ちいさな人

皇海翔

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  洋平はこの世に生まれて三年と二か月になろうとしている。
 一日の大半は二階の子供部屋で一人遊びに明け暮れていた。洋平がこの世で初めて出会った人間たちは、誰もが同じ家の一つ屋根の下に寝起きしていた。家の中には自分の他に、母親を含めて四人の人間が住んでいるらしい。家族でもそれぞれ異なった性格を持つ彼らに対して、近ごろは人を見分けた洋平なりの接し方というものが表に現れるようになってきていた。
 夜だけしか家にいない父親には、幾度日中外へ行かないよう懇願したか知れなかった。それでも頼みを聞き入れてもらえなかった一件から、いつしか間柄までが希薄になった。三歳年上の優一は何かというと洋平の相手をするのを疎んじて、近所の子とばかり遊びたがった。たまに一緒に過ごす時があっても、勝敗の分かれる遊びでは何をしてもかなわない、宿敵のような存在だった。そうして母親と共に過ごしているときは、いつも何かしら新しい刺激に満ち溢れていた。
 もう一人は同じ家のなかに住んでおり、姿かたちを現わさないその者と、洋平はよく会話をすることがある。
 (どうするの)困惑して声をかけ、心に深く念じてみる。するとふいに完成した映像を垣間見せてくれたり、イライラすれば失敗するだけであることを遠回しに暗示してくれる。なにか𠮟られるようなことをして、母親に睨みつけられている場合にも、なぜ叱られたのかも分からないでいると(あやまったほうがいいよ)そういって諭してくれる。
 困惑すると不意に現れるその同居人は、眼界をよぎる一瞬の閃光でもって解決の糸口を暗示した。それが時として体の奥底から湧き出たようにも、また脳内に直接ひらめいたようにも感じられた。したがって絶大な説得力を持っており、ある意味では母親以上に信頼が置けた。いずれこの世の住人とも思えなかったが実体がないので、いつどこで寝起きしていいるのかも分からない。『いる』ことは確かだから、洋平は用があると青い子犬のぬいぐるみを抱き誰もいない部屋にこもって、ひっそり宙に向かって呼び掛けていた。
 洋平のなかでは、これらの四者がそれぞれの異なる大空を広げていた。最下等の地位にいる洋平自身はあてもなくさまよう一匹の蟻と変わりなく、日々、本能の欲求を満たすことばかりに没頭していた。機嫌のいい快晴の空の下では清々しいが、曇天の、雨模様の人の空に吞まれてしまえば洋平までもがびしょ濡れになる。疲れ果てて帰宅した父親の、陰鬱な靄がかった景色より、石鹼の香りの柔らかな日差しを浴びているのが好きだった。青い子犬の天ばかりはつねに平穏で、かつて乱れて裏切ったようなことがなく、決まって優しい夕映えで洋平を迎え入れてくれるのだった。
 いまだ自分の色彩を染め出せないでいる洋平は、無垢なだけ簡単に他人の色に塗られてしまう。容易に他人の行為を盗んでしまう。優一からすれば、そうしてすぐ真似ばかりする洋平はうっとうしくてならなかった。優一が見つけた小さな発見を、胸を躍らせて母親に報告しに行っている間に洋平がひとりで実行してしまっている、そんな苦い経験が度々あった。
 知らないうちに優一が外へ遊びに出てしまうと、取り残されたわびしさで、洋平は窓外でする知らない人間たちの歓声に耳をそばだてながら、絵本をくくり長い時間同じ絵ばかりを見つめて過ごしていた。

 初秋を思わせる涼気が忍び寄り大気が澄むと、夏の間蒸されてきた人々の表情にも、久しぶりに沈静を取り戻したらしい、穏やかな色合いが漂い始めた。町中にこもっていた温気はようやく収まり、空気が透明に澄んだせいか、数軒先の庭木の松が板塀越しにひときわ大きく鮮やかに映った。向かいの建物までが一段手前に近づいたように感じられた。
