。
 酷使された身体に鞭打って僅かに視線を巡らせたけれど、スペルトは見当たらなかった。
(今なら逃げられるかも!)
 そう思って身体に力を込めたが、ほんの僅かに身動ぐだけで息が上がってしまい、結局アトールはベッドから這い出ることさえできなかった。
 苛立ちを晴らすために拳を握ることさえ億劫に感じるほど疲れきっている。関節はあちこち軋んでいるし、腰も喉も痛い。それに加えて、あらぬところが焼け付くように痛むのが泣きたくなるほど情けなかった。
 せめてもの救いは毛布がかけられていたことだけ。
 寝返りをひとつ打つだけでも時間がかかって、再びぐったりとベッドに沈む。
(ゆっくりお風呂に入りたいな…)
 今までは一人で当たり前のようにこなせていたことができない自分が悲しくて、鼻の奥がつんと痛んだ。
 いくら世間知らずのアトールでも、夢中で読み耽った冒険小説に出てくるような冒険者になれるとは思っていなかったけれど、知らない世界を知ることはもっと楽しいことだと思っていたのに現実はあまりにも無情すぎた。
(僕、これからどうなっちゃうんだろう)
 スペルトが言っていたとおり、彼が飽きるまでこの部屋に閉じ込められて過ごさなければいけないのだろうか。そんなの悲しすぎる。しかし今はまだベッドから降りることさえままならない身体では抵抗も逃亡もできないのは明らかだ。
 取り留めなくこれからのことを考えているうちにアトールは小刻みな波のように微睡んでいた。
 物音に気付いて目を開けると、やはりどこかに出かけていたらしいスペルトが服を床に落としながら浴室に向かっている途中だった。
 控えることなく煌々と灯された照明を受ける背中に「おかえり」と言いかけて、寸前で思い留まる。
(なんで僕がおかえりなんて言わなくちゃいけないんだ…!)
 無性に腹立たしくなったが文句を言うのも違う気がして、アトールは無理矢理に寝返りを打つことでスペルトに背中を向けた。寝返りの拍子にずれた毛布を手繰り寄せて目を閉じる。
(動けるようになったら隙を見て絶対に、絶対に逃げ出してやるんだから!)
 スペルトが自分が満足に動けないと思い込んでいるうちに身体を休ませて、少しでも体力の回復に努めようとアトールは固く決意する。そうでもしなければ通常の人間よりも身体能力に優れている獣人から逃げ切ることは難しい。
 じりじりとした気持ちで唇を噛んだアトールの耳に浴室から水音が届く。
(僕もお風呂に入りたいな…)
 鈍く痛む腰を擦っていると自然とため息が漏れた。
 実家にいる頃は入浴に不自由したことなんてなかったし、気に入っていたハーブの入浴剤を切らしたことだって一度もない。
 何故こんなことになったのかと考えたところで理由はひとつしかないが、アトールはそれを認めたくはなかった。
(冒険者になろうとしたせいだなんて思いたくない)
 アトールが冒険者になりたいと思った切欠は間違いなく子供っぽい憧れと勢いだけだった。
 それを見抜いていたからこそ家族が揃って心配の言葉を向けるのは当然で、しかもその心配が現実になってしまった。
 もしこのままスペルトから解放されず、昨日彼が言ったとおり売り飛ばされるようなことになったら、家族とは二度と会えなくなるかもしれない。そんなのは嫌だと叫ぶ自分がいる。アトールはその声に頷くようにシーツを強く握り締めた。
「なんだ、起きてたのか」
 思いがけず近くから聞こえてきた声に過剰なほど肩を揺らしてしまったアトールは、恐る恐る肩越しにスペルトへ視線を向ける。濡れた髪をタオルで掻き混ぜながら立っているスペルトは服を着ておらず、煌々と光る照明のせいではっきりと裸体を見てしまったアトールは焦って顔を背けた。
 昨日はテロサイラの粘液のせいで正常な判断力を失っていたし、今朝は後ろからだったからよく見えていなかったけれど、重そうな塊の筋肉ではなく引き締まったしなやかな筋肉に覆われたスペルトの身体は、さすが獣人だと言いたくなるほど均整の取れた肉体だった。
 愛読していた小説に書かれていた獣人はすべてが美しいとはまでは表現されていなかったが、他人の美醜にやや疎いアトールから見ても彼の身体は美しかった。
 心臓が騒がしく跳ねているのを自覚して、情けないような悔しいような複雑な心境になっていたアトールを見透かしたような笑い声と共にベッドが微かに揺れる。
「耳が赤いぞ」
「わ、わかってるよ…っ」
 からかわれているだけだとわかっていても反応せずにはいられない。
 今見たものをさっさと忘れてしまおうとアトールは目を閉じた。それとほとんど同時にベッドが一段と大きく揺れ、スペルトがベッドに乗ったのだと察する。
 乱暴に毛布が捲くられても反応しないようにと、アトールはますますきつく目を閉じて背中を強張らせた。スペルトは自分が些細なことにでも反応するのを見て楽しんでいる節があるから、何も反応しなければすぐに飽きてくれるのではないかと密かに期待する。
(でもそれっていつ? 明日? それとも明後日?)
