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七
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授業中、窓の外を見てうつつを抜かしていた洋平に、担任の先生が声を掛けたところいきなり奇声を発しだし、握りこぶしを振るって呻き立てる有様に、その時間は授業どころではなくなってしまった。家庭訪問にきた教師から
そんな話を聞かされたのは、クチナシの甘たるい香りが裏庭に漂う七月上旬の雨降りの日のことだった。
「――それで、こんな絵を」
教師が差し出した一枚の画用紙をおそるおそる手に取ると、りつ子は暗く顔を陰らせた。図画の授業中、いつもなら人物なり草花の素材を皆で囲んで写させるところ、テーマは自由な代わりに何も見ず、心に思い浮かんだものを好きに描かせたものだった。画面は縦横無尽に暴れ回るクレヨンの脂ぎった、野太い斜線によって無残なほど埋め尽くされてしまっている。絵というより絶叫に近い。重ね塗りした部分は粉が張り付いて光沢を帯び、力の籠めようが尋常ではなかった。
「いつもお手本があって描くときはほかのどの子にも負けないくらい、しっかりした絵を描くんですが」
努めて朗らかに語りかけてくる年老いた老教師を前にして、りつ子は恐縮して力なく頷いていた。――様子が違うと気づいたのは、ここに、三か月のことだと思うんですが、お家で何か変わったことはありませんでしたか――そう改めて尋ねられ、子供の言動一つひとつを点検するとりつ子は不意に不安になった。一緒に買い物に行くのを嫌がるようになった。好きな自転車にも近頃は乗らないみたいだし、近所の子とも遊ばなくなった。放っておくといつまでもテレビにかじりついて注意をしても素直でない。ひどいときには悪態をついて床を踏みしだき、ふてくされた態度が翌朝になってもくすぶっていた。けれどもそういった事は、何事もすべてが自分の思い通りになるわけではないことを子供自らが認識していく試練であって、言うことを聞かない子供のわがままにいちいち手を差し伸べるべきではない、過保護の気味があった洋平の育児について、夫の孝夫とはそのように話してきていた。学校でほかの子に迷惑が掛かることを自分の子がしていようとは、簡単に受け入れられる内容ではなかった。現実に先生が見えているのだから、親として反省しなければいけないところだが、不審な思いを拭い去ることはできなかった。りつ子は蒼い顔をして手元の忌まわしい画中に見入っていた。
「ほかの科目では特に問題はありませんから……」
帰り際、腰の据わった寡黙な人物とうかがえる、老教師が静かになだめるようにかけてくれた言葉に、りつ子は玄関先で頭を下げ幾度も礼を言って送り出した。
長引く梅雨空の厚ぼったい雲から、冷たい雨が落ちてきていた。りつ子は茶の間に戻ると、頬杖をついて庭先を眺めた。雨だれの向こう側。猫の額ほどの陰気な小庭の、雨に洗われたクチナシの新緑が乾いた心にひときわ鮮やかに浸透した。先端に、透明な滴をきわどく置いた立派な花弁を着けている。匂いのせいだかかすかにクリーム色が感じられる……と、不意に結婚式に着た白無垢が思い出され、りつ子はそっと目じりを抑えた。
蒸気で所々水滴を浮かべたガラス窓に、線路際の滲んだ若葉色が変幻自在によぎっていった。都電の車両の威厳ある揺れ方は、バスの息苦しく締め付けられるような停まり方より揺られていても心地よい。ここ一月余りのふんだんな雨量に、町中の緑は知らないうちに増殖していた。新緑を芽吹かせ勢いづいて、いたるところで氾濫している。あまりに旺盛な生命力に、こちらの方が腐ってきそうだ。見飽きていたはずの風景にこの頃洋平はいやに惹かれた。学校へ行くのが楽しかったころは、通学途上の単調な風景に過ぎなかったものを。植物がどれほどはびこっていようと、また切り払われようとそれまでは一顧だにしなかったものが――。
車内はそれほど込み合ってはいなかったが人いきれがひどく、ムシムシしていた。俯き加減に座っている老人は誰も額に汗を滲ませている。巣鴨地蔵尊へのお参りに、この路線を利用して出かける老人は毎日数多くいた。洋平はたった二駅だったが、どんなに体がだるい時でも座れたためしはほとんどなかった。窓外の緑はほのかな明るみを帯びており、雨はとうに上がっている様子だったが、風を入れるため誰も勇気を起こして窓を開けようとはしなかった。一車両の箱の中で、老人たちは人いきれに澱んだ空気を文句も言わずに呼吸していた。手に手に持った傘の先端から滴が垂れて、床板のどす黒いワニスに弾かれたまま、表面張力で身震いしている。長く乗っている人の滴は手鏡ほどにもなっており、みつめていると今にも弾けて流れそうだ。
(先に弾けるのはどいつからだ)
何心なく見守っていると、洋平のも含めたすべての珠が車体がかしいでいっせいに流れた。