 町中の子供たちの喚声が一語一語、明確な意思をもった生き物のように界隈に跳ね回っている。二階の窓辺から眺め暮らしていた洋平は、通りに立ってジッとこちらを見ているひとりの視線に気がつくと、あわてて首を引っ込め、ぬいぐるみを抱きしめてガラス窓の戸をそっと閉めた。
「あそぼうよ」
 驚いた洋平がまじまじとぬいぐるみの眼鼻に見入り、柔らかな口元に耳を押し当てて聞いてみると再び窓外から声がした。戸の隙間を開いて通りを見下ろすと、同じ子供がまだそこに立っていた。
「なまえなんていうの。どうしてみんなとあそばないの」
 短く刈った髪、細い目、こけた赤い頬。洋平と同じくらいの背丈にかすれた声。どれも初めてのものばかりで、一つひとつを受け入れる準備をしないうち、まとまった全体から声を掛けられ洋平は化け物にでも出くわしたように縮み上がった。知らない子供の空の気象が恐ろしかった。父親の落雷が思い出され、この子を怒らせないためにはどうしたらよいのか、洋平は懸命に考えていた。『訊かれたら返事をなさい』そうりつ子に言われたことがあったものの、煮詰まるばかりでなかなか声が出てこない。考えに考えたあげく「よーへー」そう蚊の鳴くような声で絞り出した。
 見るとその子はよその子に呼ばれ、ずいぶんと遠ざかってしまっていた。路地奥の小さな影はためらうように振り向くと、
「よわむし」
 そう言い残して皆のところへ消えていった。激しく戸を立て切った洋平は、両ひざの間に頭をうずめ、涙を浮かべた。頭のなかは立所にどんよりとたて込めた、いましがたの意地悪な黒雲に覆われて、『よわむし』という言葉の内容が片々と舞い飛んでいた。しかし洋平が傷ついていたのは弱虫といわれたその日一日だけのことだった。頭上を圧してくるいくつもの不穏な空のもとでは、まず自分が最下等であることは洋平自身が納得していた。そこへさらに知らない空が一つ加わり「弱虫」といわれたところで、地を這う蟻の立場ではそれほどの打撃でもないのだった。
 いつになく熱心に玩具のブロック細工に取り組んでいる子供の後ろ姿に、りつ子が感心して声をかけてやると、洋平はこれからもずうっと、家の中で遊んでいるのだと放言した。嫌な予感がするので理由を聞くと、弱虫だからだ、というようなことを口にする。つまり戸外で遊ぶ子供はみな強い子で、自分は弱虫だから外へ出かける必要はない、洋平は自分の地位をそう解釈したらしかった。よその子の言った言葉をありのままに受け入れ、疑うことを知らぬ三歳児の稚さであった。

「こんにちはって言いなさい」
 後頭部をりつ子に押され、体を『へ』の字の姿勢にされてしまうと、理由もないのに謝っている気がして洋平は思わず顔をしかめた。
「僕この子、知ってるよ。いつも二階から見てた子でしょ」
「そうね。照夫君より一つ年下なの。これから仲良くしてあげてね」
 筋向いに住む照夫は、細い目に光をたたえて露骨に洋平を指さして、年長の子供たちに訴えた。近所の五歳、六歳の子供たちのなかにあって、最年少でやせた体つきをしている照夫はつねに虐げられる立場にあった。自分よりも小さい子の出現は、そうして抑圧されてきた照夫にとって随喜するに等しい救いの主であり、格好の嘲罵の的であった。
 そばだつ年上の子の林に取り囲まれて洋平はすっかり舞い上がっていた。自分のことを言われると、油断していた方角から意外な空に襲われていたことにハッとして、顔から火の吹く思いがした。以前にも弱虫という言葉を投げつけて、その内容で洋平の空を決めつけてしまった照夫という子供が、まず最も注意しなければいけない相手であることを洋平は薄々感じていた。
「洋平、こんにちはって言えよ」
「こんちわ」
