ラビットフライ

皇海翔

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根本チハル

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 恭子らが勤めている冷凍食品会社の工場は、群馬県太田市の南、利根川左岸のすぐ北に位置しているが、周辺はほかの大手食品会社、印刷会社、電気会社などの工場が各々広大な敷地を持っている、一大工業団地の中にあった。夕刻になると、作業服に身を包んだ労働者たちが一斉に構内から吐き出されてくる。そうした労働者たちの集客を当てにして、国道沿いや町中には、都心には見られないほど品数豊富な大型スーパーや、量販店、それに小料理屋などが出店していた。
 けれどもこの町の主役は何といっても、その敷地面積の広大さから言って三洋電機に尽きるだろう。夜空高くに赤い電飾で浮かび上がるSANYOのロゴはサンヨー城とも呼ばれ、この街にもたらす経済効果を否応なしに彷彿とさせる。春には新人の歓迎会、夏には暑気払い、冬は忘年会、そして新年会と、もろもろの壮行会を催す会社のニーズに、バブル期には幾件もの料理屋が町中に軒を連ねていたが、近ごろの不況といわれる白物家電――冷蔵庫、洗濯機等の販売不振により、業務縮小と大規模なリストラ策が敢行されて、今では夜の街も昔ほどの賑わいは見せなくなった。飲食店の経営者は青色吐息だが、それでもこの町が工場労働者の街であることは今も変わりなく海外から出稼ぎにきた数多くの外国人労働者が暮らしている。
 駅前から続く四季折々の草木を植えた泉緑道もまた、以前サンヨー電機の商品を出荷する際に使用した貨物鉄道の名残であった。緑道の広場の中央に、噴水と町のモニュメントの塔が屹立している、根本恭子の家はその公園のすぐ隣にある。
「ただいま」
 両腕にスーパーの袋を下げて恭子が二階に声をかけると、チハルは子供部屋のドアから頭だけ出して、「おかえり。今日はなあに?」と返事した。
「チキンソテー。レモンソースがいい?。それともトマトソース?」
「トマトソース。お味噌汁じゃなくってスープがいい」
「だってそれじゃお父さん困るじゃない。塾はちゃんと行ったの?。あら――」靴脱ぎに落ちているものをつまみ上げて恭子が小さな声を上げた。
「なあに?」
「ほら、ミルフィーちゃんとバーニー君」
 チハルがランドセルに括り付けているフエルトの人形だった。
「あれっ」
「あれっ、じゃないでしょう。ちゃんと結んでおきなさい」
「あーっ!」
 チハルの叫声に、頭にクラりとするような衝撃を感じ、恭子は思わずしゃがみ込んでしまった。
「お家の中で大きな声出さないでって、いつも言っているでしょ!」
 チハルは階段を駆け下りてくると、「ミルフィーに餌あげんの忘れたっ」そう言って慌てて靴につま先を突っ込んだ。
「だから飼育係なんて大変だからやめなさいっていったのよ。もう暗いから明日にしなさい」
「上級生の人に𠮟られるっ。お当番の名前書いとかなきゃいけないの。ミルフィーがおなかすかせてるっ。お水も足しとかなきゃいけないの」わなないた声でそう立て続けに叫びながら、恭子の返事も待たずに飛び出していった。小学校は緑道沿いに家から五分ほどのところにある。心配するほどのことでもなかったが、「懐中電灯は?。終わったらさっさと帰ってきなさい」そう後ろから声をかけた。「だいじょうぶっ」振り向きもせずにチハルは一直線に緑道のつつじに沿ってかけていく。等間隔に灯っているオレンジ色の街灯の下を小さな影がよぎっていった。