がっくりと肩を落とし、いつもの駅に吐き出されてしまうと雲間から気の抜けたような晴天が覗かれた。否が応でも運んでくれる頼もしい電車から降りた後には、家までの道のりがたまらなく億劫だった。家族に会うのが面倒くさい、夕飯の席に着くのが疎ましい。今日学校であったことをまた根掘り葉掘り聞かれるのかと思うと、それだけでこめかみが痛くなる。洋平は本来の自分の心をどこに置き忘れてきたのだか、それすらも判らなくなっていた。両親を説得して頷かせるために、その場しのぎの架空の話をどれだけ塗り重ねてきたことか。目ざとい優一に本心を見抜かれないため今日までどれだけ腐心してきたか。親には上手く隠したものの、兄がひそかに疑っている部分がどこであったか、優一には洗いざらい打ち明けながら両親が信じていない部分がなんであったか、家族にも他人にも知られてはならない秘密は――ウソがばれないためには口数を少なくしているのが一番だった。自分の頭で産み出した絵空事を自身が誰よりも強く信仰していなければいけない。それが噓であったことを忘れてしまうくらいまで、強く、激しく思い込む。家族や他人の前ではそうして徹底して芝居を演じながら、けれども夜分、床の中で一人になると不快な強迫観念に苦しめられた。ウソがばれるのを恐れるあまり、いつも何かにおびえていなければならなかった。言葉を選んでする味気ない夕飯のだんらんが済んだのちには、悪夢に彩られた長い一夜がそれから始まる。
洋平は重い足取りを前へ進めた。
歩いている、行為さえ自分の意志によるものなのか、本当にそうしたいと思って歩いているのか、どうして歩いているんだかも判らない。たった七歳の精神はもろくも破産しようとしていた。帰り着くまでの道のりが、洋平にはもはや果てしなく遠く感じられる。憂鬱な心持でこの日も最後の角を折れると、垣根のそばに照夫がしゃがみ込んでいた。
洋平を振り返って微笑んだように見えたのは挨拶をしたわけでもないらしい。手先のことに夢中になって、ほくそ笑んでいたところへたまたま洋平が現れた、そんな格好だった。向かい同士に住んでいながら別々の学校へ通うようになって以来、二人が顔を合わせたのは全く久しぶりのことだった。学年では一級上の照夫に、そのとき洋平は気の臆するものを覚え、自然な声が出しづらかった。照夫は俯いてしゃがみこんだまま、顔を上げずに知らん顔している。仕方がないので傍らに突っ立ったまま、洋平は黙って照夫のすることを覗いてみていた。
植込みの土があらわになったところに数匹の虫が蠢いていた。毛虫のようだが虫特有のぞわぞわしたおぞましさが感じられず、水棲生物のようなヌメリ気を帯びていた。洋平はいまだこんな虫に触れたことがない。
普段は人間の眼につかない、樹皮の裏側や茂みの奥、土中や水中の隠れ家に驚くほど秩序だった生態を営んでいる昆虫に、この年頃の少年が寄せる親愛は並々ならぬものがあった。どんなに醜く危険であっても、一度はこの目に知っておきたい。大人社会に入れてもらえない少年の孤独は、同じく寧猛な獣たちの眼から逃れ、安心して安らげる場所でひそかに息づいている虫たちに共感を抱くことで慰められる。身近に友達を作れない子供に、しかしそれは種を越えた博愛的な協調性だった。洋平がそそいでいる情愛の世界は実利的な大人の目には映りにくい、夕闇の茂みの奥にある。瓶にたたえた水底にある。ここへと注ぐ情愛の流れは、時間を忘れて没入し、まどろむうちに知らず土や水や空の光に融けこんでいった。恍惚として泳ぎ回る、そういったときに洋平はほとんど自己を喪失して幸せな境涯でいることができた。
「テルちゃんそれなあに」
「なめくじだよ。昨日の晩さ、こいつら水道管つたってうちの流しの下に這い出して来たんだ。かわいいだろ。けど父ちゃんはよ、こいつ食っちまうんだ」
「お父さん帰って来たんだ」
「昨日だけな。雨だったから仕事ないんだろ」
「これ食べちゃうなんて……すごいよね。ぼくはちょっと、いやだな」
「ぼく、なんていうな。俺って言えよ。先公いねえんだから。どうやって食うか見してやろうか」
「えっ。テるちゃんよしなよ」
「ひひひ。いいから見てな」
ナメクジは照夫に塩を振られ身をよじってのたうっていた。小さじ半分ほどの塩をあび、悶えているうちにやがてその場からなくなってしまった。予想外の出来事に、洋平は手品でも見ていたようなけむに巻かれた後味がした。ナメクジは土中に潜ってしまった。そう考えて安心していると、照夫は玄関先のコンクリートの踏み台に洋平を誘い、そこでまた同じ行為を繰り返した。
威嚇するつもりで出した角が滑稽なくらい敏感だった。顔を近づけてよく見れば、なめくじの背筋にもいじらしい褐色の紋様が奔っている。たった一つまみの塩をあびただけでたまらずに痺れたように反り返り、陥没したくぼみには四角く結晶の跡がついていた。白い粉の結晶は肌に張り付くや否や透明に融け、そこからきりもみに沈下してゆき、形象を失った軟体はだらしなく崩れ、やがてわずかなあぶくを残してその場からいなくなってしまった。
「消えちった」
目に妖しい光をたたえ、照夫は味噌っ歯をむきだして振り仰いだ。
洋平は思わず「うおっ」と、およそ子供らしくない驚声を発し、黒ずんだ泡の付いた踏み台から弾かれたように後ずさりした。最前までそこにあった生命が、一つまみの粉を振りかけただけでこんなにもあっけなく、この世から消えてなくなってしまうものだろうか。秘蹟を目の当たりにした洋平はこの世の今に起こりうる、あまりに無道な現実に痺れたように動けなくなった。わが身を顧みてすぐに生命の安寧を恋い慕い、それから狂おしい不安に襲われた。自分を越えた大きな意志のわずかばかりの気まぐれで、生命なぞはいともたやすく奪われてしまう。しでかしてきたことに思い当たると、いてもたってもいられなくなった。洋平は激しい憎悪の瞳で照夫をひたと睨み返した。
「殺したな」
「洋平だって殺したろ」
何の意味だか分からなかった。洋平が黙って見据えていると、
「洋ちゃん、婆さん轢いただろ。腕からだらだら血が流れていたな。腰も曲がってたみたいだし。俺、あんときあそこで見てたんだぜ。この目でな。おまえ凄いことしたな。ナメクジ一匹殺すのがなんだい。洋ちゃんのしたことに比べたら、何でもないことじゃないか」