 ほかの子に決めつけられるのは苦痛だが、身内の優一にそう促されると逆らう気も起らずに洋平は訳も分からないまま頭を下げた。家のなかでは自分とも共有することがある優一の天に、この際縋ってついていくより仕方がない。兄弟の空の背後には、ひろびろとしたりつ子の晴天が控えている。
「ぼく、嫌だな。こんな小さな子と遊ぶのなんて」
 りつ子がその場からいなくなると、真っ先に不平を唱えだしたのは遠くから遊びに来ている五歳児の亮だった。肉付きのいい浅黒く日焼けした肌をもっている亮はしなやかな跳躍力に恵まれており、駆け足は子供たちのなかでも群を抜いている。洋平が仲間に加わると知るや、自分たちの身体能力のレベルまでが同列に引き下げられるような不快を覚えて、露骨にやる気をなくしたような態度をとった。洋平は優一の顔を見上げ、それから視線をリーダー格の哲也へ移すと、へつらうような上目遣いで訴えた。照夫はあての外れたような顔をしたなり俯いてしまっている。
 優一は、昨晩の内から弟の面倒をきちんと見るようきつく母親に言い含められてはいたが、正直なところ三歳年下の洋平は足を引っ張るお荷物でしかなかった。亮の不満は優一の本音を代弁したものでもあったから、口をはさむ気にもなれなかった。
「かわいそうだよ……」
 いつも鼻を詰まらせている照夫のくぐもった声が、誰に言うでもなくその場にポトリと転がり出ると、無関心を装っていた哲也がよく通る声で言い放った。
「いいよ、解った。洋平。洋平はここのマンホールで見張り番をしているんだ」
「洋ちゃん、解った?。ここの場所、誰にもとられないように見てるんだよ」
 優一がいざり寄ってそういうと、亮は今度は遊びが台無しにならないよう、ひどく熱心にルールを説明し出した。捕まえる側の刑事の役は洋平一人では無理だからもう一人ついてやることになり、それも哲也の指示だったが、どうやら初めから洋平をまともに扱うつもりはないらしかった。洋平はいてもいなくても変わらない立場で、いいようにあしらわれた格好だった。その段になると亮もようやく哲也の真意を理解して、いつもの抜け目ない、すばしこそうな顔つきに戻ると、一刻も早く駆けだしたい衝動にかられ、そこいらを落ち着きなく歩き回った。
 それからごく当たり前のように、洋平につく刑事の役は優一がすべきだとほかの三人が言い出した。優一は落胆したがさすがにその場で嫌とは言えなかった。(結局ぼくが面倒を見るんだ)優一は苦々しくそう思った。
 子供たちが蜘蛛の子を散らしたように四散すると、目をつむり十数えた優一は脱兎のごとく後を追って行ってしまった。子供たちがたまり場にしている路地裏のマンホールには、洋平を残して再び誰もいなくなってしまった。

 台所の勝手口の小窓から、そうした様子をひそかに窺っていたりつ子は、汗ばんだ手からカバーの黒皮が滑って、危うく落としそうになったカメラをちゃぶ台に起き、長々とため息をついた。洋平が初めてよその子に交じって遊ぶ姿を、のちの記念に撮影しようと身構えていたが、期待していた溌溂とした姿はこの分では撮らせてもらえそうにない。優一が哲也や亮と知り合った最初の日には、家の前ですぐにかけっこの競争が始まった。その時の魚の跳ねるようなみずみずしい躍動は,地上に生まれ出た生命の悦びにあふれていた。りつ子は年下の子を逃げる側に回してやらない哲也の采配を憎らしく思った。
(子供の世界って、結構シビアなんだわ)
 洋平は立っているのにも疲れてしまいマンホールにしゃがみこんでしまっていた。あんな寂しそうな姿なら、まだ家において好きなことをさせていた方がよかったかもしれない。カメラにキャップをかぶせて戸棚にしまうと、りつ子は眉間にしわを寄せ、やや思いつめた眼付をして次男坊の行く末のことを考えていた。
