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2章 兄と恋人10

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「そもそもの話なんだけど」

 話を聞くと言った直後、クローネは疑問をぶつける。

「別にキキョウ姉と恋仲になったところで問題あるの? 冬燕ってそういうもんなんでしょ?」

 各地に赴いて子供を作ってはまた飛び立っていく。恋仲となったとしても所詮は一時のこと。お互い生きている間にもう一度逢えるかも確証がないなら、同じ冬燕のエレーナと比べて不利どころか勝負にすらなっていない。
 時間は確実にエレーナの味方である。焦ってみっともない所を見せるくらいなら一時静かにしていた方が有効であった。
 そう、それだけで話が終わることを何故気にしているのか、クローネには分からなかった。
 問われたエレーナは目に力を込めて、クローネを指さす。胸を張り、大きく息を吸うと、舞台役者のように宣言していた。

「初めては私がいいの!」

「いや、初めてって……」

 男に期待しすぎだろと、クローネは鼻先につきそうなほど近い指に手を重ねて下ろさせる。
 娼婦とは、山の中ではありふれた職業だ。もちろん男娼もいる。表立って言うことは無いがアグやテンカ、グスクと言った仕事仲間も利用している風だった。
 ……ドクターは、ないな。
 何となくだがあの狂人は利用していない気がするし、嬢からも相手されないようにも思える。
 研究一番開発二番。趣味に生きるものほど婚期は遠のく。とするならば自分もそうだろうとクローネはほくそ笑む。
 エレーナの目的は単純だ。キキョウとアダムが二人っきりになる時間を作らなければいい。そのために一番簡単なのは、エレーナが四六時中アダムと一緒にいればいい。
 だから聞く。

「で、私は何すればいいの?」

 クローネは壁に身体を持たれさせながら軽く欠伸をする。
 答えは出ている。そこに自分は必要ない。
 では何を求められているのか。エレーナに手を出させるよう誘惑の仕方を教えてくれと言うなら、無理だ、不可能だ。
 どんな言葉が飛び出してくるのか、クローネは期待を込めた視線を向ける。
 エレーナは見つけるように上を見る。嫌な予感がした。その後正面を向くと年相応の可愛らしいとぼけ顔を浮かべて頬に指を置く。

「……何って、何?」

 ……知らないわよ。
 若いなぁとクローネは肩を落として笑う。
 子供だから直情的に物事を考える。少女だから恋に浮かれる。
 ……巻き込まれる側はきついわ。
 特に恋愛のれの字も知らないまま育ったクローネにとって今の時間は針に囲まれる拷問に等しかった。   

「安心したら? 好意を持ってることぐらい馬鹿でもわかるもの。拒絶しないだけ悪くは思ってないってことでしょ」

 クローネの視線はあらぬ方向へ向いている。口ではそう言っても、鉱石煙草でもあったら吹かさずには居られないなと内心で毒づいていた。
 しかし間違ったことを言っているつもりはなかった。アダムがどう感じているかは不明だが近くに置いていることは間違いない。
 ただそれはキキョウも同じであることを言わないでおくくらいの空気を読んでいた。
 そんな心にもない励ましでもエレーナは声を輝かせる。

「そう? そうよね!」

 彼女は兎の如く飛び跳ねて距離を詰める。勢いに押されてクローネは苦笑いしつつ、両手を掲げて壁にめり込むほど身体を押し付けていた。
 兎。見たことはないが昔は食用にされていたと言う。ニワトリのように何処かで秘密裏に育てられている可能性を考えられるようになったのはアダム達冬燕の存在を知ってからだ。
 世界中を回る彼らなら知っているだろうか。そんなことを考えながら、エレーナの肩を掴み、人ひとり分のスペースを開けさせた。

「じゃあ、戻るわ」

「早くない?」

 早くないからと首を振る。

「仕事が忙しいの」

 クローネはエレーナを置いてキキョウの元へと歩き出す。今度は鉄糸で止められることはなかった。
 その代わりに、言葉の糸が足を止めさせる。

「……クローネって、なんでそんなに一生懸命なの?」

 後ろ姿にエレーナが声をかける。
 身体よりも先に心が足踏みをしていた。
 一生懸命。それは何も悪いことでは無い。人を害する訳でもないし、助かる人もいる。大変だ、辛いなと思っても誰かの笑顔が励みになる。
 でも、自分が本当にしたいことってなんだっけ。
 レース、配管工、整備……。どれも楽しくはあるが、いまいちピンとこない。
 クローネは天を見上げる。厚い岩盤の向こうを見つめていた。

「なんか生き急いでるっていうか……ねえ、好きな人とか居ないの?」

 エレーナが言葉を重ねる。
 好きな人、ねえ……。
 クローネは振り返る。その表情は困ったように笑っていた。

「伴侶的な意味だよね」

「今までの話聞いてたらそうでしょ。子供じゃないんだし」

 エレーナは会話を叩き切る。
 いつの間にか立場が逆転していた。思春期の子供を見るような目がクローネからエレーナに変わっていた。
 ……うーん。
 クローネは腕を組んで唸っていた。

「あのさ。そんなんじゃ女の時間が終わっちゃうよ?」

 あきれ顔でエレーナが言う。
 理屈ではわかっている。子孫を残すことが今の人類で最も重要な使命だ。そのために伴侶を探す、人を好きになるのは当然のことで、それを否定する気はない。
 ただどうしても現実味がなかった。

「……興味無いんだよなぁ」

 ぽつりとつぶやいて、クローネは恥ずかしそうに頭を掻く。

「じゃあなにが好きなのよ」

「空」

「そんなところに何があるってのよ」

 エレーナが言う。
 そして思いついたように言葉を重ねていた。

「じゃあ子供とかは? ……あっ」

 バツの悪そうな表情が浮かぶ。
 クローネが孤児だから、捨てられた子供だからと気にしたゆえの躊躇いだった。

「別に。気にしなくていいから」

 手を左右に振ってクローネは浅く笑う。
 孤児になった経緯はアダムから告げられていた。
 昔、アダムの母がこの地で出産をした。その赤ん坊を冬燕として連れていくことは危険だ。母とともに残るか子だけを置いていくか、母親は後者を取った。それだけの話だ。
 クローネが女の子だから、跡取りのアダムの養育を優先したのだ。そういうものだと先に告げられてしまっては怒ることもできない。
 禍根などなかった。急に出てきた親と兄など、そう簡単に家族とは認められないからだ。それでいいとクローネは納得していた。
 子供ねえ……。
 嫌いではないが好きではない。愛らしい表情は心安らぐものがあるが小うるさいのは気が立ってしまう。
 だから――。

「ま、私を誘うような人がいたらその時はオーケーするかな」

 そんなことはないだろうけれど、とクローネははにかんで答えていた。
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