照夫は確信に満ちた底意を逆に洋平に浴びせかけた。
草いきれがして、温室にいるみたいに蒸し暑い。汗ばんでいた首筋にひんやりとした涼風がよぎっていった。初夏らしい、純白な光を孕んだ綿雲が遠くの空で刻々と雲頂をもたげだし、陰りを帯びた雲底がユッタリとした挙措でこちらににじり寄ってくる。
背丈ほどもある茂みから頭上を見上げると、健やかな青みは少しずつ失われていき、全体に脅かすような陰影が垂れ込めてきていた。
その時刻。
梅雨明け前の不安定な大気に、熱中していると強引に閉ざされてしまう少年の密儀の侘しい幕切れだった。いましがたまで花々に注がれていた日射しは薄らいで、雲と雲のうねりの谷間が銀色の繭を滲ませていた。よぎっていく雲行きは上空でいよいよ険悪になり、吹き下ろす風に周囲の葉むらがいっせいにざわめいた。茂みの中で姿勢をかがめて潜んでいると、やがて洋平の頭上を容赦なく叩く、初夏の夕べの白雨であった。
傍らの葉がタン、となって何心なく静まってまた遠くの離れたところから数滴が同時にタ・タンと鳴って、雨のテンポに心をやると世界がアジサイの海原にとどろいた。洋平に踏みしだかれて青臭い匂いを発している林の中、土煙を上げて潤う大地から清新な香りが眉間に抜けた。頭上の葉むらを渡る風雨とは別世界に、アジサイの茂みの奥にはまだ日中の温気がこもってあった。
照夫に教えてもらった通り、ここの茂みにはたくさんのカタツムリが潜んでいた。洋平は静物画中にでも置かれたような、彼らの秘儀めいた息づかいに触れて、ただもうその事だけでなごんでしまい、これほどの身動きの取れない者を捕まえる気にもならなかった。こうして草木に囲まれてしまえば虫たちの静穏な暮らしぶりがうかがえる。そこは不穏な空模様とも隔絶された、稚い虫たちの別天地だった。
葉裏からのぞいたアジサイの花びらが、滴る瑠璃に輝いて見えた。装飾花の花弁は均整のとれた筋を浮かべ、淡い雲の光を滲ませている。花びらから透かして見える、空の色合いがいつになく優しく懐かしく感じられた。青から紫にかけての諧調による、教会の懺悔室のステンドグラス。自然に造られたそんな天窓に細胞の通う筋があった。ここの聖堂に埋もれたままならもう学校へも家へも行かなくっていい。ずうっとここにこうしていたい。白や色褪せた藍や碧瑠璃のやわらかな光彩に魅了され、洋平はここに来た目的すらも失念していた。瞳が瑠璃にしみわたり、光彩にすすがれて肘や腿の皮膚が蒼白になっている。アジサイの海原が風になびくとかぐわしい土の香りが盛んに立った。
カタツムリの殻のひび割れた痛みに暖かな慈雨が浸透していき、ツノが精いっぱいな伸びをしている。濡れた斜面に足元が怪しくなってきた。髪が濡れて生暖かな滴が頭皮を伝い、洋平はむっくりと体を起こした。暗い雲底がのたうつ下できつく風雨にもまれている、花冠のうねりが色鮮やかに逞しく見渡された。茂みから株を分けて出ようとすると、たわんだ枝が洋平を叩いた。女の子が持つ手毬ほどの、見事にまとまった花の球が、柔らかくたしなめるように跳ね返ってくる。ここのところ思い悩み、怯え通しだった洋平の病んだ心に、花の打擲が愉悦するほどに心地よかった。よくしなる枝に顔の半分までもが花球にのめり込んでしまい、むせかえるやら喜ばしいやらで洋平は人知らず吹き出していた。半ズボンの腿に濡れた葉がワサワサとまといつく。優しい感触の花の球がみぞおちや脇の下にすぽりと収まる。町中の舗装路へと続く石段は目と鼻の先にあったのに、洋平はさらに茂みの奥へと入っていった。
坂の途中に広大な敷地をもっている、石垣の上の住人から苦情の電話を受け、りつ子は慌てて家を出てきた。
ちょうど商店街を出はずれたところの坂下に立ち、石垣の上の斜面を見上げると、茂みの中になるほど黒い子供の頭が動いていた。とっさに数メートル下のアスファルトが黒く光って脳裏をかすめ、「そこから足を滑らせないで」そう思わず叫び出しそうになった。へたに声を掛けたら洋平はこちらに気づいて茂みを抜けて、石垣の際を踏み外してしまうかもしれない。りつ子は通行人を装ったまま子供の様子を窺いながら洋平に気づかれないようゆっくり石段の登り口に近づいて行った。
他人のふりをして眺めていると、小学校で奇声を挙げて授業を中断させてしまった洋平が、よその家の庭でどんな顔をして何をしているのか、自分の目で確かめてみたくなった。ふとそう腹に決めたとき、りつ子は考えてみれば洋平がこうして遊んでいる姿を見るのも随分久しぶりのような気がした。こんなところで洋平はいつから一人で遊んでいたのだろう。
アジサイの茂みにもまれながら声を立てて笑い興じている。弾力にとんだ枝はそうたやすくは折れないようだし花をむしっているわけでもない、子供が庭を荒らしているようには見えなかった。なんだかうれしいのを懸命に堪えているような風情だったが、それでもどこかが変だった。
(ずぶ濡れなんだわ)