 シン、と静まった路地のなかにはまだ子供たちの活気が漂っていた。彼らはいっせいにこの世から蒸発し、忽然と姿をくらましてしまったようだった。年上の子の話では、洋平のいるこの場所が遊びの核心であるかのような口ぶりだったが、かれこれ二十分もたつというのに何事も起こりそうな気配がない。家並みの向こう側の遠い街角に、たまに聞き覚えのある喚声が起こっていた。
(みんなどこまで行っちゃったのかな)
 瓦屋根の向こう側で悲鳴が起こり、バタバタ足音が鳴ったと思うや優一が角から出て猛然と走ってきた。
「ちゃんと立って見張ってないとだめじゃないかっ」振り向け様それだけを伝えると、激しい息遣いを残してそのままかけて行ってしまった。
 ぽっかり穴の開いたような空間に、洋平はまたもや取り残された。
 洋平は何かしら大事な預かりものをしたような気持ちで待っている。この場所を守っていろと命令されたことがずいぶん責任重大に感じられ、その約束を忘れずにいることの緊張から、ほのかに心が浮足立っていた。マンホールに佇みながら、この街のどこかで展開している優一や亮の熾烈な争いを空想してみる。するとやはり、この遊びの核心は今いる時間の停止しているような場所でなく、皆が出掛けていったさきの激しい渦中にあるような予感がし、のけ者にされたような不安を覚えるのだった。それが一人で家で遊んでいたころには味わったことのない淋しさだった。
(みんなどこまで行っちゃったのかな——)
 カララ。そんな乾いた音がして二階を見上げると、りつ子が顔を出して笑っていた。
「洋ちゃん、何しているの」
「ひみつ」
「ふーん。お母さんにも?……そんなことしてて、洋ちゃん、楽しいの?」
「……ひみつ。」するとやにわに洋平の顔形は崩れ出し、
「ケージだから言っちゃいけないの、お母さんだって見てちゃいけないの」
「あっ……。ごめんなさい」
 泣き崩れてしまった息子に謝りながら、締め付けられる思いでりつ子はガラス窓を閉めた。まだ年端のいかぬ幼子でありながらなんと厳しい、神聖な子供同士の結束だろう。りつ子は決してそれ以上、子供たちの領分に口出しすべきではないことを痛感した。
 その時、路地の突き当りの角から亮がひょっこり顔を出した。鋭い目であたりの気配を窺うと、矢のように飛んできて泣きはらした洋平の顔をつくづく見やり、(黙ってろよ)目でそう釘を刺して、向かいの家の板塀に片足をかけ猿のように登りだした。洋平があっけにとられてみている間に亮は板塀を乗り越えて、ずしん、響くと庭木のざわめく音が聞こえ、それからひっそり静かになった。塀の植木の隙間から小暗い庭木の草むら越しに、口に人差し指を立てた亮が目もとに笑みを浮かべ、洋平をジッと睨んでいた。
 やがて優一がゼエゼエ息を突きながら顔を紅潮させて帰ってきた。
「洋ちゃん、亮の奴、こっちに来なかったか?」
「しらない」
「おっかしいなあ」
 優一は洋平を一瞥すると、仕方なさそうにまた路地の奥へ消えていった。
 板塀の向こう側から押し殺した声がクツクツと漏れた。しゃがんでみると、葉群から眼鼻だけを覗かせた亮が、こちらを見て嬉しそうに笑いをこらえている。それがうつって洋平までがキシシ……と吹き出すと、二人は顔を見合わせて含み笑いした。
 他人と二人だけの秘密を共有したことが、自分のなかに、ほかの子が感じている新たな一面を付け加えられたような、心のふくらんだ気持ちにさせてくれた。亮は兄の雄一に告げ口しなかった弟を偉いと感じ、そのように信じてもらえる新しい自己を見出すと、洋平もまた亮のために心の中で踏ん張っていられた。さほど親しくもない亮の空に、宿る形で洋平は初めて独自の居場所を与えられた。
 日頃、家の中で虐げられっぱなしだった洋平は、優一の空をこうして遠くから眺めてみるのも初めてのことだ。頭上に見上げてばかりだった兄の空が幾分ずり落ちてきたような、それは愉快なうえ、奇妙にくすぐったい感覚だった。