   空腹のまま置き忘れられることが、どれほどつらく惨めなものであるか、9歳児のチハルには、大人が想像しえないほどの大惨事に思えた。ミルフィーは大切な心の親友だ。クラスの子に嫌なことを言われた時も、ミルフィをなでていると自然に心が安らいだ。背中を押されたミルフィーが、「ブフウ」と息をつくのを見ていると、おかしくってそれだけで外界の嫌なことがいっぺんに吹き飛んでしまう。授業中でも家にいてもミルフィーはいつも心の腕に抱かれていて、お互いに守られている、そんな心づもりでいたのだった。
 走りながら、用務員のおじさんが帰った後だったらどうしよう、そう思った。(そうだ!。そのときは裏庭と隣の家の境にある、破れたフェンスの穴から入ればいい)忘れ物をした時、先生に見つからずに取りに帰れるその場所は、学校の近所の子ならだれでも知っている。その思い付きに、泣きそうな気分でいた胸の内がホーッと楽になった。校門が見えてくると、通用門のわきに白い明かりがついていた。
「おじさん、こんばんはっ、忘れ物っ」
「えっ、これから教室に行くの?」帰り支度をしていた用務員はあからさまに渋い顔をした。
「じゃない。ウサギ小屋っ。餌あげなきゃいけないの」
「ああ君、飼育係の子だったね。エサは昼間に一度あげてるんだろう?。そんな時はね、明日の朝でもいいんだよ」
「おじさん願い、鍵貸して」
「やれやれ…十分くらいで終わるかな」
「うん。餌あげて、あとミルフィーに御免なさいって謝ったらすぐに戻る」
「はい、はい」ウサギ小屋と書いた文字がはげかけた、鍵のついた木札を差し出すと、用務員は消したばかりのポータプルテレビのスイッチを入れてため息をついた。
 緑道からさしているオレンジ色の街灯は、校庭の三分の二ほどまでしか届いていない。体育館のわきにあるウサギ小屋に向かって、チハルは校庭を斜めによぎっていった。足元がかろうじて見える程度のオレンジ色の薄暗がりの中、ウサギ小屋の金網越しに黒い人影がうずくまったままこちらを見ていた。
「…こんばんは」震える声で言いながら、チハルは怖さが先に立って全身が硬直してしまい、どうしたらいいのかわからなくなった。スッと、細い光が小屋の中から伸びてきて、チハルの下半身を照らし出した。
「ああ…こんばんは。ぼく五年六組の西村淳。君は?」
「三年二組の根本チハルです」
「こんな時間にどうしたの?」
「あの、あたし、今日飼育当番だったんです。だのにエサあげんの忘れちゃって…」
「ああ――どうりでね、当番表見たら大友さんの名前はあるけど、もう一人が書いてなかったから。大友さん、知ってる?。ぼくと同じクラスなんだ」
 チハルはようやくホッとして、力の抜ける思いがした。
「はい。知ってます。大友さん怒っていなかったですか?。明日謝らなくっちゃ」
「怒るような人じゃないから心配いらないよ。それに君がこうして引き返してきたことも、僕から大友さんに言っておくから。餌も水も掃除も終わってる。だから根本さんは帰ってもいいよ」
「あのう、でも…んーと、ミルフィーに会いたいん」
 暗がりに,チッという舌打ちの音がした。
「そうか…困ったな。今、理科の実験の途中なんだ。君たち、フナの解剖はもうやった?」
「いいえ」「蛙は?」「いやまだです」
「そうだろう。だから困るんだ。驚かないでほしいんだけど、実は今日下校するときここの前を通ったら、一匹横になって死んでいたんだよ。でも誰も気づいていなかった。大友さんが帰った後だったからね。それでかわいそうだからこいつを裏庭に埋めてやろうと思ってね。ただその前に理科の実験ノートに記録を残しておこうと思ってさ。けど君はまだ三年生だから見たら泣いちゃうんじゃないかと思うんだ。動物はみんないつか死ぬ。そのことは解るよね?」
 澎湃と、悲しみが胸に突き上げてきて、チハルははらはらと涙を落した。
「そうだろう?。泣いちゃうだろう?。だから見ないほうがいいって言ってるんだ。女の子はだからダメなんだ」
「大丈夫です。あたし、お墓作るの手伝います。飼育係だからやったことあります」言いながら小屋の入り口に回ろうとすると、
「あっ。ちょっと待って」淳が叫びながら何かを蹴飛ばしたのと同時に、ガシャン、と金網にぶつかるような音がした。入り口のドアのかぎが壊されている。
「実は今日死んだのはミルフィーなんだ」
「えっ」頭から水をひっかぶったような寒気に襲われ、チハルはひたと淳の顔を注視した。
「だから、ね?。君は見ないほうがいい」
「見せてっ」
 言いながら淳の背後に回り込むと、全体に赤黒いものが大きな板に張り付いていた。遠い街灯のわずかな明かりに照らし出されたその姿態は、丁寧に内臓が腑分けされ切り開かれ、毛皮の先端が幾本もの釘で打ち抜かれていた。
半開きのままの小さな喉元に、見覚えのある赤いリボンが蝶結びで結ばれている。それがウサギだとわかるのはリボンから上だけのことだった。チハルは眼をむいて両手で口元を覆った。
「アーッ!」
 悲鳴とも衝撃波ともつかぬ波動が小屋うちに反響し、同時に淳ががっくりひざを折ったまま前倒しに倒れた。
「あーっ、お兄さんっ」チハルがびっくりしてのぞき込むと、淳もまた、両眼をむいて頭を抱えていた。
「大丈夫っ、大丈夫?」かよわい声で呼びかけながら、肩をゆすってみてもなかなか淳は顔を上げない。「お兄さんっ」
 二、三分が過ぎたころ、淳は恐怖にわなないたような顔をしてチハルを見返した。
「今のは何だっ?」
「今のって?」チハルが力を込めて懸命に淳の手を握ってやると、淳はハッとしたようにその手を振り払い、「いや、いい。何でもないんだ」そう言ってさも憎々しげにチハルをにらみ返した。
「おーい、まだ終わんないかあ?」
 校庭の反対側から用務員の怒鳴る声がして、懐中電灯の明かりが近づいてくる。
「風邪かなあ、おじさんなんだか頭が痛くなってきたんで早く帰りたいんだ」用務員もまた、片手で頭を抱えていた。
 淳は床に敷いたわら草の中から後ろ向きに弓のようなものを拾い上げると、それをナップザックに収め、さらにウサギを打ち付けた板を抱えた。
「このこと、誰にも言っちゃだめだ。ぼくと会ったことも、ミルフィーが死んだことも」
「どうして?」
「馬鹿だな。当番の君が殺したことになっちゃうじゃないか。ぼくは黙っててあげるから。ね、約束できる?」
「はい…」震える声で答えつつ、チハルは呆然と淳を見つめた。
「もし破ったら、今度は君を解剖しに君んちに行くからね」
 訳が分からなくなってしまい、思わず用務員の懐中電灯に振り向くと、淳は入り口の扉から出て素早く小屋の裏側に回った。「絶対に、絶対に言うな」今度は哀願するようにそういうと、裏庭と隣家との狭間の大きくめくれ上がったフェンスの破れ目から音もなく歩道に降り立ち、あっという間に見えなくなってしまった。
「まだ、終わらないのかい?」
 用務員の懐中電灯の光の中に、まぶしさで顔をしかめながらも、ぐっと口元を引き締めた、凍り付いたように表情を固着させた少女が浮かび上がった。










































































































































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