いやだ、と思い慌てて石段を駆け上がり、傘を振りかざすようにして庭園の茂みに分け入った。他人の家の敷地内とはいえ、東京の下町の一角に、これほどひろびろとしたアジサイのお花畑があろうとはりつ子は思いもよらなかった。初夏の夕立に洗われている濃紺や紫の小山のうねりが見渡すかぎりに開花している、心を揺すぶる景観だった。中にちらほら白いのは、山地にあるガクアジサイの類だろうか。りつ子は一望してすぐに、雨に潤う花々の可憐な風情に魅了され、さわやかな郷愁が身内によぎった。りつ子が幼い時分、やはり雨の日に菜の花畑で友達と戯れて、農家の人に怒鳴られ泣きながら帰った後で、また癇癪持ちの父親に徹底的になじられたことがあった。こんな程度のことならば田舎の子なら誰でもしている。一斉に開いた花々に洋平はきっと圧倒されてしまったのだろう。両手を開いて笑いながら身をよじるようにして愉悦している、あれは花の感触が喜ばしいのだ。蛙の子は蛙、一体あの子のどこがいけないというのだろう。りつ子の肩からほっと侘しく力が抜けた。
「洋平。風邪をひくから。もうそこから出て来なさい」
りつ子に見つかっても、洋平はしどけなく笑うのを止めなかった。それが尋常な笑いでない。笑い立てるひきつったような歓喜面が、抑制されないまま顔に凝固している。笑い始めの衝動が能面のように張り付いて、白雨のなか、だらりと立っているだけで哄笑している。極度な興奮状態に陥った時に子供が見せる、そうしたうつろな面持ちをりつ子はそれまでの経験から知らないわけではなかった。熱に浮かされているのかもわからない。それでも洋平は俯き加減の口元に白い歯をこぼしたまま、なおもアジサイの海に泳ごうとしていた。花に打たれることをまるで死に物狂いで恋い慕っているようだった。壊れやすい子供の心神が、どうにかなってしまったのではないかと疑われ、りつ子の眉間が暗く濁った。
「洋平。お母さんの言うことが聞けないの」
りつ子が低い声で言い放つと、茂みの意外な方角から、ここの敷地の住人らしい落ち着き払った声が届いた。
「𠮟らなくっていいんですよ、奥さん。その子は花と遊んでいただけなんですから。ただね、ここから出て行ってくれれば、それでいいの。ボクは悪くないんだものね。だからその子を𠮟らないらないでやってちょうだい」
老婦人のいかにも洋平をいたわる語調に、かすかに同情の匂いが感じ取れた。この人は茂みの奥からずっと洋平のすることを見ていたのではないか。どうして直接自分で注意しなかったのだろう。普通の子に見えなかった。それは洋平が不気味に思われたからではないか――それに気づくと、第三者の眼にも異常と映る洋平の心神のありようが、苦々しい現実としてりつ子の脳天を貫いた。その忌まわしい衝撃の反動に、すぐに猛烈な母性が身内にどっと沸きだしてきた。
(この子のことなら、そんなに大げさに心配してもらわなくってもいいのに。自分の庭に子供が入るのがこの夫人はそんなに嫌なのかしら)
茂みの中でまだ花と戯れている洋平のもとへ、りつ子は根株を分けて近づいて行った。透けた肌に張り付いてしまっている洋平の白いシャツの背中から、ほのかに蒸気が立ち昇っている。洋平はこの他人の庭でズボンをはいたまま、漏らしてしまっているのかも知れなかった。黙って傘を差しだしてやっても、はにかんだように俯いて、、茎から手を放さずにいる。それから枝をたわませて、自分の顔にわざとぶつけた。りつ子が力弱く笑っていると、今度は花冠をりつ子の胸元にぶつけた。
葉むらと傘を叩く雨音は止むことなく続いていた。ただそうして過ごしている親子の身辺のみが、現実の風雨や時間からも遊離した、透明にすすがれているひどく静かな情調だった。空を切ったアジサイの花冠はむなしく左右に揺れている。柱時計の振り子のような音の振れが、いかに単純で滑稽であるかを洋平は何とかして伝えようとしている。「なるほど」りつ子が子供の目線に腰をかがめ、微笑をうかべながら頷くと、洋平の瞳に喜悦の色がひらめいた。
「あらやだ。お母さんまで入ってきちゃったよ」
茂みの上から、そんな老婦人の声がした。
「だって。ここのお花畑、楽しいんですもの」
りつ子はいささか敵意を孕んだ口吻で言ってのけると、とうとう二人して花をぶっつけ合う競争になった。
(この子の心は感じやすくて、だから花のあまりに絢爛な咲きぶりに気が吞まれてしまってるんだわ)
……息子の嬌声とも奇声ともつかぬ、あられもない叫び声が耳朶に苛立たしく反響する。腹を痛めた我が子の訴えながらまるで気ちがいじみた獣に見えた。いつ果てるとも知れぬ執拗な遊戯の間中、洋平の奇声はやむことがなかった。
崖上から見下ろす坂下に、買い物に来た数人の主婦が傘を傾けてこちらを見ていた。
りつ子は膝がしらがわなないて、洋平にも他所その人にもその震えを悟られぬよう、これ以上親子の芝居を演技するののがだんだん苦痛になってきた。ひびの入った胸の内で、今日これまでの育児に関するすべてのことが石壁がはがれ落ちるようにバリバリ崩れ、笑い立てている洋平の襟首をつかむや石段のところまで一気に引きずり出した。
興奮の冷めやらぬ洋平は虚脱した薄笑いを漂わせ、嘲るような目つきでりつ子を眺めていた。それからつまらなそうに俯くと、他人の間柄のように顔をそむけた。口元に張り付いたひとひらの白い花びらを、舌先にすくい何気なしに飲み込んでいる。知らない間にむしばまれ、子供の心に潜んでいた正体不明の何者かが、洋平をこんな風に変えたのだ。
アジサイの花に打たれたせいで、充血したりつ子の眼縁は薄くにじんで光っており、りつ子もまた、異様な興奮をあらわにしていた実の子を、冷静な気持ちで正視することができなかった。
他人の家の敷地で存分に戯れたのち、ずぶ濡れの親子は悄然として坂を下りてきた。親子ともども雨に打たれて、紙のように白い、血の気の失せた色をしている。見物していた主婦たちは囁き合い、けげんな顔をして遠巻きに見ていた。人々の視線に好奇や白眼の色はなく、傘の中の顔は誰もが似たような憐れみを浮かべていた。