「以前とだいぶちがうようだね」 
 夕飯の席で、父親は苦笑しながら総菜をうまそうに口に運び、洋平が繰り返す近所の子供の話を頷きながら聞いてやった。家にこもりたがってばかりいた洋平が、果たして年上の子らに受け入れられるかどうか、それはむしろりつ子の老婆心だった。優一は近所の子にすっかり溶け込んではいるものの、時には汚い言葉で罵り合うような醜い喧嘩をすることがある。そんなところへ幼い洋平をさらしてしまって、耐えられるものなのかどうか、りつ子は自分を含め自信が持てずにいた。口角に泡を浮かべてほめちぎっている、よその子の話題を聞いていると、自分の子供が何となく懐からすり抜けていってしまったような、一抹の寂しさを感ぜずにはいられなかった。
 りつ子が懸念したように、洋平の有頂天はそう幾日も続かなかった。
 何かというと体力的なことで決着を着けたがる子供たちの遊びのなかで、洋平は何をしてもかなわなかった。ほかの子にお豆だのお味噌と呼ばれ、相手にされないことが多くなった。皆で競争するような場合では、洋平がゴールする時分には待ちくたびれた子供たちがすでに違う遊びを始めていたりした。洋平が途方に暮れていると、優一は幾分か申し訳なさそうに慰めてやったが、照夫はこの時とばかりに「おみそ」と罵って、この世に自分より劣ったもののいることだけが、ひそかな悦びであるような、邪鬼のような笑みを浮かべた。

「洋ちゃん次は逃げていいから。五十数えるまで待っててあげるから」
 その日、洋平は優一にそう言われて一目散に駆けだした。
 陽はすでにだいぶ傾いてあって、遊べる時間は限られていたが、母親らが夕飯に呼びに来るにはまだ少しの時間があった。コオロギの輪唱に急き立てられながら曲がり角を折れ、鬼の目の届かない場所を求めて死に物狂いで洋平は走った。
 少年たちの行動範囲は、それぞれの自宅を含めた街区内に限られていた。そこから外部へ出ることは暗黙の裡にルール違反と決められていた。それでも遊んで逃げている最中に、何かの拍子に見知らぬ街角にさまよったり、買い物に連れられて商店街に出入りしたりするうち、路地裏の向こう側に開けている未知の世界といったものに、どの子も漠然とした見取り図をもつようになっていた。洋平は十まで数えたところで息をついた。りつ子に教えてもらった通りに親指を曲げ、その数を走っているうちになくさないよう、もう一方の手のひらできつく抑えると、また一から唱えながら走り出した。曲げた指が人差し指から中指へ移る途中で、横っ腹が痛くなり、息が切れてそれ以上走ることができなくなった。
 この世に自分を追いかけてくる鬼が必ずどこかにいることを、まだ捕まっていない立場で認識している、それくらい恐ろしいことはほかにない。捕まった後の仕打ちより、追いつめられる運命にあることが恐ろしい。それまで平凡に暮らしていながら、曲がり角を折れたところでひょいと対面してしまう、不如意なとらわれ方は我慢のならないことだった。また明らかな一本道で、逃げまどうこちらの歩調を凌駕しつつ、ジリジリ鬼が詰め寄ってくる、その力の格差ほど侘しくてやりきれないものはない。鬼に捕まるのは嫌だけれども、そうした遊戯を編み出したものはなおさら恐るべき非情であった。
 洋平は手のひらのなかの折り曲げた指を調べたものの、四本目を曲げたかどうかがあやふやだった。まして五十という時間が、指を何回曲げた数であるのか自信がなかった。鬼との距離を測る手立てをなくしてしまうと、亡失して開き直った後の健やかで安穏な気分に包まれる。どうせ曲げた指がこぶしにならないうち、猛然と襲い来る鬼に捕まってしまうのが常だから、つらい思いをする分だけ無駄足だった。