 アトールは考える傍からすぐにすべてを否定した。
 よくできた物語みたいに物事がそんなにうまく進むわけがないことは、旅に出てから充分に思い知った。
 早く解放してほしいと切実に願ってみても、それはスペルト次第。暗い不安がアトールの胸にじわりと広がっていく。
「ひッ!」
 不意に冷たい何かが内股に触れて、驚いたアトールは鋭く小さな悲鳴を上げた。
 驚愕を浮かべた視線を向ける先はもちろんスペルトだ。
「な、何…っ?」
「お前がうるさく痛がるから、わざわざ用意してやったんだぞ」
 感謝しろと言わんばかりの台詞には腹が立ったが、その怒りは内臓を捏ねられること異物感に一瞬で塗り替えられた。
 指を増やされて掻き混ぜられても潤滑剤を使われているおかげで痛みは少ない。
 しかしすっかり痛みを覚え込んでしまったアトールの身体は必要以上に強張ってスペルトの指の侵入を拒んだ。
「い、いやっ、嫌! 気持ち悪い!」
「おとなしくしてろ。折角使ってやってるんだ、無駄にさせるな」
「嫌、ぃ、やぁ…」
 たとえ身体が全快していたとしても獣人の力には敵わないことなど理解している。それでも抵抗をやめないのは、こんなふうに扱われることは不本意で、ちっとも望んでいないということを忘れないためだ。
 しかし威嚇するように肩に牙を押し当てられると、瞬時に痛みを思い出したアトールの身体は勝手に怯えて硬直してしまう。
 その隙を見逃さなかったスペルトは指を引き抜き、強引にアトールの中へ性器を突き立てた。息を詰めてその衝撃に耐えるアトールを気遣うこともなく律動がはじまり、塗り付けられた潤滑剤が湿った音を立ててアトールを苛む。
 せめてテロサイラの粘液に理性を狂わされた状態のままだったなら多少は救われたのに。
 催淫作用に身悶えていたあの時は犯してくれるなら誰でも良かった。あの場所に現れたのがスペルトではなかったとしても、たぶんアトールは身を任せてしまっただろう。
「ぅ、う…んっ」
 奥を抉じ開けるような動きに呻き声が漏れた。狭い場所をいっぱいに満たされるのは苦しくて、乱暴に突き上げられるたびに吐き気が込み上げる。
 痛みがないせいで内側を擦られる感触は鮮烈で、繰り返し揺さぶられているうちにアトールの身体も熱くなっていく。早く終わってほしいと願っているのに、伸しかかるスペルトの息遣いも荒くなっているのを感じると何故か腰が僅かに痺れた。
「あ…ッ!」
 自分でも予期せぬタイミングで全身が跳ねる。
 それにはアトールだけでなくスペルトも少し驚いたようで動きを止めた。
「どうした? ここがイイのか?」
「違、んんっ」
 ゆっくりと抜けていった楔が何かを確かめるようにゆっくりと戻ってくる。どこかを通った瞬間、アトールは耐え難い痺れに襲われた。
「そうかそうか、ここがイイんだな」
 何もかもを知り尽くした口調で笑ったスペルトが同じところを擦ると、さっきよりもはっきりと強い痺れがアトールの背中を真っ直ぐに駆け上った。頭皮にまで鳥肌が立ちそうなこの感覚が快感だとわかってしまって泣きたくなる。
「ん、ぁ…あっ」
 同じ場所を擦られるたびに声が溢れて止められない。
 そんなアトールの身体をひっくり返したスペルトが真上で笑った。可虐心をたっぷりと滲ませた笑みは獣そのものだ。
 膝の裏を掴まれて、両脚をさらに広げられる。密着した肌はどちらもが熱い。
 手加減なく打ち込まれる性器に背中が仰け反り、押し出されるみたいに喉から声が溢れる。体内の一点を執拗に擦られると太ももの内側が戦慄いて熱い汗が全身に浮いた。
 そこは嫌だと訴えてもスペルトの攻めが緩むはずもなく、アトールは必死にシーツを握り締めて耐える。
(誰か助けて…)
 どのくらい揺さぶられ続けたのか覚えていない。
 短かったのか長かったのか、それさえもわからなくなるほど乱され、喘がされた。

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