二人が家についたころ、夕立はだいぶ小やみになってきていた。この季節の夕刻に、町中の景色を白くけぶらせるほどの激しい雨が襲うのも、情感に富んだ気象のやむを得ない生理であるのだろう。
そんな話を聞かされたのは、クチナシの甘たるい香りが裏庭に漂う七月上旬の雨降りの日のことだった。
「――それで、こんな絵を」
教師が差し出した一枚の画用紙をおそるおそる手に取ると、りつ子は暗く顔を陰らせた。図画の授業中、いつもなら人物なり草花の素材を皆で囲んで写させるところ、テーマは自由な代わりに何も見ず、心に思い浮かんだものを好きに描かせたものだった。画面は縦横無尽に暴れ回るクレヨンの脂ぎった、野太い斜線によって無残なほど埋め尽くされてしまっている。絵というより絶叫に近い。重ね塗りした部分は粉が張り付いて光沢を帯び、力の籠めようが尋常ではなかった。
「いつもお手本があって描くときはほかのどの子にも負けないくらい、しっかりした絵を描くんですが」
努めて朗らかに語りかけてくる年老いた老教師を前にして、りつ子は恐縮して力なく頷いていた。――様子が違うと気づいたのは、ここに、三か月のことだと思うんですが、お家で何か変わったことはありませんでしたか――そう改めて尋ねられ、子供の言動一つひとつを点検するとりつ子は不意に不安になった。一緒に買い物に行くのを嫌がるようになった。好きな自転車にも近頃は乗らないみたいだし、近所の子とも遊ばなくなった。放っておくといつまでもテレビにかじりついて注意をしても素直でない。ひどいときには悪態をついて床を踏みしだき、ふてくされた態度が翌朝になってもくすぶっていた。けれどもそういった事は、何事もすべてが自分の思い通りになるわけではないことを子供自らが認識していく試練であって、言うことを聞かない子供のわがままにいちいち手を差し伸べるべきではない、過保護の気味があった洋平の育児について、夫の孝夫とはそのように話してきていた。学校でほかの子に迷惑が掛かることを自分の子がしていようとは、簡単に受け入れられる内容ではなかった。現実に先生が見えているのだから、親として反省しなければいけないところだが、不審な思いを拭い去ることはできなかった。りつ子は蒼い顔をして手元の忌まわしい画中に見入っていた。
「ほかの科目では特に問題はありませんから……」
帰り際、腰の据わった寡黙な人物とうかがえる、老教師が静かになだめるようにかけてくれた言葉に、りつ子は玄関先で頭を下げ幾度も礼を言って送り出した。
長引く梅雨空の厚ぼったい雲から、冷たい雨が落ちてきていた。りつ子は茶の間に戻ると、頬杖をついて庭先を眺めた。雨だれの向こう側。猫の額ほどの陰気な小庭の、雨に洗われたクチナシの新緑が乾いた心にひときわ鮮やかに浸透した。先端に、透明な滴をきわどく置いた立派な花弁を着けている。匂いのせいだかかすかにクリーム色が感じられる……と、不意に結婚式に着た白無垢が思い出され、りつ子はそっと目じりを抑えた。
蒸気で所々水滴を浮かべたガラス窓に、線路際の滲んだ若葉色が変幻自在によぎっていった。都電の車両の威厳ある揺れ方は、バスの息苦しく締め付けられるような停まり方より揺られていても心地よい。ここ一月余りのふんだんな雨量に、町中の緑は知らないうちに増殖していた。新緑を芽吹かせ勢いづいて、いたるところで氾濫している。あまりに旺盛な生命力に、こちらの方が腐ってきそうだ。見飽きていたはずの風景にこの頃洋平はいやに惹かれた。学校へ行くのが楽しかったころは、通学途上の単調な風景に過ぎなかったものを。植物がどれほどはびこっていようと、また切り払われようとそれまでは一顧だにしなかったものが――。
車内はそれほど込み合ってはいなかったが人いきれがひどく、ムシムシしていた。俯き加減に座っている老人は誰も額に汗を滲ませている。巣鴨地蔵尊へのお参りに、この路線を利用して出かける老人は毎日数多くいた。洋平はたった二駅だったが、どんなに体がだるい時でも座れたためしはほとんどなかった。窓外の緑はほのかな明るみを帯びており、雨はとうに上がっている様子だったが、風を入れるため誰も勇気を起こして窓を開けようとはしなかった。一車両の箱の中で、老人たちは人いきれに澱んだ空気を文句も言わずに呼吸していた。手に手に持った傘の先端から滴が垂れて、床板のどす黒いワニスに弾かれたまま、表面張力で身震いしている。長く乗っている人の滴は手鏡ほどにもなっており、みつめていると今にも弾けて流れそうだ。
(先に弾けるのはどいつからだ)
何心なく見守っていると、洋平のも含めたすべての珠が車体がかしいでいっせいに流れた。
がっくりと肩を落とし、いつもの駅に吐き出されてしまうと雲間から気の抜けたような晴天が覗かれた。否が応でも運んでくれる頼もしい電車から降りた後には、家までの道のりがたまらなく億劫だった。家族に会うのが面倒くさい、夕飯の席に着くのが疎ましい。今日学校であったことをまた根掘り葉掘り聞かれるのかと思うと、それだけでこめかみが痛くなる。洋平は本来の自分の心をどこに置き忘れてきたのだか、それすらも判らなくなっていた。両親を説得して頷かせるために、その場しのぎの架空の話をどれだけ塗り重ねてきたことか。目ざとい優一に本心を見抜かれないため今日までどれだけ腐心してきたか。親には上手く隠したものの、兄がひそかに疑っている部分がどこであったか、優一には洗いざらい打ち明けながら両親が信じていない部分がなんであったか、家族にも他人にも知られてはならない秘密は――ウソがばれないためには口数を少なくしているのが一番だった。自分の頭で産み出した絵空事を自身が誰よりも強く信仰していなければいけない。それが噓であったことを忘れてしまうくらいまで、強く、激しく思い込む。家族や他人の前ではそうして徹底して芝居を演じながら、けれども夜分、床の中で一人になると不快な強迫観念に苦しめられた。ウソがばれるのを恐れるあまり、いつも何かにおびえていなければならなかった。言葉を選んでする味気ない夕飯のだんらんが済んだのちには、悪夢に彩られた長い一夜がそれから始まる。