   洋平が逃げていく路地の先は、通称お化け階段の苔むした石段が高々と伸びあがっていた。両側をブロック塀に挟まれた最上段の空間に、薄暮が小さな顔を覗かせている。
 大人がすれ違うのがやっとなほどの狭くて小暗い石段には、昼日中でもひんやりとした気流が吹き抜けて、どことなく陰気な念が漂っていた。亮や優一たちはこの石段を抜けて街区を一周し、たまり場のマンホールへこつ然と現れるといった離れ業を演じたりしたが、洋平にはとてもそんな勇気はない。こうして見上げてるうちにも、石段の中ほどにある踊り場に、何者かが蹲っているような気がして悪寒が飛ばしった。鬼の迫ってくる背後を振り返りつつ、石段の下でためらっていた洋平はすぐ左手に折れ続いているぬかるんだ泥道に入っていった。
 まだアスファルトが敷かれていない商店街へと抜けるその間道は、片側がそそり立った断崖になっていた。木々の茂みが通行人の頭上に思うさませり出して、小暗いトンネルになっている。そこは晴れた日でも土が湿り気を帯びていて、水はけが悪く、ひと雨降ればくるぶしまでも吞み込むほどのひどいぬかるみの悪路になった。親子で買い物に出かける夜分になると足元もおぼつかない木下闇になる。それはわずか数メートルの範囲だったが、光の及ぶところに出るとりつ子の靴下がしばしば汚されていることがあった。崖の反対側は街の銭湯の裏手にあたり、窯を炊く割木やおがくずが山のように積んであった。電球を梁からつるしただけのほの暗い作業場で、ランニング一枚の逞しい肩を怒らせた男が汗みずくになって材木をたたき割っていた。側溝にはけばけばしい色合いの濃緑の捨て湯が、ある時はうっすらとした湯気を立ててゆるゆる流れ、ある時は激しい飛沫となって路上にまであふれ出していた。
 ここの場所が遊びの境界から外れていることを洋平は知らないわけではなかった。行き場を失い追い詰められた後、苦し紛れの好奇心から、一度でいいから鬼に捕まらずにいることの優越感を味わいたくなって、気づくとふらふら迷い込んでしまっていたのだ。ところがほかの子に交じって遊んでいながら彼等との取り決めを破ってしまうと、それまで行為の規範としていたものまでが霧散して、内で支えていた心張棒が外れてしまい、洋平はにわかに心神の平衡感覚を失ってしまった。身近な高さのところにあった優一の空がみるみる遠退いて行ってしまう。それに合わせて母親や父親の空までが、手の届かない世界へ遠退いていく。自身の存在自体が委縮して、洋平はこの場所に自分がいることさえも信じることができなくなった。
 見上げると、かすかに青みを残した夕空に、常緑樹の枝葉ばかりが何事も語らぬうちにこちらの心底を見透かしてしまい、怒号を浴びせてくるかのようだ。茂みの奥から、樹冠全体から、洋平は痛いほどの視線を浴びた。幾千枚の木々の葉はそよとも騒がず、ただ一定した凝視をひたひたと洋平の心身に浴びせかけてくる。見てはいけないと思うほど、吸い寄せられるように気持ちがそちらへ移ろっていった。中でも黒灰色の木肌をもった、一本の樹皮に目を奪われたとき、洋平は蜘蛛にとらわれた羽虫の様に、冷や汗をかいて身動きが取れなくなった。

 ……洋平は黒松の亀甲にひび割れた木肌が正視に堪えないくらい苦手だった。絵本にあった、悪意に満ちた大蛇の皮膚を連想し、虫唾が奔ってどうしても普通の植物とは異なって見える。かさぶたを寄せ集め身にまとったような木肌の醜さもさることながら、痺れたように枝振りをねじ曲げている胴体の中身までが病んでおり、近寄るものを感染させずにはおかない寧猛な魔力を秘めている、その木ばかりは夜分人知れずに正体を現し、腕を曲げたり胴をくねらせているのではないか——洋平は家の近くにある黒松の下を通るたび、なるべくそちらを見ないよう避けて通った。
(あの木……うごいてるんだ)
 洋平の視線は黒松の球果——下垂している卵型の松かさに釘付けになった。黒松は密集した針葉に覆われていながら、明らかにそれまで見たことのない木質化した異物をふくらませていた。それは草花が花を咲かせているのとは似ても似つかず、堅く干からびた体のどこかから移殖して、ひそかに産み出したものとしか思えなかった。とくと枝先を見渡すと、同じ松かさにもしどけなく果鱗をはだけたものと、固く閉じた塊のままの、そうでないものとがある。人々の知らないうちに樹木が形を変えていることは子供心にも一目瞭然だった。精一杯に開ききった数多くの松かさは松特有の蛇紋に刻まれており、めくれ上がった鱗からは毒気を帯びた妖気を盛んに吐き出している……黒松はやはり蛇の化身だった。刻々と迫る宵闇に、松かさの襞が見定めがたくなったのちも、黒松の毒気にあてられたかのように洋平はその場に立ちすくんでしまっていた。
「ああっ。洋ちゃんそこにいたのか」
 険しい顔をして迎えに来た優一を、洋平はぼんやりと見返した。遊びのルールを破ってから、洋平のなかで遠い果てにまで後退していた優一は、疎遠になってどこか知らない家の子供に見えた。
「こんなところで何やってんだよ」
 洋平は崖上の茂みに気をやりながら、その場にひんやり立ち尽くしていた。近所の子に対等に扱ってもらえない弟が可哀そうで逃がしてやったのに、洋平はそんな気遣いに無頓着なばかりか、制限区域を踏み越えルール違反まで侵していた。優一はこんな人けない木下闇に、弟がよくも泣きださないでいたものだと訝しく思った。それから歩道からは見分けがたい、間道の暗がりに隠れていたふてぶてしさが憎らしくなった。懸命に探していた自分たちをけむに巻いて、ルールを破り平然としているのが許せなかった。 
 洋平はおそらくまた何かに憑かれていたのだろう。手前勝手に膨らませた妄想のとりこになって、周りが見えなくなっていたのだろう。ひとつ屋根の下で共に暮らしている優一は、弟のそうした性癖にこれまで幾度となく接してきていたが内心ではそれが疎ましかった。子供部屋に閉じこもったまま長い間、犬のぬいぐるみと会話をしているようなことがある。家で二人で遊んでいても、動作が突然ハタリとやんで、どこかしら宙の一点に魅入ったまま何を聞いても返事をしないことがある。当初は優一の方がびっくりして泣き出してしまい、母親に注進に行ったりしたが、優一は三つ違いの弟でありながら少し頭が弱いのではないかと思っていた。そのことがまるで自身の恥のようでもあったので、よその子には誰にも知られたくなかった。洋平が抜け道にいたことを耳にしたら、近所の子供たちはもう遊んでくれないかもしれない。優一は弟を庇ってやるより仕方がなかった。
「洋ちゃん。怖くなっちゃったんだろ?。手、つないであげるからおうちに帰ろう」
 そう言って弟の手をつかんだとき、手に意外な反動が返ってきた。洋平が大地に根を生やしたように動かない。
「だいじょうぶだよ、みんなには上手くごまかすから。それにもう帰っちゃってるかもしれないよ。いたら、みんなにはどっかの家の門に隠れてたって言うんだよ」
「あの木。うごいた」
 優一はギクリとした。本来ならば優一ですら一人では立ち入らない崖下の間道の闇に包まれて、この場合洋平の発した一語はもの凄い迫力をもっていた。
「どの木」
「あれと、あれと……暗くてよくわかんないけど、あれ」
 一樹一樹の黒松を過たないよう指さしていく洋平の念の入った説明に、優一は背筋が寒くなった。言おうとしている内容よりも、この闇にいて、そんな恐ろしいことを口にする弟そのものが不気味だった。
「ほんとうだから、ユウちゃん、ここにいて一緒に見てて」