洋平は重い足取りを前へ進めた。
歩いている、行為さえ自分の意志によるものなのか、本当にそうしたいと思って歩いているのか、どうして歩いているんだかも判らない。たった七歳の精神はもろくも破産しようとしていた。帰り着くまでの道のりが、洋平にはもはや果てしなく遠く感じられる。憂鬱な心持でこの日も最後の角を折れると、垣根のそばに照夫がしゃがみ込んでいた。
洋平を振り返って微笑んだように見えたのは挨拶をしたわけでもないらしい。手先のことに夢中になって、ほくそ笑んでいたところへたまたま洋平が現れた、そんな格好だった。向かい同士に住んでいながら別々の学校へ通うようになって以来、二人が顔を合わせたのは全く久しぶりのことだった。学年では一級上の照夫に、そのとき洋平は気の臆するものを覚え、自然な声が出しづらかった。照夫は俯いてしゃがみこんだまま、顔を上げずに知らん顔している。仕方がないので傍らに突っ立ったまま、洋平は黙って照夫のすることを覗いてみていた。
植込みの土があらわになったところに数匹の虫が蠢いていた。毛虫のようだが虫特有のぞわぞわしたおぞましさが感じられず、水棲生物のようなヌメリ気を帯びていた。洋平はいまだこんな虫に触れたことがない。
普段は人間の眼につかない、樹皮の裏側や茂みの奥、土中や水中の隠れ家に驚くほど秩序だった生態を営んでいる昆虫に、この年頃の少年が寄せる親愛は並々ならぬものがあった。どんなに醜く危険であっても、一度はこの目に知っておきたい。大人社会に入れてもらえない少年の孤独は、同じく寧猛な獣たちの眼から逃れ、安心して安らげる場所でひそかに息づいている虫たちに共感を抱くことで慰められる。身近に友達を作れない子供に、しかしそれは種を越えた博愛的な協調性だった。洋平がそそいでいる情愛の世界は実利的な大人の目には映りにくい、夕闇の茂みの奥にある。瓶にたたえた水底にある。ここへと注ぐ情愛の流れは、時間を忘れて没入し、まどろむうちに知らず土や水や空の光に融けこんでいった。恍惚として泳ぎ回る、そういったときに洋平はほとんど自己を喪失して幸せな境涯でいることができた。
「テルちゃんそれなあに」
「なめくじだよ。昨日の晩さ、こいつら水道管つたってうちの流しの下に這い出して来たんだ。かわいいだろ。けど父ちゃんはよ、こいつ食っちまうんだ」
「お父さん帰って来たんだ」
「昨日だけな。雨だったから仕事ないんだろ」
「これ食べちゃうなんて……すごいよね。ぼくはちょっと、いやだな」
「ぼく、なんていうな。俺って言えよ。先公いねえんだから。どうやって食うか見してやろうか」
「えっ。テるちゃんよしなよ」
「ひひひ。いいから見てな」
ナメクジは照夫に塩を振られ身をよじってのたうっていた。小さじ半分ほどの塩をあび、悶えているうちにやがてその場からなくなってしまった。予想外の出来事に、洋平は手品でも見ていたようなけむに巻かれた後味がした。ナメクジは土中に潜ってしまった。そう考えて安心していると、照夫は玄関先のコンクリートの踏み台に洋平を誘い、そこでまた同じ行為を繰り返した。
威嚇するつもりで出した角が滑稽なくらい敏感だった。顔を近づけてよく見れば、なめくじの背筋にもいじらしい褐色の紋様が奔っている。たった一つまみの塩をあびただけでたまらずに痺れたように反り返り、陥没したくぼみには四角く結晶の跡がついていた。白い粉の結晶は肌に張り付くや否や透明に融け、そこからきりもみに沈下してゆき、形象を失った軟体はだらしなく崩れ、やがてわずかなあぶくを残してその場からいなくなってしまった。
「消えちった」
目に妖しい光をたたえ、照夫は味噌っ歯をむきだして振り仰いだ。
洋平は思わず「うおっ」と、およそ子供らしくない驚声を発し、黒ずんだ泡の付いた踏み台から弾かれたように後ずさりした。最前までそこにあった生命が、一つまみの粉を振りかけただけでこんなにもあっけなく、この世から消えてなくなってしまうものだろうか。秘蹟を目の当たりにした洋平はこの世の今に起こりうる、あまりに無道な現実に痺れたように動けなくなった。わが身を顧みてすぐに生命の安寧を恋い慕い、それから狂おしい不安に襲われた。自分を越えた大きな意志のわずかばかりの気まぐれで、生命なぞはいともたやすく奪われてしまう。しでかしてきたことに思い当たると、いてもたってもいられなくなった。洋平は激しい憎悪の瞳で照夫をひたと睨み返した。
「殺したな」
「洋平だって殺したろ」
何の意味だか分からなかった。洋平が黙って見据えていると、
「洋ちゃん、婆さん轢いただろ。腕からだらだら血が流れていたな。腰も曲がってたみたいだし。俺、あんときあそこで見てたんだぜ。この目でな。おまえ凄いことしたな。ナメクジ一匹殺すのがなんだい。洋ちゃんのしたことに比べたら、何でもないことじゃないか」
照夫は確信に満ちた底意を逆に洋平に浴びせかけた。
草いきれがして、温室にいるみたいに蒸し暑い。汗ばんでいた首筋にひんやりとした涼風がよぎっていった。初夏らしい、純白な光を孕んだ綿雲が遠くの空で刻々と雲頂をもたげだし、陰りを帯びた雲底がユッタリとした挙措でこちらににじり寄ってくる。