 洋平は茂みを見上げたまま振り向きもせずにそういうと、つないでもらった優一の指先をキュウと握りしめた。
「いやだ」
 手を切って、おぞましい者でも眺めるように弟を睨むと、優一は堪らなくなって舗道の明かりに転げだした。外灯に明るく照らし出されたアスファルトの路面に立ち、ひきつった顔をして睨み返すと、弟のいる暗がりに罵声を浴びせた。
「もう知らないからな。このことみんなに言っちゃうからな。お母さんに言いつけてやる」
 それだけ言うと子犬の様にかけていった。
 突然怒りだし、わめき散らして行ってしまった優一を、洋平は物悲しい気持ちで見送っていた。今は稜々とうねっている黒松の樹冠に、呪縛せられたように両足が痺れて動かない。それまで大地に縛られて身動き一つできない樹木を下等なもののように考えていた洋平は、黒松に起こっている変化を見つけて生命の虜になってしまい、捉えられてあたかも同化したようになっていた。泣き出すすべすら忘れさせてしまうほど、老樹の感化は抜かりなく、かつ強大だった。このことを先に優一に話さなかったことを、洋平はうら寂しい心境で後悔した。溶けた鉄が鋳型に流し込まれて次第に冷えて固まるように、生きながら永劫この場所に人型のまま、木質化し、亀甲にひび割れて林の中の一本になっていく……上体を揺らし、型からずらせてみた後も、いくばくかの思念が剝がされずにそこにそのまま残されてあった。外灯に浮かび上がった舗装路まで引き返すと、お化け階段から吹き降ろしてくる冷たい風に、はじめて息を吹き返した人となって洋平はぼんやりと辺りを見回した。それから黒松の感化から脱しきれず覚めやらぬ状態のままゆらゆらと皆のいるたまり場に向けて歩いて行った。
 角を折れるとすぐのところに塀越しの黒松が梢を差し渡していた。けれども洋平はそれを恐れるだけの気力をなくしてしまっていた。路地の奥のたまり場を見通しても、子供たちの動く影はない。肩を落とし、家路につくと、夕闇の中洋平の自宅の玄関先に子供がひとり腰を下ろして待っていた。
「……テルちゃん。どうしたの、帰らなかったの」
 立ち上ったのは筋向いの家の照夫だった。
「帰ったけど、母ちゃんに叩かれた」
「どうして」
「暗くなっても、帰んなかったから……」
 見ると照夫の右頬は腫れあがり、左まぶたが紫にむくんでいる。洋平は何と言っていいのか分からなかった。
「洋ちゃんどこまで行ってたの。ぼく、ずっとまってたんだよ。遊んでる途中に自分だけやめたらいけないんだよ」
「あのね……テルちゃん。あそこのヘイから出てる木あるでしょ。あの木、遊んでる途中に動いていたの」
「ほんと?」
「ほんと。だから気を付けた方がいいよ」
「……わかった」
「どうする。もう帰る?」
「帰れないんだ。また叩かれるから。洋ちゃん先に帰ってていいよ」
「かえんない」
「どうして」
「だって……」
 照夫の優しい夕映えが洋平の両の瞳に赤々と染め出していた。つられて照夫も顔をゆがめ、
「ダメなんだ、洋ちゃん。泣いてるうちは家に入れてもらえないんだよ」
  そう声をわななかせて洋平をなじった。
 コオロギのすさまじいばかりの輪唱と日没後のつめたい秋風に晒されながら、暗がりのなか、肩を寄せてうつむいてしまっている二人の子供の背中は、やがて温かみのある橙色に灯された。軒燈の豆ランプの光のなかに悲鳴のような喚声が起こり、振り向いた黒い四つの瞳に、りつ子がいささかひきつったような微笑をうかべて立っていた。


































































































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