背丈ほどもある茂みから頭上を見上げると、健やかな青みは少しずつ失われていき、全体に脅かすような陰影が垂れ込めてきていた。
その時刻。
梅雨明け前の不安定な大気に、熱中していると強引に閉ざされてしまう少年の密儀の侘しい幕切れだった。いましがたまで花々に注がれていた日射しは薄らいで、雲と雲のうねりの谷間が銀色の繭を滲ませていた。よぎっていく雲行きは上空でいよいよ険悪になり、吹き下ろす風に周囲の葉むらがいっせいにざわめいた。茂みの中で姿勢をかがめて潜んでいると、やがて洋平の頭上を容赦なく叩く、初夏の夕べの白雨であった。
傍らの葉がタン、となって何心なく静まってまた遠くの離れたところから数滴が同時にタ・タンと鳴って、雨のテンポに心をやると世界がアジサイの海原にとどろいた。洋平に踏みしだかれて青臭い匂いを発している林の中、土煙を上げて潤う大地から清新な香りが眉間に抜けた。頭上の葉むらを渡る風雨とは別世界に、アジサイの茂みの奥にはまだ日中の温気がこもってあった。
照夫に教えてもらった通り、ここの茂みにはたくさんのカタツムリが潜んでいた。洋平は静物画中にでも置かれたような、彼らの秘儀めいた息づかいに触れて、ただもうその事だけでなごんでしまい、これほどの身動きの取れない者を捕まえる気にもならなかった。こうして草木に囲まれてしまえば虫たちの静穏な暮らしぶりがうかがえる。そこは不穏な空模様とも隔絶された、稚い虫たちの別天地だった。
葉裏からのぞいたアジサイの花びらが、滴る瑠璃に輝いて見えた。装飾花の花弁は均整のとれた筋を浮かべ、淡い雲の光を滲ませている。花びらから透かして見える、空の色合いがいつになく優しく懐かしく感じられた。青から紫にかけての諧調による、教会の懺悔室のステンドグラス。自然に造られたそんな天窓に細胞の通う筋があった。ここの聖堂に埋もれたままならもう学校へも家へも行かなくっていい。ずうっとここにこうしていたい。白や色褪せた藍や碧瑠璃のやわらかな光彩に魅了され、洋平はここに来た目的すらも失念していた。瞳が瑠璃にしみわたり、光彩にすすがれて肘や腿の皮膚が蒼白になっている。アジサイの海原が風になびくとかぐわしい土の香りが盛んに立った。
カタツムリの殻のひび割れた痛みに暖かな慈雨が浸透していき、ツノが精いっぱいな伸びをしている。濡れた斜面に足元が怪しくなってきた。髪が濡れて生暖かな滴が頭皮を伝い、洋平はむっくりと体を起こした。暗い雲底がのたうつ下できつく風雨にもまれている、花冠のうねりが色鮮やかに逞しく見渡された。茂みから株を分けて出ようとすると、たわんだ枝が洋平を叩いた。女の子が持つ手毬ほどの、見事にまとまった花の球が、柔らかくたしなめるように跳ね返ってくる。ここのところ思い悩み、怯え通しだった洋平の病んだ心に、花の打擲が愉悦するほどに心地よかった。よくしなる枝に顔の半分までもが花球にのめり込んでしまい、むせかえるやら喜ばしいやらで洋平は人知らず吹き出していた。半ズボンの腿に濡れた葉がワサワサとまといつく。優しい感触の花の球がみぞおちや脇の下にすぽりと収まる。町中の舗装路へと続く石段は目と鼻の先にあったのに、洋平はさらに茂みの奥へと入っていった。
坂の途中に広大な敷地をもっている、石垣の上の住人から苦情の電話を受け、りつ子は慌てて家を出てきた。
ちょうど商店街を出はずれたところの坂下に立ち、石垣の上の斜面を見上げると、茂みの中になるほど黒い子供の頭が動いていた。とっさに数メートル下のアスファルトが黒く光って脳裏をかすめ、「そこから足を滑らせないで」そう思わず叫び出しそうになった。へたに声を掛けたら洋平はこちらに気づいて茂みを抜けて、石垣の際を踏み外してしまうかもしれない。りつ子は通行人を装ったまま子供の様子を窺いながら洋平に気づかれないようゆっくり石段の登り口に近づいて行った。
他人のふりをして眺めていると、小学校で奇声を挙げて授業を中断させてしまった洋平が、よその家の庭でどんな顔をして何をしているのか、自分の目で確かめてみたくなった。ふとそう腹に決めたとき、りつ子は考えてみれば洋平がこうして遊んでいる姿を見るのも随分久しぶりのような気がした。こんなところで洋平はいつから一人で遊んでいたのだろう。
アジサイの茂みにもまれながら声を立てて笑い興じている。弾力にとんだ枝はそうたやすくは折れないようだし花をむしっているわけでもない、子供が庭を荒らしているようには見えなかった。なんだかうれしいのを懸命に堪えているような風情だったが、それでもどこかが変だった。
(ずぶ濡れなんだわ)
いやだ、と思い慌てて石段を駆け上がり、傘を振りかざすようにして庭園の茂みに分け入った。他人の家の敷地内とはいえ、東京の下町の一角に、これほどひろびろとしたアジサイのお花畑があろうとはりつ子は思いもよらなかった。初夏の夕立に洗われている濃紺や紫の小山のうねりが見渡すかぎりに開花している、心を揺すぶる景観だった。中にちらほら白いのは、山地にあるガクアジサイの類だろうか。りつ子は一望してすぐに、雨に潤う花々の可憐な風情に魅了され、さわやかな郷愁が身内によぎった。りつ子が幼い時分、やはり雨の日に菜の花畑で友達と戯れて、農家の人に怒鳴られ泣きながら帰った後で、また癇癪持ちの父親に徹底的になじられたことがあった。こんな程度のことならば田舎の子なら誰でもしている。一斉に開いた花々に洋平はきっと圧倒されてしまったのだろう。両手を開いて笑いながら身をよじるようにして愉悦している、あれは花の感触が喜ばしいのだ。蛙の子は蛙、一体あの子のどこがいけないというのだろう。りつ子の肩からほっと侘しく力が抜けた。
「洋平。風邪をひくから。もうそこから出て来なさい」
りつ子に見つかっても、洋平はしどけなく笑うのを止めなかった。それが尋常な笑いでない。笑い立てるひきつったような歓喜面が、抑制されないまま顔に凝固している。笑い始めの衝動が能面のように張り付いて、白雨のなか、だらりと立っているだけで哄笑している。極度な興奮状態に陥った時に子供が見せる、そうしたうつろな面持ちをりつ子はそれまでの経験から知らないわけではなかった。熱に浮かされているのかもわからない。それでも洋平は俯き加減の口元に白い歯をこぼしたまま、なおもアジサイの海に泳ごうとしていた。花に打たれることをまるで死に物狂いで恋い慕っているようだった。壊れやすい子供の心神が、どうにかなってしまったのではないかと疑われ、りつ子の眉間が暗く濁った。
「洋平。お母さんの言うことが聞けないの」
りつ子が低い声で言い放つと、茂みの意外な方角から、ここの敷地の住人らしい落ち着き払った声が届いた。
「𠮟らなくっていいんですよ、奥さん。その子は花と遊んでいただけなんですから。ただね、ここから出て行ってくれれば、それでいいの。ボクは悪くないんだものね。だからその子を𠮟らないらないでやってちょうだい」
老婦人のいかにも洋平をいたわる語調に、かすかに同情の匂いが感じ取れた。この人は茂みの奥からずっと洋平のすることを見ていたのではないか。どうして直接自分で注意しなかったのだろう。普通の子に見えなかった。それは洋平が不気味に思われたからではないか――それに気づくと、第三者の眼にも異常と映る洋平の心神のありようが、苦々しい現実としてりつ子の脳天を貫いた。その忌まわしい衝撃の反動に、すぐに猛烈な母性が身内にどっと沸きだしてきた。
(この子のことなら、そんなに大げさに心配してもらわなくってもいいのに。自分の庭に子供が入るのがこの夫人はそんなに嫌なのかしら)
茂みの中でまだ花と戯れている洋平のもとへ、りつ子は根株を分けて近づいて行った。透けた肌に張り付いてしまっている洋平の白いシャツの背中から、ほのかに蒸気が立ち昇っている。洋平はこの他人の庭でズボンをはいたまま、漏らしてしまっているのかも知れなかった。黙って傘を差しだしてやっても、はにかんだように俯いて、、茎から手を放さずにいる。それから枝をたわませて、自分の顔にわざとぶつけた。りつ子が力弱く笑っていると、今度は花冠をりつ子の胸元にぶつけた。
葉むらと傘を叩く雨音は止むことなく続いていた。ただそうして過ごしている親子の身辺のみが、現実の風雨や時間からも遊離した、透明にすすがれているひどく静かな情調だった。空を切ったアジサイの花冠はむなしく左右に揺れている。柱時計の振り子のような音の振れが、いかに単純で滑稽であるかを洋平は何とかして伝えようとしている。「なるほど」りつ子が子供の目線に腰をかがめ、微笑をうかべながら頷くと、洋平の瞳に喜悦の色がひらめいた。
「あらやだ。お母さんまで入ってきちゃったよ」
茂みの上から、そんな老婦人の声がした。
「だって。ここのお花畑、楽しいんですもの」
りつ子はいささか敵意を孕んだ口吻で言ってのけると、とうとう二人して花をぶっつけ合う競争になった。
(この子の心は感じやすくて、だから花のあまりに絢爛な咲きぶりに気が吞まれてしまってるんだわ)
……息子の嬌声とも奇声ともつかぬ、あられもない叫び声が耳朶に苛立たしく反響する。腹を痛めた我が子の訴えながらまるで気ちがいじみた獣に見えた。いつ果てるとも知れぬ執拗な遊戯の間中、洋平の奇声はやむことがなかった。
崖上から見下ろす坂下に、買い物に来た数人の主婦が傘を傾けてこちらを見ていた。
りつ子は膝がしらがわなないて、洋平にも他所その人にもその震えを悟られぬよう、これ以上親子の芝居を演技するののがだんだん苦痛になってきた。ひびの入った胸の内で、今日これまでの育児に関するすべてのことが石壁がはがれ落ちるようにバリバリ崩れ、笑い立てている洋平の襟首をつかむや石段のところまで一気に引きずり出した。
興奮の冷めやらぬ洋平は虚脱した薄笑いを漂わせ、嘲るような目つきでりつ子を眺めていた。それからつまらなそうに俯くと、他人の間柄のように顔をそむけた。口元に張り付いたひとひらの白い花びらを、舌先にすくい何気なしに飲み込んでいる。知らない間にむしばまれ、子供の心に潜んでいた正体不明の何者かが、洋平をこんな風に変えたのだ。
アジサイの花に打たれたせいで、充血したりつ子の眼縁は薄くにじんで光っており、りつ子もまた、異様な興奮をあらわにしていた実の子を、冷静な気持ちで正視することができなかった。
他人の家の敷地で存分に戯れたのち、ずぶ濡れの親子は悄然として坂を下りてきた。親子ともども雨に打たれて、紙のように白い、血の気の失せた色をしている。見物していた主婦たちは囁き合い、けげんな顔をして遠巻きに見ていた。人々の視線に好奇や白眼の色はなく、傘の中の顔は誰もが似たような憐れみを浮かべていた。
二人が家についたころ、夕立はだいぶ小やみになってきていた。この季節の夕刻に、町中の景色を白くけぶらせるほどの激しい雨が襲うのも、情感に富んだ気象のやむを得ない生理であるのだろう。
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